主義を異にし、主張を異にしている作家は、各自の天分ある主観によって人生を異った方面から解釈している。材料を異った方面から採って来ている。或主義と或主義と相容れないのは、人生に対する解釈が
故に、各派の芸術が主張する、主義、態度、即ち人生の批評に関しては容易に善悪を判ずることが出来ないばかりか、何人と
理想主義、自然主義、享楽主義、等に関し、我が文壇の批評家は、今迄世間に現われている其れ等の作の効果を以て、其の主義の根本の主張、及び人生観に関して是非するには尚お早い。何の主義によらず唱えらるゝに至った動機、世間が之を認めたまでには、痛切な根柢と時勢に対する悲壮な反抗と思想上の苦闘があったことを知らなければならぬ。だから、批評家が一朝机上の感想で、之を破壊することは不可能であるし、また無理だと思う。
即ち『若やかな姿』である。是れ芸術品の吾人に与える本来の感じであると思う。無興味、無理想、無解決を根柢にした作物にせよ、何処にか『若やかな姿』を見出さなければ芸術品として劣等なものだと思う。
主義、主張と、芸術品を製作する時との感興は別でなければならぬ。製作家が感興に満ちていなければ、作品に光の出る理由がない。製作家の頭が活々として、真に感じ、真に動かされた事実であったなら、たとえ技巧が拙であっても尚お、輝きと、此の若やかな姿とを持っている。
すべての芸術は、広義の意味のヒュマニティに立脚している。知的分子もあるに相違ないが、情緒の加わらぬ芸術はない。此の意味に於て芸術は、常に永久性を持っているものである。芸術の与うる感じは愉悦の感じでなければならぬ。男性的のものゝ中にも女性を帯びたものでなければならぬ。言を換えていえば芸術の姿其れ自身が本来女性的であると思う。
或る芸術品に対した時、其の作品から吾人は何等の優しみも、若やかな感じも与えられず、