四年前、農業で生きて来た父が体調を崩した。通院の連絡があると付き添うのが私の役目になった。待合室での長時間の会話は主に戦争体験談だ。出征した満州、福岡での終戦の様子は何度聞いたか知れない。
昨年の秋からはその話を遮り、野菜の作り方を聞く。メモ帳を出すと父は得たりとばかりに、「ジャガイモはマルチだな」と、背筋を伸ばし自信たっぷりの顔をする。
ジャガイモは幼い頃、植え付けから芋掘りまで手伝ったから知っているつもりだったが、今は黒いビニールを土にかぶせ、温度や雑草対策をし、収穫量を増やすという。トマトやナスやキュウリも聞いては書き留める。植え時、畝の幅、肥料の種類など説明はよどみがなく、メモが追いつかない。
「じいちゃん、待って。もう一回」
と引き止めると、仕方ないなというように一息つく。その顔を横目でちらりと見た。お転婆だった私を諭した時の顔をしている。しおらしく父の話に耳を傾けた。このやり取りは退屈な待ち時間を勉強の場に変える大事な時間である。それにしても、父は昨年の津波をどう思っているのだろう。
私は被災後、早く自宅に住みたいと思い、避難所から我が家に通っていた。ただただ泥をかく作業と家具や畳の処理に明け暮れていた。一週間ほどしてからだろうか。瓦礫(がれき)の間に車が止まった。誰だろうと手を休めて見ると弟の車だ。両親が乗っている。何ごとかと急いで行くと、父が涙を流していた。
「じいちゃん、大丈夫。私、生きてるから」
泣かないで、とタオルで涙を拭くと父は堪えきれずに嗚咽(おえつ)してしまった。どんな時も端然としていた父、父が泣くなど思いもしなかった。急に胸が熱くなり思わず父の手を握りしめた。しっかりと握り返す父、しかしその手は小刻みに震えていた。
自分のことだけで精いっぱいの日々だった。たまに父の薬も気になったが、余震の大きさによっては避難警報が出る。サイレンの鳴り響く中、リュックを背負い線路を越えて高い場所に逃げなければならない。不安で眠れず、安全な情報を求めて枕もとのラジオを一晩中聞いた夜もあった。父の体調は無理やり頭の片隅に追いやっていたのだ。
自宅に戻り、水やガスでの生活ができるようになったころ、父から薬が欲しいと連絡がきた。今なら何とかできそう、と瓦礫の街を医院まで歩いた。泥をかぶった家や車や船が道に山積みされている。道の中央は自衛隊や警察の車両が優先。人は瓦礫の間にできた獣道のような細い道を歩くしかない。黙々と医院を目指しながら、被災者でも誰かの役にたてると思うと、全く疲れは感じなかった。
三カ月もすると気持ちが落ちついてきた。父の通院の付き添いを再開する。医院の待合室の壁には津波の到達地点の印がある。
「じいちゃん、あそこまで津波が来たんだよ」
津波を忘れたかのような父に示した。すると父はもうたくさんだというように目をそむけた。見たくないのだと思った瞬間、父の終戦間近の話が頭をよぎった。
父の部隊がソ満国境から福岡までの移動をした時のことだ。到着した福岡には船も燃料もなかったという。燃料確保のために炭焼きの命令が出た。暑さの中、山仕事のできる数人が山へ登ったある晩、空襲があったという。
「爆弾はな、空中で破裂し火の幕になって街さ落ちでいった。あの後、焼けた街を見さ行くべって誘われだども俺は行がねがった」
自分の命が助かったことよりも焼け野原を見たくなかったのだ。もしかすると父は、悲惨な空襲に津波を重ね、その中にいる娘を思い、心配しながらも動揺する心を抑え一週間を過ごしたのかもしれない。
二時間近く待ち、やっと名前を呼ばれる。手をつなぎ二人で診察室へ向かい、診察後も手をつないで待合室に戻る。安心した穏やかな父の顔を見て思う。付き添いをして慰められているのは私なのだと。
玄関前のプランターに植えたブロッコリーが、父の農業手ほどき最初の作品だ。毎朝水遣(や)りをする。葉っぱの間から顔を出した小さな塊は成長を続けている。やがて夕顔やミニトマトも花を咲かせるだろう。夏には多くの実をつけると、その風景を思い浮かべる。
私の腕前はどう?と胸を張っている来年、再来年が楽しみだ。待合室での父の講義はまだまだ続く。