当時の私は、とある都市の大きな企業に勤め、マンションに1人暮らし。もともと田舎ものであるが故、その生活にとてもこだわっていた。ごく稀に母が田舎から私のもとを訪ねることがあった。おいしいものを食べに行こうという私に、母は親子ふたり、のんびり部屋で過ごしたいとわざわざ重たい野菜を抱えてやってきた。ある日、仕事から帰った私は、オートロックのロビーから部屋いる母に「ただいま。あけてー。」インターホン越しに呼びかけた。ところが、母からの返事はなく、代わりに聞こえてきたのは、マンション中に響き渡る非常ベルの音だった。一瞬で私は何が起こったのかを悟った。母が部屋の開錠ボタンと非常ボタンを押し間違えたのである。ベルの鳴り響くロビーで頭を抱える私のもとへ、青ざめた母がやってきた。そのあとの騒動は言わずもがなである。私は恥ずかしさのあまり母をひどく責めた。騒動の後、部屋には母が作った夕飯のにおいが立ち込めていた。田舎から持ってきた野菜の和え物、帰るタイミングにあわせて焼かれたであろう焼き魚、細かく刻まれた葱の浮かんだ味噌汁に、揃えられた二人分の箸。ショックの余り俯いて手をつけない母をよそに、気まずい中、冷めた料理を私は黙って食べた。あれから私は2児の母になり、7?8年たった今になってあの出来事を頻繁に思い出すようになった。恥ずかしいのは母ではなく、つまらない見栄でかけがえの無い時間を台無しにした自分だった。今さらと思いつつ思い切って母に言った。「お母さん、あの時ごめんね。」意に反し、母はその時の恐怖を、近くにいた義姉と笑い話のネタにしてカラカラ笑っていた。私が責めたことなど忘れているようにみえた。それでも、母を思う時、私は真っ先にあの出来事を思い出す。そして、「大したことないよ。」そう言えなかった自分を悔やみ続けると思う。あの日の冷めてしまった母の手料理の味とともに。