目の前を流れる、豊沢川を眺めながら湯船に浸(つ)かった。今宵(こよい)は長兄の声掛けによる兄妹だけの集いだ。私は、母、嫁、妻といったものを脱ぎ捨て、妹という存在にいつになく心が解き放たれていくのを覚えた。
揃(そろ)いの浴衣でコの字に座った。兄たち二人は時々会って酒を飲み交わしているようだが、私はめったに会うことがなかった。兄妹といえ、何かしら気恥ずかしい思いがした。
兄の挨拶(あいさつ)が始まった。場馴(な)れしている兄らしい口調だ。乾杯のあと山葡萄(やまぶどう)の食前酒をいただき、季節の盛り合わせが載った御膳に箸をつけた。酒に滅法(めっぽう)よわい私も今日はいただくことにした。
御膳の鍋から湯気が立ちのぼってきたころ、亡き父の話になった。その後、甕(かめ)いっぱいに漬けたスルメや人参(にんじん)の入った「切り込み」が旨(うま)かったとか、まねて作っても同じ味が出せないなどと、話は行ったり来たりしている。
いつからか話題は兄のことになっていった。私は酔いの中でぼんやり聞いていた。ところがひょんなところで、兄は高校受験に合格したのに入学しなかった、と次兄が言いだした。
「えっ、ほんとに……」
初めて聞く話にコップを置き背を正した。
「兄貴は受かったのさ。それはオレも知っているよ」と、次兄が答えた。
私は兄と年が八つ離れている。一緒に遊んだ記憶も、叱られた記憶もない。幼い時から兄を大人として見てきた。
兄は中学を卒業するとすぐに、町の郵便局で臨時配達員として働いた。雨が降り、風が吹くのは当たり前。先の見えない猛吹雪の日もあった。除雪車のない時代、腰まで降り積もった雪の中を、脛(すね)にゲートルを巻き黒皮のカバンを背負って歩いた。山を開墾した一軒家のため、普段の何倍もの時間をかけて行く日もあった。家から郵便局まで二キロも歩き、そこから宮守村(現遠野市)内の決められた区域を一日中歩いた。そして帰るとすぐ畑に出て働いた。その姿を私は見ている。
「親方が高校にも行かねで稼んでいるときに……」と、父は次兄を修学旅行に参加させないわけを、ぞうきん掛けしている私の背中に呟(つぶや)いたことがある。父は兄を「親方」と言った。今思えば、兄への敬意をこめて、そう呼んでいたのかもしれない。
次兄は、担任の先生が何度も家に来て父を説得し進学が叶(かな)った。だが、兄の手前、修学旅行には行かせることはできなかったのだ。家督の兄に対するけじめであったろう。
その時の父のいたたまれない気持ちや、多感な兄たちの葛藤を思うと、何不自由なく過ごしてきた自分が、申し訳なく思えた。
晩年、父は「学校出てねぇから苦労するべ。局長にならねばいいが」と、当時代理に就いていた兄への思いを口にしていた。先々の苦労を案じて、子の出世を望んでいなかった。
当時、高校に進学するのは珍しかった。兄は勉強を嫌って自分の好きなように生きて来たのだと思い込み、今まで何ひとつ気に留めたことはなかった。
高校受験に合格したのになぜ、行かなかったのか、何があったのか、そのいきさつを知りたかった。兄はそれをどう感じて今まで生きてきたのか。それも知りたかった。だが、こらえた。言葉ひとつ挟まない兄の横顔に、やわらかな哀(かな)しみが走ったからだ。
宴も終わるころ、兄は私の前にあぐらを組んで座った。がっちりした背を少し前こごみにし、労(いたわ)りの言葉をかけながら頭を下げた。下げたまましばらく動かない。酔いのせいかと笑って見ていたが、「あっ」と息をのんだ。
額から眉にかけて父にそっくりだった。声にならず、身じろぎもできなかった。父が頭を下げている。
(早く、頭をあげて)
と、声を出そうとしたとき、ゆっくり顔を上げた。兄の顔だった。
翌朝、快い風呂に浸かりながらも、昨夜のことが頭から離れなかった。私の前で頭を下げた姿が兄にも父にも見えてくる。
あれは、厳しく育てられた兄の、父への礼であったような気もするし、五十年あまり必死に働き通した兄の姿に安堵(あんど)した父が、兄に詫(わ)びて頭を下げた姿だったようにも思える。
父であれ、兄妹であれ、言葉にしなければ解(わか)らないでいることがあったのだ。次兄の一言で、父や兄のこれまでの生き方に心を寄せることができた。これで兄妹が一つになれたような気がする。
「結びの宿」と掲げた看板の前で兄妹は分かれた。兄は黒いポーチを腰に下げ、いつものように軽く手を上げて出て行った。
静かな宿場に、かすかに硫黄の匂いがした。