津軽三味線全国大会の会場、市民会館の駐車場付近にさしかかった時だ。三味線の音が突如、色鮮やかな光の帯のように、木々の間からまっすぐ降り注いできた。出演者があちらこちらで練習をしている。
背筋がぞくりとする。久しく忘れていた感覚だ。
入口からホール内まで三味線専門のお店がCDや糸、撥(ばち)などを並べていて、客が覗(のぞ)き込み、思い思いに品を手にとっている。その中にも大会出演者の姿があった。床に座り、壁に向かって練習に余念のないもの。イスに腰かけ、音あわせをするもの。あるものは白いシャツの袖をまくり、あるものは長い髪を押さえもせず、それぞれが自分だけの世界にいた。一人一人が奏でる音が重なり合い、さらに、会場の外の演奏と呼応し、周辺は三味線一色だった。
ドア一枚向こうの会場では、すでに大会が始まっていて、二分三十秒から四分の短い時間に賭ける、ぴりぴりした空気が張り詰めていた。舞台の上には演奏者が五人並び、一人ずつ、前に進み出ては三味線を構える。
演奏の始まる前の調弦の音が好きだ。左手で糸を締めながら右手で撥をたたく。ビーンビーンと徐々に高揚していく音の響きが、聴くものをとらえて離さない。
弘前の観客は、耳の肥えた聞き手だ。正直に音に反応する。小手先のテクニックでは、ぴくりともしない。私は神経を研ぎ澄まし、心にまっすぐ落ちてくる音と、観客の反応を楽しむ。
三味線の音色に重なる景色がある。
電車で二十分、さらに川沿いに三十分ほど歩くと、「東山荘」という老人施設があった。そこに、高坂キミさんという三味線を弾く方が入所していると聞いて、稽古(けいこ)に通った一時期があった。日曜日ごとに私は三味線を抱えて駅からの道を歩いたものだ。
高坂さんは目が不自由だったが、野太い声で歌い、力強く撥をさばいた。地芝居高田歌舞伎で「豊竹呂悦」という名で、義太夫を担っていた方だということを知ったのは、しばらく後のことだ。
あの老人施設の畳敷きの小さな四人部屋。壁にかかった太棹(ふとざお)の三味線をおろし、高坂さんの手に渡すところから、私の稽古が始まった。正座し、向かい合う。声が枯れるまで高坂さんは歌い続け、時には苛(いら)立ち、撥をたたきつけた。
音を聞きつけたおばあちゃんたちがいつのまにか集まり、時にはお茶菓子を並べ、厳しい稽古をよそに、賑(にぎ)やかにさざめいた。
時おり、あの昼下がりの穏やかな日々を思うことがある。二十歳の私は、いつもうつむき加減で、三人のおばあちゃんたちはさらに無口で、それでも、あの午後だけはなぜかそこだけ、ほっこりと温かかった。
教えてもらった「黒田節」も「さんさ時雨」も、ろくに覚えていないのだが、何かの拍子にふと、一節が口について出ることがある。
私は振り向く。もうすでにこの世にいないだろう人たちの、ささやく声や、丸めた後ろ姿が薄霧に霞(かす)むように、そこにある。
山肌に張り付き山百合(ゆり)が咲いていた。流れる川に沿って曲がりくねった、砂埃(すなぼこり)のにおいがする道が続く。私が、ひたすら歩いている。
弾くことがなくなっても、三味線の音色はいつも傍らにあった。結婚をして二人の子供に恵まれた。私は深夜、家族が寝静まった二階の部屋で、低く、ラジカセから流れる三味線を聞いたものだ。独特の、空気を突き抜けるような透明な音色が好きだ。
夫が進行性の筋肉の難病で倒れたのは、上の子が小学一年生の頃(ころ)だった。少しずつ病気が進み、歩くことも、食事も、風呂も、トイレも、人の手が必要になった。寝返りもうてず、やがて言葉も失い、呼吸すら機械の力を借りなければならなくなった。
あれから長い時間がたつ。高田歌舞伎は後継者がないまま途絶えたと聞く。夫は苦しい闘病生活の後、亡くなった。子供たちはひとり立ちをして相次いで家を離れていった。
私はいつからか、若い三味線の弾き手の演奏会に足を運ぶようになり、数年前には、初冬の弘前に津軽三味線のライブを聴きにきた。
だが、弘前は、やはり桜が似合う。
三味線の音と歌が響き、やんやの喝采(かっさい)と笑い声、そして少しのお酒。
さっきまで、ホールの壁に向かって一心に弾いていた若い奏者が本番の舞台に上った。そのしなやかな指先を見つめながら、誰にともなく、頑張れ、とつぶやく。