にぎやかな大家族の中で、いつも微笑みをたたえて静かに自分の場所に座っていた祖父。盆や正月に私たち大勢の親戚が各地から集まってくる時も、祖父は大人たちの談笑の輪に積極的に加わることはしなかった。そのかわり、私や弟に畑で採れた野菜を見せてくれたり、かわいがっていた飼い猫を呼び寄せて撫でさせてくれたりした。寡黙な祖父だったから、そのような時にどんな会話を交わしたかはほとんど記憶に残っていない。しかし、祖父のそばにはいつも温かく穏やかな時間が流れていて、そこに身を寄せれば自分の中に深い安堵感が湧いてくるということを、私は幼い頃から知っていた。
九十歳を過ぎてからも、それまでと同様に毎日畑仕事に精を出していた祖父だったが、数か月前からとうとう床に就くようになっていた。私が到着した時、意識はあったものの、別れが刻一刻と近づいていることは一目でわかった。私は枕元に座り、鞄から通知の入った封筒を引っ張り出して「おじいちゃん、私、教員採用試験に受かったんよ。」と報告した。耳の遠い祖父に私の声がそのまま届くとは思えなかったが、どうしても自分で直接伝えたかった。
すると、祖父が静かに口を開いた。その口から言葉の川が流れ出る。流れる言葉を掬おうと懸命に集中しても、どうしてもはっきりと聴き取ることができない。しかし、それでも構わなかった。こんなに長い時間、祖父の声を続けて聞いたことがあっただろうか。こんなに長い時間、祖父が私を見つめてくれたことがあっただろうか。私は大きな感情の波に包まれながら、祖父と自分が共にある、おそらく最後になるであろう時間を全身で受け止めていた。
その時ふと、ある確信が湧いてきた。今、祖父は私に、いい教師になれ、と言っているのに違いない。他者に対して自分の希望を強く押すところなど見たこともなかった祖父からの、これは私に対する一度きりの強い希望の表明なのだ。「わかった。約束する。」と何度も何度も繰り返す。その時、確かに微笑んだように見えた祖父の前で、堰を切ったように私の頬を涙が流れ落ちた。
それから二十年以上が経った今年の三月、私は教諭を退職した。あの日、祖父が言葉で何を語ろうとしていたのかは、もちろん今でも正確にはわからない。しかし、未熟な私が何とかここまで続けてこられたのは、たとえ会話としては一方通行だったとしても、あの日祖父と共有した数分間があったからだ。
人を動かし、支え続けるものは、そういった濃密な「時間の記憶」なのかもしれない。