犬と古洋傘
小川未明
ある村から、毎日町へ仕事にいく男がありました。どんな日でも、さびしい道を歩かなければならなかったのです。
ある日のこと、男はいつものごとく考えながら歩いてきました。寒い朝で、自分の口や、鼻から出る息が白く凍って見えました。また田圃には、霜が真っ白に降りていて、ちょうど雪の降ったような、ながめでありました。
このとき、どこからか、赤ん坊の泣く声がしました。男は思わず歩みを止めて、あたりを見まわしたのであります。
「はてな、赤ん坊の泣く声がきこえたが……。」
しかし、人の影はなし、近くに人家もなかったから、たぶん、空耳だろうと思って、また歩き出しました。
すると、今度は、前よりも、もっと近く、赤ん坊の泣く声がきこえてきたのです。
「たしかに赤ん坊だ、どこだろう?」
彼は、もう自分の耳を疑いませんでした。きっと、この近傍にだれか赤ん坊を捨てたものがあるにちがいないと思いました。
「そんな悪いことをするやつは、どこのやつだろう。」と、男は、この寒空に捨てられた、かわいそうな赤ん坊を、早くさがし出して、どうかしてやらなければと思って、声のきこえる方へ近づいていきました。
見ると、それは、赤ん坊でなく、やぶの中に、まだ生まれてから間がない、やっと目の開いたばかりの小犬が三びき、箱の中に入れて捨ててありました。
彼は、赤ん坊でなく、小犬でよかったと思いましたが、その捨てられた小犬の、いじらしいようすを見ると、また別の不憫さが心の中にわいてきて、
「こんな、まだ独り歩きのできぬ小犬をだれが捨てたのだろう、情け知らずの人間だ。」と、思いましたが、自分は、どうすることもできません。
「ああ、かわいそうなものを見たな。」と、ただ、気持ちを暗くして、かわいそうとは思いながらも、そのまま、男はいってしまいました。
「こんな寒空に、それに食べ物もないのでは、きっと死んでしまうだろう。」と、三びきの小犬のことを思いながら、道を急いだのです。
しかし、いくら思うまいとしても、白と黒の三びきの小犬が、重なり合って、彼の顔を見たとき、尾をぴちぴちと振って、助けてくれといわぬばかりに鳴いたいじらしい姿を、男は、いつまでも目から取ることができませんでした。
彼は、町へ着くと、いつものごとく仕事にとりかかりました。仕事をしている間は、犬のことを忘れていましたが、その日の仕事が終わって帰り道にさしかかると、朝見た犬のことが、思い出されて、
「どうなったろう?」という、好奇心も起こって、なんだか、そのやぶの近くになると、重苦しいような気さえしました。
彼は、やぶのそばへきて、耳をすましました。
もう泣き声はきこえません。
「はてな、みんな死んでしまったのかしらん。」
怖ろしいものでも見るようにして、のぞいてみると、三びきのうち二ひきは死んでしまって、一ぴきだけが、こもから出て死んだ兄弟のまわりをまわっていました。
この一ぴきも、晩には、死ぬであろうと思います。
男は、胸の中が苦しくなりました。よほど、この一ぴきを家へつれていって、助けてやろうかとも考えました。
だが、その世話が、またたいへんだとも思いました。見なければ、知らずにしまったことだ、そうだ、おれは、見なかったことにして、このままいってしまおう……と、気の弱い彼は自分の心をはげまして、そのまま小犬を見捨てて、家へ帰ってしまいました。
その夜は、前の晩よりも寒く、それに、風さえ烈しかったのであります。
男は、たびたび目をさまして、床の中で、後に一ぴき生き残っていた、いじらしい犬の姿を思い出していました。
翌日、彼は、その道を通るのが、なんとなく心がとがめて、ほかの道を遠まわりして仕事にいきました。帰るときも同じでした。二、三日の間というものは、その道を通ることができなかったのです。
ある日、雨が降りそうだったので、男は、急ぐために、その道を通ったのでありました。
「どうなったろうな? きっと、三びきとも死んでいるにちがいない。それともしんせつな人があって、功徳にどこへか葬ってやったかもしれないが。」と、犬の捨てられた場所に近づくにつれて、男は思ったのでした。そして、そのまま過ぎることができずに、ついやぶ蔭をのぞいて見ると、犬の死骸もなければ、犬の入っていたこもも見えませんでした。そして、その場所に一本の古洋傘が置いてありました。
男は、その洋傘を拾って、開けてみると、まだりっぱにさせる品物でした。
「このまま腐らしてしまうのは惜しいものだ。さいわい、雨が降りそうだから、拾っていこう。」と、男は、その古い洋傘を持って、立ち去りましたが、家に着かぬうちに、雨がぽつぽつ降り出してきました。
「いわぬことか、いいものを拾ってきた。」といって、洋傘を開いてさして歩きますと頭の上で、クンクン小犬のなき声がしました。彼は、びっくりして、洋傘を投げ出すと、いっしょうけんめいに駈け出しました。
「あのとき、おれが拾ってやれば、一ぴきにしろ犬の命は助かったのだ。一本の洋傘より、生き物の命のほうが、どれほど大切かしれないのだ。」と、正直な男だけに悟ったのでした。