岩手山のてっぺんで、岩に腰かけ汗を拭いているかもしれない。八幡平の木道を、高山植物に話しかけながら歩いているか。さんさ踊りの熱気にカメラを向けているだろうか。
風よ、山々を街並みを秋色に染めて吹き渡る風よ。どこかで元気なころのユキオに会わなかったか。
黄金色に輝くブナ林で木もれ陽(び)を全身に浴びながら、ひとりブナの声を聴いているかもしれない。早池峰神楽の見物人の中に紛れ込んでいるだろうか。場末の一パイ飲み屋で、オチョコ片手に体ゆらゆらゆれながら目を細めているか。
オーイ!! 秋の風よ。ユキオに会ったらどうか伝えて。早く家に帰るようにと、私が待っているからと。
いつもそばにいて私は安心し切っていた。生活は楽ではなかったけれど、貧しさは気にならなかった。嵐の夜も吹雪の朝もこわくはなかった。
時に小さないさかいもある。父と子の言い争いに「さわらぬ神に祟(たた)りなしだよ」と息子の方をなだめると、息子は「神の方からさわってくるんだ」と不満顔だ。父親は「親は親であることだけで偉いんだ」と大声を出す。泥酔して帰った夜の悪態は録音しておいて翌日、聞かせたいくらいだ。腹立ちまぎれに私が「離婚する」と喚(わめ)いても決してそうはならないことを自分自身が知っていた。
「温泉行きたいね」
「前にもらった温泉の粉っこはもうないのか。登別でも草津でも熱海でも」
そういうことじゃないのに…。すれ違う気持ちに苛(いら)立ち「二人一緒にいても、心が通わないなら一人の方がよっぽど淋(さび)しくない」と焦(じ)れた言葉を投げつけても、一人ではいられないことを知っていた。
子供たちがまとわりついていた頃も、成長して離れていってからも変わらず、大きな体の広い腕の中で「フーッ」と大きく息を吐けば心は落ち着いた。
そんな日がいつまでも続くと思っていた。二人一緒に老いの日々を送るはずだった。
ユキオは、半年後に定年退職を控えた九月、職場で倒れた。救急車で病院に運ばれた時には、意識不明で最悪の状態だった。くも膜下出血だ。
一カ月近く生死の間を行き来したが、医師や看護師の懸命の手当てと、何より本人の心臓が丈夫だったことが幸いして、命だけは取りとめた。
医師は「生きているのが奇跡。これ以上は絶対良くならない」と断言し、その上で「病人は病院に任せて、お家(うち)の人はまず自分の体を大切にして、気分転換を図る努力をしてください」と長期戦になることを宣告した。
心配りの言葉がありがたかった。
長い療養生活の間に、ベッドから車椅子へ、車椅子からベッドへの移動は私の得意技となり、病室を抜け出しては二人だけの場所・裏庭に行った。そこではその場限りのトンチンカンな会話が成り立つ。
自分では身動きもできない状態であっても時に雲間から陽がさすように、意識のかけらがのぞくことがあるらしい。
「私は誰ですか」「シラナイヒトデス」
「私はあなたの奥さんです」「チガイマス」
「奥さんはどんな人?」「モットビジン」
「私があなたの奥さんですよ」「マッカナウソデス」
声はかすれ、言葉もはっきりしない、やっと聞き取れるちぐはぐな会話である。けれどこのような反応が私の支えとなり、この命いとおしく、ひたすらいとおしく抱きしめる。
一方通行の私の思いは、この人に通じているのかいないのか。この腕が私を抱くことはもうない。ほろ酔い機嫌の常で、吸い口を私の唇に触れてからタバコに火をつける仕草も今はもうない。
地平線を見に行こうね。日本海に沈む夕日を見よう、日本中の巨木を訪ねてローカル線を乗り継ぐ旅に出かけよう。退職したらきっと、と約束したのに。
花の春、青空の夏、紅葉の秋、降りしきる雪、通る度に違う様子を見せる病院への二十キロの道のりを、行方不明のこころを探して土日、祝日、盆暮れ無しで、私は通う。
周囲の山々は季節毎(ごと)に色を変える。かつて一緒に登った山、もう二度と二人で行くことはない。山の美しさがさびしい。
朝日を受けて湖面に映る錦の紅葉も、共に見る人が傍らにいなければ、その豪華さが却(かえ)って空(むな)しい。
うつろな目をしたユキオが私の傍らにいる。
でも……。ユキオはもういない。