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悪魔

时间: 2022-09-13    进入日语论坛
核心提示:悪魔小川未明一 道の上が白く乾いて、風が音を立てずに木を揺(ゆす)っていた。家々の前に立っている人は、何か怖しい気持に襲わ
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悪魔

小川未明

 


 道の上が白く乾いて、風が音を立てずに木を(ゆす)っていた。家々の前に立っている人は、何か怖しい気持に襲われているように眼をきょときょとしながら、耳を立てて、爪先で音を立てぬように、(たがい)に寄り添って、耳から耳へと語り合っていた。
 頃は四月であった。暗い曇った日の午後である。杉の木の闇には、羽の白い虫が上下に飛んでいる、ちょうど(はた)を織っているようだ。沈黙の中に、何物かを待ち受けているように四辺(あたり)が静かだ。
「あなたは黒い男を……。」
 と、顔の青腫(あおぶく)れのした爺さんが、四十二三の痩せた男に言った。
「いや、見ません。」といって、反身(そりみ)になった。青腫れのした爺さんは、爪先で歩いて、次の家の前へと進む。雪もないのに冷たい気が人々の肌に浸み込むようだ。訊かれた男は、盗むように爺さんを見て、
「見てたまるものか!」と、小声でいった。隣の家の前では、ヒステリー風の女が、爺さんに訊かれていた。
「お前さんは、黒い男を見ましたか?」といって、青腫れのした底から光る鋭い眼をきらつかせた。
「黒い男をですかえ。」と、ヒステリー風の女は眉毛のあたりに青い波を打たせて(おび)えるような声でいった。
「シッ、静かに、その黒い男を見ましたな。」と、青腫れのした爺さんは威丈高(いたけだか)になって、女を捕えようとした。
「見ません。見やしませんよ。」
「お前、それはほんとかい。」と爺さんは、極めて力の籠った、重い調子で言う。
「ほんとですとも……。」
 爺さんは、その隣の家へと歩みを移す。ヒステリー風の女は怪しな笑いを(もら)した。
「気味の悪いこった。(わたし)は、盗みなんかしやしないよ。」と小声でいった。
 爺さんは、耳の遠い、白髪(しらが)の婆さんを捕えてやはり同じいことを繰返していた。
「黒い男。()の高い、頭から黒い男だ。」
 婆さんには、爺さんの言うことが分らぬらしい。爺さんも、これには弱っているようだ。
「なに、お前はもう好い加減の年寄だ。大丈夫だろう……。」といって、隣へと歩いた。
 女も、男も、子供も、若い者も、年寄も、この爺さんの質問を受けた。中には、
「御苦労様です。」と、四辺を(はばか)りながらいったものもあった。爺さんには、この些細のことが嬉しく聞えたか、聞えぬか、それとも腹立たしく思われたか分らないが、知らぬ風で、家から家へと歩いた。
 家数が五十に満たない、爺さんは、この村の村長であった。
「黒い男を見たものがあるというそうだ。」と、かのヒステリー風の女は、爺さんの姿が、どこかに隠れて見えなくなった時分、ちょうど爺さんが、聞いて歩いたように次から次へと歩いて行った。
「黒い男を見た!」と、みんなが、口々に言い触らした。
「誰が?」
「誰だか知らない。あの女が言ったのだ。」
 女は、髪が壊れていた。着物が汚れていた。帯は破れていた。色は白いが、歯は黄色かった。
「オイ、お前さんが見たのかい。」
 と、例の四十男が、後から、これも足音を立てぬように()いて来て女に問うた。
 女は、また例の怪しげな凄い笑いを見せた。
「嘘だよ。」と白々しく言った。
「なんで嘘なぞ言うのだ。人を吃驚(びっくり)させやがって。」
 傍に聞いていた男も、
「なに、嘘だ、この阿魔(あま)め、人を(おど)かしやがる。」
 と言うと、みんなは、駆け集って来て、ヒステリー風の女を(なぐ)った。
「この阿魔め!」
「この阿魔めが!」


 青ぶくれのした爺さんは、そこここと歩いて、村中、一人残らず聞いて歩いていた。
 空は、次第に灰色を帯びて来た。
「厭な空じゃないか。」
「悪いことの起きる時は、こんなものだ。」と、家の前に立っていた人々が言っている。
「見たら、どうなるんだい。」と、心配そうに一人が聞く。
「オイ、見たのかい。」
(おれ)は見ないが、心配だから聞くんだ。」と臆病らしい若者が言う。
「隣村には三人とか見たものがあったということだ。他の者は、みな家に入って中から(じょう)を掛けて外へ出ないようにしていた、その三人の者は、村から外へ追いやられたということだ。」
「ヘイ、そんなら、三人はどうしただろう、のう?」
「多分、今頃は黒い男の餌食になったということだ。」
「殺されるもない。逢えば、体が、二日と経たぬうちに焼けて黒くなるということだ。」
(ひと)に移る病気かい。」
「知れたこっさ。顔を見ただけでも、影を見ただけでも死んじまうだから、ああやって、村長さんが聞いて歩いているのだよ。」と一人がいう。
 この村に入る道は二筋しかない。東から入るのと、北から入るのとの二つである。どっちの道も曲折(きょくせつ)していて、真直(まっすぐ)(はず)れを望み得るものはない。どの方を見ても、こんもりとした杉の林が空に魔物が立っているように黒くなって見えた。
 なんらかの不安が待ち構えているように、揺れていた木の枝まで動かなくなった。けれど白い羽虫は、上下に機を織っていた。
「オイ、この道から来るかも知れない。」
 と一人が声を(ひそ)めて、仲間のものを見返る。仲間のものは、各自(めいめい)に竹槍と、山刀(なた)とを持っていた。今、物を言った一人は、本籠(もとごめ)の二連発銃を持っていた。
「顔を見られたら最後だ、なにか、先方が気の付かぬ工夫はないか知らん。」と相談した。
 すると山刀を()いでいた男は、研石(といし)を下に置いて、
「黒い布で顔を包んではどうだ。」といった。
「なに? 自分も黒い男に化けるのかい?」
 と、銃を持っている男が、それも一理があると言わぬばかりに問い返した。
「そうでないのだ。ただ、こっちの顔を隠すばかりなのだ。」
「じゃ、黒い布でなくともいいのだな。それは駄目だ、近寄って、(さわ)りゃそれまででないか。」
「そんなら、竹槍や、山刀では危険だね。」
勿論(もちろん)、自分も死んで、その代り先方を殺す覚悟ならいいが、とても自分は助からない。」
「じゃ、貴方(あなた)一人に頼みます。銃は一(ちょう)しかないから……。」
 と一人がいう。
(よろ)しい、引受けた。ただ、どうして見張りをしようかと言うのだ?」各自は腕を組んで考えた。誰も、名案が浮ばなかった。すると四十男が、手を叩いて、
「好い思い付きがあった!」と声を低めた。
「ここで話することは悪魔に聞かれよう筈がない。さあ言いなさい。」四十男は、前の家を指さした。そして、他には分らぬ手真似ですべて語った。ちょうどこの男は(おし)のようであった。そして、青ぶくれのした爺さんがするように最後に耳から、耳へと語り伝えた。
「それは面白い。」と銃を持った男が賛成した。


 ちょうどミイラを黒い布で巻いて放り出したように、村の両端の、灰色の屋根に身動きをしない男が銃の筒先を出してあちらの森の方を覗いていた。村中は申し合せたように戸を閉めてしまった。ただ杉の木の闇に羽の白い虫が、()まずに上下へと機を織っていた。
 道は白く乾いていた。屈折した道は白蛇の這うように、黒い黙った森へとつづいている。
 黒い森は笑っているように見えた。白い道は()びているように動いて見えた。けれど、森も、道も、気味悪いなにものかに使われている悪魔の同類のように思われて、この白い道にも油断がならない。
 沈黙は、夜までつづいた。次第に灰色が濃くなって来た。いつしか空の色が鼠色となった。そして重く下がって森の後に垂れた。次第にその(とばり)は、こちらへとなにものかの手によって運ばれた。やがてその灰色の幕は森の頭を撫でて、後方(うしろ)から前へと持って来られた。やがて森も隠れた。白い道を、一寸二寸と幕の歩みはこちらへと近づいた。幕の(すそ)の触れた後には、すべての色が死んで、一色の黒となった。
 天地はいつしか黒色の勝利に帰した。
 この夜、空には星の光が見えなかった。


 赤錆の出たブリキ屋根の上には、生温(なまぬる)い日の光も当らない。鈍色(にびいろ)を放った雲が、その上を見下ろしながら過ぎた。煙突から出た煙は、何に憧れて行くやら、五寸ばかり一つの棒となって、煙突の口から突進したかと思うと、それが四方に散ってしまう。一片(ひとひら)は北に向って、一片は東に向って、見る間に、それらが影も形もなくなってしまう。その果敢(はか)ない煙の姿を上に映して、遅鈍(ちどん)なブリキ屋根は、悲しみもしなければ、憂えもしないようだ。
 ちょうど悪質の石炭が燃えた時、赤ちゃけた煙が出たが、その煙の色をした赤い髪の少女(おとめ)が窓際で機を織りながら、遠くの空を眺めていた。一日たったって、晴れもしない陰気な空でも、夕暮近くなると、北から風が出て、折々わずかばかり、雲切れがして、青い色を見ることがある。
 青い色を、今日も(あて)にして窓から見ているのであった。少女の傍には、他の少女が働いている。いずれも栄養不足で、色艶の好い女はない。手足を機械的に動かしている。瞳は一所(ひとところ)にじっと坐って、青みを()んだ太い腕は力なげに動いていた。杉の木の闇で上下に飛んでいる羽虫のそれより無意味に、無気力に思われた。鼻が低くて丈が低い。顔は(まる)い。申し合せたように無縹緻(ぶきりょう)の女ばかりだ。女の手足は、朝の七時に動き初まると、夜の十時にならなけれや止まない。汽笛が鳴ってばたりと止んだ時は、さながら、時計の螺旋(ねじ)(ゆる)みきって、止まった刹那(せつな)のように気味悪く音もない。
 窓を見ている女の瞳は、空の一所に止ったぎり動かなかった。そこから、灰色の雲が破れて、息の吹き通るような穴の出来るのを待っているようだ。折々、平常聞きなれている、歌が耳に響いた。その歌は、気の抜けた石油のように火の付かない恋歌であった。
「お前さんの顔色は大変に悪いよ。」
 と、白い腕を無意味に動かしている、顔の円い女は、窓を見た友に向って、極めて同情のない、だるい調子で言った。けれど、窓を見ている女は答えなかった。二十分も経ってから、後にいた女が、窓を見ている女の横顔を覗いて、
「お前さん、気分が悪くないの。監督が先刻(さっき)から見ているよ。」その女の顔を見なくも、声で、顔の平らな、唇の薄い、眼の小さい、眼と眉毛の間の狭い女だということが判った。
 窓を見ている女は、この女の問いに答えなかったが、監督がこっちを見ていると聞いたので、急に下を向いて激しく手を振り出した。死物狂(しにものぐる)いであることが判った。


 三十分の後、女は暗い下の(へや)の隅に(すく)んでいた。破れた(すす)けた障子が西向に、(しま)っていて、床は汚れた三畳敷の室であった。敷物も別になくてただ女は片隅に竦んだまま身動きをしなかった。これは先刻、窓を見ていた女である。いつも、青い雲切れのした空を見ると、身の苦痛を忘れてしまう。そして故郷の波の寄せる小松原の景色を想い浮べる。小松原で、小児(こども)の時分遊んだ日の光景(ありさま)などが活々(いきいき)と現われて来て、つらい、今の身を慰めてくれる。それを楽しみに、今日も空を見ていたのであった。つい三十分前までは……。
 雪の深い、(うつろ)渓底(たにぞこ)へ、吊されて下りたように悪寒(おかん)が身を襲って来た。頭の中で鉛を煮るように、熱く、重く、苦しくなった。手足の脉々(みゃくみゃく)は、飛び上るようにずきりずきり打ち初めた。耳は早鐘のように声高く乱打して、足は()ね上るように軽く、気味悪く宙へ浮き立つようだ。
「ああ、苦しい。」と、女は(もだ)え始めた。ガランガランと石炭を機関の下に投げ込む音がする。平常(ふだん)気に留めなかった機関の呻吟声(うめきごえ)(はらわた)の底に響くように耳に附く。火が盛に燃えて、釜の中で熱湯が煮えたぎる音と、釜の啼く音とが。女の苦しんでいると否とに拘わらず、(かしが)った煙突からは(けむり)が出て、それが思い思いに北に行き、南に行った。ある物は憧れて行くように巻き上り、ある物は空想を追って、這うように拡がってしまう。それらの異った考えを持った烟は、果敢なく永劫に消え失せてしまう。また烟の影を上に映す、鈍色のブリキ屋根は、永劫に冴えぬ顔をして遅鈍でいるのだ。
 女は、もはや、こうやって居られなくなった。転がって苦しんだ、けれど誰も来てくれる者がない。あちらで石炭を投げ入れている若者のけはいがするが、こちらに来る筈がない。二階で、絶えず織っている機の(ひびき)。こればかりは聞き慣れているが、時々、この響の聞えぬ静かな所に行って見たくなる。もうこの響に聞き飽きた。眼が醒めるとこの響を聞くが、眼を(つむ)る時までこの響を聞かなければならぬ……。死んでしまって静かな所へ行ったなら、この響は聞えぬだろう。……
 女は、せめてこの苦しみを慰めてくれるものは、あの青空よりないと思った。青空を見るたび、しばし胸の苦痛を忘れて、昔の夢を見るのが(ならい)となった。今、この苦しみを忘れるものは、青空を見るより他にない。けれどこの身体の例えようなき苦しみが果して、あの青空で慰められるか否か分らない。女はいくたびか立って障子に(すが)ろうとした。足がふらついて立てなかった。
 心で、青空を見た時の心持を想像して見た。白い綿のような軽い雲が黒い重い雲の下を行く。見ていると次第に重い黒い雲が薄くなる。すると二つに裂けて、青い所が現れる。……故郷の、青い波の寄せる小松原を思い出す。松原の(はずれ)には、二条の鉄道線路が通っている。その線路には踏切番の小舎(こや)がある。小舎には爺さんがいて、汽車が通るたびに白い旗を出す。……四辺の景色が目に見えるようだ。
 女は、三たび立ち上ろうとして下に倒れた。もはや空想することも出来なくなった。眼が(くら)んで来た。頭の中が乱れて来た。咽喉(のど)が乾いて()い物を飲みたいと気が焦り出した。障子も見えなくなれば、畳も見えなくなった。四方から、鼠色の壁が倒れかかって自分を()(つぶ)そうとしているように思われた。もう石炭を投げ入れる音も、機関の呻吟も、青い空も小松原もなにもない、ただ苦しまぎれに室の中を転げ廻った。顔の色は、黒くなって、身体は火の付いたように燃え始めた。
 (すす)けた破れた障子と、外側に(めぐ)らした亜鉛(トタン)の垣との間はわずかに三尺ばかりしかなかった。女の苦しみ悶える声が(みち)の上に聞えた。
 暗い、静かな午後、村は人通りが杜絶(とだ)えて、黒い男の横行を怖れて戸を閉めてしまった。……
 烏は、寺の林で悲しげに啼いている。


 強度の石炭酸と、石灰と、他に劇薬の入った(びん)を持った、医者と、警官と人夫と先に立ち、後から青ぶくれのした村長が考え顔をしながら織物会社へやって来た。
 黒く目の潰れた畳を、苦しまぎれに引掻(ひっか)いた、女の爪からは血が流れていた。髪は乱れて、瞳は開いて大きく、歯が折れるほど噛み鳴らした、歯茎からは血を噴き出していた。
 人夫は、暗い室の壁に石灰水と石炭酸を()き散らした。警官は(しきい)の上に靴のまま突っ立っていた。監督の男は女の黒髪を掴んで、室から引き摺り出して、手を石炭酸で洗った。医者は、一寸(ちょっと)女の眼瞼(まぶた)引返(ひっくりかえ)して見て、
「これは、()避病院(ひびょういん)へやらなけれやならん。」と言った。
 眼の三角形な(けわ)しい顔付(かおつき)の監督は、憎々(にくにく)しそうに女を横目で睨んだ。
「いよいよ三週間ばかり休まなけやならなくなった。」
 と、傍にいた青ぶくれのした村長に向って言った。
 重苦しい機関の響が聞えて来る。鼻を(つんざ)く石炭酸の臭いは、室の中に込み上った。障子に浸みた消毒水の(あと)は、外の暗くなりかかった灰色の空の色を(にじ)ませていた。暗いランプが二階に(とも)った時分女は戸板に乗せられてこの会社の門を出た。二階からは、鼻の低い女、薄ぺらな唇の女、円い青い顔の女らが顔を出して見送っていた。中の一人が、なにやら甲高(かんだか)な声で言った。すると二三人の女の顔が、崩れて笑った。
 監督が叱ったと見えて、一時に女共の顔は引込んだ。そして硝子戸(ガラスど)が落ちた。ランプの輝きが見えた。
 女は白い毛布を頭から掛けられて、亜鉛の垣に添うて、寺の方へと道を行った。先に警官と医者が立ち、傍に村長が付いて行った。女は毛布を払って、空を見ようともしなかった。
 ちょうど、その時、寺の栗の木の(いただ)きが破れて、青い空が見えていたのに。
 村長は、黙って女の傍に付いて、下を向きながら考えて歩いた。警官と医者とは、時々話をした。戸板が村を出て、広い田圃(たんぼ)の細道にかかった時、女はわずかに眼を見開いた。もう、人の顔がわずかに分った頃であった。荒涼たる雑木林が悲しみの色に薄黒く浮き出ていた。
 村長は、女に向って、
「お前さんは、黒い男を見たろう。」と聞いた。
 女は、体を揺られながら、聞いたので、或いは聞き違いでないかと思って、村長の問いに答えなかった。青ぶくれのした村長は、少し前屈みになって、同じことを小声で聞いた。
「お前は、黒い男を見たろう。」
 女の耳には、そういったことが聞かれたのだ。けれど、意味が分らなかった。女はやはり聞き違いでないかと思って答えなかった。女はなぜ、()ている自分に、耳に口を当てて訊いてくれないものかと思ったけれど、村長は前へ少し屈むのも、またこうやって傍に付いているのも危険に思ったから、耳へ口を付けるなどは思いも寄らぬことであった。
 それぎり、村長はこのことを女に訊かなかった。
 女は、苦しみながら、村長の言ったこと、「黒い男を見なかったか。」といったように、思われた意味について考えた。自分が、窓を見ていた時、途を歩いて来た黒い男を見たようなことはなかったかと心に問い返して見た。はっきりと眼に浮ぶものは、雲切れのした青い空の色! その下を通じた白い道のかなたから、黒い男の歩いて来たようなことはなかったか?
 風に(さら)された石灰が壁板(したみ)の下に固まって落ちていた。家の中はひっそりとして冷たい気が領していた。避病院が、今頃、戸が開けられて人の入ったことは例がなかった。


 今まで石の下に隠れていた古来からの迷信が復活(よみがえ)った。家々の(かど)の柱に赤い紙や、(あわび)(から)などを吊した。まだ花の咲くに間のある北国の、曇った空の下に吹く風が寒かった。赤い紙を頼りなげに吹いていた。
「お前さんは、黒い男を見なかったか。黒い男が歩いているそうだ。」
 と、いう恐怖は、村から村へと口やかましく言い触らされた。
 勿論(むろん)、余り開けていない、山と山との間の村の出来事であった。黒い男を殺してしまうという考えもなくなってしまった。とても、その男は殺されるものでない。むしろなにかの(たた)りででもあろうかと言うので、今日は、村で……祈祷があるという。
 悪疫(あくえき)版図(はんと)は五十村に渡った。疱瘡(ほうそう)のように細かな腫物(はれもの)が全身に吹き出ると、焼けるように身体が燃えて、始めは赤くなった。(つい)には黒くなって死ぬといった。
 患者は、あの村でも死んだ、今日この村でも死んだという風にあった。避病院へは後から後からと送られた。
 道が白く乾いて、空は曇っていた。村の石屋の前には角な石が重ねられたり、立てかけたりしてあった。石の上に、早咲(はやざき)の梅が散って、一片(ひとひら)、二片、附いているのが、春らしくもない、つまらなそうに見えた。
 風が吹くと、門に差してあった枯れた笹の葉が鳴る。葉の色は全く枯れて白ちゃけていた。
 寺の鐘が、枕に附いている病人を揺起(ゆりおこ)すような調子で鳴っている。厭な、鈍い、死ということを思わせる音であった。
 恐怖と不安と、迷信とが村を占領した。
「お前さんは、黒い男を見ましたか……。」
 鐘の音が、まだ鳴っている。

 

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