何、自分はただこの家 の二階を借りているばかりだ。明日にも直ぐ逃げ出すことが出来るのだ。と思い直しても見たが何 うやら不安で、とてもこの老婆との関係が切れないようにも思われる。否 決して関係でない。――其処に何 にも親しく語ったこともなけれや、世話になったこともない。少しばかりでも関係のあろう筈がない。ただ私はこの老婆を忘れることが出来ないのだ。
然 り、とてもこの老婆を忘れることが出来ない。きっとこの老婆の姿が私の目先に附き纏っているばかりでなく、常に気にかかって私の心が支配せられるだろうと考えた。
私は、火の気のない火鉢の側に坐って、老婆と向い合って、つらつら其様 ことを思うとこの老婆が憎くなった。
一つ困らしてやろうという念が萌 した。
「お婆さん、何か薬がありませんか、苦しくてこうやって居 られません。何か一つ薬を下さいな。」
といって、とても薬なんか持 ていないということを知りぬいているから、どういう返事をするか聞きたかった。婆さんは、少しも顔の相 を変えなかった。へへへへと笑いながら、枯れた手を延ばすかと思うと膝頭の火鉢の抽出 を引き出した。私は慄 として身に寒気を感じた。尚 お延び上って、暗いランプの光りで抽出しを見詰 めた。婆さんは中から薄青い紙に包んだものを取出して、冷 たな調子でいった。
「私は持病が起るとこれを飲むと骨節の痛むのが止 る。これは病院にいる人がくれた毒薬じゃ。これを飲めば一思 いに楽になるからそうなさい。」と私の手に渡した。
よく見 と、アヘンだ。私は頭から冷水を浴びせられたよりも戦 い上ったが、此処 だと思って、度胸を据えて、戦える指頭で皺になった薄青い袋から小さな紙包を摘 み出して、包を開いて見ると中に白い粉薬が小指の頭程入っていた。私はその白い粉薬を見詰めて、何といってよいか。この時こそ婆さんは落窪んだ眼を箒から放して、私の顔の上に落していた。
何? 戸棚の隅には鉄棒 が隠してあるんだ! と心に幾たびか叫んで見たが、この粉薬から眼を放してきっと老婆の顔を見返す勇気が出なかった。私は白い粉薬を見詰 ていると、漸々 気が変になって、意識が茫然として来て、この儘この粉薬を自分の口に入れはしまいかと疑った。――この時私は敢て顔を上げては見なかったが――。
老婆は私が何 うするかと思って、冷かに睨んでいるのが瞭々 と分った。
もう大分夜が更けたらしい。
私は、火の気のない火鉢の側に坐って、老婆と向い合って、つらつら
一つ困らしてやろうという念が
「お婆さん、何か薬がありませんか、苦しくてこうやって
といって、とても薬なんか
「私は持病が起るとこれを飲むと骨節の痛むのが
よく
何? 戸棚の隅には
老婆は私が
もう大分夜が更けたらしい。