九州の柳川へ誘われたのは早春だった。駅からもう水が匂った。
五十円でバッチョ笠を借り、千円出してどんこ舟に乗る。まだ新米らしい無口な青年が棹《さお》をさすと舟は静かに川をくだりはじめる。ほとんど動かないとろんとした水は、水門をくぐると濠《ほり》になっているせいらしい。両岸の花の数々、黒い土、ちょうど芽吹きの柳の木も手を伸ばせば届きそうな近さで、それらが水の匂いにかぶさって、私は忽《たちま》ち水の精になってしまったようであった。
有名な橋くぐり。昔は土橋、今は石橋コンクリ橋、低くて狭い橋が迫ってくるスリル。武家屋敷があったり酒倉があったり、クモデ網から鰻の供養塔やらと、新米船頭さんは説明にいそがしい。その説明に茶々を入れて若い船頭さんをからかったりしているうちはよかったのである。
白秋の散歩道の近くまで来て、椿《つばき》の花が一つ、動かぬ水に浮いているのを見たあたりから私は変になった。私は水に恋してしまったのである。柳も花も涙でかすみ、時を忘れ場所を忘れこの世かあの世かさえわからなくなってしまった。
船着場でよろけた私は完全に夢遊病者。「帰りたくない、私はここに住みたい」と橋にすがって泣きだす醜態に連れがどれほど迷惑したことか。
恋をした私にとっては、白秋生家も帰去来の詩碑も、“お花”とかいう殿様の庭も何もあったものではなかった。ただただ、とろんとした水をみつめて涙ぐむばかり。
柳青める日柳川恋い初《そ》めし
この地恋う者に連翹《れんぎよう》黄を極む
白絹を隠れて縫うて水の妻
水と棲みおぼろ月夜の白き飯
小屋に灯を点し柳川在と書く
身も弱りたればそろりと水になる
この地恋う者に連翹《れんぎよう》黄を極む
白絹を隠れて縫うて水の妻
水と棲みおぼろ月夜の白き飯
小屋に灯を点し柳川在と書く
身も弱りたればそろりと水になる
柳川に住みたいという思いは戻ってからも募りに募った。思いあまってある日ともだちに相談をしてみたところ、まず三千万円用意すること、それなら可能だと言う。
「あなたは水に嫁ぐのでしょ。誰に養ってもらうのよ。利子で食べられる目算がついたら土地の世話はするわ」
私は唖然《あぜん》とし、絶望した。
それにしても憎きは白秋である。
「水郷柳河こそは、我が生れの里である。この水の柳河こそは、我が詩歌の母体である。この水の構図、この地相にして、はじめて我が体は生じ、我が風は成った」──北原白秋〈水の構図〉より──
どうやら私の水恋いは、白秋に嫉妬したあげくのそれだったようである。
「あなたは水に嫁ぐのでしょ。誰に養ってもらうのよ。利子で食べられる目算がついたら土地の世話はするわ」
私は唖然《あぜん》とし、絶望した。
それにしても憎きは白秋である。
「水郷柳河こそは、我が生れの里である。この水の柳河こそは、我が詩歌の母体である。この水の構図、この地相にして、はじめて我が体は生じ、我が風は成った」──北原白秋〈水の構図〉より──
どうやら私の水恋いは、白秋に嫉妬したあげくのそれだったようである。
白秋の舟を沈めて昼の月