「節さんと京子さんが相談にのってほしいことがあってこれから来るそうですよ」
と、娘が来客を伝えた。二人は私の花友達である。嬉(うれ)しさに胸中が華やぎ沸き立った。
今の時期だと花種の注文、いや手続きだろうか。それとも花選びか。花丈、花期、花色を考慮し、北上の八月の満開時を予想して決めなければ、と気持ちは急(せ)くばかりだ。
二人は私の介護日程との調整をとり今日を選んで来たという。挨拶(あいさつ)もそこそこに本題に入った。二人の相談事は推察通りだった。まだ頭は健康なのかも、と少しばかり自信が戻る。
八十代の私と、七十代、六十代の三人が友達となったのはインターハイへの花苗づくりがきっかけである。当時北上はインターハイで市全体が盛り上がっていた。「花いっぱい運動推進協議会」花担当の私達も、全国の選手団や観戦客を花でお迎えしようと、花を育てる活動への参加を市民に呼びかけていた。
育苗には「とばせ園」が参加を名乗り出てくれた。「知的障害者通所授産施設とばせ園」が正式名で、お世話になっている社会に少しでも役立ちたいと意欲に満ちていた。
播種(はしゅ)講座に参加した園生達は、真剣そのもの。ピートバンに八ミリ間隔で一粒というピンセットでの作業を正確にこなした。そのかいあって生育した花苗は、秋の沿道花壇に色鮮やかに咲き続けた。
花いっぱい活動が山ゆりを咲かせる活動へ広がることになったのは平成十四年頃。市の花、山ゆりを絶やしてはならないとの市民の声に押されての取り組みだったが、それは平坦な道ではなかった。山ゆりは想像以上にデリケートで環境に敏感な花だったのである。
私達は県の研究機関は勿論(もちろん)、県外へも教えを請うた。が、どこからも山ゆりの栽培に成功した例は得られない。失敗の原因は九十九パーセントのゆりがウイルスにおかされているからであろうと察せられた。また実生繁植では、一年目はウイルスの心配がなく、よく発芽して成長するも、定植後にウイルスが発生するケースの多いことも知った。
協議の上、ウイルスのリスクを克服するため種からの栽培に挑戦しようと決め、実践部門をとばせ園に置くことにした。
十一月末、小春日和の下、滲(にじ)み出る汗を拭おうともせず作業に励む園生たち。畑の畝を這(は)うようにして苗を置いていく。やがて春を迎えたゆり達は、除草、追肥、花摘みと秋までをすごし、一人前の球根に育った。
再びの秋、生まれも育ちも北上市の山ゆりは市民の手によって定植された。
山ゆりが北上市大堤公園に根づき、立派な花々を咲かせるまでのおよそ十年、花友だちと共に歩んだ苦労と試練の日々がなつかしい。
障害者となり、生きがいだった花活動から身を引かざるを得ないとあきらめた時のさびしさが、二人の訪問で笑いと共に俄(にわか)に横へと押しのけられていく。
「皆さん本当によく手入れしてくれていたのね。山ゆりを見て私、嬉しくて胸がいっぱいになったのよ」
娘夫婦が外へ連れ出してくれたのは昨年七月半ばだった。行き先は大堤公園という。山ゆりの咲く頃だ。今年の花はどうだろう。車椅子が進むにつれて視線が忙しくさまよった。
人目につきにくい野にひっそりと咲く山ゆりを、あえて人目の多いこの公園に植栽したのは、北上夜曲に歌われ市の花として指定を受けていたからだった。
緑の蔦(つた)をまとった北上市大堤公園の赤松林。木洩(こも)れ陽(び)のさし込む松林でゆっくり揺れているのは、まさしく山ゆりの花だった。咲いている。香りが届きそうだ。私は思わずひざ掛けをたぐり寄せた。
花友だちとの心地よい時間はあっという間に過ぎていく。
「あや、まんつ。こったな時間だってか」
京子さんのすっとんきょうな声で時計を見ると針は五時を指そうとしていた。
「何も出来ない私があれこれ指図してごめんね」
私無しでも花は咲く。だが私を仲間と思ってくれる二人の心遣いが嬉しい。
「私達が手足になります。遠慮なく口出ししてください」
折れ曲がりそうな私を、節さんの別れ際の言葉がしっかりと立て直してくれた。
寝たきりで天井と雲の行方を追うしかない毎日。ともすれば生きる気力も失いがちだ。そんな私に、名医の良薬のように、張り合いという効き目を与えてくれた二人の訪問。
そうだ、生きていることが花なのだ。
歩は小さくてもいい。どんな姿でもいいのだ。踏み出そう。花の仲間の輪の中へ。