小学生の頃、私は大きな菓子箱で幼虫を育て、羽化するのを何度も観察した。餌は枝に棘(とげ)のある枳殻(からたち)のつやつやとした葉だ。遊び友達は気味悪がったが、きれいなアゲハチョウになると思えば、緑色の幼虫もかわいらしく見え、そっとつまみあげて新しい葉の上に移してやることなど、当時は平気だったのだが。
息子が幼稚園児だった頃のことだから、随分前のことになる。夫の転勤で移り住んだ地の、隣家の玄関先に山椒(さんしょう)の木があった。ある日のこと、鳥の糞(ふん)のような黒いものが、あちこちの葉の上に見えた。それは、卵から孵(かえ)ってまもないアゲハチョウの幼虫だった。
早速隣人に、幼虫一匹と山椒を一枝いただき、時々餌になる葉をとらせてほしいとお願いした。世話係を息子にして、虫かごで飼いはじめると、黒い小さな幼虫は、日に日に大きくなり、数回脱皮を繰り返して緑色になった。その変化を、私の幼い頃と同じように息子も面白がり、飽きずに世話をしていた。
近所の医院で風疹と診断され、薬を飲みながらも家で元気だった息子の様子が突然おかしくなったのは、そんな時だった。
明け方、病院の入り口で、意識のない息子を搬送してくれた救急隊員に、礼を言って頭を下げると、
「お母さんねえ。子どもが熱を出してひきつけを起こすなんて、よくあることなんですよ。しっかりしてくださいね」
という言葉が返ってきた。うろたえるばかりの頼りない母親への、激励だったのだろうが、折悪(あ)しく夫が出張中で、昨夜来一人で息子の病状の悪化を心配していた私には、酷(ひど)くこたえる一撃だった。私がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。私は頭を下げたまま、ただ黙って何度も何度も頷(うなず)いた。息子をこんな目に遭わせてしまったのは、母親として注意が足りなかったせいだ。もう随分前の出来事なのに、あの時の痛みはいまだに鮮明だ。
搬送先の医師は、難しい病状なので、すぐに県庁所在地の大きな病院に受け入れを要請しなければならないと説明した。そして、新たに救急車で一時間ほどかかって運ばれた病院では、命をとりとめても障害が残る可能性があるという診断で、即入院となった。
私にできることは、ただひたすら祈ることだけだった。疲れ果て、知り合いもなくうつむいて入った薄暗い給湯室の片隅では、数日前に同じような症状で亡くなった子がいるらしいという噂(うわさ)が、ひそやかに囁(ささや)かれていた。
息詰まるような数日が過ぎ、幸いにも病状は落ち着いたのだが、退院はまだ先で、日夜病室での付き添いが続くこととなった。
遠い実家に預けられた娘は、後日、「おばあちゃんと毎日お散歩に行って、お地蔵さまにお兄ちゃんの病気が治りますようにってお祈りしていたから治ったんだよ」と少し大人びた調子で得意げに言った。幼いなりに彼女も、精いっぱい戦っていてくれたのだろう。
退院のめどがたった頃、夫と付き添いを交代して、慌ただしく後にした家に久しぶりに帰ることができた。電車を乗り継いで帰った無人の小さな借家は、ひっそりと静まり返り、見慣れた家がなんだかよそよそしく見えた。今までの疲れがじわじわと体を浸してくるような気がして、のろのろと家に近づくと、テラスの虫かごの中に何か動くものが見えた。
いつ羽化したのだろう。アゲハチョウが、かごの中で懸命に羽を動かしていたのだ。駆け寄って虫かごの扉に手をかけた時、「病床の息子に見せたらどんなに喜ぶだろう」という思いが脳裏をかすめた。が、健気(けなげ)にも生き抜いた蝶(ちょう)をこれ以上閉じ込めてはおけなかった。
ひらりとかごの外に出たアゲハチョウは、黒縁の黄色い大きな羽を優雅に翻し、ゆっくりと自由を満喫するように辺りを飛び回ってから、静かに夕空へ飛び去っていった。
「さよなら。元気でね」。アゲハチョウの去った茜(あかね)色の空を見上げていると、体中の強張(こわば)りがとけていくような気がした。息子の回復を心の底から信じることができたのは、その時だったのかもしれない。
あれから三十年以上。母親としては相変わらず頼りないが、子どもたちは無事成長し、「生きていてくれるだけでいい」と祈った時のことを思い出すと、ただそれだけで、すべてに感謝の気持ちが湧いてくる。
あの塀の上の幼虫も、逞(たくま)しく生き抜き、美しく力強い羽を持つアゲハチョウにきっとなるだろうと思った。