「これなら、もう、安心だ。」と、おじいさんは、思いました。
ある夜のこと、星の光は、凍ったように白く見えたけれど、もう、やがて春がきかかっているのがわかりました。おじいさんは、山で仕事をして、おそく帰ってきますと、いつかの天使が、大工の家の窓の下に、しょんぼりと立っていました。いつかのように素跣で、脊に白い翼がありました。
おじいさんは、神さまというものは、一人の子供をこの世の中に送るために、これほど気遣われるものかということをはじめて知りました。
「この家の亭主は、もうあのときから、酒をやめて、子供の生まれる仕度をしています。あのように二人が、楽しそうに話をしている声がきこえています。もう、ご心配なさることはありません……。」と、おじいさんは、いいました。
やさしい、美しい天使は、それでも、まだなんとなく安心しない気持ちをして、涙に光った目を、いたいたしげな自分の足もとに落としていました。
「俺は、はじめて、あなたのお姿を見たのでありますが、どの人も、この世の中に生まれてくる時分には、こうして、神さまがご心配なさるものでございましょうか。」と、おじいさんは、天使に向かって聞きました。
天使は、この長い年月を、生活と戦ってきて、いまこのように疲れて見えるおじいさんの清らかな目をうつしながら、
「どの人が生まれてくるときも、健やかに、平和に育つようにと思って、心配するかしれません。そして、親たちは、みんな子供を大事にしなければならないと思いますのに、いつか自分たちのことにかまけて、忘れてしまいます。生まれない前までは神の力で、どうにもすることができるけれど、ひとたび、世の中のものとなってしまえば、神の力のとどくはずはありません。人間にすべてを悟る力を神は与えたはずですけれど、それを忘れてしまえばまた、どうすることもできないのです……。」と、天使は答えました。
おじいさんは、天使の話を聞いているうちに、遠い過去の、青春の時代に、自分の魂が帰ったように感じました。あの時分から、自分は正しく生きようと心がけてきたが、顧みればまだどれほど後悔されることの多かったことかしれない。若いものは、これから、一生をもったいなく思って、ほんとうに有益に、正しく送らなければならないだろう……と思いました。
「よく、あなたのおっしゃることがわかりました。よく、この家の女房にも、子供をしからないように、注意しますし、みんなが、いい生活をするように、私の力で、できるかぎり心がけさせます。」と、おじいさんは誓いました。
いつしか、白い天使の姿は、どこへか消えてしまいました。
幾何もなくして、この家に、赤ん坊が生まれました。それからというもの、女房は、ほんとうにやさしい、いいお母さんとなり、亭主はよく働く大工となって、二人は、赤ん坊の顔を見るのが、なによりの楽しい、なぐさめとなったのであります。
おじいさんは、仕事の帰りに、この家へ立ち寄って、平和な有り様を見るのが、またなによりの喜びでありました。
そして、何人によらず、子供をしかるのを見ると、おじいさんは、
「おまえが生んだから、自分のものだとばかり思ってはいけない。神さまこそ、ほんとうのこの子供のお母さんだから、自分の機嫌にまかせて、子供を育ててはならない。」といいました。
村の人たちは、いまごろ、神さまなどというおじいさんをばかにして、笑っていました。
「おじいさん、神さまの子供なら、人間は、神さまでなければならないじゃないか、それだのにいい人もあれば、わるい人もある。これは、どうしたことだ?」と問いました。
そのとき、おじいさんは、いつか天使が、
「人間は生まれてくるとき、すべての悟る力を授けられてきたのだが、いつか忘れてしまって、正しい生活ができなくなったのだ……。」といったことを思い出しました。
おじいさんは、そんなことをこの人たちにいっても信じてくれないと思いました。まして、自分が、翼のある天使を見たなどといっても、大工の夫婦はじめ、それをほんとうにしてはくれないと思いました。
そう思うと、おじいさんは、さすがに悲しかったのであります。
おじいさんは、どうかもう一度、天使を見たいと思いました。そうしたら、今度こそよく見ておこう……。そして、ほかの人にもそっと知らしてやろうと思いました。けれど、ふたたび、天使を見ることはできませんでした。
そのうちに、春になりました。長い冬の間じっとしていた草木は、よみがえって、空は緑色に、あたたかな風が吹きました。おじいさんは、空に向かって、黙って感謝しました。
――一九二五・一二作――