子供たちへの責任
小川未明
最近小さな子供の行状などを見ていると胸をうたれる。いいかえれば時代を反映して悪がしこくなり、今までの子供らしさを失っているものが多い。
子供は純情と一口でいうけれど、それは
戦争中はいかなる言葉をもって子供たちを教えたか。指導者らには何の情熱も信念もなく、ただ概念的に国家のために犠牲になれといい、一億一心にならなければならぬとかいって、形式的に朝晩に奉仕的な仕事を強制して来た。そして日本は一番正しいのであるし、敵は残忍であり醜悪であるということを言葉に文章に信ぜしめようとして来た。それが終戦後の態度はどうであるか、今までの敵を讃美し、まちがっていたことを正しいといい、まったく反対のことを平然として語っている。子供は大人に対して抗議する力をもっていない。しかし批判力がないとだれが云い得よう。
子供たちにかかる大人の態度、いいかえれば指導者の態度がどう映るか。必ずや嘘つきであり厚顔無恥としてうつるにちがいない。しかし子供は更に一歩ふかくこの世の中を見ている。それは日本がまけたのだということである、負けたためにはこうならなければならぬのだということである。おそらく子供の方が却って時にはこう云わなければならぬ大人をあわれむこともあろう。
だれでも子供のじぶんに経験したことがあるだろうが、よく両親がむじゅんしたことを云ったりしても、真にやむを得なかった場合、またそうしなければならなくなった場合には子供はだまっているし却って親の心を哀れむものだ。故に指導者に於いて真に誠実であれば、かつてのあやまちも許されるであろうが、もし誠実を欠いて居たならば、子供たちが大人に対する信頼をなくすことも当然である。
今日のこのこうした荒んだ状態から、子供たちを救うものは、何と言っても指導者の誠実であり情熱である。時代に迎合するというよりは当面した現実に新しい自己というものを発見して、子供たちと共に新しい日本を建設して行くという誠実がなくてはならぬ。現実に対して謙虚であり誠実である時にはじめて新しい自己が発見されるし、新しい時代の感覚を体得しうる。そこに