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文章を作る人々の根本用意(2)

时间: 2022-12-11    进入日语论坛
核心提示:二 読書と観察と思索文章を作る上の用意として、われ/\の日常ひび心がくべき三つの方法がある。それは読書と観察と思索とであ
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二 読書と観察と思索


文章を作る上の用意として、われ/\の日常ひび心がくべき三つの方法がある。それは読書と観察と思索とである。
この三つの方法は、いずれを前にし、何れを後にするという順序はない。最も理想的なことは、この三つの方法が相交錯してまとまった効果をあげることである。
こゝに数えなかった方法に、経験がある。これは最も重大であって、実際の人生から得るその力は、文章の上に甚大な影響を与えるのである。然し実際の人生から得る経験は、好んで為す場合よりも遙かに多く別種の力(境遇といってもいい)によって、われ/\の所期以外の経験を味わしめる場合がある。と同時に限られたわれ/\の力では、何もかも味いつくすというわけにいかないのである。そればかりか、若い人々にとっては、経験はあまりに生々うい/\しく不秩序的に見えることさえ多い。これを冷静に批評し得るほどの観察力観照力は、長い月日の間に、遅々として獲得するよりほかに方法はない。
こゝに初めて読書するということが有効になって来る。それは経験に直接即するよりも、遙かに秩序的であり組織的であるからである。更に詳しく述べれば、われ/\は読書の間に、自分の無し得ない多くの而して未知の経験と、発見し得ない真理と、さまざまなる知識、力、推移とを、知り且つ味ふことが出来るからである。
それならば、われ/\はどういう書物を、どういう風に読んだらいゝか、という問いが起る。
人間の知識的生長は、いうまでもなく最も個人的である。従って一定の規矩を以て、その生長を制限することは、極めて愚しい事である。殊に才能の点に於て特殊的なる文学方面は、それが一層甚だしいといわねばならない。
たゞ然し、最も妥当なる順序は、われ/\の現在生息しつゝある現代の文学書(論集、小説、詩歌のいずれを問わず)に親しみ、次第に過去時代の産物に遡ることを以て、効果多い方法と信ずる。たとえばルソーの『懺悔録』あたりから、近代精神の何ものであるかを知って、更にわれ/\の時代に近いものを知るもいゝであろう。
如何に読むかという問いに対しては、余は広く浅く読むよりも、狭く深く読む方をすゝめたい。勿論広く読むことも必要である。然し、深く心によって読むことの方が遙かに必要である。
観察は読書に比して稍々困難である。それはその対象が常に流転し変化するからである。たとえば自然の風物に対しても、そこには日毎に、というよりも時毎に微妙な変化、推移が行われるし、周囲の出来事を眺めても、ともすればその真意を掴み得ないうちにそれがぐん/\経過するからである。しかし観察は、広い意味の経験の範囲内で、比較的冷静を保ち得る経験の一つである。
われ/\は日常触目する事を物々に対して、精細に見ることを努めはじめるがいい。議論よりも実際に就くべき問題である。
思索は、書物からも獲られるし、実際の人生からも獲られる。
書物からの場合は、何れかといえば冥想的であるが、実際からの場合は暗示的である。殊に後者の場合は、前に述べた観察と錯綜し纒綿てんめんする。
思索の分野は、実に無限である。人生自然の零細な断片的な投影に過ぎないものでも、それはわれ/\の注意力如何によって極めて微妙な思想へまで導いてゆくものである。
読むことから、そして見ることから、われ/\の随時にたあるものに対して、統一を与え組織を与えるものは、実に思索の賜物である。

三 先ず試みよ


文章を作るまでの用意については、大体を尽したと思う。そこで、今諸君に望むところは、大胆に試みよということだ。
一日の生活のある一片を捉えるのもいゝし、ある感情の波動をべるのもいゝし、ある思想に形を与えるのもいゝし、人と人との会話のある部分を写すのもいゝと思う。
一つよりも十の習練である。十の習練よりも二十の習練である。初めから文章のうまみとか華やかさとを希ってはならない。明瞭に考え、正しく見てわれ/\は進んでゆくべきである。更にどこまでも誠実な態度をとること、ものゝあるがまゝの姿に即すことを怠ってはならない。
附け加えていえば、文章の上に多くいわれる推敲ということは、単に表面的な文学上の修飾であってはならない。それはどこまでも内容を本位とするものでなければならない。
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