前の夫《つま》つとに恋しや花式部 新子
一瞬をとらえて逃げる花式部 碌郎
秋の午後、花屋の車が停まって、若い団地の妻たちが花を取り囲んでいました。
ふとのぞいたその車にその花はあったのです。
「紫」という草があります。花は夏咲く白色ですが、根はまむらさきで、昔は重要な紫色の染料にしたり、乾燥して皮膚病の薬にしたりしたそうです。
「紫式部」という名の花があります。クマツヅラ科の三メートルほどの木に、これも夏、淡い紫の漏斗状の小花をつけ、やがて紫の玉を結ぶあの花です。
花式部はそのどれでもなく、名も誰がつけたのかさだかではありません。
ただ野の草の淡紫の小花のいとおしさに、私はその鉢を買ってしまったのです。五千円というのは痛い出費でしたが、どうしても欲しかったのです。
ふとのぞいたその車にその花はあったのです。
「紫」という草があります。花は夏咲く白色ですが、根はまむらさきで、昔は重要な紫色の染料にしたり、乾燥して皮膚病の薬にしたりしたそうです。
「紫式部」という名の花があります。クマツヅラ科の三メートルほどの木に、これも夏、淡い紫の漏斗状の小花をつけ、やがて紫の玉を結ぶあの花です。
花式部はそのどれでもなく、名も誰がつけたのかさだかではありません。
ただ野の草の淡紫の小花のいとおしさに、私はその鉢を買ってしまったのです。五千円というのは痛い出費でしたが、どうしても欲しかったのです。
忘れたや絵画の中の花童 碌郎
あのように攫《さら》ってほしや毬に風 新子
あのように攫《さら》ってほしや毬に風 新子
碌郎は現在の私の夫の名です。
私たちは結婚するとまもなく月一回のサロンをひらくようになりました。
その日はあちこちから互いの友だちが集まって、碁を打つ人、麻雀卓を囲む人、読書の感想を話しあうグループ。よくよく用のないのは蠅叩きで蠅を追うことに興じたりして、一日を楽しく過ごすのです。
そうした中に句会もありました。
花式部がわが家のサロンに加わった日、人々は可憐《かれん》な花をほめてはくれましたが、それを句材とした人は一人もありませんでした。
碌郎が一句。
私が一句。
碌郎の句はたいへん感覚的です。そして、「今」を確実にとらえています。
較べて私のわがままさはどうでしょう。
夫の目の前でぬけぬけと「前の夫が恋しくてたまらない」と詠んでいるのですから。
花式部という花には私を黄泉《よみ》の国へでも誘うかのような妖しい力があったように思います。
花式部の花は、夫と私が期せずして句にしたその翌日から弱りはじめて、水をやっても陽に当てても……。とうとう七日後にすっかりと枯草になってしまいました。
私は今の夫の愛情の強さを感じました。その目でもういちど碌郎の句を見ると、単に「今」をとらえているのではないことがわかります。
碌郎は私を誘い去ろうとする前の夫を敏感に察知しているのでした。
おなじ日私は「毬が風にころがっていくように攫ってほしい」と詠んでいるのですから、無意識にしてもこわい瞬間であったと思います。
今の夫にはなかなか会うことの叶わぬ息子が一人います。
碌郎作の「忘れたや」の句は、深層心理の息子恋いです。花の下や、花野であそびたわむれたわが子を忘れかねての一句です。
「忘れねばこそ思い出さず候」──「忘れたや」はそれとおなじ心理でしょうから。
私はもっとたくさん、今の夫を息子に会わせてあげたいと、心の底から思っています。
私たちは結婚するとまもなく月一回のサロンをひらくようになりました。
その日はあちこちから互いの友だちが集まって、碁を打つ人、麻雀卓を囲む人、読書の感想を話しあうグループ。よくよく用のないのは蠅叩きで蠅を追うことに興じたりして、一日を楽しく過ごすのです。
そうした中に句会もありました。
花式部がわが家のサロンに加わった日、人々は可憐《かれん》な花をほめてはくれましたが、それを句材とした人は一人もありませんでした。
碌郎が一句。
私が一句。
碌郎の句はたいへん感覚的です。そして、「今」を確実にとらえています。
較べて私のわがままさはどうでしょう。
夫の目の前でぬけぬけと「前の夫が恋しくてたまらない」と詠んでいるのですから。
花式部という花には私を黄泉《よみ》の国へでも誘うかのような妖しい力があったように思います。
花式部の花は、夫と私が期せずして句にしたその翌日から弱りはじめて、水をやっても陽に当てても……。とうとう七日後にすっかりと枯草になってしまいました。
私は今の夫の愛情の強さを感じました。その目でもういちど碌郎の句を見ると、単に「今」をとらえているのではないことがわかります。
碌郎は私を誘い去ろうとする前の夫を敏感に察知しているのでした。
おなじ日私は「毬が風にころがっていくように攫ってほしい」と詠んでいるのですから、無意識にしてもこわい瞬間であったと思います。
今の夫にはなかなか会うことの叶わぬ息子が一人います。
碌郎作の「忘れたや」の句は、深層心理の息子恋いです。花の下や、花野であそびたわむれたわが子を忘れかねての一句です。
「忘れねばこそ思い出さず候」──「忘れたや」はそれとおなじ心理でしょうから。
私はもっとたくさん、今の夫を息子に会わせてあげたいと、心の底から思っています。