同じ町内の知っている農家ならなおさらのこと、清潔にして送り出してやりたい。
牛たちは、ブラシをかけてやるとここがかゆいとばかりに首を伸ばし、すり寄り、金グシが当たると体をくねらせ、気持ち良さそうに目を細めている。隣の牛も体を寄せて、早く早くとせがんでいる。三頭のブラシかけが終わると、濡(ぬ)れタオルで一頭ごとに拭(ふ)いた。「きれいになったよ。明日、お前たちはお嫁に行くんだよ。本当は出したくないけど」
一カ月前のことだった。
牛舎でコーヒータイムのとき、息子が口を開いた。
「母さん、餌代や資材の高騰で経営が大変なんだ。続けていけるかどうか。おじいちゃんが築いたものを悪いとは思うけど…」
私は黙ったまま頷(うなず)き、胸の中で呟(つぶや)いた。いよいよ我が家にも不況の波がきたか。
息子に経営を委ね後継者ができたとホッとしていたのに、それはつかの間であった。
息子の真剣な表情に、無理にでも続けてほしいとは言いにくい。
けれど、私はつとめて明るく言った。
「いいよ。止(や)めても。私もやるだけやったし悔いはないから。父さんに相談してみよう」
その夜、家族会議が開かれた。
「どうしても無理なら止めるしかないだろう。私たちも六十は過ぎたしなあ…」と夫。
父母が入植してから六十年の歳月が過ぎた今、不況の波に押し潰(つぶ)されるのが恨めしい。
酪農業をやめることにしてからは、数日おきに家畜商が牛の転売のことで来るようになった。一頭ごとに姿全体を眺め、年齢、乳頭の付着、乳量など息子に訊(たず)ね、値踏みをする。そして、数頭ごとに受け入れ農家が決まると出荷日を決めて帰った。
最初に売られたのは、七月分娩(ぶんべん)の初産牛だった。-もったいないなあ。子牛のときから育成牧場に預け、二年以上も育ててもらい、分娩するまでになって帰ってきたのに…。
早朝、大型トラックがやってきた。息子が言う。
「まだ乳を搾っていませんので、すぐに搾ります」
搾乳される牛たちは、何も知らず餌を食べている。搾り終えると牛たちは、首の鎖を外され、頭にロープをかけられると外へ引っ張り出された。息子が前に立って引き、家畜商が後ろから牛の尾を握ってついて行く。
トラックの荷台の前に行くと牛は一瞬立ち止まり、動かない。前足を何度も押され、後足も押されている。積まれる牛たちを牛舎の窓ごしに見ていた私だったが、急に涙が溢(あふ)れ、自分に言い聞かせた。売るのでなく嫁に出すのなんだよ-。
牛たちを見送った息子は、仕事を前にコーヒーを飲もうという。だが私は飲む気分にはどうしてもなれなかった。
「こんなときにコーヒーが飲めると思うの。手足がもがれるように悲しくなるね」
つい、息子に八つ当り口調に言った。
「何言ってるんだよ。母さんだって賛成したじゃないか。相談して決めたことだよ」
そうには違いなかった。が、諦(あきら)めきれない。
子供の頃(ころ)から牛がいた。草を与えて生活し、今にして思えば牛と遊び仲間の感じでさえあった。近所に同じ年頃の遊び相手がいなかった私は、牛舎の中で唱歌を歌い、話しかけてはお遊戯を踊ってみせ得意になっていた。父母は「牛さん、喜んでるねえ。草をいっぱいやって食べてくれると、おいしい乳がでるよ」と、よく言ったものだ。
今、この時になって懐かしいことばかりが走馬灯のように全身をかけ廻(めぐ)る。
息子が言った。
「母さんが寂しいなら、子牛だけ残すか」
「子牛からは生産が上がらない。この牛舎も施設も全(すべ)てムダになってしまうねぇ」
私は、カレンダーに目を遣(や)った。
あと一週間、今月末には、この牛たちのほとんどが居なくなってしまうのだ。
全部をやめてしまえば、さっぱりと諦めきれるのだろうか。だが、その一方で割り切れない気持ちも残る。
-売らないで。全部売ったら私の仕事は何もなくなる。還暦になった私だが、まだ意気込みはある。へこたれてなどいられない。
気がつくと受話器を持ち上げ、家畜商の電話番号をダイヤルしていた。
「お願いがあります。牛を売りたくないのです。すみませんが残りの牛は、私が育てます。子牛たちも育てたいので売りません」
電話の向こうで家畜商の驚いた声がする。だが、私の気持ちを了解して励ましてもくれた。
「まだ、母ちゃん若いもの。これから十年は頑張れるよ。やめないで続けたらいいよ」
私は受話器を握りしめ、電話器に幾度(いくど)も頭を下げていた。
私は心の中で叫んだ。牛は売らないぞ。
心は晴れやか。再び牛飼い人生の始まりだ。