2
一年で最も寒いのは節分過ぎだと、多くの京都人が言う。その言葉を実感しながら、窪山は夕暮れ迫る正面通を東に向かって歩いていた。
どこからか豆腐売りのラッパが聞こえて来る。家路を急ぐランドセルがすぐ横を通り過ぎて行く。ひと時代前に戻ったような錯覚を覚える。長い影を斜めに伸ばして窪山は『鴨川食堂』の前に立った。
顔を覚えているのか、トラ猫のひるねが足元に擦り寄ってくる。
「流にいじめられとるのと違うか」
屈かがみこんで頭を撫なでると、ひるねがひと声鳴いた。
「えらい早かったやん。おっちゃん早はよぅ中に入りいな。寒いやんか」引き戸を開けて、こいしが背中を丸めた。
「入れてやらんと風邪ひきよるで」
「猫は風邪ひかへん。お父ちゃんに見つかったら、えらいこっちゃし」「こいし。ひるねを店に入れたらアカンで」
厨房の中から流が大きな声を上げた。
「言うたとおりやろ」
こいしが目配せした。
「毎年ふたりでやっとるんか」
コートを脱ぎながら窪山がぼそっと言った。
「ふたりで? 何のことよ」
茶を出しながらこいしが訊いた。
「豆まきしとるんやろ。〈鬼は外、福は内〉と流がまいて、こいしちゃんが〈ごもっとも、ごもっとも〉と後ろを付いて歩く。今でもちゃんと、京都らしいしきたりを守っとるんやな」
「なんでわかったん?」
こいしが目を白黒させる。
「敷居の隙間に豆がはさまっとる」
窪山が鋭い視線を床に走らせた。
「ホンマに昔のクセが抜けへんのですな」
白衣姿の流が厨房から顔を覗かせた。
「ちょっと早かったか。待ち切れいでな。歳取ると忙せわしのうていかん」「昼を抜いて来てくれ、てなご無理を言うて申し訳なかったですな」カウンター越しに流が頭を下げた。
「流の言いつけはちゃんと守ったで。朝早うに喫茶店でいつものモーニングを食べたきりや」
空腹をまぎらすように、窪山は茶を一気に飲んだ。
「もう十分ほどくださいや」
流が声をかけた。
「ナミちゃんとは順調なん?」
テーブルの支度を整えながらこいしが訊いた。
藍染のランチョンマットを敷き、柊ひいらぎを模かたどった箸置きに杉箸を並べる。唐津焼の吞とん水すいを中央に、右端に青磁のレンゲを置いた。
「先週退職しよってな、もう高崎へ帰ってしもた。社長が残念がってたわ」窪山は、マガジンラックから夕刊紙を抜き出した。
「外食ばっかりなんと違う?」
「昼も夜もコンビニ弁当と外食ばっかりじゃ、ええ加減飽きるな」広げた新聞を下げて窪山が笑った。
「もうちょっとの辛抱やんか。向こうに行ったらバラ色の生活が待ってる」こいしが目を輝かせた。
「この歳になって、舅しゅうとを抱えるんやで。そない甘いもんと違うわ」「楽あれば苦あり。人生すべて甘辛です」
流はわらで編んだ鍋敷きを、ランチョンマットの左上に置いた。
「いよいよ登場やな」
新聞をたたんで窪山がパイプ椅子に座り直した。
「新聞はそのままにしとってください。昔食べてはったときと同じように」言い残して、流が背を向けた。
「なんでわかった」
今度は窪山が目をしばたく。
「わしも昔のクセが抜けまへんのや」
振り向いて、流が小さく笑った。
「こんな映画を観たような気がするなぁ。昔は相棒やったふたりの老刑事が再会する、いう話」
こいしがふたりを交互に見る。
「老だけ余分や」
窪山が舌を打った。
「こいし。ちょっと来てくれるか」
厨房に入って流が手招きした。
「仕上げはわたしがするみたいよ」
「しっかり頼むで」
窪山がこいしの背中に声をかけた。
厨房に入ったこいしに、流が何ごとかの指示をしている。窪山は流に言われたとおり、新聞を広げて読むともなく、紙面に目を落とした。やがて馨かぐわしい出汁の香りが漂って来て、窪山は思わず鼻をひくつかせた。
「時間帯は違いますけど、こんな感じやったと思います」窪山と向かい合って腰かけた流がリモコンを操作すると、神棚の横で夕方のニュース番組が映し出された。
「仕事が終わって家に帰る。着替えるのも面倒くさい。上着を脱いでネクタイだけ緩めて、ちゃぶ台の前に座る。新聞広げて、テレビ点つけて、と台所の方から出汁のええ匂いがして来る」
流が言葉を紡ぐと、目を閉じて窪山が顔を天井に向けた。
「あのころは、うちでも同じでした。家に帰ったらヘトヘトで何もしとうない。口もききとうない。腹は減っとる。〈早ぅメシにしてくれ〉と掬子に怒鳴って……」流がため息を吐いた。
「〈テレビ観てへんのやったら消したらどうやのん〉て千恵子にどやされてな」窪山が繫ぐ。
「〈テレビ観るのも仕事のうちや〉て言い返す」「刑事の家てなもん、どこも一緒やったんやろな」流と窪山の掛け合いが続く。
「そろそろ玉子入れてもええかな」
厨房からこいしが声を上げた。
「その前に豆まめ壺つぼに入ってるヤツを鍋に入れてくれ」流が厨房に声を向けた。
「全部入れるん?」
「全部や。按あん配ばいよう振りかけて、お玉でよう混ぜる。そこで一気に強火や。ぐつぐつと煮立ったら玉子を割り入れて、火を止める。すぐに蓋をせい。きっちりしたらアカン、ちょっとだけずらすんやぞ」
流が指示を出す。
「タイミングが大事なんやな。鍋焼きうどん、っちゅうやつは。出て来てしばらく、新聞を読み耽ふけっとって、よう千恵子に怒られたわ」「〈早はよ食べてえな。うどんが伸びるやんか〉ですやろ」流が合いの手を入れる。
「さあ出来ました」
ミトンをはめた両手で、湯気が立ち上る土鍋を、こいしが運んで来た。
「どうです? 昔と同じ匂いですやろ」
流の言葉に、窪山は鼻を鍋に近付けて、湯気の勢いに負ける。
「ナミちゃんの鍋焼きうどんは、この匂いがせんのや」窪山が首をかしげる。
「ゆっくり召し上がってください」
立ち上がって、流はこいしと厨房に引っ込んだ。
合掌して窪山が土鍋の蓋を取ると、湯気は一段とその勢いを増した。
青磁のレンゲを取って、まずは出汁をひと口飲む。窪山は大きくうなずいた。箸でうどんを掬すくう。音を立てて啜り込もうとして、その熱さにむせる。鍋底からネギを取り出し、うどんに絡めて口に運ぶ。鶏肉を嚙みしめる。蒲鉾を齧かじる。その度に窪山は、うんうんとうなずく。
ついさっきまで冷え切っていた身体が、一気に熱を帯び、額にはじんわりと汗が滲み出した。上着のポケットからハンカチを取り出して窪山が額と頰に当てる。
思い出したように海老天をつまみ上げ、箸でふたつに切った窪山は、頭の方だけを口に入れた。
「尾っぽの方は玉子と絡めるんやが、問題はその玉子やな。黄身をいつ崩すか。それを考えながら食べるのが、鍋焼きうどんの醍だい醐ご味みっちゅうもんや」窪山は笑みを浮かべて、ひとりごちた。
「どないです」
遠慮がちに、流が窪山の横に立った。
「不思議やなぁ。昔の味そのままや。ナミちゃんにも同じように伝えたんやが」窪山は箸を止められずにいるようだ。
「ものの味てなもんは、そのときの気分で大きく左右されます。きっと窪山はんは、そのナミちゃんの料理を食べはるとき、緊張してはるんやと思います」流がやわらかな眼まな差ざしを向けた。
「身構えとるのは間違いないな」
窪山がまたハンカチを使った。
「多少の違いはあるかもしれまへんけど、気を楽にして食べたら、昔食べてはったんと、ナミちゃんが作らはる鍋焼きうどんも大差はおへん」流が窪山と向かい合って腰かけた。
「けど、やっぱり味は全然違うで。どんな手品使うたんや」窪山が不服そうに言った。
「推理と言うて欲しいですな」
「未いまだに取り調べのクセが出よる」
笑みを浮かべて窪山がうどんを啜る。
「まず出汁です。というより、千恵子はんがどこへ買い物に行ってはったか。そこから始めました。お住まいの十念寺辺りへ行って来たんですわ。昔から秀さんは近所付き合いが苦手やったみたいですが、奥さん連中は親しいしてはったみたいで、ご近所さんに尋ねたら、千恵子はんのことをよう覚えてはりました。一緒に買い物にも行ってはったそうです。それがこの『桝ます方がた商店街』ですわ。出町にありますやろ」地図を広げて、流がペンで指した。
「豆まめ餅もちを買うのに、ようけ行列が出来とる餅屋のとこやな」箸を持ったまま、窪山が首の向きを変えた。
「それは『出町ふた葉』です。その横の道を入ったとこが『桝方商店街』。錦市場と違ちごうて、地元の人が通う商店街ですわ。たいていの買いもんは、ここで済ませてはったようです。いろんな業種が揃うてましてな、昆布と鰹かつお節ぶしやら、出汁の材料はこの『藤屋』、鶏肉は『鶏扇』、野菜は『かね康』と、千恵子はんは決めてはったそうです。
今でも奥さん連中は浮気せんと、ここで買こうてはります」流が商店街のパンフレットを見せる。
「同じ食材でも、買う店によって、そない違うもんか」鶏肉を嚙みしめながら、窪山が訊いた。
「ひとつひとつは大して違わんでも、重なり合うて出来上がったもんは、相当違いが出ますやろな。たとえば出汁昆布は、『藤屋』で松前産一等昆布というのを、鰹節は惣そう田だかつをと鯖節を混ぜてもろてはりました。それにウルメイワシを足して、うどんの出汁にするんやと、千恵子はんは近所の奥さんに言うてはったみたいです」「うどん出汁っちゅうのは、そないに手間がかかるもんやったんか。ナミちゃんは粉末のだしの素を愛用しとるようや。味が違うて当たり前やな」窪山が椎茸を箸でつまんだ。
「出汁だけやおへん。その椎茸もです。生椎茸をいっぺん天日干しして、それを戻してから甘辛う煮付けるんです。そやから嚙んだときに、旨みがジュワーッと滲み出る」「あの天日干ししとったんは椎茸やったんか。手間かけとったんやな。たしかナミちゃんは生椎茸を煮付けとった」
窪山がしみじみと椎茸を味わう。
「そうは言うても、うどんを手打ちしたり、天ぷらをその度に揚げてたら、せっかちな秀さんには間に合わん。うどんと海老天は『花鈴』という小さい店のもんを使うてはったようです。同じ味ですやろ。ご主人に訊いたら、製麺の配合も、海老天の揚げ方も、先代のときとまったく一緒やと言うてはりました」
「桝やとか、藤やら、鈴がどやとか、買いもんに行く前に確かめとったんやな」「土鍋に昆布と、ざく切りにした九条ねぎを敷いて、出汁を張る。秀さんがちゃぶ台の前に座ったら火を点ける。そんな段取りやったと思います。煮立ったら鶏肉を入れて、火が通ったら、うどんをほぐし入れる。最後に蒲鉾と麩、椎茸、海老天を載せて、玉子を割る」
流が順を辿る。
「メモしとかんといかんな」
窪山が手帳を取り出したのを、流が制する。
「ちゃんとレシピ書いてお渡ししますさかい」「ナミちゃんに見せんとな」
「先に言うときますけど、これと同じような出汁にはなりまへんで」「なんでやねん。その店に言うて、昆布と鰹節やらを送ってもらうがな。少々高ぅついてもかまわん。料理上手のナミちゃんなら、ちゃんと使いこなしよる」窪山が不服そうな顔をした。
「水が違いますねん。京都は軟水ですけど、関東は硬度が高いと思います。そうすると昆布の旨みが、あんじょう引き出せませんのや。京都から水を取り寄せるという手もありますやろけど、鮮度が違いますしな」
「そうか、水が違うか」
窪山が肩を落とす。
「ちょっとおもしろい実験しましょ」
立ち上がって流が冷蔵庫から、水の入ったコップをふたつ出して窪山の前に置いた。
「飲み比べてください」
「AとBか。わしを試そうっちゅうねんな」
窪山が印の付いたふたつのコップを交互に口に運ぶ。
「どっちが旨いです?」
「どっちも、ただの水やがAの方が旨いな。まろやかなように思う」窪山がAの付箋が貼られたコップを持ち上げた。
「Aは『桝方商店街』近くにある豆腐屋が使うてる井戸水です。Bの方は秀さんの生まれ故郷、御み影かげにある造り酒屋の宮みや水みず。秀さんはもう京都の水に馴染んではるんですわ。水が合わん、てなことをよう言いますけどな。水に合わさんとあきませんのや。水は変えることが出来しません。その水に合わせて料理したらよろしいのや。秀さんも高崎に行かはったら、向こうの水に馴染まんとあきませんで」流がきっぱりと言った。
「わかっとるわい。けど、最後にこの鍋焼きうどんに出会えてよかった。しっかり味おうとかんと」
窪山がていねいにレンゲで出汁を掬う。
「冬場は三日にあげず食べてはりましたやろ」「わしの好物やと千恵子はよう知っとったし、寒いときには手っ取り早うて旨いさかいな」
「昼も夜もない暮らしに、千恵子はんも、掬子もよう付き合うてくれよった。突然家に帰って来て、すぐにメシにしてくれ、て無茶言うてたのに」流がテーブルに目を落とした。
「湿っぽい話はやめときいな。おっちゃんの第二の人生が始まるていうのに」瞳を潤ませて、こいしが水を差した。
「苦いな」
窪山が口の中から黄色いかけらを取り出した。
「柚ゆ子ずの皮です。香り付けに入れてはったんでしょう」流が言った。
「そうか、これが苦かったんか」
窪山がまじまじと見る。
「上に散らすのが普通ですけど、それやと秀さんはポイと捨てはるに決まってる。千恵子はんは鍋底に柚子皮を忍ばせてはった。秀さんが〈苦い〉と言わはったら、最後までお出汁を飲んだしるし。千恵子はんに伝わるんです」「大した推理や。地取りも完璧やしな。思うてたとおりの鍋焼きうどんやった」窪山がレンゲを置いて合掌した。
「よろしおした」
「これで気持ちよう高崎に行けるね」
こいしの言葉に、窪山は黙ってうなずいた。
「探偵料は幾ら払うたらええんや?」
窪山が財布を出した。
「お客さんに決めてもろてます。お気持ちに見合うた金額をここに振り込んでください」こいしがメモ用紙を渡す。
「せいだい気張って払わせてもらうわ」
窪山がトレンチコートを羽織った。
「どうぞお元気で」
引き戸を開けて流が送り出す。
「年に何度かは墓参りに帰ってくるさかい、そのときは覗かせてもらうわ。旨いもん食わしてくれ」
外に出た窪山の足元に、ひるねが擦り寄って来た。
「ナミちゃんと仲良ぅせんとアカンよ」
こいしがひるねを抱き上げた。
「上州名物は何かご存知ですか」
流が窪山に訊いた。
「空っ風とカカア天下」
「知ってはるならよろしい」
流がにやりと笑う。
「おっちゃん、風邪ひかんようにな」
「早ぅヨメにいかんと、流も後添えをもらえんで」「言われんでもいきます」
こいしが口を尖とがらせる。
「流。ちょっと気になってるんやがな」
立ち去りかけて、窪山が流に顔を向ける。
「なんです?」
「たしかに昔のままの味で旨かったけど、ちょっと塩気が濃いように思うたんやが」「気のせいですやろ。千恵子はんが作ってはったお出汁、そのままやと思います」流がきっぱりと言い切った。
「そうか。気のせいか。おおきに。しっかり味は覚えさせてもろた」窪山が口元を指した。
「お元気で」
青い闇に包まれ始めた正面通を、西に向かって歩く窪山にこいしが声をかける。
「末永ぅ、お幸せに」
振り向いた窪山に、流が深々と頭を下げた。
「喜んでもらえてよかったなあ」
店に戻って、こいしが片付けを始める。
「あの歳になって馴染みのない土地に、しかもお舅さん付きで住む。苦労も多いと思うで」
流が白衣を脱いで椅子の上に置いた。
「ええやんか、甘い新婚生活が待ってるんやし」「さあ、どうなんやろな。わしはもう要らん。生涯掬子ひとりや」「お父ちゃん、肝心のレシピ渡してあげるの忘れたやんか。まだ、その辺に居はるやろから、持って行って来るわ」
「いつまでも京都を引きずったらあかんやろ。千恵子はんの料理は忘れて、向こうに行ったらナミちゃんの作る料理を味おうたらええ」「けど、窪山のおっちゃん、取りに戻って来はるかもしれんやん」「秀さんは、ようわかってはる」
「それやったらエエんやけど」
「そろそろ夕飯にしよか。腹減って来たで」
「また今夜も鍋焼きうどんやろ?」
「違う。今夜はうどん鍋や」
「似たようなもんやんか」
「浩さんから電話があってな、明石のええ鯛たいが入ったんやそうな。それを持って来てくれるんやて。鯛鍋しよう言うて」
「ホンマ! 鯛鍋して、あとからうどん入れるんやね。そや。思い出した。さっき最後に入れたんは何やったん? あの豆壺に入ってた」「即席のだしの素や。向こうに行ったときのために、そういう味に慣れとかんとあかんやろ」
「それで味が濃いて言うてはったんや」
「これが千恵子はんの味や。秀さんがそう思い込んでくれはったら、向こうに行って多少濃い味やっても納得出来る。同じ味やと思えるはずや」「それやったら、最初から入れといたらエエんと違うの」「そんな濃い味で鯛鍋出来るかいな」
「さすがお父ちゃん」
こいしが流の背中をはたいた。
「雪やな」
流が窓の外を見た。
「ほんまや。降ってきた」
「今夜は雪見酒や」
「ぴったしのお酒を買うてあるんよ」
こいしが冷蔵庫から酒瓶を取り出す。
「『雪中梅』やないか。ちょっと甘口やが鯛鍋にはよう合うやろ。掬子の好きそうな酒や」
流がやさしい眼差しを仏壇に送った。