いつまでたっても、ほかに、だれも上がってこなかった。また、耳を傾けても、汽笛の音さえきこえなかったのでした。
「いまにも、汽車がきたら、ビーズがひざにあって、おばあさんは、どうして立ち上がるだろう?」
そう考えると、いぶかしくなりました。紙にもつつんでないから、みんな地にこぼれてしまうだろう……。ちょうど、そのとき、おばあさんが、顔を上げました。あっと、彼は、驚いた。なぜなら、二つの目は、魚のうろこを張ったように、白く、瞳がなく、まったくの盲目であったのです。
「死だ! 死だ!」
こう叫んで、彼は、丘を駆け下りました。
* * * * *
寒い夜のことです。
明るい燈火の下で、Aは、細君と話をしていました。二人の家庭は、むつまじく、そして、平和でありました。それにつけて、Aの友だちの死は、いっそう、考えさせられたのです。
「ほんとうに、あの方は、快活な、陰気なことの大きらいのお方でしたわ。それに、日ごろあんなに健康そうに見えましたのに……人間の命というものは、わからんものですわね。」と、細君はいいました。
「ほんとうに、あの男が、急に死のうなどとだれも思うまいよ。彼自身だって思わなかったにちがいない。これをみても、こうして、無事に、一日が送られるということは、幸福なことだよ。」と、Aは答えました。
「もし、死ということがなかったら、人生は、どんなに幸福でしょう?」
「それは、そうでない。死があってこそ生ということがあるのだ。生きているという意識は、死の恐れを深く知るものにだけ、それだけありがたいのだ。夜がなかったら、太陽の輝きはわかるまい。この二つは、自然の大きな力なんだ。」と、Aはいいました。
「あの男は、この自然の力について考えただろうか。」
彼は、そんなことも思いました。
だれか、外の戸にさわったようなけはいがします。Aは立ち上がって、出口の戸を開けてみました。すると、そこに、頭から、黒い着物をかぶった脊の高いものが立っているので、びっくりしました。
「おまえは、だれだ?」
「死だ! この家へはいろうかとのぞいていたのだ。俺のことを話したのも、みんな聞いた。」
Aの心臓は、氷の手で、ぐっと握られたように、ぞっとして、ものがいえなく、ふるえていました。
「しかし、おまえたちは、俺の存在を忘れないだけ感心だ。こんどだけは、はいるまい。」
こう、死は、冷ややかにいい放って、大またで歩いて去りました。
空には、こぼれ落ちそうに、星がきらきらとして、低くささやきながら、風が吹いていました。
――一九二八・一〇作――