第四話 冷やし中華
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京都市内の正面通を東から西へ、黒塗りのアルファードがゆっくりと走っている。
「おそらくこの辺りかと思いますが」
白手袋でハンドルを握る白しら井い道みち夫おが、首をのばして左右を見まわした。
仏壇屋、念珠商、法ほう衣え店。「東本願寺」が近いだけあって、仏教関係の店が並んでいる。
「なんだか陰気くさい通りね。やめようかしら」後部座席に座る森もり下した沙さ希きは、たばこの吸い殻を携帯灰皿に押しこんだ。
「奥さま、せっかくここまでいらしたのですから」「だって、みすぼらしい食堂だと聞いてはいたけど、ここまでうらぶれた場所だとは思わなかったもの」
「まぁ、そうおっしゃらずに。四十年も前の思い出にまた会えるのですから」「出会えたからって、小学生に戻れるわけはないんだし。戻るなら三十年くらい前がいいわね。フランスに留学してたころ」
沙希は遠い目をした。
「ここじゃないでしょうか。看板を外した痕跡がありますし、料理の匂いもいたします」白井はブレーキを踏み、車を道端に寄せた。
「たしかめてきてくれる?」
三センチほど窓を開けて、沙希は身を乗り出し白井の肩を叩たたいた。
「承知しました」
シートベルトを外した白井は素早くドアを開けた。
思い出の食を捜してくれる探偵事務所があると聞いて、すぐに飛びついたものの、それを捜しあてたからといって、何がどうなるものでもない。好奇心旺盛な自分の性格を、沙希は少しばかり後悔しはじめている。
「やはりここだったようです」
帽子を取って、白井が後部座席のドアを開けた。
「そう。ありがとうね」
渋々といったふうな顔つきで、沙希は車を降り、鮮やかなスカイブルーのジャケットを羽織った。
京都の桜はおおかたが散った後だろうが、昼間でも吹く風はまだまだ冷たい。
「近くのパーキングに車を停とめて待機しておりますので、ご用がお済みになりましたらご連絡くださいませ」
携帯電話を手にして、白井がドアを閉めた。
「分かったわ」
モルタル造の二階屋を見上げた沙希は気のない返事をした。
「どうぞお入りください」
引き戸を開けて出迎えたのは若い女性だった。
「ありがとう」
沙希は表情ひとつ変えずに敷居をまたいだ。
「予約してくれはった森下さんですね。『鴨川探偵事務所』の所長をしている鴨川こいしです」
黒いソムリエエプロンを着けたこいしが、ちょこんと頭を下げた。
「あなたが食を捜してくださるの」
沙希が不服そうな顔つきをした。
「実際に捜すのはお父ちゃんですけど」
こいしがぶっきらぼうに答えた。
「こいしちゃん、お茶をくださいな」
着物姿で食事中の女性がこいしに顔を向けた。
「妙たえさん、すんません、気がつかんと」
カウンターの急須を手にして、こいしは急ぎ足で来くる栖す妙のテーブルへ向かった。
妙の前に置かれた折お敷しきを一いち瞥べつして、沙希は目を見開いた。
「森下さんでしたかいな、お腹なかの具合はどないです。おまかせでよかったらご用意できますけど」
厨ちゅう房ぼうの暖の簾れんをくぐって出てくるなり、五十代ぐらいの男性が沙希に言葉をかけた。
「え、ええ。お作りいただけるのでしたら」
妙の前に並んだ器を横目で見ながら、沙希が首を縦にふった。
「さっき言うてたお父ちゃんです」
こいしが紹介した。
「鴨川流です。苦手なもんとかはおへんか」
「特にはありませんけど、小食なものですから、量を控えめにしていただけるとありがたいです。それと酸味の強いものは少し苦手でして……」「承知しました。しばらく待っとぉくれやっしゃ」流は暖簾をくぐり、厨房に入っていった。
「何かお飲みになります?」
こいしが訊きいた。
「お料理を拝見してからにします」
「分かりました。どうぞおかけください」
こいしは、妙の隣のテーブルへ沙希を案内した。
店の前の雰囲気、店の中の設しつらえ、どちらも沙希の食欲を減退させるものばかりで、食事をする気などまるでなかったが、妙の前の器を見て、持ち前の好奇心が首をもたげた。
「初めていらっしゃる方は、皆さんそういうお顔をなさいますわね」箸を置いて、妙が沙希に言葉をかけた。
「そういう、って、どんな?」
「こんな食堂でどんな料理が食べられるのか、半信半疑のお顔ですよ。今のあなたのように」
「ふーん、わたしだけじゃないんだ」
沙希は素直な言葉を返した。
「お料理が出てくると、皆さん表情をがらりと変えておしまいになる。それを見るのも、この店の愉たのしみですのよ」
おしぼりで口の周りを拭いながら、妙が笑みを浮かべた。
「よくいらっしゃるんですか?」
「週に二、三度は参りますかしら」
「お召しものには似つかわしくない店に見えますけど」沙希は店の中を見回した。
「人も料理も外見だけでは分かりませんことよ」妙は財布から一万円札を出して、テーブルに置いた。
「いつもありがとうございます」
すかさず札をエプロンのポケットにしまって、こいしが深々と腰を折った。
料理は外見だ。とりわけ器の良し悪あしと料理は必ず比例する。だからこそ、こんな食堂で食事をしようと思い立ったのだ。妙の前に並ぶ塗の折敷、古こ伊い万ま里りの飯めし茶ぢゃ碗わん、古九谷の丸皿、備前の小皿、どれをとっても一級品だ。
「お待たせしましたな」
丸盆に料理を載せて、流が沙希の横に立った。
「わたしも次から、それくらいの量にしていただこうかしら」盆の上を覗のぞきこんで、妙が流に目配せした。
「妙さんはしっかり食べはりますがな」
流が苦笑いを返した。
「わたしはこちらのお方みたいに上品じゃありませんしね」妙が顎を上げた。
「わたしも上品とはほど遠いんですけど」
沙希も同じような顔を流に向けた。
「料理の説明をさせてもらいます。左上の織おり部べ皿は桜さくら鯛だいの葉は山さん椒しょう和あえです。汐しお昆布も混ぜてますんで、そのまま召し上がってください。その右横の信しが楽らきは生なま麩ふ田楽です。柚ゆ子ず味み噌そと八丁味噌とふた通りの味で愉しんでください。右端の切子は小柱のポン酢和えです。甘めのポン酢ですさかい大丈夫やと思います。その下の絵唐津の向むこう付づけは牛タンの煮込みを入れてます。近江おうみ牛うしのタンをふた晩煮込みました。辛子を付けて食べてもろたら美お味いしおす。その左横、黄瀬戸の皿に載ってるのは鰆さわらの西京焼。黒七味がよう合うと思います。左端はモロコの甘露煮、その下の竹籠に天ぷらを盛り合わせてます。コゴミ、モミジガサ、琵び琶わ湖この小アユ、明石あかしのアナゴ、伊勢のハマグリです。山椒塩でも、天つゆでも美味しおすけど、胡ご麻まダレもよろしおす。竹籠の横はだし巻き。関東風にちょっと甘めの味付けにしてます。どうぞごゆっくり」よどみなく説明する流に、いちいちうなずきながら、沙希は目を輝かせた。
「奥さまのおっしゃってたこと、よーく分かりました。お店の雰囲気とはまるで違うお料理を前にすると、誰でも顔つきが変わりますよね。あら、失礼だったかしら」沙希が流の顔を見上げた。
「失礼やなんて、とんでもおへん。こんな店ですさかい、初めてお越しになった方は、そう思わはって当たり前ですわ。いうても、大した料理やおへんけどな」照れ笑いを浮かべて、流が丸盆を小脇にはさんだ。
「どうです? ご想像を超えましたでしょ」
妙が勝ち誇ったように胸を張った。
「はい。素直に認めます。こいしさん、でしたっけ。お酒をいただけます?」沙希がこいしの背中に声をかけた。
「どんなんがお好みです?」
振り向きざまにこいしが答えた。
「たしか伏見のお酒はいくらか甘口ですよね」「甘口やとは限りまへんけど、灘なだの男酒、伏見の女酒ていうくらいですさかい、口当たりはやわらかいと思います」
流が言葉をはさんだ。
「じゃあ、それを少し冷やしていただけるかしら」沙希は料理から目を離さずに言った。
「承知しました」
流が厨房に戻ると、こいしが慌てて後に続いた。
「お愉しみも終わったことだし、帰るとしますか」ひとりごちて妙が立ち上がった。
「素敵なお召しものですわね」
「ありがとうございます。ほんの普段着ですけど」「アヤメ……ですか」
沙希が妙の帯に目を向けた。
「カキツバタですのよ。水辺の花」
妙が体をひねって、背中を向けた。
「季節の先取りっていうわけですか」
沙希の言葉に、妙は小さくほほ笑んだ。
「どうぞごゆっくり」
「妙さん、お帰りですか。またお越しください」こいしに送られて、妙が店を出てゆく。ひとり残った沙希が真っ先に手を付けたのはだし巻きだった。
子どもっぽい好みだと思われるのが嫌で、人には言わないようにしているが、一番の好物は玉子料理だ。関東風のだし巻きに沙希は目を細め、あっという間に食べきった。
余韻を味わった後は織部皿を手に取り、桜鯛に箸を付けた。
淡い磯の香り、滑らかな舌触り、適度な弾力。ただひと切れの刺身に込められた味わいに、沙希はすぐに心を奪われた。何より感心したのは細かく刻まれた葉山椒だった。強い香りがどんなに邪魔をするかと思えば、まるでそれが当然だとも言わんばかりに、鯛と一体になって美味しさを醸しだしている。
「遅ぅなりました」
大ぶりの切子グラスに入った酒を、流がテーブルに置いた。
「なんていうお酒ですか?」
「〈月の桂かつら〉の〈柳〉という酒です。辛口ですけど、しっかり旨うまみが乗っとります」
「お料理、とっても美味しいです」
沙希は流に笑顔を向けた。
「よろしおした。どうぞごゆっくりお召し上がりください」さらりと応えて、流がきびすを返した。
「つかぬことを伺いますが」
「なにですやろ」
沙希の言葉に、流が振り向いた。
「アヤメとカキツバタってどう違うんです?」「妙さんの帯の柄ですかいな」
流が苦笑いした。
「ええ。写真や実物ならともかく、絵柄で違いがはっきり分かるものかしら、と思いまして」
不服そうに沙希が口をとがらせた。
「この時期になったら、いつもあの帯を締めてお越しになります。アヤメは水辺では咲かんのやそうです。畑みたいな乾いたとこで咲いとるのがアヤメで、水辺やったらカキツバタ。おおかたそんなことやと思います。それより、えらい綺き麗れいなブローチですな」ジャケットのブローチに流が目を留めた。
「ありがとうございます。わたしがデザインしたものなんですよ」「亡のうなったわしの家内が、こういう柄が好きでしてな。細かい竹を編んだような」スカイブルーのジャケットの胸元を飾る、鈍い黒色のブローチを流はまじまじと見た。
「奥さん、お亡くなりになったんですか」
「やもめ暮らしにもすっかり慣れてしまいましたわ」言い終えて、流が厨房に戻っていくと沙希はジャケットを脱ぎ、ァ≌ホワイトのシャツ姿になった。しばらく周りを見まわしたがコートかけらしきものは見当たらない。仕方なくといったふうに、椅子の背にジャケットをかけた。
ジュエリーデザイナーという仕事がら、意匠については人一倍気になるほうだが、日本固有のデザインについては、まだまだ勉強が足りない。
悔しさを引きずりながらも、箸を止めることはない。小アユの天ぷらには山椒塩をつけ、生麩田楽はふた通りの味噌を愉しみ、切子のグラスはすぐに空になった。
「お代わりお持ちしましょか」
銀盆を小脇にはさんで、こいしが沙希の後ろに立った。
「ええ。同じので」
「承知しました」
日本酒に限らず、酒のお代わりを尋ねるタイミングは難しい。みごとな間合いだった。
料理だけにとどまらず、ここはどうやら尋常な店ではないようだ。
「お待たせしました」
こいしがお代わりを置いた。最初は赤い切子のグラスだったが、今度は青い切子だ。酒器にも抜かりがない。
鰆の西京焼は、ほんのりと甘く、軽やかな旨みが舌の上で弾む。これほど日本酒に合う魚も他にないのではないか。そう思いながら、沙希は牛タンの煮込みに箸を伸ばした。
見た目は洋風のタンシチューそのものだが、やわらかく煮こまれたタンを嚙かみしめると、和風の薫りと味が口に広がる。日本酒との相性もすこぶるいい。口直しに食べた小柱は、流が言ったとおりの甘めのポン酢がよく合う。
「お口に合おうてますかいな」
厨房から出てきて、流が言葉をかけた。
「はい。こんなに美味しい料理は何年ぶりかしら、と思うくらいです」「そない大げさな。いつもご馳ち走そうを召し上がってはりますやろ」「こちらのお料理は次元が違うような気がします」「そない言うてもろたら料理人冥利につきます。ご飯の用意もできてますさかい、いつでも声かけてください」
照れを隠すように、流はそそくさと厨房に戻っていった。
二杯目の酒を半分ほど飲んだところで、一番気になっていた料理に箸をつけた。天ぷらの胡麻ダレである。東京の名店と呼ばれるところで幾度も天ぷらを食べてきたが、胡麻ダレを付けて食べたことは一度もない。おそるおそるといったふうに、アナゴの天ぷらを胡麻ダレに浸して口に運んだ。
「美味しい」
大きく目を見開いた沙希は思わず叫んだ。
「どないかしはりましたか」
流が飛びだしてきた。
「すみません、お騒がせして。あまりに美味しかったものですから」沙希が両肩をちぢめた。
「それやったらええんですけど」
苦笑いを残して流が厨房に戻っていった。
それほどに衝撃的な味わいだった。甘みを抑えた胡麻ダレと天ぷらがこんなに相性がいいとは思いもしなかった。沙希は残りの天ぷらをすべて胡麻ダレで味わった。
「そろそろご飯をお持ちしましょか」
流が暖簾から首を出した。
「お願いします。量は少なめでけっこうです」「承知しました」
流が首を引っこめた。
小食だと言っておきながら、ぺろりとさらえてしまったことに、沙希はいくらか気恥ずかしい思いをしていた。
「お気に召したらええんですけど」
流が小さな竹籠を沙希の前に置いた。
「これは?」
「桜餅やのうて、桜寿ず司しですわ。桜の葉の塩漬けでひと口寿司を包んでみました。左から鯛の昆こ布ぶ〆じめ、〆しめ鰺あじ、鰻うなぎの白焼き、蒸し海え老び、蛸たこの桜煮。五貫ともシャリは少なめにしてまっさかい大丈夫やと思いますけど、ご無理なさらんと残してもろてよろしおす。葉っぱはそのままでも、外してもろても、お好みで。お澄ましはあっさりと蛤はまぐりの潮うしおです。お嫌いやなかったら、木の芽をたっぷりと入れて召し上がってください。どうぞごゆっくり」沙希は桜寿司をひとつずつ、じっくりと味わいながら食べ、吸物の爽やかな薫りに酔った。もしもこの店が家の近くにあったら、きっと通いつめるだろう。
「お茶をお持ちしました」
益まし子こ焼の土瓶と古伊万里のそば猪ちょ口こを流がテーブルに置いた。
「小食だなんて言って恥ずかしいです」
空になった竹籠を前に、沙希が顔を赤らめた。
「お気に召してよろしおした」
流がそば猪口に茶を注ついだ。
「こんなにたくさんいただいたのは何年ぶりかしら。主人が見たらきっと驚くと思います」
「料理っちゅうもんは、料理人と食べる側の相性でっさかいな。気ぃが合うたんでしょうな」
「相性……ですか」
「作り手の気持ちが通じたら食が進みます。通じなんだら、どんな料理出しても受け付けへんのと違いますか。こいしが奥で用意しとります。ひと息つかはったらご案内しますわ」
「お料理に夢中になってしまって、すっかり忘れていました。どうぞご案内くださいませ」
レースのハンカチで口の周りを拭って、沙希が立ち上がった。
「急せかしたみたいで、すんませんな」
流が店の奥のドアを開けた。
長い廊下の突き当たりが「鴨川探偵事務所」だ。流がノックすると、すかさずこいしがドアを開けた。
「後はこいしにまかせますんで、どうぞよろしゅうに」流が廊下を戻っていった。
「どうぞおかけください」
ソムリエエプロンから黒いパンツスーツに着替えたこいしがソファを奨すすめた。
「ありがとうございます」
沙希はロングソファの真ん中に座りこんだ。
「早速ですけど、こちらにご記入いただけますか」こいしがバインダーを手渡した。
「申込書ですか。ちゃんとなさっているのね」受け取って沙希がペンを走らせる。
「コーヒーかお紅茶はいかがです?」
「じゃコーヒーを」
書き終えて沙希はバインダーをローテーブルに置いた。
沙希がぼんやりと書棚を見ていると、こいしがコーヒーカップをふたつ、ローテーブルに置いた。
「森下沙希さん。ジュエリーデザイナーをなさっているんですか。素敵なお仕事ですね」「ありがとう。ジュエリーといっても、アクセサリー全般のデザインだけどね」「早速ですけど、どんな食を捜してはるんです?」ノートを開いて、こいしが単刀直入に訊いた。
「冷やし中華」
沙希がぶっきらぼうに答えた。
「冷やし中華、ですか。夏に食べる冷麵のことですね」「冷麵じゃなくて冷やし中華」
沙希が気色ばんだ。
「おんなじやないんですか?」
「違うわよ。冷麵っていうのは焼肉屋さんで出るような韓国冷麵だし、冷やし中華といえば、甘酸っぱいタレっていうかスープに浸つかっているあれ。全然別ものよ。あなたにまかせて大丈夫かしら」
沙希はそっぽを向いて、首を左右にひねった。
「すんません。関東では別の言い方をするんですね。京都の人は、焼肉屋さんでも食堂でも冷麵て言いますねん」
こいしがふんわりとした笑顔を浮かべた。
「紛らわしくないの? 間違って出てきたら困るじゃない」沙希が目をむいた。
「焼肉屋さんも食堂も、どっちかしかありませんし、間違うことはないと思います。それで、その冷やし中華は、いつ、どこで食べはったもんなんです?」こいしが冷静に訊たずねた。
「小学生のころ、福井県のいなかで食べたの。毎年夏になると父の実家へ泊まりに行ってたので。祖母が作ってくれた」
沙希は表情ひとつ変えずに淡々と答えた。
「お祖ば母あさまの名前は、なんとおっしゃるんですか」「兼かね子こ」
「お父さんの故郷が福井なんですね。福井のどの辺ですか?」問いかけて、こいしがペンを走らせる。
「たしか高たか浜はま町だったと思うわ。番地までは覚えていない。中学校に入ってからは行かなくなったし」
「高浜いうたら海水浴場のあるとこですか」
こいしが目を輝かせた。
「だと思う。祖母の家の裏はすぐ浜辺だったし。でもわたしは一度も海で泳いだことはなかった。母にきつく止められていたから」
こいしがペンを止めた。
「なんでです。せっかく海に行ってはるのに」「だって危険じゃない。それになんだか汚そうだし」「そうかなぁ。わたしは小さいとき、母親によう連れていってもろて、朝から晩まで高浜の海に入ってましたけど」
「父は森下の家に婿養子で入ったんです。森下の家は湘南逗ず子しの小こ坪つぼにあって、庭に大きなプールがあったから、泳ぐのはもっぱらそっち。父の実家、定さだ岡おかっていう苗みょう字じなんだけど、高浜の家に行くときは、父のお供で仕方なく、っていうとこだったわね」
「ということは、あなたが今お住まいなのは、湘南にある、お母さんのご実家なんですね」
こいしがバインダーを横目で見た。
「ええ。敷地内にわたしのァ≌ィスと住まいを建ててもらって」「同じ海辺でも若狭わかさ高浜とは全然違う……」「そうね。高浜の家も敷地は広かったけど、木造の古い建築だし、祖母がひとりで住んでいたから、手入れも行き届いていなかった。お風呂に入るのもなんだか気持ち悪くて」沙希が肩をすくめた。
「せやけど、お祖母ちゃんの冷やし中華は美味しかったんや」「それがよく分からないの。美味しかったなんていう記憶は、わたしにはないんだけど、わたしの大好物だった、って最近になって父が言うのよ」「お父さんがそう言わはるんやったら、きっとそうやったんでしょう」「そんなものかしらね」
沙希が唇を歪ゆがめて笑った。
「失礼ですけど、特に食べたいて思うてはらへんのに、なんで今その冷やし中華を捜そうと思わはったんです?」
「物好きなことに、父が食べたいって言うのよ。去年母が亡くなってから、めっきり食が細ってしまったくせに、あの冷やし中華を食べたい、って毎日のように。それを食べたら思い残すことなく、あの世に行けるの? って訊いたら、うん、だって」沙希が声をあげて笑った。
「ひとつ訊いてもいいですか」
こいしが真顔になった。
「何かしら」
「高浜のお祖母ちゃん、兼子さんはご健在ですのん?」「とっくに亡くなってますよ。生きていたら訊けばいいんですから。探偵さんにあるまじき愚問ね」
沙希が鼻で笑った。
「どんな冷やし中華やったか、お父さんも覚えてはらへんのですか?」煮えくり返ったはらわたをてのひらで押さえながら、こいしが訊いた。
「認知症っていうのかしら。言っていることの半分も理解不能。あの人に訊いても分かるわけないわよ」
「高浜のおうちはまだあるんですか」
「どうなんでしょう。長いこと音信不通だから」沙希はさらりと答えた。
「けど、なんぼなんでも、これだけでは捜しようがないと思います。ちょこっとでもええので、覚えてはることありません?」
「京都の冷やし中華がどういうものかは知らないんだけど、普通はね、麵の上に胡瓜きゅうりの細切りだとか、錦糸玉子だとか、細切りのハムか焼き豚が載っているでしょ」「はい。京都の冷麵、と違ちごうて冷やし中華もそんなんです」「なのに、祖母の家のはね、錦糸玉子こそ同じだけど、後は鶏肉だとか椎しい茸たけなんていう地味な具だったの」
「よう覚えてはりますやん」
「ぜんぶ父から聞いた話よ。わたしは覚えていない」「味はどうでした?」
「味なんか覚えているわけないでしょ。見た目もだけど、本当に地味だったと思うわ。ひとつだけ覚えてるのは、あまり酸っぱくなかったってこと。それだけはわたし向きね」「ほかになにか覚えてはることありませんか」「冷やし中華と一緒に出てきたミルクは甘くて美味しかった。祖母の家に行くときはミルクが愉しみだった。それくらいかな」
「甘いミルクですか……。分かりました。お父ちゃんに気張ってもらいます」こいしが乱暴にノートを閉じた。
「どや。あんじょうお聞きしたんか」
流が食堂でふたりを待ち構えていた。
「覚えていることが少なくて難しいと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」沙希の言葉遣いも態度も、自分へのそれとはあまりに違うことに、こいしはあきれかえっていた。
「何をお捜しやら分かりまへんけど、せいだい気張らせてもらいます」浭�ゆがめて笑った。
「失礼ですけど、特に食べたいて思うてはらへんのに、なんで今その冷やし中華を捜そうと思わはったんです?」
「物好きなことに、父が食べたいって言うのよ。去年母が亡くなってから、めっきり食が細ってしまったくせに、あの冷やし中華を食べたい、って毎日のように。それを食べたら思い残すことなく、あの世に行けるの? って訊いたら、うん、だって」沙希が声をあげて笑った。
「ひとつ訊いてもいいですか」
こいしが真顔になった。
「何かしら」
「高浜のお祖母ちゃん、兼子さんはご健在ですのん?」「とっくに亡くなってますよ。生きていたら訊けばいいんですから。探偵さんにあるまじき愚問ね」
沙希が鼻で笑った。
「どんな冷やし中華やったか、お父さんも覚えてはらへんのですか?」煮えくり返ったはらわたをてのひらで押さえながら、こいしが訊いた。
「認知症っていうのかしら。言っていることの半分も理解不能。あの人に訊いても分かるわけないわよ」
「高浜のおうちはまだあるんですか」
「どうなんでしょう。長いこと音信不通だから」沙希はさらりと答えた。
「けど、なんぼなんでも、これだけでは捜しようがないと思います。ちょこっとでもええので、覚えてはることありません?」
「京都の冷やし中華がどういうものかは知らないんだけど、普通はね、麵の上に胡瓜きゅうりの細切りだとか、錦糸玉子だとか、細切りのハムか焼き豚が載っているでしょ」「はい。京都の冷麵、と違ちごうて冷やし中華もそんなんです」「なのに、祖母の家のはね、錦糸玉子こそ同じだけど、後は鶏肉だとか椎しい茸たけなんていう地味な具だったの」
「よう覚えてはりますやん」
「ぜんぶ父から聞いた話よ。わたしは覚えていない」「味はどうでした?」
「味なんか覚えているわけないでしょ。見た目もだけど、本当に地味だったと思うわ。ひとつだけ覚えてるのは、あまり酸っぱくなかったってこと。それだけはわたし向きね」「ほかになにか覚えてはることありませんか」「冷やし中華と一緒に出てきたミルクは甘くて美味しかった。祖母の家に行くときはミルクが愉しみだった。それくらいかな」
「甘いミルクですか……。分かりました。お父ちゃんに気張ってもらいます」こいしが乱暴にノートを閉じた。
「どや。あんじょうお聞きしたんか」
流が食堂でふたりを待ち構えていた。
「覚えていることが少なくて難しいと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」沙希の言葉遣いも態度も、自分へのそれとはあまりに違うことに、こいしはあきれかえっていた。
「何をお捜しやら分かりまへんけど、せいだい気張らせてもらいます」流が深く腰を折ったのを、こいしは苦々しい思いで見つめた。
「ちょっと失礼」
沙希はバッグからスマートフォンを取りだして耳にあてた。
迎えの車を呼んでいるようだったが、乱暴な物言いに、こいしは露骨に嫌な顔をした。
流は険しい顔をし、何度も首を横に振った。
「そうそう今日のお食事代を」
沙希はスマートフォンと入れ替わりに、分厚くふくらんだブルーの長財布を取りだした。
「この次に探偵料と一緒にいただきますんで」「分かりました。次はいつ来れば?」
「二週間後くらいでどないですやろ」
「別に急ぐわけじゃないので、それでけっこうです」「記入してもらった電話に連絡させてもらいます」こいしが言い終えると同時に、車の停まった音がした。
「じゃ、よろしくお願いいたします」
流に向かって丁寧に頭を下げ、沙希は引き戸を開けた。
沙希を見送って、流がこいしの肩に手を置いた。
「なんべんも言うてるやろ。わしらは頼まれた食を捜すのが仕事やて。どんなことがあっても、イヤな顔したらあかん」
「せやかて、自分が食べとうもないもんを捜せて言わはるんやで」「ええがな。なんぞ事情があるんやろ。わざわざうちを訪ねてきて、捜してくれいうて頼んではるんや」
「それはよう分かってるんやけど……」
「で、何を捜してはるんや」
「冷やし中華」
こいしは冷ややかに答えた。
「冷麵か」
「冷麵やない。冷やし中華なんやて」
こいしが口をとがらせた。
「おんなじもんと違うんかい」
「そうやろ? けど、違うねんて」
「どっちゃでもええわ。どっかの店のか?」
「いなかのおばあちゃんが作ってくれはったみたい」「ちょっと難しそうやな」
「お父ちゃんでも苦労しそうやで」
「じっくり話を聞こうやないか」
流がパイプ椅子に腰かけると、テーブルをはさんで、こいしが向かい合って座った。