母は姑《しゆうとめ》と姉と私を養うためにまっくろになって働いた。その上に戦争中は姑の姉妹の家族も引き受けて米や砂糖の調達もしなければならなかった。一歩あやまれば……の仕事。
闇米は闇夜に動かさなければならない。岡山県を貫く吉井川の河口では上質の砂が採れて、それを大阪方面へ運ぶ機帆船が川幅のまん中辺に錨《いかり》を下ろしていた。蛙が鳴きしきる闇の夜に母が起き出すのを私は知っていた。母は用心深く聞き耳をたてる。身仕度をして裏の小屋から布袋に入った米を担ぐ。二斗袋である。声もたてられず音もたてられぬ緊迫した空気。水面がうすく光って小舟が揺れている。母の目は梟《ふくろう》だ。危うい雁木《がんぎ》を一つずつ足場をさぐりながら下りて行く。雁木の下半分は苔《こけ》ですべる。したたる汗。渾身《こんしん》の力で、舟に足をかける母。米袋が下ろされると舟は大きく揺れて母も尻もちをつく。手の甲で拭《ぬぐ》う目の中の汗。それが三回もくり返されただろうか。私は寝たふりで息をのんでいた。
ギイ、ギイと遠慮がちな艪《ろ》の音がする。三十分か四十分か、私にはずい分と長い時間に感じられた。母がふとんにすべり込んで、私もほッとして、うとうとすると夜が明けた。
母は何もなかったように朝の葱《ねぎ》を刻む。船頭は米を高く買ったらしい。お百姓から頼まれた米を船の人に運ぶその利ザヤで母はまた闇米を買って大勢の家族に食べさせていたのである。
私よりもはるかに小柄な母のどこにあんな力があったのか。一心という姿を私は母から学んだように思う。
敗戦後、闇の米は食わぬと言って死んでいった裁判官がいる。潔白正義の人であった。私は母の一心が求める闇米を食べて育った。そして、まだ生きている。そのことを私は恥とはしない。政府が養ってくれないのだから法をくぐっての闇行為は生きるための自衛手段であった。母はそんな理屈は言わず、ひたすらにヒナに餌を運んだだけである。親鳥の本能であった。
もしも当時の母を責める人がいたら私は母に代ってその言葉を聞こうと思う。赤紙一枚で人間をころした責任を果たして貰った上で裁かれたいと思う。
月夜の吉井川を思うよりも、闇夜の水音が今も私に近いのは、そうした母を忘れ得ないからである。当時、母はまだ三十歳を少し過ぎたばかりであった。
現在七十四歳、身も心も弱り果てた母の枕辺で、私は「あのころ」を話してあげる。土色の母の頬がぽッとかがやくのを見たさに。
朝顔も桔梗《ききよう》も白し泣かぬ家族
荒荒と母は流れる吉井川
手に掬《すく》い手からこぼして吉井川
川の他にふるさと持たず枕経
荒荒と母は流れる吉井川
手に掬《すく》い手からこぼして吉井川
川の他にふるさと持たず枕経