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第六卷 第一話 たらこスパゲティ 1_鴨川食堂(鸭川食堂)_日语阅读_日语学习网

时间: 2024-10-24    作者: destoon    进入日语论坛
核心提示:  1  伊い丹たみ空港からのリムジンバスは、八はち条じょう通をはさんで、JR京都駅八条口の真向かいに着いた。  朝に弱
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  伊い丹たみ空港からのリムジンバスは、八はち条じょう通をはさんで、JR京都駅八条口の真向かいに着いた。
  朝に弱い田た所どころ馨かおるは、羽田からのフライトでも、リムジンバスのなかでもずっとまどろんでいた。寝ぼけまなこをこすりながら、慌てて降りる準備をする。
  平日の昼前ということもあって、バスに乗っていた客は定員の三分の一にも満たない。
  気付かれることのないように顔を伏せていた馨は最後に降りた。
  折り返し空港に向かう乗客が数人並んでいる。髪をおろした馨はうつむいたままで係員から荷物を受け取った。
  京都の秋と言えば紅葉が人気で、どこも人で溢あふれているというイメージがあったのだが、閑散とした様子に肩透かしをくらった感じだ。まだ紅葉には早いのだろうか。
  馨は牛丼屋の前で足をとめ、サングラスの奥から周囲に目を配ったあと、店のガラスに自分の姿を映した。
  ダメージジーンズに赤いスタジアムジャンパー。足元は黒いスニーカー、背負っているバックパックもマリメッコのブラック。実年齢の二十六歳より若く見えるのは、顔がほとんど隠れているからだろう。目立つようで目立たない格好かなと馨は苦笑いした。
  雪だるまの刺し繡しゅうをほどこしたヒップホップのピークキャップを目深にかぶり直して、馨は横断歩道を足早に歩き、アバンティビルの前からエレベーターを使って地下道に降りた。
  マネージャーの北きた川がわ佑ゆう真まからは、五分おきに周囲に目を配って、尾行されていないかをたしかめるように強く言われている。
  いちおう北川の言いつけは守っているが、トウが立ちはじめているアイドルを追いかける物好きなど、そうそういるものではないと馨は思っている。
  ましてやステージに立つときの衣装とはまるで異なるマニッシュなスタイルだから、よほどのファンでもない限り、藤ふじ河かわスミレだと気付くはずがない。
  馨は目を地面に落としながら、わざと大股で歩いた。
  とにかく真っすぐ北に進めばいい。北川から言われたとおりに地下道を直進した馨は、ヨドバシカメラの入口を過ぎた辺りで立ち止まった。あまりに閑散としていて不安になったからだ。
  スマートフォンをかまえてシャッターを押した馨は、すぐさまメールに画像を添付して北川に送った。
  ──本当にここで合ってる?──
  一分と経たたずに北川から返信があった。
  ──大丈夫。そのまま真っすぐ進んで。人が少ないほうがいいだろ──北川の言うとおり、人通りが多いと見つかる確率が高くなるから、通行人が少ないほうが気は楽なのだが、あまりに少ないと不安になる。
  地下道の突き当たりから地上に出た馨は、周囲をうかがいながらキャップをかぶり直した。
  口うるさいことだけが難点だけど、北川の指示どおりにして後悔したことは一度もない。的確なだけでなく、その言葉に人としてのぬくもりを感じさせてくれるのが嬉うれしい。
  タレントを管理するマネージャーとしては、むかしの恋人につながるような行動は止めるのが本筋だろうが、北川は親身になって馨の相談に乗ってくれた。それだけでなく、手がかりになりそうな探偵まで捜し当ててくれたのだ。
  表向きは食堂だが、食専門の探偵業もやっている。しかもその食堂には看板も暖の簾れんもなく、ふつうの民家にしか見えない。目指す探偵事務所の手がかりはそれだけしかない。住所も電話番号も分からないから連絡のしようがない。
  もしも見つからなかったらどうしようか。急に不安になった馨は、胸の鼓動を速くしながら、北川が描いてくれた地図と周囲を見比べた。
  得た情報をもとにして地図を描いたが、行ったこともないので不確かかもしれない。もしも迷ったら訊たずねるように、と交番の場所も描き入れてあるが、ふた筋ほど離れている。なんとか自力で見つけようと、馨は注意深く正しょう面めん通の両側を見まわした。
  ふと馨が足をとめたのは、出だ汁しの香りが漂ってきたからである。鼻を鳴らしながら、その香りを辿たどっていくと、一軒のしもた屋に行きついた。
  暖簾も看板もないが、壁には看板を外したような跡がある。おそらくここだろうと思うものの、引き戸を開ける勇気が出てこない。
  玄関の前で寝そべるトラ猫に目を留めた馨は、屈かがみこんで喉を撫なでた。
  「きみも匂いにつられたのかい? なんの匂いだろうね。おうどんかおでんか。お魚を煮ているのかもしれないね」
  馨の顔を一いち瞥べつして、トラ猫はうっとりと目を閉じた。
  「こんにちは」
  気配を感じてか、引き戸を開けて若い女性が出てきた。
  「すみません。猫好きなものでつい」
  馨が慌てて立ちあがった。
  「ええんですよ。うちの飼い猫と違いますし。けど名前だけは勝手に付けてるんです。ひるね」
  「ひるね、ですか。たしかに眠そうにしてますね」「ご旅行ですか?」
  屈みこんだまま、女性が馨のバックパックに目を留めた。
  「え、ええ。っていうか、ちょっと捜しものがあって」「どこか捜してはるんですか? 知ってることやったらお教えしますよ」「食を捜してくださる『鴨かも川がわ探偵事務所』というところを捜しているんですが」馨が地図を見せた。
  「なんや。うちを捜してくれたはったんですか。うちがその探偵事務所の所長ですねんよ。鴨川こいして言います。よかったらどうぞお入りください」ひるねを抱いて、こいしが立ちあがると、店のなかから若い男性が出てきた。
  「ごちそうさん。こいしちゃん、ひるね抱いて店に入ったら、流ながれさんに られるで」「分かってるて。それより浩ひろさん、ええ牡か蠣きが広島から届いたんよ。土手鍋でもしよかて、お父ちゃんと言うてたんやけど、よかったら食べに来ぃひん?」「ありがとう。紅葉シーズンやさかい、店が忙しなるかもしれんし遅なると思うけど、ひやおろしでも持って行くわ。先に始めてて」
  浩さんと呼ばれた男性が、停とめてあった自転車にまたがった。
  「おきばりやす」
  ひるねを抱いたまま、こいしが浩ひろしの背中を片手でたたいた。
  「お客さん?」
  浩が馨の顔を覗のぞきこんだ。
  「そやねん。探偵のほうのお客さん」
  「どっかでお会いしませんでした?」
  サドルにまたがったまま、浩が馨に問いかけた。
  「いえ。初めてお会いすると思います」
  馨が伏し目がちに答えた。
  「ちょっときれいな人見たら、すぐそれや。余計なこと言うてんと、早よ帰って仕事せんと親方に怒られるえ」
  こいしが背中を押すと、浩は首をかしげながら、ペダルを踏んだ。
  「すんませんねぇ、失礼なことで。近所のお寿す司し屋さんの若主人で、悪い人やないんですよ。毎日ランチを食べに来はるんです」
  「こいしさんの恋人ですか?」
  「そんなんと違います。ただの飲み友達ですわ。どうぞなかへ」こいしが即座に否定して、引き戸を開けた。
  「こら。ひるねを店のなかに入れたらあかんぞ」怒鳴り声が店の外まで響いた。
  「そんな大きい声出さんでも、分かってるやん。お客さん、びっくりしてはるやんか」ひるねを足元におろして、こいしが渋面をつくった。
  「お客さんかいな。それを早よ言わんと。どうぞお入りください」姿は見えないが、声のトーンが変わったことだけは、店に足を踏み入れた馨にも伝わった。
  「うるさいお父ちゃんでしょ。食堂のほうの主人してる鴨川流言いますねんよ」ひるねに手を振ってから敷居をまたいだこいしが、後ろ手で引き戸を閉めた。
  「突然お邪魔して申しわけありません。田所馨と申します。食を捜していただきたくて参りました。どうぞよろしくお願いいたします」背中のバックパックを床に置いて馨がふたりに頭を下げた。
  「えらいごていねいにどうも。こんな狭い店ですけど、まぁ、どうぞお掛けください」和帽子を取って、流がパイプ椅子を奨すすめた。
  「ありがとうございます」
  馨は一瞬迷ってから、帽子を脱いでサングラスをはずした。
  「馨さんは東京から来はったんですか?」
  床に置かれたバックパックを、こいしが椅子の上に置き直した。
  「どうして分かったんですか?」
  馨が目を白黒させた。
  「服装もァ》ャレやし、お顔もテレビにでてくる女優さんみたいや。東京にでも住んではらへんかったら、こないに垢あかぬけませんやろ」「生まれは福井県の田舎なんですけどね」
  気付かれているのかどうか分からないまま、馨が照れ笑いを浮かべた。
  「お腹なかの具合はどないです? おまかせでよかったらお昼を食べはらしまへんか」流が訊きいた。
  「お店に入る前からずっといい匂いがしていたのでお腹が鳴って困っていたんです。作っていただけるのなら喜んで」
  「なんぞ苦手なもんはおへんか?」
  「いえ。まったくありません」
  「ほな、すぐにご用意しまっさかい、ちょっと待ってとぉくれやす」和帽子をかぶり直して、流が奥に戻っていった。
  「失礼ですけど、二十歳は超えてはります?」こいしが訊いた。
  「五年も前に成人式は済ませました」
  「ほんまですか? それやったらええんやけど、まだ二十歳前かなぁと思うたんです。ほなお酒はどうです? お父ちゃんの料理はお酒が欲しいなるんですよ」「あまり外で飲んじゃいけないことになっているんですけど、せっかくだから少しいただきます。うちは家族揃そろって飲のん兵べ衛えなものですから、わたしもお酒は大好きなんです」
  「家では飲んでもええけど、外ではあかん。厳しいお家なんですねぇ。福井県のお生まれやて言うてはりましたね。たしか福井のお酒があったはずやさかい、それを持ってきますわ。冷えてるほうがよろしい?」
  「できれば常温で」
  「常温ですか。見かけによらん飲み助さんやな。分かりました。お茶も置いときますよって」
  大ぶりの土瓶と湯ゆ吞のみをテーブルに置いて、こいしが小走りで奥に続く暖簾をくぐった。
  しんと静まり返った食堂に、時おり調理の音が聞こえてきて、匂いも一緒に運んでくる。どんな料理が出てくるのかを思い浮かべながら、馨は店のなかをぐるりと見まわした。
  京都のような特別な街にも、こんな普通の食堂があるとは思いもしなかった。一番多いのは大阪だが、関西でも何度かステージに立ったことがあり、そんなときの遅い晩ごはんは京都のお店まで出向くことが少なくなかった。
  たいていは事務所のボスの行きつけの店で、京料理だとか肉割かっ烹ぽうだとかの星付きレストラン。人気があって予約が取れない店もボスの口利きで、個室や隠れカウンター席に案内してくれる。
  東京ではさほどではないが、京都の料理人たちはおおむね芸能人好きだ。一緒に写真を撮ることもねだられるが、SNSに投稿しないという条件を付けて応じている。
  公にはしないだろうけど、きっと他の客には自慢しているのだろうなと思う。ボスはボスで、京都に顔の利く店があるのが自慢なようで、シェフをちゃん付けで呼んだりして嬉しそうにしている。けっしてまずくはないのだけれど、あとから聞かされた値段ほどの価値はないと思うことが多い。
  どの店も、やたらとたいそうなのも苦手だ。和食の前菜なんかも飾りつけだらけで、それらをいちいち説明されるのも面倒くさい。どこそこの食材をどんな調理法で、どんなに手間暇を掛けたかから始まって、器はかくかくしかじかの高価なもので、なんて聞かされても分かるわけがないし、すぐに忘れてしまう。なんで京都のお店って、こんなにもったいぶるんだろうね、といつもメンバーと話している。ボスには口が裂けてもそんなことは言えないのだけれど。
  入口で出会った浩さんと呼ばれていた男性は気付きかけていたようだが、ここの父おや娘こは馨が藤河スミレだとはまったく気付いていないようだ。気が楽な反面、少しばかりプライドが傷ついてもいる。
  「お待たせしましたな。お若い女性やさかい、量はちょっとずつにして、いろんな料理を大皿に盛り合わせてみました」
  流が馨の前に、まな板のような大きな木皿を置いた。
  「うわぁ美お味いしそう」
  どんな店でも、どんな料理が出てきても、馨の第一声はいつも同じだ。
  「簡単に料理の説明をさせてもらいます。左の上はフグのたたき。刻みネギを混ぜたポン酢のジュレを掛けてますさかい、そのまま食べてください。その右の小鉢は牛タンの煮込み。右端は蛸たこの天ぷら。抹茶塩でどうぞ。その下の海の苔りに載ってるのはウニの握り。シャリに生ウニを混ぜてあります。一、二滴醬しょう油ゆを垂らして召しあがってください。その左はカボチャのひと口コロッケ。カレー味が付いてますんで、そのまま食べてください。真ん中の段の左端、ガラス鉢に入ってるのはイクラのおろし和あえ。イクラを柚ゆ子ず醬油で漬けこんで、辛味大根のおろしと和えてます。その下がサイマキ海え老びの卵白揚げ。辛子醬油を付けて食べてみてください。その右は牛ヒレの照焼。薄切りのタマネギを包んで召しあがってください。下の段の右端は小さい茶ちゃ碗わん蒸し。なかにハマグリとアナゴを刻んで入れてます。どうぞゆっくり召しあがってください。あれ? 酒がまだきてまへんな。どんくさいことですんまへん。こいしは何しとるんや」顔色を変えて、流が店の奥を覗きこんだ。
  「すんません。遅ぅなってしもて。お酒が冷蔵庫に入ってたんで、温度調整してたんですねん。まだちょっと冷たいかもしれませんけど」こいしが持って来た四合瓶には『紗さ利り』と書かれたラベルが貼られている。
  「福井の小さな蔵の酒です。ちょっと個性がきついかもしれまへんけど、わしの料理にはよう合うと思います。これやったらちょっとくらい冷えとっても大丈夫ですわ」流がボトルに手のひらを当てた。
  「すみません。わがままを言ってしまって。お酒の味なんか本当はよく分からないのに、常温で、なんて生意気なこと言いました」
  馨が両肩を狭めた。
  「酒のことはわしも娘も、ほんまはよう分かってまへんのや。飲んで旨うまかったらそれでええし、あとはどんな料理に合うかくらいしか考えてまへん。どうぞゆっくりやってください」
  大ぶりの猪ちょ口こに酒を注ついでから流が下がっていくと、こいしがそれに続いた。
  ひとり残った馨は、あらためて木皿に盛られた料理を見まわした。
  料理の説明を、と流が言いだしたときには長丁場を覚悟したのに、あっという間に終わった。これまでに行った京都の店だと、ひと品だけで同じくらいの時間が掛かったものだ。簡潔な説明だったから、それぞれの料理がどういうもので、どう食べればいいかが、ちゃんと記憶に残っている。何より、このスペースに九品もの料理が収まっているのがすごい。一品ずつを別の器に盛って、もったい付けて出されても納得するような、中身の濃い料理だということは馨にも分かった。
  酒で喉を湿らせたあと、馨が最初に箸を付けたのはウニの握り鮨ずしだった。
  鮨を好物とする馨にとって、ウニの鮨など珍しくもなんともないのだが、シャリにウニを混ぜ込んだ形の鮨は初めてだ。流の指示どおり、ァ§ンジ色に染まったシャリに二滴の醬油を垂らしてから口に放りこんだ。
  いったいどれくらいのウニが混ぜ込んであるのだろう。シャリよりもウニの味がはるかに勝っている。ふつうの軍艦巻きの鮨とは比べものにならないほど、ウニの味が濃い。
  そんな感想を持った馨だが、海辺の町で育ったとは言え、貧しい暮らしぶりだった子どものころから、ウニも握り鮨もほとんど縁がなかった。ぜいたくを覚えたのはアイドルになって人気が出てからだ。鮨と言えばスーパーのパックに入った盛り合わせに、夕方過ぎて値下げシールを貼られたものを食べるのがせいぜいだった。実家で暮らしていたころには、ウニの軍艦巻きと言っても、薄切りキュウリの横にウニの加工品が載っているものしか食べたことがなかった。
  牛肉だってそうだ。牛ヒレだとか、牛タンなんて、東京へ出てくるまでは見たこともなかった。焼肉はヒレよりもロースが好き、だとか、タン塩は薄切りより厚切りがいい、なんて偉そうに言っているが、生まれ故郷の敦つる賀がにいるころは、たいてい豚か鶏とりで、牛肉を食べる機会なんてめったになかったのだ。
  グループのなかではグルメで通っているから、知ったかぶりをしているだけで、正直に言えば、今でも上等のステーキよりもチェーン店のハンバーガーのほうが好きだし、内心ではフライドチキンが一番のご馳ち走そうだと思っている。
  それでも少しずつ舌が肥えてきたのか、ある程度味わい分けられるようになってきた。
  豪華な内装や、凝った盛りつけにも騙だまされることがなくなってきた。ロケ弁でも名もなき店のそれのほうが、有名店より美味しいと感じることがあるのも進歩した証あかしなのかもしれない。
  そんな馨にとって、今食べている料理のひとつひとつが、新たな驚きとして、舌に、胃袋に、そして心に深く沁しみ込んでいく。
  気が付くと四合瓶の酒が半分近くにまで減っている。料理との相性がいいせいなのだろうが、ピッチの速さに自分でも驚いている。
  酒は飲んでも飲まれるな、といつも父の潤じゅん三ぞうが言っていたのは、きっと自分を戒めていたのだろう。つい飲み過ぎてしまいそうになると、どこかから潤三のしわがれた声が聞こえてくるのだ。
  『紗利』と書かれたラベルをしばらく見つめていた馨は、四合瓶を手の届かないところへ押しやった。
  サイマキ海老の卵白揚げに辛子醬油を付けて口に運ぶと、辛子の刺激をやわらげるような海老の甘みに、馨はうっとりと目を閉じた。
  「どないです? お口に合おうてますかいな」流の声で馨は我に返った。
  「とっても美味しいです。どれを食べてもうなってしまうくらいに」「よろしおした。お若いかたには物足りんかもしれんのと違うかな、てこいしが気にしとるもんですさかいに」
  「充分です。お酒もしっかりいただいてしまって」「ええ牡蠣が入ったんで、おあとは牡蠣の蕎そ麦ばを用意してまっさかい、ええとこで言うてください。こいしは奥で待機しとります」「ありがとうございます。探偵さんをお待たせしては申しわけないので、ご用意ください。すぐにいただいて、奥に伺います」
  「ちっとも急せいてまへんのやで。ゆっくり召しあがってもろたらええんです」「このままだと一本空いてしまいそうなので、お蕎麦をいただいてけじめにします」馨が笑顔を向けると、流は同じような笑みを浮かべて厨ちゅう房ぼうに戻っていった。
  飲み過ぎないようにと注意を払いながらも、馨が四合瓶に手を伸ばす。二度繰り返したところで、流が蕎麦を運んできて、それを見た馨はほっと胸を撫でおろした。
  「蕎麦の量は少なめにしときました。刻み柚子を牡蠣に載せて食べてもろたら美味しおす。一味おろしも置いときます。辛いのがお好きやったらどうぞ」もうもうと湯気を上げる蕎麦からは、芳こうばしい出汁の香りが漂ってくる。猫舌の馨は、湯気が少しおさまるのを待ってから箸を取った。
  流の奨めにしたがい、刻み柚子を牡蠣に載せて箸でつまみあげた。
  息を吹きかけて冷めたことをたしかめてから、ゆっくりと口に運ぶ。嚙かむと牡蠣のエキスが出てきそうで、しばらく舌の上でころがしてから、そろりと歯を入れた。
  牡蠣も蕎麦も好物に入るが、それを一緒にして食べるのは初めてのことだ。牡蠣の香りが口のなかに残っているあいだに、蕎麦を冷ましながら箸に絡ませ、ゆっくりと口に入れた。
  東京で食べる蕎麦とは違って、故郷の近くで食べた荒っぽい蕎麦にも似た香りが牡蠣とよく合う。牡蠣はなくても磯の香りが海から漂ってくる実家の縁側で、海苔だけを散らした蕎麦を食べたときのことを馨は思いだしていた。
  武たけ生ふに住む叔母が届けてくれる蕎麦は、きっと打ち立てだったに違いない。太く角ばっていて、茶色く染まった蕎麦は嚙みごたえもあったし、するすると喉に滑っていったりはしなかった。その蕎麦に似ているのだ。
  うっかり猫舌だったことを忘れてしまうほどに、馨は牡蠣の蕎麦を一気に食べきってしまった。
  「へたの横好きっちゅうやつで、最近ちょっと蕎麦打ちに凝ってましてな。更さら科しな系は苦手なもんで、もっぱら田舎蕎麦ですねん。若い女の人には蕎麦の香りが強すぎたんと違いますやろか。今ごろ言うのもなんですけどな」和帽子を取って、流が頭をかいた。
  「とっても美味しくいただきました。田舎で食べたのとおんなじ味がしました」「お生まれはどちらとおっしゃいましたかいな?」茶を淹いれながら流が訊いた。
  「敦賀です。福井県の」
  「そうでしたか。関東のかたやと思いこんでしもて」「言葉のせいでしょうね。できるだけ田舎の言葉は使わないようにしていますので」「テレビでお見かけしたような気がしますけど、気のせいですやろな」「きっとそうだと思います」
  流と馨は意味ありげな笑顔を交わした。
  食事を終えた馨は洗面所を借りて化粧を直し、流に先導されて、こいしが待つ探偵事務所へと向かった。
  「このお料理はぜんぶ流さんがお作りになったんですか?」廊下の両側に貼られた写真を見ながら歩いていた馨が訊いた。
  「わしはレシピてなもんを書きまへんので、覚え書きちゅうとこですわ。写真を見たら思いだしますんや。こんな料理やったなぁと」
  立ちどまって流が答えた。
  「さきがけですね。今はみんな料理の写真をスマホで撮ってる」馨が写真に目を近づけた。
  「デジカメっちゅうのは便利なもんですな。なんべんでも撮り直しできるし、撮りだめもできますしな。最近はわしも全部はプリントせんようになりました。なんぞ気になるもんでもありまっか?」
  馨が身じろぎもせずに写真の一枚を凝視している。
  「探していただきたいのは、このスパゲティなんです」写真を指さして馨が高い声をあげた。
  「たらこスパゲティですか。家内の好物やったんで、よう作りましたわ」「このかたが奥さまですか?」
  馨は、スパゲティを前にしてにっこりと微笑ほほえむ掬きく子この写真に目を向けた。
  「亡くなる二年ほど前の写真ですわ。まだこのころはふっくらしとったな」流が目を細めた。
  「こんなにお若いのに、お亡くなりになったんですか」驚いた顔を馨が流に向けた。
  「人の生き死には、よう分からんもんです。あなたもわしも、明日死ぬかもしれんし、百まで生きるかもしれん。そう思うて生きてんとあかんということですやろな」そう言って、流はまた奥に向かって廊下を歩きはじめた。
  流がつぶやいた言葉を胸のなかで繰り返した馨は、しばらく立ちすくんでいたが、慌てて流のあとを追った。
  突き当たりのドアを流がノックすると、すぐにドアが開いて、こいしが顔を出した。
  「どうぞお入りください」
  「あとはこいしにまかせますんで」
  くるりと向きを変えて、流が戻っていった。
  「面倒やと思いますけど、申込書に記入してもらえますか。簡単でええので」ソファに座ると、向かい合うこいしがローテーブルにバインダーを置いた。
  氏名、年齢、職業、住所、家族構成、連絡先など、どこまで本当のことを書けばいいのだろうか。ペンを持ったまま馨は申込書を見つめている。
  「うちはお役所と違いますんで、書き辛づらいとこがあったら飛ばしてもろてもよろしいよ」
  こいしが気遣った。
  「本名のままにしときます」
  うなずいて、馨は一気にペンを走らせた。
  「本名……。芸名とかペンネームとかがあるんですか?」こいしが首を左右に振って馨の顔を凝視した。
  「ご存じないかもしれませんね」
  馨が顔半分で笑った。
  「ひょっとして藤河スミレさん? あのAYG24の?」こいしが目を白黒させながら訊くと、口元をほころばせた馨は小さくうなずいた。
  「失礼しました。分からへんかったわ。テレビで観みるのとはぜんぜん違うんですね。
  もっと大きい人やと思うてました」
  頰を紅潮させて、こいしが声をはずませた。
  「よくそう言われます。踊ったり跳ねたりしているから、大きく見えるのでしょうね」「いやぁ、ほんまビックリやわ。まさか、あの藤河スミレさんやとは思わへんかった。今うちの目の前にスミレさんがやはるんやなんて、信じられへんわ」こいしは興奮を隠せずにいる。
  「黙ってたらよかったかも」
  馨が舌を出して肩をすくめた。
  「今の仕草やったらすぐスミレさんやて分かります。やっぱり素とは違うんやね。スミレさんて呼ばせてもろてもよろしい?」
  「いいですよ。食を捜して欲しいのは、田所馨か藤河スミレか、自分でもよく分からないのですが」
  馨──スミレが小さくため息をついた。
  「そうやった。うっかり仕事を忘れるとこやったわ。お忙しいんでしょ。すぐ本題に入りますわね。捜してはるのはどんな食なんですか?」慌ててノートを開いたこいしがペンをかまえた。
  「たらこスパゲティです」
  スミレがこいしの目を真っすぐに見た。
  「わりと庶民的なもんを捜してはるんですね。いつ、どこで食べはったもんです?」こいしがタブレットの電源を入れた。
  「成人式のときですから、食べたのは今から五年前のことです。故郷の敦賀で食べました」
  「敦賀ていうたら海沿いの町やね。どの辺ですか?」地図アプリを開いて、こいしがタブレットをスミレに向けた。
  「うちの実家は栄さかえ新しん町まちなので、この辺ですね。で、たらこスパゲティを食べたのは、敦賀駅のロータリーのすぐそば、この『アリガトレ食堂』です。食堂って名前ですけどイタリアンのお店です」
  慣れた手つきでタブレットを操作したスミレは、食の口コミサイトのページを開いてみせた。
  「『アリガトレ食堂』て変わった名前のお店やけど、ええ感じですやん。ビジネスホテルの一階かぁ。場所も分かりやすいし、これやったらすぐに捜せそうですわ。今もこのお店はあるんでしょ?」
  「はい。あると思いますけど、お店のメニューには、たらこスパゲティは載ってないと思います」
  「店はあっても、そのメニューはもうなくなった、ていうことですか? シェフが代わったとか、人気がないのでやめてしまわはったとか、かなぁ」ペンを持ったまま、こいしが首をかしげた。
  「元々このお店にはなかったメニューで、まかない用にカッちゃんが作っていたメニューなんです」
  「まかないメニューて美味しいんですよね。で、そのカッちゃんて誰ですのん?」半笑いして、こいしが訊いた。
  「同級生です。ちょっとした有名人なんですが」スミレが自嘲するように笑った。
  「タレントさんかなんかですか?」
  こいしはタブレットで検索している。
  「名前が知られるほどじゃありませんが、世間ではわたしと深い仲だということになっている……」
  「そういうたら何年か前に話題になりましたねぇ。手をつないではる写真」「覚えていただいてましたか。あのときの写真がカッちゃんなんです」スミレは遠い目を宙に遊ばせている。
  「よかったらそのお話を詳しいに聞かせてください。お茶でも淹れますわ。コーヒーかお茶かどっちがよろしい?」
  「じゃあコーヒーをいただきます」
  スミレがスマートフォンを取りだして、素早く操作した。
  「五年も前やったんですか。なんか、つい最近みたいに思えるんやけど」こいしがコーヒーメーカーにカプセルをセットした。
  「わたしにとっては長い五年間でした。十年くらい経ったような気がします」スミレがスマートフォンを仕舞った。
  「でも、あのときまだ二十歳やったんですね。うちよりおねえさんに見えましたわ」こいしはローテーブルにふたつの白いコーヒーカップを置いた。
  「デビューが十七歳でしたから、そう思われるのかもしれませんね。あれも事務所の戦略なんですよ。最初はうんと幼く見せておいて、急に女らしさを強調する。三倍ぐらいのスピードで成長するロボット」
  スミレが笑うと、こいしもそれに合わせた。
  「センターて言うんでしたか、トップアイドルでしたね。すんません。でした、なんて過去形を使つこうてしもうて」
  こいしは慌てて手に持ったコーヒーカップをローテーブルに置いて、小さく頭を下げた。
  「本当のことだからいいんですよ。おっしゃるように、センターなんて、もうはるか昔のことですし。自分で言うのも何ですが、デビューしたときは飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
  それから少しずつ若いコに追い越されていって。なんとかトップグループには入っていましたが、二十歳にもなると、さすがにデビュー当時の勢いはなくなっていました」スミレが哀かなしげに苦笑をもらした。
  「厳しいもんなんやなぁ。のんきに歌って踊ってはるように見えてても、裏では熾し烈れつな争いがあるんや」
  「マラソンと同じで、トップグループから離されると、もう追いつくのは不可能に近い。
  そんなギリギリのところで成人式を迎えたんです」「そこであの騒ぎや。トップグループから引き離されたんは、やっぱりあのことがきっかけで?」
  こいしの問いかけに、スミレが悔しそうな顔でうなずいた。
  「いろんな人のいろんな思惑に負けてしまいました」コーヒーカップを手にしたまま、スミレは一点をじっと見つめている。
  「うちは食専門やていうても探偵業やさかい、依頼人のかたの秘密は絶対に守ります」「ありがとうございます。すべてありのままにお話しします」スミレはコーヒーカップをローテーブルに置いて、背筋を伸ばした。
  「うちは聞き役専門で、ほんまに捜すのはお父ちゃんなんで、いちおうメモを取らせてもらいますね」
  こいしの言葉に黙ってうなずいたスミレが、破れたジーンズから覗く膝を前に出した。
  「子どものころからアイドルに憧れていて、小学校からの同級生の亀かめ山やま克かつ則のりくん、カッちゃんには、ずっとそんな話をしていました。初恋の相手だと言われれば否定することもないのですが、わたしはタレント志望でしたから、男性に対する恋愛感情はほとんどありませんでした。だからカッちゃんは幼なじみという感じだったので、異性という意識をしていなかったんです。カッちゃんは実家が食堂をやっていたので、小学校のころから料理人志望でした。どっちが先に有名になるか、って競争したりして」「そういう関係てありますよね。異性やけど同性みたいな感じで。うちもそう思うことがようあります」
  「だから油断していたんです。成人式が終わって、カッちゃんが食べて欲しい自慢の料理があるって誘ってくれて。ふたりで『アリガトレ食堂』へ行って、コック服に着替えたカッちゃんが、たらこスパゲティを作ってくれたんです。なんだ、ありきたりじゃん、ってわたしが言ったら、まぁ食べてみろってカッちゃんが言うから、仕方なく食べたら本当に美味しくて、今まで食べてたのとは全然違ったんです。カッちゃんはそれを名物にして自分で店を持つんだって張り切っていて。藤河スミレのお気に入りの店にしてくれって冗談言って、ふたりで笑い合って。成人式が済んだんだからと、お店のオーナーシェフがわたしとカッちゃんに上等のワインをご馳走してくれて。飲みなれないワインに、ふたりともすっかり酔っぱらってしまいました。きっとカッちゃんの料理も人気が出るだろうし、ふたりとも子どものころの夢が叶かなうねって言って、手をつないで実家まで帰ったんです。隠し撮りされているなんて、夢にも思っていませんでした。田舎だからという安心感もあったんでしょうね。夜道が暗いので恋人つなぎになった瞬間があったんです。酔っぱらってたので転びそうになったのを、カッちゃんが抱きとめてくれたときも一瞬だけあった。そこばかり強調されて、写真週刊誌に出てしまったんです」スミレが唇を嚙んだ。
  「そうやったんですか。うちらはそんなこと分からへんさかい、完全に恋人どうしやて思いこみましたわ。テレビでもなんべんも映ってましたしね」こいしが冷めたコーヒーを飲みほした。
  「うちのグループは恋愛厳禁ですから、ボスからも大目玉を食いましたし、たくさんのファンのかたからもきついお りを受けてしまいました。半年間の謹慎期間は本当に苦しかったです。アイドルってあんなことがあると人気は急降下するんです。いまだにそれを取り戻せなくて」
  「二十歳の男と女が手つなぐくらい大したことと違うのにねぇ」「わたしたちの世界は特殊なんです。分かっていたつもりなんですが、つい田舎だと気がゆるんでしまって」
  スミレが顔をゆがめた。
  「それくらいのことで、と思いますけど、アイドルてそういうもんなんやろねぇ。気の毒に」
  「わたしはいいんです。不注意だったのですから、身から出た錆さびなんです。でもカッちゃんは一般人ですから、そっとしておいてあげて欲しかった」「そうでしたね。思いだしました。初恋のイケメン男性シェフと結婚間近て、週刊誌の見出しに書いてありました。男性のほうは目隠ししてあったけど、知ってる人やったら、すぐに誰か分かるやろねぇ」
  「カッちゃんまで追いかけまわされて、実家の『かめや食堂』のお客さんはメディア関係者ばっかりで」
  スミレが苦笑いした。
  「カッちゃんは今もそのお店に勤めてはるんですか?」「お店に迷惑を掛けたと言って、あの騒動のあと、『アリガトレ食堂』のほうはすぐに辞めてしまいました」
  「気の毒に。なんにも悪いことしてはらへんのに」「カッちゃんは子どものころから責任感が強かったんです。だから」「あのあとも連絡は取ってはるんですか?」
  「取ろうとしたんですが、カッちゃんに拒否られてしまって」スミレが力なく笑った。
  「カッちゃん、ええ人なんや」
  「カッちゃんは、自分のせいで、わたしの人気が落ちたと思ってしまっていて、行方までくらませちゃったんです。そして何があっても、自分の居場所はわたしに教えるなって、お母さんに言ってるみたいで」
  「なんや、うちのお父ちゃんによう似てはるわ。背負わんでもええ荷物までぜんぶかつがはりますねん」
  「うちの父もそういう人でした。市役所に勤めていて、地震で大きな被害が出たのは、自分の防災意識が低かったからだと言って辞職してしまったんです」「分かるわぁ。そこまでせんでええやん、て、いっつも思うてきました」こいしが身を乗りだした。
  「憧れて入った世界でしたけど、まったく逆でした。何かあったときに、どうやって自分だけ助かるかしか考えていない人ばっかりなんです。あのときもそうでした。ボスはマネージャーの責任だと言い、マネージャーはうちの親に責任があると言って逃げたんですが、担当が替わっただけで処分もまぬがれました。結局カッちゃんだけが貧乏くじを引いた格好になりました」
  「スミレさんもですやんか」
  「さっきも言ったように、わたしは仕方ないんです。自業自得ですから」スミレが空になったコーヒーカップに目を落とした。
  「話をもとに戻さんとあきませんね。どんなたらこスパゲティやったんですか」ノートに折り目を付けて、こいしがペンを持つ手に力を込めた。
  「一番印象的だったのは歯ざわりです。パスタを食べるとプチプチって何かが弾はじけるんです。たらこよりもっと大きくて黒っぽいツブツブが入っていて、弾けるとすごくいい香りが口のなかに広がって。あと見た目も、ふつうのたらこスパゲティよりも赤い感じがしました。でも、味はちゃんとたらこスパゲティでしたよ」「プチプチ、ツブツブ。キャビアかなぁ」
  「キャビアよりもっと大きかったと思います。食べたことがあるようなないような、って言うと、カッちゃんがニヤっと笑っていました」「キャビアより大きいツブツブ……。何があるんかなぁ」こいしがノートにイラストを描きつけた。
  「味より香り、でした。たらこスパゲティって、ときどき生臭く感じることがあるじゃないですか。あれがまったくなかったんです。食べたあとも口の中が爽やかになって」「たしかに生臭いて思うときあります。お母ちゃんの好物やったんで、お父ちゃんがよう作ってはって、うちも食べましたけど、白ワインと合わせたときに、えらい後口が悪ぅて、お父ちゃんに文句言うたことがあります」「上等のたらこを使ってたのかなと思いましたが、まかないに使うのと同じたらこだってカッちゃんが言ってましたから、そんなはずないですよね」「まかないに出してはるのとまったく同じもんやったんですか?」「いえ。それを特別にアレンジしたって言ってました。いつか自分の店を持ったときに、このメニューで勝負したいからとも言ってました」「その夢は叶わず終じまいになったんやろか」「どこかで叶えてくれていると信じているのですが」スミレが瞳を潤ませた。
  「カッちゃんてどんな人なんですか? 体育会系か文化系か。写真で見た感じではスマートな人やったように記憶してるんやけど」
  「文化系の人です」
  スミレがきっぱりと言いきって続ける。
  「小学校のころから平家物語だとかを読んでいて、みんなにからかわれていました」「平家物語、ですか。たしかにけったいな小学生やねぇ」こいしが苦笑いを浮かべると、スミレが嬉しそうに笑ったあとに真顔に戻った。
  「これくらいしかヒントは出せないのですが、捜してもらえそうですか?」「お父ちゃんやったら、なんとか捜してくれはると思います。ひとつだけ確認ですけど、スミレさんがそのたらこスパゲティを捜してはるていうことは、誰にも知られたらあかんのですよね」
  「はい。できればそうしてください。ただ、カッちゃんのお母さんだけは別です。亀山千ち代よ子こさんには、わたしが捜しているって伝えてもらってもかまいません。千代子さんはカッちゃんと同じで頑固な人ですから、きっと何も教えてくれないと思いますけど」スマートフォンを操作して、スミレが見せた写真は、割烹着を着て鍋をかき混ぜる恰かっ幅ぷくのいい女性だ。食堂を切り盛りするにふさわしい容貌だが、顔つきはいかにも頑固そうだ。
  「けど、五年も経った今になって、なんでたらこスパゲティを捜そうと思わはったんです?」
  「このままアイドルという仕事を続けていくかどうか、迷っているんです。グループのなかでのポジションも微妙になってきましたし、正直なところ、もうトップどころか、後ろから数えたほうが早いくらいですしね。いつまでも過去の栄光にすがりついているのもみっともないじゃないですか。あのスパゲティを食べれば、どうするかを決められそうな気がするんです」
  「アイドルをやめはったら、どうしはるんです?」「グループを卒業して、ソロでやっていければいいのですが、それも自信ありませんし。
  田舎に帰ってお嫁さんになるのもいいかなと思っています」「分かりました。お父ちゃんやったら、うまいこと訊きださはるかもしれませんわ」こいしがノートを閉じた。
  食堂に戻ると、洗いものをしていた流が、タァ‰で手を拭いながら厨房から出てきた。
  「あんじょうお聞きしたんか」
  「うん。バッチリや。て言いたいとこやけど」こいしが顔半分で笑った。
  「どっちやねん。ほんま頼りないことで申しわけありまへんなぁ」「いえ。こちらこそ頼りないことで。改めまして、藤河スミレと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
  スミレが深く腰を折ると、流はきょとんとした顔で、こいしのほうに顔を向けた。
  「お父ちゃんはあんまりテレビを観ぃひんから知らんかもしれんけど、めっちゃ有名なアイドルなんやで」
  「昔はともかく、今は崖っぷちアイドルと呼ばれています」「そうやったんですか。どっかで見たことのある顔やなと思うてたんですわ」とりつくろったように、流がスミレに笑顔を向けた。
  「調子のええお父ちゃんでしょ。たぶんよう分かってへんと思いますわ」こいしが肩をすくめた。
  「次はいつ来たらいいのでしょう」
  「だいたい二週間で捜しだしてきはるので、そのころに連絡させてもらいます。携帯に電話させてもろてもええんですか?」
  「もちろんです。もし出られなかったら留守電に残しておいてください。すぐに折り返しますから」
  「分かりました。お忙しいやろさかい、できるだけご都合に合わせますんで、遠慮のう言うてくださいね」
  「ありがとうございます。幸か不幸かスケジュールは昔ほど詰まっていませんから」スミレが寂しげに笑って身支度を整えた。
  「スパゲティを捜してるて言うてはりましたな。せいだい気張って見つけて来ますさかい、待ってとぅくれやす」
  流の言葉に一礼して、スミレは敷居をまたいで、店の外に出た。
  正面通を西に向かって歩く背中を見送って、流とこいしは店に戻った。
  「たらこスパゲティ、てなもん、どこでも食えるがな。どんなんを捜してはるんや」カウンター席に座って、流がこいしに訊いた。
  「自分でも田舎て言うてはったから、田舎やて言うてええと思うんやけど、敦賀のイタリアンのお店で、まかないに出してはった料理なんよ。けど、その料理を作った人は行方知れず。手がかりはこれだけや」
  こいしがノートを開いてみせた。
  「プチプチにツブツブて、幼児言葉やないんやから。もうちょっとほかに言いようがなかったんかい」
  流が語気を強めた。
  「せやかてスミレさんがそう言うてはったんやさかい、しゃあないやんか」「まぁ、掬子の好物やったさかいに、ちゃんと捜すけどな」「そんな言い方もないんと違う? スミレさんのこれからの人生が掛かってるんやから、ちゃんと捜したげてや」
  「分かっとるがな」
  ノートのページを繰りながら、流は何度も首をかしげた。
 
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