母の唄うよしゃれ節は私の子守唄だった。朧(おぼろ)月に誘われて歩き続け、ふらりと入った酒場で音色に魅せられ、三味線を習い始めた。
くる日もくる日もチン、トン、シャンの繰り返しで、私はじれったくなった。
「よしゃれ節を弾きたいんです」
私は身のほど知らずだった。ピアノで言えばドレミファがやっとで、バイエルもさらわず、いきなりソナタを弾くようなものだ。
師匠は半ば呆れ顔でよしゃれ節を弾き出した。昔、聞いた母のとは違っていた。私が尋ねると、今のは新よしゃれ節と教え、次に正調よしゃれ節を弾いてくれた。
その時から私は夢中で練習した。
「右手の小指にマメが出来、潰(つぶ)れ、これが固くなり、撥(ばち)ダコになるまでの辛抱」と、師匠はさらりと言った。
私が正調よしゃれ節を弾けるようになったのは、冬も過ぎ、フキノトウが芽吹く頃だった。最初に難しい曲をさらったせいか、おおよその曲は直に弾けた。レパートリーがどんどん増えて行った。
ある日、私は三味線ケースを片手に電車に乗った。3年近く実家に帰っていなかった。仕事を転々とし、夜の勤めをしていた自分に負い目を感じていたからだった。
電車が駅に近づくと窓から見える岩手山は春霞(はるがすみ)のせいか、しだいにぼやけて来た。駅に降り、寺坂をゆっくり登り、家の戸をそっと開けた。
私の三味線ケースを見て母は、
「おや、編み物でもやっているのか」
と聞いた。
私は黙って三味線を取り出し、よしゃれ節を弾いた。家にしばらく寄り付かなかった娘のいきなりな行動に母は唖然(あぜん)とした様子だった。すぐに我に返り、手拍子を取り、唄い出した。
久しぶりに聞く母の唄声だった。体の底から甲高い澄んだ声が湧き出て来た。
母と娘の心の溝は、よしゃれ節ですぐに埋まった。
「その他に何か弾げるか」
私は知っている限りの曲をLPレコードのように鳴らし続けた。母はと言えば、太鼓まで持ち出し、軽快にリズムを刻みながら唄った。
ふと窓辺に目を遣(や)ると、日ざしを受けて薄緑に光っていた桜の葉も濃さを増し、日没の暗さになっていた。隣の家から夕餉(ゆうげ)の焼き魚、甘塩っぱい煮染めの匂いが漂って来た。
この日を境に私は月に1度ほど家に帰った。母は私の好物のワラビのお浸し、フキ、タケノコの煮物を用意して待っていた。
夏の日だった。母は私の伴奏で唄っていた。近くの雑木林からセミも負けじと加わり、微かな涼風で風鈴も時折相の手を入れた。
「秋の芸能祭で伴奏して欲しいども」
私は母の言葉に頷いた。母は地域の郷土芸能の指導者だった。太鼓、唄、踊りと難なくこなした。私の姉も踊り手として加わることになった。
踊りでは腕は肩と水平に保てとか、親指以外の指は離すなとか、細かいことにも厳しかった。
秋になり、駒ケ岳から降りて来た風が稲田を駆け抜けて行った。そして収穫が終わった晩秋、芸能祭の日となった。町には専用のホールなどなく、会場は小学校の体育館だった。来賓の祝辞も終わり、いよいよ出番が来た。
母の唄と太鼓、私の三味線、姉を含めた10人の踊り子が舞台にいた。最初、踊り手は平伏している。三味線の1の糸の連打を合図に頭を上げ、音の変化を一音一音聴き逃さず、すっと立ち上がる。静から動への一見単純な動作は実は難しい。その後の動きは自然に繋がっていく。
黒留め袖に白足袋の正装だ。漆黒の地色にツル、チョウ、ボタン、キク、マツなどの動植物の模様がしなやかに揺れた。私は照明のせいか眩(まぶ)しくて何も見えず、喉がからからだった。
その夜、母とよしゃれ節の起こりについて話が弾んだ。