婦人の過去と将来の予期
小川未明
私は、その青春時代を顧みると、ちょうど日本に、西欧のロマンチシズムの流れが、その頃、
それは、ちょうど、今から、ずっと溯った二十年前であった。日本の青年男女に、はじめて交際の自由が唱道せられた時分である。それまでは、男女席を同うせずといったような堅苦しい旧道徳の束縛が、互に物を言ったり、交際するのをすら
その頃の若い詩人や、また文学に志した者が、親達のすゝめる結婚を忌避して、さかんに自由結婚をしたのは、即ち旧道徳に対する破壊運動に他ならなかった。
しかし、それは、『星菫派』と称せられた如く美しい夢に過ぎなかった。彼等は、後に来る経済生活については、考えなかったのだ。しかし、家庭を持ち、子供が生れ、父となり母となるに至って、恋愛至上ということが、事実に於て一片の空想に過ぎないのを知ったのだ。
この次に、起ったものは、自然主義の思想であった。このことは、一層、現実生活の幻滅を裏付けた。そして、人間は欲望を離れて生活も存在もあり得ないと言うにあった。無理想を呼号したのも、偶然でなかった。男女関係は欲望の充塞以外にないとも言った。その思想には、人間性の飛躍も、向上も無視した誤謬はあったが、これがために、恋愛至上といった、空想は破れたのである。そして、人間生活を現実的に、実際的に凝視せしむるに至った。
幻滅の悲哀は、人間生活の何の部面にも見出された事実ではあったが、殊に、各自の家庭に、最も、そのことを見出した。恋愛至上主義によって、結婚した男女は、いまや、幻滅の悲哀を感じて、いまゝで美しかったもの愛したものに、限りない憎悪と醜悪とを感じたのである。加うるに、最も自己の欲望を満足することが、意義ある生活だと考えたところから彼等は、家庭を破壊して、新しい愛欲の生活に入ろうとつとめたものもある。
今から、ちょうど九年乃至十年前の日本の社会は、斯の如き、現象が著るしかった。夫を捨て、子供を捨て、自分の好める男と
このことは、女の自覚とも見らるれば、また、一面から観察して、無自覚とも見られたのである。女は、永久に、男の奴隷たるに甘んぜずとする点は、たしかに、女の自覚を意味し、反抗をも意味したけれど、家出した女はどうなったか? やはり、同じような醜汚な生活を他の場処でしているに過ぎなかった。
すべての女性は、経済的に独立しなければならぬと悟ったのは、それからであった。
先ず経済的に独立しなければ、男子の専横から
社会は、それらの女子に職業を与えたであろうか。今日、多くの職業婦人の出現は、たしかに与えられつゝあることを証するにはちがいないが、果して、女子は、これによって経済上の独立を全うしつゝあるであろうか?
多くの男子に於てすら、まだ生存権の確立を得ないものが女子に於て、それを得らるべき筈がないのだ。新しい、自覚した女性は、いまや、この社会の病弊がどこに在るかをよく知っている筈だ。それを革めない限りは、いつまでたっても自分等の望むような生活は得られないと考えている。これは独り女のみの問題でなく、男も、女も、一般の人間の問題だということに帰結した。
新しい理想は、男子に於ける如く、今や、女子の頭の中に燃えている。それは、決して空想でない。あるべき必然の真理として確認されている。忍従も、労働も、信念の前には意とすべきでない。男女共労、共楽の社会を建設するための犠牲なのだ。自欲のための忍従であり、労働であればこそ不平も起るけれど、真理への道程であると考えた時には、現在の艱苦に打克つだけの決心がなくてはならない。
これを思う時、婦人開放も、婦人参政も、すべての運動は独り女子のみに限ったことでないことを知るであろう。
婦人が、男子に対立して、反抗した時代もやがて去ろうとしている。そして、新理想に輝く、社会建設の道へ、強い、真理と正義心との握手から、男女共同の事業に行くべきことが予期されている。