第五卷 第六話 ハヤシライス 2

　　２

　　三週間経たつと、山はその様相を一変させる。タクシーの車窓から眺める東山は緑を濃くし、たおやかな峰々はもう笑っていなかった。

　　覚えていた道筋どおりに走ったタクシーがスピードをゆるめた。

　　「そこでいいです」

　　紗羽の声に運転手はブレーキを踏んだ。

　　「こんにちは」

　　タクシーを降り、迷うことなく引き戸を開けた紗羽が、首から先だけを店に入れた。

　　「お待ちしとりました。えらい時間がかかってしもうて迷惑かけましたな」茶色い和帽子を取って、同じ色の作務衣姿で流が迎え入れた。

　　「とんでもない。何も急ぐことはありませんし、面倒なことをお願いしたこちらが詫わびなければいけません」

　　若草色の着物を着た紗羽が流に一礼してから、店に足を踏み入れた。

　　「いらっしゃい。お着物もようお似合いで」

　　ホワイトジーンズに赤いエプロンを着けたこいしが厨房から出てきた。

　　「ありがとう。久しぶりに着物を着たくなって」紗羽は羽織を脱いでコート掛けにかけた。

　　「ちょっと難儀して、あちこち行っとったもんで、時間がかかってしまいましたけど、なんとか見つかりました。すぐにご用意しますさかい待っとぉくれやっしゃ」帽子をかぶり直した流が厨房に急いだ。

　　「なんだか本当にご迷惑をおかけしたみたいで、申し訳なかったですね」紗羽がパイプ椅子に腰かけた。

　　「うちらはこれが仕事やさかい、気にせんといてください。あちこち旅行に行けてお父ちゃんも愉しかったみたいですよ」

　　「そう言っていただけると気が楽になりますけど」「今日はどないしましょ。ワインをお出ししましょか」「今日はお茶だけにしておきます。酔っ払っちゃいけませんしね」「そうやね。しっかり味おうてもらわんとあかんし」有田焼の湯吞を紗羽の前に置いて、こいしは益子焼の土瓶から茶を注いだ。

　　「この三週間のあいだにね、いろいろと試作してみましたの。喫茶店のハヤシライスなんて、そんな面倒なものじゃないって、あなたおっしゃってたじゃない。わたしもそう思っていたんだけど、ちゃんと作ろうとするとなかなか大変よ。本格的すぎてもダメでしょうし、でもレトルトのような既製品っぽい味だとつまらないし」湯吞を両手で包みこんで、紗羽がこいしに語った。

　　「お父ちゃんもおんなじこと言うてはりました」こいしが笑みを紗羽に向けた。

　　「なんだかいい匂いがしてきたわね」

　　紗羽が首をまわして厨房に顔を向けた。

　　「夕べも試食したんですけど、ホンマに美味しかった。こんなんやったら毎日でもええ、てお父ちゃんに言うてたくらいです。愉しみにしててください」小声になったこいしが、紗羽の耳元でささやいた。

　　「ありがとうございます」

　　紗羽は両手の先だけをテーブルに突いた。

　　「お待たせしてますな。ご飯の量はどないします？　少なめでよろしいか」厨房から出てきた流は、藍色のランチョンマットを紗羽の前に敷き、スプーンとフォークをその右端に置いた。

　　「はい。少なめでお願いします」

　　紗羽が緊張した面持ちで答えると、流は黙ってうなずき、小走りになって厨房に戻っていった。

　　「お水も置いときますね」

　　ガラスのコップとピッチャーをテーブルの真ん中に置いて、こいしが背中を向けた。

　　どんなハヤシライスが出てくるのだろうか。紗羽は次郎の顔を思い浮かべて、コップの水で喉をうるおした。

　　「お待ちどうさんでした」

　　流が銀盆に載せたハヤシライスを紗羽の前に置いた。

　　「美味しそうだこと」

　　目を輝かせて紗羽が高い声をだした。

　　「どうぞゆっくり召し上がってください。よかったらお代わりもありますんで」銀盆を小脇にはさんで、流が下がっていった。

　　白い丸皿に盛られたハヤシライスからは、ほんのりと湯気が上っている。両手を合わせてから、紗羽は手にしたスプーンでひと口分をすくって口に運んだ。

　　薄切り肉がたっぷり入ったハヤシソースは、ほのかな甘みはあるものの、ビーフシチューにも似たコクがあって、ご飯との相性もピッタリだ。

　　ただ、ふた口、み口と食べ進むも、特別な味わいは感じられない。たしかに美味しいとは思うが、ビックリするようなものではない。一度スプーンを置いて、コップの水を飲んだ。

　　それが何かは分からないが、たしかに物足りなさを感じる。適度に香辛料も効いているし、上質の肉を使っているせいかしっかりコクもある。ちゃんと美味しい。だが……。

　　首をかしげながらスプーンを持って、もう一度口に運んだ。

　　特に変わりはない。次郎が九割九分と言ったのは、ひょっとしてこのことだったのだろうか。スパイスかスープか、それとも食材か。何を加えれば完成するのだろう。さまざまを頭の中で描いてみても、なかなか答えは見つからない。

　　「お味はどないです？　美味しいに召し上がってもろてますか」いつの間にか真後ろに流が立っていた。

　　「え、ええ。とても美味しいハヤシライスだと思います。どうやって捜しだされたのですか」

　　スプーンを置いて、紗羽が身体の向きを変えた。

　　「座らせてもろてよろしいかいな」

　　「もちろんですわ。ぜひお話を聞かせてください」紗羽の言葉を聞いて、真向かいに腰かけた流はテーブルにタブレットを置いた。

　　「八尾に行ってきました。岡崎次郎さんのお店にも伺いましたが、当たり前ですけど閉

　　まっていました。貼り紙がしてあったんで、電話をしましたら息子さんがお出になられました。事情を話しましたら、是非会いたいとおっしゃって、富山市内のお宅へ伺いましたんや。けど残念ながら息子の啓太はんは、お店のことにはノータッチやったそうで、ハヤシライスのことは分からず終じまいでした」

　　時おりタブレットのディスプレイに写真を表示し、向きを変えて紗羽に見せながら、流が話を進めた。

　　「この方が啓太さんなのね。次郎さんにそっくり」写真を見て紗羽が目を細めた。

　　「穏やかなええ人でしたで。富山の精密機械の会社にお勤めやそうです」流が名刺をタブレットの横に置いた。

　　「紗羽さんのことは、亡くなった次郎さんから聞いてはったそうです。人生の最後をこの人と一緒に過ごしたい。次郎さんはそう言うてはったみたいです。肝心のハヤシライスですが、手がかりのひとつもないまま帰るわけにはいきませんしな。そこで思いついたんが『上高地グランドホテル』の話ですわ。そこのレストランの料理をヒントにしはったんやから、なんぞ見つかるかもしれん。そう思うて上高地へ足を延ばそうと思うたんですが、今の時季はクローズしてますんやな。ゴールデンウィークにならんと営業せんということで、当然シェフもおりませんわな。困ったなぁと思うて、東京のグランドホテルへ問い合わせてみたんですわ。去年の夏に上高地で食べた料理が美味しかったさかい、シェフに礼が言いたい、て、よう考えたらおかしな話ですけどな」流が苦笑いした。

　　「ご苦労をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」腰を浮かせて紗羽が頭を下げた。

　　「これが仕事ですさかい、気にせんといとぉくれやっしゃ。そのときのシェフは今大阪のグランドホテルで仕事してはるて聞きまして、大阪へ足を延ばしてホテルに行ってきました。会えるやどうやら分からんけど、とにかく行ってみんと始まりまへんさかいな」「お父ちゃんは現場主義ですねん。とにかく足運んだらなんとかなるて思うてはるし、ホンマになんとかなるんですよ」

　　こいしが土瓶を替えた。

　　「秋あき山やま徳とく治じさんていうシェフでした。シーズン中は上高地で、ァ≌シーズンは大阪のほうで仕事してはります。うまいことその日に出勤してはりまして。休憩時間にお会いできましたんや。やっぱり行ってみるもんですな。さっき食べてもろたハヤシライスに出で会おうたんですわ」

　　流が向けた笑みをうまく受けとめられず、紗羽は怪け訝げんな顔つきを返した。

　　「どういう意味でしょう。さっきいただいたのはホテルのハヤシライスだったのですか？」

　　「次郎さんは律儀なかたやったんですなぁ。お礼の手紙を添えて『上高地グランドホテル』のシェフ宛てに、試作したハヤシソースをパック詰めして送ってはりましたんや。それが十月の終わりころの話やそうで、ギリギリでホテルのクローズに間に合うたようです。熱心にハヤシソースのことを訊たずねてはった次郎さんのことを、秋山シェフはよう覚えてはりました。もちろん紗羽さんのこともです」流が意味ありげな視線を送ると、紗羽は恥ずかし気に目をそらした。

　　「ちょっと気になっとるんですけど、なんで残してはるんです？」流がハヤシライスに視線を移した。

　　「なぜっておっしゃいましても……。美味しいとは思うのですが」突然矛先を向けられた紗羽は、答えを見つけようとして捜しだせずにいる。

　　「長いことこういう仕事をしてますとな、ときどきこういう料理に出会います。旨いとは思うんやが、どことのう物足りん。具体的に味付けがどうやとか、食材がこうや、香辛料をこうしたら、とか分かるもんはええんですけど、それが思い浮かばん。これを食べさせてもろたときにそう思いましたんや。びっくりしましたなぁ。秋山シェフもおんなじ感想やったそうです。紗羽さんもですか？」

　　流の問いかけに、紗羽がこっくりとうなずいた。

　　「こういうことはプロもアマチュアも関係おへんのやな。特別な食通やのうても、いや、そうやないからこそ気付くんでっしゃろ。なんかしらん物足りんて」流の言葉が誰に向けたものかも分からず、しかし紗羽はそれに答えた。

　　「教室で生徒さんに料理を教えているからといって、プロだとは言えないかもしれませんが、少しは料理のことを分かっているつもりです。どんな調味料を使って、どういう料理法で作られた料理か、は食べるとたいてい分かると自負しております。しかしすべては分析できないものなんですね。このハヤシライスのように」紗羽が唇をまっすぐに結んだ。

　　「次郎さんという方はよう立場をわきまえてはったんでしょうな。味見をして意見してくれとか、そういうことは手紙には一切書いてなかったんやそうです。けど秋山さんは気になったことやとか、プロとしてのアドバイスを書いて返事しはった」「シェフはどんなアドバイスをなさったんでしょう？」紗羽が身を乗りだした。

　　「時間を味方に付けるように。そう手紙に書かはったんやそうです」「時間を味方に……。分かったような分からないような」「パック詰めにして送ってきはったんは十袋あったみたいです。秋山シェフはすぐにひと袋を食べてあとは急速冷凍しはった。そのうちのひとつがさっき食べてもろたやつです」「つまり次郎さんが作ったハヤシライスそのままなんですね」「しばらく冷凍してはったさかい、多少味は変わったかもしれまへんけど」「九割九分と次郎さんがおっしゃってたのは、ご自分でも分かってられたということなのでしょうか。何かが足りないという」

　　「さぁ、そこまでは分かりまへん。けど自信満々でシェフに送らはったんやない、というのはほんまのとこやと思います。かというてプロのアドバイスを求めたりしてはらへんのがよろしいな」

　　「本当に不思議ですね。わたしのような素人も、長い経験を積んだプロも同じような感想を持つなんて」

　　「味を直してから食べてもらおう思うて、手を加えてみたんやが、どうにもしっくりこん。それで味はそのままにして、ちょっと試してみたことがありましてな」流が目で合図すると、うなずいてこいしが厨房に入っていった。

　　「ふだんは何気なく食べているものにも、こういうことってあるんでしょうね。何かひと味足りないっていうときに、ついわたしたちは化学調味料を加えてしまいますけど」「ふだんはそれでええと思いまっせ。特に家庭料理いうのはそういうもんなんですわ。お金もそないかけられまへんしな」

　　ふたりがひと言ずつ言葉を交わすと、こいしが銀盆に小皿を載せて運んできた。

　　「ちょっと食べてみてください」

　　紗羽の前に小皿に盛ったハヤシライスを置いた。

　　「これは？」

　　スプーンを持って紗羽が訊いた。

　　「さっきとおんなじもんです。なんにも足したりしてまへんさかい、中身はまったく一緒ですわ」

　　流がさらりと答えた。

　　「見た目はたしかに同じですけど……」

　　紗羽がスプーンを口に運んで、ゆっくりと口を動かしながら味わっているが、何も言葉は発しない。

　　流もこいしもじっとその様子を見守っていた。

　　「何をなさったのでしょう」

　　スプーンを置いて、紗羽が流に訊いた。

　　「どないです？　さっきと味が違いますやろ」流が笑顔を紗羽に向けた。

　　「どんな魔法をおかけになったのか。さっきとは別もののように思います」スプーンを取って紗羽がふたたびハヤシライスを口に運んだ。

　　「魔法てなたいそうなもんやおへん。シェフの言葉どおりにやっただけですわ」「時間？」

　　紗羽が顔を上げて、スプーンの手を止めた。

　　「煮詰まらん程度に火ぃを入れて、ひと晩寝かせただけです」「それだけでこんなに？」

　　大きく目を見開いた紗羽が、皿に目を近づけた。

　　「シェフから五袋いただいてきましたんで、残りはいろいろ試してみてください。時間を味方に付けるという意味がよう分かると思います」「もとになったハヤシソースのレシピは残っているのでしょうか」空になった皿に紗羽がスプーンを置くと小さく乾いた音がした。

　　「ハヤシソースと一緒に、このレシピメモが入ってたそうです」流が一枚の手書きメモをテーブルに置いた。

　　「このレシピどおりに作って、時間を味方に付ければ次郎さんの念願だったハヤシライスができるんですね」

　　紗羽がメモのしわをていねいに伸ばした。

　　「そうそう。息子の啓太さんから手紙をあずかってきましたんや」流はメモの横に白い封筒を置いた。

　　「次郎さんのご子息から？　わたしに？」

　　紗羽が訊くと、流は無言でうなずいた。

　　「坂下紗羽様……」

　　封筒に息を吹きこんで便せんを取りだし、紗羽が小さな声を出して読みはじめると、流とこいしは耳を澄ませた。

　　「上高地から帰ってきた父は、あきらかにこれまでと違ってました。何かにつけ投げやりだった父が、生き生きとした表情で、店のことや、これからの生き方を語るのを、あっけにとられて見ておりました。まるで少年のような晴れやかな顔で坂下紗羽さんのことを話してくれました。どんなに暖かい日でも、家を出るときは必ず紗羽さんからいただいた赤いマフラーを巻いていたので、近所のかたによく冷やかされていましたが、そんなときでも嬉しそうに笑っていました。もちろん紗羽さんの承諾があれば、という前提付きでしたが、人生最後の時間を一緒に過ごしたいと願う父に、反対する理由などひとつも見つかりません。大賛成だというと父は涙を流して喜んでおりました。ハヤシライスの話も聞きました。店の名物にしたい。ライフワークにしたい。紗羽さんと一緒に作り上げたい。目を輝かせて夢を語っていた父がまさかあんなことになるとは。残念でなりません。でも、きっと父はしあわせな気持ちのままで旅立ったと思います。雪の中に埋もれた父の顔はとても安らかでした。紗羽さんからいただいたマフラーを首に巻き、両手でそれをしっかり握りしめて、笑っているようにすら見えました。きっと人生の最期の瞬間まで紗羽さんに恋をしていたのでしょう。父に最後の生き甲斐を与えてくださった紗羽さん。本当にありがとうございました。父の分まで長生きなさってください。どうぞお元気で。岡崎啓太」文面を目で追いながら、ときどき言葉をつまらせ、読み終えたときには、頰に幾筋も涙のあとが残った。

　　便せんを元どおりに折りたたんだ紗羽に、流が話しかけた。

　　「人間っちゅうのは不思議なもんですなぁ。おふたりが出会わはって、わずか一年にもならんのに、次郎さんの気持ちは熟してはった。けどハヤシライスを熟成させるには時間が足りんかった。心残りやったでしょうな」

　　「その心残りを晴らすのはわたしの役目なのでしょうね」紗羽が背筋を伸ばした。

　　「きっと喜ばはると思います」

　　流がやさしいまなざしを紗羽に向けた。

　　「人生最後のときをご一緒できなかったから、せめて次郎さんの思いだけでも叶えてさしあげないとね」

　　紗羽が空の皿をじっと見つめた。

　　「洋裁教室のほうはどうしはるんです」

　　こいしが訊いた。

　　「当分のあいだお休みします。そしてこのハヤシライスに似合うお店に作り替えるの。その前に八尾に行かないといけませんね。次郎さんにご報告しに」紗羽は手紙をおしいただいた。

　　「ほんまによろしおした」

　　流が何度もうなずいた。

　　「そうそう。この前のお食事の分もあわせてお支払いをしなきゃいけません」紗羽が財布を取りだした。

　　「うちは料金を決めてませんねん。おついでのときでけっこうですし、お気持ちに見合うた分をこちらに振り込んでください」

　　こいしがメモ書きを手渡した。

　　「承知いたしました」

　　紗羽は財布にそれをしまった。

　　「あっという間に桜も終わってしまいましたな」店を出て、流が春空を見上げた。

　　「八尾の桜はこれからだそうですよ。まだ山も笑いはじめたばかりみたいですから」空のすき間からわずかに顔を見せる東山に紗羽が目をやった。

　　「春の山が笑うんやったら、冬の山は泣いてはるんやろか」空を仰いでこいしがぽつりとつぶやいた。

　　「どうぞお身体に気をつけて」

　　正面通を歩きはじめた紗羽に、流が声をかけた。

　　「ありがとうございます」

　　振り向いて紗羽は深く腰を折った。

　　「人生最後の恋かぁ。なんか胸が詰まりそうになるわ」こいしは潤んだ瞳を春空に向けた。

　　「実らせたげたかったなぁ」

　　流がこいしと同じ空を見上げた。

　　「あの歳で新しいこと始めるのて大変やろなぁ」小さくなる背中をじっと見つめながらこいしが言った。

　　「いろんな意味で勇気のいることやと思う」

　　紗羽の姿が見えなくなったのをたしかめて、流が店に向かうと、こいしはそのあとを追った。

　　「いざとなったら女の人のほうが思いきりがええんや」流が仏壇の前に正座した。

　　「お母ちゃんもそうやったん？」

　　こいしがそのうしろに座った。

　　「掬子はなぁ、そうやなぁ。どっちやった？」流が問いかけると、写真の中の掬子がかすかに微笑んだ。