青森に生まれた私は幼いころ、鳩笛をよく吹いた。早逝した祖父の仏壇に、祖母が飾ったものだった。ふっくらと丸みを帯びた鳩の形が愛らしく、紫や緑、白、赤、黄など中間色の彩色が優しい。手のひらに乗せる。落とすと壊れるはかない玩(がん)具からは、手作りの土のぬくもりが伝わった。
鳩笛は、青森県の郷土玩具で、弘前市の下川原焼と呼ばれる土人形の一つだ。
しっぽに開いた笛口から息を吹き込むと、素朴な声で鳴く。一、二度吹いてはやめ、しばらくするとまた吹いてみたくなる。祖母も隣に来て吹いた。大げさに口をすぼめた祖母の表情は、どこかおどけているふうに見える。
ホーゥホーゥホーゥ やや低音の、のどかな音色が、耳にこだました。
青森は家族そろって暮らした場所として、思い出が深い。五歳の夏に母の実家のある岩手県に越してからも、盆や正月には帰郷した。祖母は私の背丈を柱にしるして、会えずに過ぎた月日を計ったものだ。
父は上京し家を離れていた。表だって話すことはなかったが、祖母や伯母たちの言葉の端々には、父への思いがにじんでいた。
「どうしているんだばの」 祖母は誰(だれ)へともつかない独り言を時おり口にした。非難ではなかった。そうたやすく割り切れるはずのない肉親という絆(きずな)を、私たちはそれぞれの内に抱え、温めていた。私は岩手の生活になじみながらも、細い糸を手繰っては、故郷に行き着いた。
鳩笛をもう一度吹きたい気持ちが膨らんだのは、祖母も他界し、私も家庭を持ってからである。引き潮のように遠のいていく時の流れを、とどめておきたかったのかもしれない。
三月の上旬、窯元のある弘前市を訪れた。天守閣のそびえる公園は、人影もなくひっそりとしている。ざらめ雪が、冬木立からこぼれた日を受けて淡く光っていた。
私は窯元を尋ねて歩いた。道順をメモに書いてくれた観光施設の人や、地図をくれたうえに、見送りまでしてくれた、あけびつる細工店の奥さんなど、どの人も親切だった。
昼食を取った店の娘さんに距離を確認すると、あと二キロくらいだという。
「良いお天気ですから、歩いても気持ちいいかもしれませんね」 とほほ笑んだ。
城下町をほぼ東西に横切る土淵川沿いに、その家はあった。玄関から見える作業場に、赤土色をした素焼きの人形が並ぶ。下川原焼六代目の窯元が、絵筆を持つ手を休め、大小さまざまな土笛をそろえてくれた。
下川原の土人形は、弘前藩九代藩主・津軽寧親公が、御用窯の陶師に作らせたのが始まりという。一八一〇年から、通称下川原と呼ばれる現在の地で製作している。天神様や鯛(たい)えびす、大黒様、内裏びななど約二百種類の型がある。人形笛も多く、土をなめると子どもの虫封じにきいたという。
戦時中は家族が無事を祈り、お守り代わりに慰問袋にも入れた。
「兵士も戦地で心がなごんだと思います」 窯元は眼鏡の奥の目をしばたいて語ってくれた。
神様や節句、風俗、動物、その他暮らしにかかわるあらゆるものが、土の造形となっていた。その表情はどれも柔和だ。凶作の続いた厳しい土地で、悲しみや喜びを人形に託し、切に願いをかけた民衆の姿が見えてくる。つらさや苦しさを抱えながらも、前向きであろうとする生への執着が感じられる。土人形が「庶民の祈りの結晶」といわれ、今日まで受け継がれてきたゆえんであろうか。
祖母の鳩笛には、どんな思い出があったのだろう。今は、近くで暮らしている父に尋ねると、四つのときに肺炎で亡くなった、父の末弟を弔うものであることを、教えてくれた。初めて聞く話だった。
父の弟は、亡くなる少し前に、大きな声で「鳩が来た。鳩が来た」と叫んだ。
当時、葬儀の花輪には鳩の絵が描かれていたので、父や祖母たちは、あの世から鳩が迎えに来たのだと感じたそうだ。
「弟は何度も『また鳩が来た』と言うたの。きっとたくさんの鳩が集まって来たんだばな。みんなで画用紙に鳩の絵を描いて、弟の枕(まくら)元に置いだったの…。お婆ちゃが仏壇に鳩笛を飾ったのは、そういうわけせ」 父は声を沈めた。
ささやかに見えながら、心に寄り添う何かが、この小さな玩具に潜んでいる。
変わらぬ音色で、故郷を包むように。