むかし私の生まれた村に与一つぁんという大工がいて一人娘を育てていた。与一つぁんは馬づらで、バカがつくほど人好しの働き者であった。娘の佐和は器量よしだが勉強ぎらいでほけほけと遊んでばかりいた。
ある日のこと、与一つぁんの雁木で姉さんかぶりの女がタスキ姿もかいがいしく洗濯をしているのを見た者がいる。女は来る日も来る日も雁木で何か洗っているのであった。
「何者じゃあ」
小川はふたまたぎほどの細さだったので村人に顔を見られるのに日数は要らなかった。そして男共は腰が抜けるほどおったまげたのであった。
「わしが買うたことのある女郎じゃ」
「わしも覚えがあるけえ、あのおつゆがどしてまた与一んとこへ来たんじゃ」
むりもなかった。おつゆさんは港一番のお女郎さんで名が通っていた。与一つぁんも長いやもめぐらしであってみれば二度や三度遊廓へ遊びに行ってもふしぎではない。しかしである。あの与一の乱杭歯《らんぐいば》がどうやって港一の傾城《けいせい》を口説き落としたのかが男共にはふしぎで仕方なかったのである。
おつゆさんはよく働いた。鍋はピカピカ陽をはじき、洗濯物は日増しに白くなっていったし、障子は貼りかえられ、朝夕の打ち水もかかしたことがなかった。
「どうせ女郎上がりの女、三月と持つまいて」とふんでいた近所の女房たちもかぶとを脱いだ。何よりものおどろきは、佐和に勉強をおしえ、お針を仕込み、一人前の娘に育てあげて立派に嫁入りさせたことであった。
私の生まれた村は半農半漁で、南の港あたりには出入りの船頭相手の紅灯が並ぶというへんてこりんな村であった。「お女郎さん」には月に一度の検診日があった。女たちはぞろりぞろりと畦道《あぜみち》をつたって村で一軒しかない医者へ通うのである。そのころから子供ごころに私はおつゆさんを仲間とはちがう人だなと感じていた。しどけない連れの中で、おつゆさんは桔梗《ききよう》のように清らかに見えた。
おつゆさんはどこから来た人なのだろう。ゆえあって身を売りながらも、おつゆさんは女房になりたかったにちがいない。それも、金持ちではなく貧しくとも心のきれいな男のやさしさを待っていたのにちがいない。
そこへ現われたのが与一つぁんだったのだ。与一つぁんはいっしょうけんめい働いた金でおつゆさんを身請けした。おつゆさんの毎日はそれはそれは嬉しそうであった。
港一番のお女郎さんは村一番の女房になったのである。
私が今もそうした女性を自分と同じだと思うのは、おつゆさんのせいかもしれない。
やさしさに髄から泣いて遊女たり