ちょうど小学6年生だった。昭和22年生まれの僕が、親父と一緒に正月用の花を行商の形で、岡崎の町まで売りに行った時のことだ。昭和34年、愛知県地方を襲った伊勢湾台風で大きな被害が出た。農家であった僕の家も米が壊滅的で、現金収入が無く年末のやりくりが大変だった。親父が、一念発起して正月用の花を行商に行くという。僕にもついて来いという。リヤカーに花類を満載して、僕の住む村から山道を約10キロ程歩くのだ。師走の早朝の山道は凍てついていた。白い息を吐きながら親子で黙々と歩いていく。小学6年にもなると、自我も強くなり、親父を「お父ちゃん」から「おとっつあん」と呼ぶようになっていた。岡崎の町に着くと、親父はいきなり「エエー、オハナー」と声を張り上げる。普段無口な親父の変貌ぶりに驚いた。そして、花を売りさばく親父を見直したりもした。夜になり町から引き揚げるとき、疲れた僕は、リヤカーの中に乗り込んで眠り込んだ。親父は、黙々とそのリヤカーを引いて山道を帰った。それから30年後、僕にも息子ができていて、神戸という都会に住み、交通機関の発達した町では、長距離を歩くということがない。息子が小学5年のとき、遠足で行った事のある五色塚古墳に行きたいというから僕が連れて行った。往きは電車だったが、どちらともなく歩いて帰ろうと言い出した。ここから家まで約10キロある。都会育ちの息子にこれだけの距離を歩きとおせるか疑念があったが、息子はかなり乗り気だ。夏である。かなり暑い。二人とも汗だくになりながら。激しく行き交う車を横に見ながら、東に向かって歩いてゆく。途中で休みながら10キロの道のりを歩きとおした。家に着いた息子は、晴れ晴れとした顔で「やったね」と、僕とハイタッチしたのだった。僕は、30年前の親父との気持ちをそのとき感じ取ることができたと思う。それから20年の月日が経った。