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紅葉が見ごろを迎えたせいなのだろうか。二週間前とは比べものにならないほどの人出だ。前回とは違って、新幹線で京都に入ったスミレは、人波をかき分けながら地下道を進んだ。
変装というほどでもないが、ベージュのコートに黒のリクルートスーツという装いと、黒縁の眼鏡、大きめのビジネスバッグという小道具のおかげで、今のところ誰にも気付かれずにいるようだ。
だがそれは変装のせいではなく、自分の存在感が薄れてきているからではないかともスミレは思ってしまう。髪はうしろで束ねただけで、帽子もサングラスもない、いわば素の田所馨には誰も見向きもしない。藤河スミレは今日で最後になるかもしれない。そんな予感を胸に抱いたまま、スミレは『鴨川食堂』の前に立った。
「こんにちは」
コートを脱いでから、ゆっくりと引き戸を開けて、スミレは顔だけを店のなかに入れた。
「おこしやす。お待ちしてました」
奥から出てきたこいしは、スミレを見るなり目を白黒させ、そのあとの言葉を続けられずにいる。
「びっくりされたでしょ。今日は田所馨のままで参りました」スミレは悪いた戯ずらっぽい笑顔をこいしに向けた。
「こんなん言うたら何やけど、テレビとかで見てる藤河スミレさんとは、まるで別人ですね」
「田所馨は田舎のァ⊥エチャンなんです」
伏し目がちになって、スミレはわざともじもじしてみせた。
「そうかぁ。服も地味やしよけいにそう思うんや」こいしの目はスミレに釘くぎ付づけになっている。
「なんやお客さんやったんかいな。えらいすんまへんなぁ、今日は予約だけにさせてもろてますんや」
手拭いを使いながら、厨房から出てきた流がスミレに頭を下げた。
「お父ちゃん、スミレさんやで」
「は? こちらさんが?」
戸惑った表情を浮かべて、流の目はスミレの上から下まで何度も往復した。
「素だとこんなものなんですよ」
スミレが大きな黒いバッグを床に置いた。
「なんや狐きつねにつままれたみたいやけど、ほんまに藤河スミレさんですんやな」流はまだ半信半疑のようだ。
「どうぞよろしくお願いいたします」
スミレが流に頭を下げた。
「わしはてっきり藤河スミレさんがお越しになるもんやと思いこんどりました」流が気落ちしたように言うと、こいしとスミレは困惑した顔を向け合った。
「お父ちゃん、何言うてんの。おんなじ人やんか」こいしが高い声をあげ、流は視線を床に落とした。
「とにかく食べてもらわんと。お父ちゃん、早はよぅ用意したげんとあかんやん。スミレさんは忙しいしてはるんやから」
スミレの目を見ながら、こいしは流の背中を押した。
「そやったな。すぐに用意しまっさかい、ちょっと待ってとぅくれやっしゃ」大きな音を立てて両ほほを平手で打った流は、厨房に駆け込んでいった。
食堂に残ったふたりのあいだに気まずい空気が流れた。
「すんませんねぇ、お父ちゃんがへんなこと言うて」こいしはスミレに顔をゆがませてみせた。
「お手洗いをお借りしたいのですが」
スミレが店を見まわした。
「ご案内しましょか?」
「大丈夫。ひとりで行けます。お料理ができるまで、どれくらい時間が掛かるでしょう」「麵を茹ゆでる時間入れたら十五分から二十分くらいかなぁ。そんなに急いではるんですか?」
「逆です。お料理に間に合わなかったらいけないと思いまして」小さく微笑んで、慣れた足取りでスミレが廊下を歩いていった。
料理を待つあいだに何か用事でもあるのだろうか。スミレの言葉に首をかしげながら、こいしは厨房に入っていった。
誰もいない食堂はしんと静まり返っている。暖簾をかき分けて、時おりこいしが顔を覗かせるが、スミレの姿はない。傍らで流は黙々と調理を進めている。
「ちょっと柔やわいめに茹でたほうがええさかい、あと五分くらいや。こいし、そろそろテーブルにランチョンマット敷いてきてくれるか」「スミレさん、まだトイレから戻ってきてはらへんけど大丈夫やろか」「腹具合でも悪いんかもしれんな。けど、今さらどうしようもないがな」大きな鍋に泳ぐスパゲティを箸で一本つまみあげ、流が歯ごたえをたしかめた。
「あ、戻ってきはったみたいや」
食堂に人の気配を感じて、こいしがホッとしたように口元をゆるめた。
「はよ用意せな」
急かされて、こいしが慌ててランチョンマットとフォークを持って暖簾をくぐった。
「なんとか間に合ったみたいですね」
テーブル席に座っていたスミレを見て、大きく目を見開いたこいしは小さく声をあげた。
「藤河スミレや」
前髪をおろし、メークを整えたスミレは、真っ赤なミニのワンピースに着替えていた。
「たらこスパゲティを捜していたのは、田所馨ではなく藤河スミレだったんですよね。ずいぶん迷ったんですけど、やっぱりこっちだったんだ。お父さまに教えられました」スミレが笑顔を明るくした。
「そういうことやったんか。うちもにぶいなぁ」こいしが自分の頭をこぶしでたたいた。
「なんだかいい匂いがしてきましたね。そろそろかな」鼻をひくつかせてスミレが厨房を覗きこんだところへ、銀盆を両手で持って、流が厨房から出てきた。
「お待たせしましたな。これが、田所馨さんと違ちごうて、藤河スミレさんがお捜しになってた、たらこスパゲティです。どうぞごゆっくりお召しあがりください」流はスミレの目を真っすぐに見つめた。
「記憶にあるものと一緒です。ありがとうございます」目を輝かせて、スミレがフォークを手に取った。
「お冷やとピッチャーを置いときます。ご用があったら呼んでくださいね」こいしと流が厨房に下がっていくのをたしかめて、スミレはフォークを持ったままで、両手を合わせた。
真っ白の丸皿に、こんもりと盛られたたらこスパゲティは、見た目だけだと、あの日にカッちゃんが作ってくれたのと、まったく同じだ。どこの店のそれもピンク色をしているのに対して、カッちゃんが作ってくれたのは、もっと色が濃かった。どちらかと言えば紫色に近い。そんな色目まで同じだ。
味はどうなのだろう。胸をときめかせて、スミレがスパゲティにフォークをからませた。
細めのスパゲティを五本ほどフォークでからめて、くるくると巻き付ける。しっかりと目に焼き付けてから口に運んだ。
味も同じだった。
たしかに、たらこスパゲティなのだが、たらこ臭さというか、あの独特の香りがしない。だからと言って、たらこの味がしないかと言えばそうではなくて、ちゃんとたらこの味がする。目をつぶって嚙みしめても、それがたらこスパゲティだということは間違いなく分かる。
何より特徴的なのはその歯ごたえだ。五本ほどのスパゲティを嚙むあいだに、三回ほど何かがプチプチと弾けた。そしてそのたびに爽やかな香りが口に広がる。あのときとまったく同じだ。
いったい、どうやってこれを捜してきたのだろう。スミレの興味はすぐそっちに移った。
カッちゃんに行きつかなければ、このたらこスパゲティは再現できない。鴨川流はカッちゃんから直接このレシピを訊きだしたに違いない。だとすれば、母親がカッちゃんの居場所を教えたのだろう。藤河スミレの依頼だということをあえて明かしたのだろうか。スミレはさまざまに思いを巡らせながら、たらこスパゲティを食べ進めた。
「どないです? 捜してはったんとおんなじやと思うてますんやが」流が厨房から出てきた。
「はい。おんなじです。びっくりしています。どうやってこれを見つけだされたのか、自分で頼んでおきながら、不思議でしかたがないのですが」「詳しいことは、あとでお話しさせてもらいます。ゆっくり召しあがってからでよろしいやろ」
「はい」
流がまた厨房に戻っていった。
半分ほど皿に残ったスパゲティをじっと見つめているうち、こみ上げるものを抑えられなくなった。カッちゃんは今ごろどこにいるんだろう。元気にフライパンを振っているのだろうか。ひょっとして誰かと結婚したんじゃないだろうか。子どものころに自転車にふたり乗りして、おまわりさんに られたことを思いだした。無理やり乗せたのだから、悪いのは自分だけだと言っていたときの真剣な顔。まるでお兄さんみたいだと思った。
運動会でバトンを落として、リレーでビリになってしまったときも、みんなから白い目で見られたけれど、カッちゃんだけは励ましてくれた。いつも頼ってばかりだった。
名残を惜しみながら、残りのスパゲティをさらえる。ツブツブが口のなかでプチプチと弾けるたびに、カッちゃんに励まされているような気になる。
ピンク色のたらこの粒だけが残った皿をじっと見つめていると、流が傍そばに立った。
「向かいに座らせてもろてもよろしいかいな」「どうぞお掛けください。お話を聞かせていただければ」腰を浮かせて、スミレが手のひらを上に向けた。
「まずは敦賀の『アリガトレ食堂』へ行ってきました。なかなかええ店ですな。近所にあったら通いたいですわ。オーナーの女性もええ人でした。亀山克則さんのことも覚えてはりました。もちろん五年前のことも。えらい騒ぎになったんやそうですな。何も悪いことしたんやないから、と言うてオーナーさんは引き留めはったんやそうですが、克則さんの意志は固かったらしいです。その後のことはオーナーさんもご存じないとのことでした。元気にやってるという手紙は届いたけども、住所やとか連絡先はなかったそうです」「やっぱりそうでしたか」
スミレがうつむいたまま声を落とした。
「スパゲティのことも訊いてみたんですけど、まかない用に克則さんが作ってはったんは、ふつうのたらこスパゲティやったみたいですわ。もちろんお店のメニューにもありませんでしたし、手がかりゼロでした」
流が苦笑いした。
「お手間を取らせてしまって申しわけありませんでした」「気にせんといてください。仕事ですさかい」そう言いながら、流はタブレットを操作して、写真をスミレに見せた。
「『かめや食堂』もほんまにええお店ですな。ここも近所にあったら毎日行きたいと思いました。ソースカツ丼を食べたんですけど、元祖のお店と比べても、なんの遜色もない。
それでいて値段は安い。テーブルに置いてある自家製の福神漬は食べ放題。これがまたソースカツ丼によう合うんですわ。京都にあったら絶対行列店になってますで。まぁ、そないなったら、ひとりで切り盛りしてはる亀山千代子はんも困らはりますやろけどな」「懐かしい。お店は昔のままなんですね」
スミレがタブレットに目を近づけた。
「千代子はんもお元気でしたで」
流が指を滑らせて、写真を替えた。
「おばさん、また太ったみたい」
スミレが口元をゆるめた。
「それとのう息子はんのことを訊いてみました。もちろんスミレさんの名前は出してまへんさかい安心しとぉくれやす。『アリガトレ食堂』のオーナーさんと友達やてウソつきましたけどな」
苦笑いしながら流が舌を出した。
「おばさん、話してくれたんですね、カッちゃんの居場所を」スミレが身を乗りだして、紅潮させた顔を向けると、流は大きく首を横に振った。
「絶対に誰にも教えたらあかん、克則さんからきつう言われているんやと千代子はんが言わはりましてな。とある街で、イタリアンのお店をまかされてはることだけ教えてくれはりました。日本中にイタリアンが何軒あるやら。雲つかむような話やけど、克則さんに辿り着けんと、どうしようもおへんし」
「でも、今いただいたのは間違いなくあのときの」スミレが怪け訝げんな顔つきを流に向けた。
「お父ちゃんはときどきマジックを使わはるんですよ」益まし子こ焼の大きな土瓶と湯吞を持って、こいしが厨房から出てきた。
「マジックと違うがな。縁っちゅうか偶然っちゅうか、不思議なことが起こるんや」こいしが注いだほうじ茶を流がゆっくり飲んだ。
「縁、ですか。どんなご縁なんです?」
湯吞を両手で包みこんで、スミレが話の続きを急かした。
「あんまりしつこう訊くもんやさかい、千代子はんが克則さんの写真を見せてくれはりましたんや。赤いドアの前に立ってはる写真で、背景も店の看板もなんにも写ってへんのですけど、どっかで見たことのある店やなぁと思うて、記憶の糸を辿ってみました。あそこでもない、あの街でもない、と消していって、残ったんが静岡ですねん」「静岡?」
よほど意外だったのか、スミレが声を裏返した。
「以前に食を捜しに静岡へ行ったことがありましてな、そのときに通りかかった店と違うかな、と思うて地図を見てみたんですわ。今は便利な時代ですなぁ。ストリートビューっちゅうアレですわ。それ見たら、やっぱりありました」流が店の写真を見せた。
「本当に真っ赤な店なんですね。お店の名前はなんて書いてあるのかな」スミレが目を細めて画面に覆いかぶさった。
「『バンディエラ?ロッサ』ですわ。この屋号にピンと来ました。絶対間違いないやろと思うて行ってきました」
「お父ちゃんは、すぐピンときはるんです」
横からこいしが誇らしげに口をはさんだ。
「このお店の名前に何か意味があるんですか?」「克則さんは、子どものころから平家物語を読んではったんですやろ? 平家ていうたら赤旗。このお店の名前はイタリア語で赤い旗っちゅう意味やそうです。平家びいきの克則さんのことやさかい、店の名前にしはったんやないやろか。そう直感しました」「このイタリア語はどんな意味や、てお父ちゃんがLINEで訊いてきはったんで、すぐに調べて返事したんです」
こいしが声をはずませた。
「平家が赤旗。そう言えば小学校の運動会のときに、カッちゃんは紅あか組じゃないと嫌だと言って駄々をこねてたことがありました。そんなわけだったんですか。なんのことだか、さっぱり分かりませんでした」
スミレは腑ふに落ちたような顔を流に向けた。
「店は間違いない。あとはメニューや。たらこスパゲティがありそうな店やないんですわ。なかったらなかったで、しょうがおへん。とにかく入ってみんことには」流が湯吞の茶をすすって続ける。
「案の定メニューはイタリア語だらけでさっぱり分からん。パスタっちゅうとこを見ても、たらこのたの字もおへん。しょうがなしに店の人に訊きましたんや。たらこスパゲティはないか、て。そしたらなんと、あるて言うて指ささはったメニューはカタカナだらけですがな。かろうじて分かったんは、スペシャリテだけや。つまり名物っちゅう意味ですやろ。どんな料理が出てくるんやろとドキドキしながら待っとったら、思うてたとおりのもんでした」
流が店の料理写真を見せた。
「それがさっきの?」
「そうです。けど、スミレさんとつながってると思われたらアカンさかい、克則さんとは一切口きいてまへんで。わしが推測で作ったもんです。じっくり味おうて食べましたし、間ま違ちごうてはおらんと思います」
流の言葉に、スミレは大きくうなずいた。
「はい。あの日カッちゃんが作ってくれたのと、まったく同じだと思います」「よろしおした。克則さん、よう考えはったと思います。プチプチ弾けるのはシソの実を混ぜ込んではったからです。全体に味がスッキリしてたんも、たらこをシソジュースに漬けてはったからやろうと思うて、ひと晩漬けてみました。薄うっすらと紫色になるけど、気が付かん程度ですわ。たらこ臭さが好きな人には物足らんかもしれんけど、わしは好きな味です」
「うちも好きやわ。けど、やっぱりカッちゃんは夢を叶えてはったんや。お店はえらい流は行やってたみたいですよ」
「隣の席でおんなじもんを食べてた女性グループの話やと、このお店は完全取材拒否らしいですわ。おそらくスミレさんに迷惑が掛からんように、ちゅうことなんやと思います」流の言葉に、スミレは天井を仰いだ。
「ほんまにカッちゃんは男前やわ」
「ホッとしました」
短い言葉に万感の思いを込めたのだろう。言葉どおり、スミレは穏やかな笑顔を浮かべ、瞳を潤ませている。
「スミレさんも気張らんとあきませんね」
こいしが言葉を掛けた。
「ありがとうございます。これからどうするか、少し考えてみます」スミレが唇を一文字に結んだ。
「シソの葉はよく見かけますけど、シソの実ってめったに食べませんよね」スミレが左右に首をかしげた。
「目立たんだけで、ときどきは食べてはると思いまっせ。カレーに添えてある福神漬にも入ってますしな。『かめや食堂』のんにもちゃんと入ってました」「福神漬のあのプチプチはシソの実だったんですか。知らずに食べてました」「お造りのツマにも、実になる前のシソの穂がよう使われますで。紫の色目がきれいですさかいにな」
「そうか。あれもシソだったんですか。お醬油に散らすと映えますよね。香りも爽やかだし」
「なんで克則さんは、シソを使うたスパゲティを食べさせたかったか、分からはりますか?」
流が訊いた。
「歯ざわりと香りをよくするためでしょ?」
「それだけですか?」
「ほかに何かあります?」
「子どものころから平家物語を読むような人や。克則さんはきっとシソに自分の思いを込めはったんやと思います」
目に力を込めて、流がスミレを正面から見つめた。
「シソに思い……。よく分からないのですが」スミレは弱々しい視線を返した。
「藤河スミレさんという芸名はどなたがお付けになったんや知りまへんけど、お誕生月が五月やさかい、きっと藤とスミレの紫色の花にちなんでのことやと思います」「はい。おっしゃるとおりです。母が考えてくれました。わたしのシンボルカラーはデビューのときからずっと紫色です」
「シソを漢字で書いたら、こうなりますねん。紫が蘇よみがえる」流がタブレットの字を拡大してスミレに見せた。
「紫蘇……」
その意味に気付いて、スミレが息を吞のんだ。
「そういう意味を込めてはったんやと思います」「カッちゃんらしい……」
スミレが小さく微笑んだ。
「カッちゃんの、もうひとつの願いも叶えんとあきませんね」こいしがスミレの肩にそっと手を置いた。
「目に見えんとこで力になってくれる人をだいじにせんとあきまへんな」「はい」
スミレが力強く答えて立ちあがった。
「着替えはりますか?」
こいしが訊いた。
「このまま帰ります」
「気ぃ付けて帰りなはれや」
流が心配そうに言った。
「この前にいただいたお食事代と一緒にお支払いを」スミレがバッグから財布を出した。
「お気持ちに見み合おうた金額を、この口座にお振込みいただくことになってますねんよ」
こいしがメモを手渡した。
「分かりました。帰りましたらすぐに」
コートを羽織って、スミレがふたりに一礼した。
「ほんまに大丈夫かなぁ。藤河スミレや! て騒がれるのと違うやろか」「だったら嬉しいです」
見送るふたりに、スミレはこぼれるような笑顔を向けた。
「そうそう。このメモを渡しときますわ。克則さんのお店のメニューです。わしはイタリア語は読めんもんやさかいに。たらこスパゲティっちゅう意味やどや分からんのですけどな。お帰りになったら調べてみてください」
横文字が並んだメモ書きを、流がふたつに折ってスミレに渡した。
「ありがとうございます。わたしも横文字には弱いので調べてみます」スミレがメモ書きを財布に仕舞いこんだ。
「ほんまに気ぃ付けて帰ってくださいねぇ。なんかあったらすぐ警察を呼ばんとあきませんよ」
こいしの言葉に、スミレが指でOKサインを作った。
「ご安全に」
早足で正面通を西に向かって歩くスミレの背中を見送って、流とこいしは店に戻った。
「さっきのメモやけど、なんか意味があるん?」「余計なお世話やったかもしれんけど、克則さんの気持ちを伝えといたほうがええやろと思うてな」
流がタブレットの画面を見せた。
「アマーレ?ウーナ?ヴィオーラ。これがたらこスパゲティていう意味なん?」「違うがな。なんとのう分かるやろ」
「翻訳してみよ」
こいしがスマートフォンを操作した。
「キッチンで料理してはる克則さんの姿をちらっと見たけど、しっかり芯のありそうな、ええ顔してはった。スミレさんにはお似合いやと思うわ」「そうかぁ。克則さん、スミレさんを愛してはるんや。ええ人やなぁ」スマートフォンを見ながら、こいしがため息をついた。
「今どきめずらしい、真っすぐで奥ゆかしい男やで」「お父ちゃんと一緒やんか。なぁ、お母ちゃん」仏壇に飾られた掬子の写真に、こいしが語りかけた。
「そんなええもんと違う。きっと掬子はそう言いよるで」線香をあげて、流が手を合わせた。