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第一卷 第二話  ビーフシチュー 2

时间: 2024-02-27    进入日语论坛
核心提示:2 師走も二十日に近くなると、押し迫ったという感がある。鴨川食堂の前を行き交う誰もが、気ぜわしげに早足で歩いている。「十
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  師走も二十日に近くなると、押し迫ったという感がある。鴨川食堂の前を行き交う誰もが、気ぜわしげに早足で歩いている。
  「十二時きっかりに、って妙さんと約束したのに」入口に近いテーブルに着いた信子が、心細そうにガラス窓から外を何度も見た。
  こいしはランチョンマットを敷き、カトラリーをセットしている。
  「出掛けに、急な来客があったんやそうです。妙さんから連絡がありました」流が厨房から顔を覗かせた。
  「大事な用があると言えばいいのに」
  信子が不服そうに言った。
  「信子さん。今日お出しする料理のことですけどな」厨房から出て来た流が、信子の前に立った。
  信子は緊張した面持ちで流の次の言葉を待つ。
  「お捜しの料理、見つけました。間違いないと思います。ただ、五十五年前と同じようにお作りしたいんで、ちょうど今、お店に入って注文を済ませた、という気持ちになってもらえますやろか」
  「わかりました」
  神妙な顔つきで、時計の針を戻すように、信子がゆっくりとまぶたを閉じた。
  「お父ちゃんからレシピをちゃんと聞いてあるんで、わたしが作らせてもらいます」信子にそう言い置いて、こいしが厨房に向かう。流は信子と向かい合う席に着き、話し始めた。
  「お食べになった店の名前は『グリル?フルタ』です。細い路地に入って、ニセアカシアの葉陰に看板が掛かっています。店に入ると右手にカウンター席があります。信子さんと、もうひとりの男性は、並んでそこに腰掛けました。男性の方がご主人に注文しました。『ビーフシチューをふたつください』。とご主人が、おもむろにジャガイモとニンジンの皮を剝き始めます。今ちょうどそんな瞬間です」まるで催眠術を掛けるかのように、流が低い声でゆったりと語る。
  「あなたがどうしてそれを」
  「実は、ビーフシチューだけやのうて、信子さんのその日一日を捜させてもろたんです」「あの日一日を……」
  信子が天井に目を遊ばせた。
  「五十五年前の冬。今日みたいに寒ぅい日やったと思います。或ある男性と信子さんは、三条京阪で待ち合わせをなさったんやと思います。その男性の目的地は下しも鴨がも神社やったんでしょう。今やったら出町柳まで直通電車が走ってますけど、当時はありませんでしたさかい、鴨川堤を散歩しながら北に向こうたんですやろな」流が京都市内の地図を広げた。信子は身を乗り出して、流の指先を目で追う。
  「そう。上流に向かって、河原を歩きました。初対面とは思えないほど、話が弾んで……」
  信子が頰を紅潮させた。
  「ここが出町柳。おそらくこの辺から堤防に上がって、糺ただすの森に入って行かはったんでしょう。森の中を歩いたと言うてはったんは、ここです」高野川と賀茂川が合流するY字の上に広がる緑を、流が指で押さえた。
  「こんな街なかではなくて、もっと深い森だったような気がするんですが」信子が小首をかしげた。
  「糺の森は昔の原生林をそのまま残してますさかい、森は深いんですわ」流がノートパソコンを開き、ディスプレイを信子に向ける。神社の朱の鳥居が映し出されている。
  「森を歩いた後にお参りしはった社は、この下鴨神社です。深い森を抜けて、となると、ここしかないんですわ」
  「森を抜けたところにある神社は、ここだけじゃないと思いますけど」信子は懐疑的だ。
  「『方丈記』の話をなさってた、となると、ゆかりの下鴨神社にも足を運ばれたはずです。それともうひとつ。この日にご一緒された男性。その方の干支はネズミやと覚えてはりました。なんでです?」
  「なぜって言われましても。ご本人がそうおっしゃったからだと思いますが」信子は探るような目付きをした。
  「その方のお名前も忘れてはるというのに、干支だけは覚えてはる。それは言葉やのうて、信子さんの頭に映像が残ってるからやと思いますねん。その方がネズミの神さんにお参りしてはる姿が」
  「ネズミの神さま?」
  「京都、いや、日本中でも珍しいと思いますが、下鴨神社さんのお社は干支別にお参りするようになってます。言こと社しゃと言いましてな、小さい祠ほこらが七つあるんです。
  その内の五つは、干支が二つずつですさかいに、ふたつにひとつ。けど、ネズミとウマだけは単独です。せやから覚えてはったんでしょう。その方の干支がネズミやと」「玉砂利を踏んで、朱い鳥居を潜ると、どんなに大きな拝殿があるのかと思えば、小さな祠が幾つも……」
  信子が思い出している。
  「映像は消せなんだんですやろな」
  「神社を出てからも、ずっと並んで歩きました」信子の中で記憶が鮮明になって行く。流はそれを間近に見ている。
  「小鍋のルーを入れたら、ちょっとこっちに鍋ごと持って来てくれるか」厨房を振り向いて、流はこいしに声をかけた。
  「仕上げる直前の状態でええんやね」
  湯気と共に、馨かぐわしい香りが立ち上がる手付きのアルミ鍋を、こいしが運んで来た。
  「『グリル?フルタ』はオープンキッチンでしたさかい、カウンター席に座ってはった信子さんは、こんな匂いを嗅いではったはずです」流が信子に鍋を向けた。
  「そう。そうだった。こんな匂い」
  信子が鼻をひくつかせる。
  「もう十五分足らずで仕上がります」
  目を閉じている信子を横目にして、流は鍋を元に戻すよう、こいしに目で合図する。
  「ここから先は、わしの余計なお世話やと思いますんで、ご気分を害さはったら、いつでも止めてください」
  流の言葉に、信子は一瞬ためらった後、静かにうなずいた。
  「この前お越しになって、奥へご案内したときに、廊下を歩いとって、ためろうてはりましたな。あないして、ためらわはるのは、誰か思い出したくない人がその食に絡んでいるときです」
  茶を啜ってから、流が続ける。信子は視線をテーブルに落としたままだ。
  「ご依頼いただいた、ビーフシチューを捜すのは、そない難しいことではありませんでした。食通には知られた店でしたし、あれこれと作家が書き残してます。歩かはった道筋を辿ったら、あの店に行き着きます。わしの頭を悩ませたんは、ただひとつ。思い出したくない人を捜し当てたことを、信子さんにお知らせして、ええもんかどうか、です」流の言葉に、信子は顔を上げ、こっくりとうなずいた。
  「その男性は子ね島じま滋しげるさんという方です。『グリル?フルタ』の常連さんやった方にお訊きしたら覚えてはりました。京大生で苗字に子が付く方」「子島滋さん……」
  信子は呆然としている。
  しばらくして、流が顔を覗き込むと、我に返ったように信子が背筋を伸ばした。
  「子島さんは、京都大学文学部の学生さんでした。生まれも育ちも京都。当時のお住まいは上かみ京ぎょう区真如堂前町。御所のお近くやったんですな」ノートを見ながら、流が地図を指した。
  「どうして子島さんのことをそんなに詳しく……」「実は子島さんのお嬢さんからお聞きしましたんや」「お嬢さんがいらしたんですか」
  信子が肩を落とした。
  「話を五十五年前に遡さかのぼらせてもろてもよろしいですか」流が喉の渇きを茶で癒してから続ける。
  「子島さんは信子さんと昭和三十二年の十二月に会うたはりますが、年が明けてすぐ、イギリスに渡ってはります」
  「イギリスに?」
  「留学なさって、そのままロンドンの大学に勤めはって三十五年間、最後は名誉教授にまで登り詰めはりました。イギリスに渡って三年目に現地で結婚されて、お嬢さんをひとり授かってられます。奥さんは五年前に病死なさったのですが、その後も一年前にお亡くなりになるまで、向こうでずっと日本文学の研究をなさってたそうです。きっと信子さんをロンドンに連れて行こうと思わはったんでしょうな。当時あなたは横浜住まい。次の機会にてな悠長なこと言うてられん」
  「でも、それはあくまで鴨川さんの想像なんでしょ?」「いえ、想像やおへん。子島さんの日記に詳しい書いてあったんを、お嬢さんのご好意で見せていただきました。子島さんは昭和三十年からずっと日記を続けておられましたんや。さすがに奥さんに見られたらイカンと思わはったんでしょうな。日記はずっと大学の研究室に保管してはった。子島さんが亡くなった後、研究資料を整理してはったお嬢さんが見つけはったそうです」
  流が信子にやわらかな笑顔を向けた。
  「さすがにビーフシチューのレシピは書いてありませんでしたけどな」柱時計に目を遣ってから、流が厨房を振り向いた。
  「怖かったんです。あまりに突然やって来た幸せが怖かった」まるで子島に語りかけるように、信子は言葉を紡いだ。
  「遅くなりました」
  息せき切ってという風に、妙が店に飛び込んできた。
  「遅かったじゃないの」
  信子が不満そうに口を尖らせる。
  「ちょうど出来上がりましたんで、おふたりで召し上がってください」こいしが厨房から声をかけた。
  「急な来客があったものですから」
  妙が息を落ち着かせ、襟元を整えた。
  流がビーフシチューを運んで来て、ふたりの前に置いた。
  「いい香りですこと」
  妙が鼻をひくつかせるが、信子は身動きひとつせず、じっと見つめている。
  「熱いうちにどうぞ」
  流が促すと、ふたりは合掌した後、揃ってナイフとフォークを取った。
  厨房から出て来たこいしと流が、食い入るようにして、ふたりの口元を見ている。
  最初に肉を口に入れ、しばらく嚙みしめていた信子が、大きくうなずいた。
  「この味でした。間違いありません」
  「よかったぁ。お父ちゃん、よかったな」
  こいしが流の肩を叩たたいた。
  「見た目はさらっとした感じですけど、食べるとしっかりコクがあって。デミグラスソースもきっと丁寧に作られたんでしょうね」
  妙がにっこり微笑ほほえんだ。
  「食通で知られる文豪は『グリル?フルタ』のビーフシチューを、〈味はポトフのよう〉と書き残してますが、わしはちょっと違うと思います。濃いデミグラス色と違うて、淡いトマトソース色やさかいに、あっさりしていると言いたかったんかもしれませんが。予あらかじめフォンで煮ておいた肉をポルト酒でさっと温める。それを野菜と同じ鍋に入れ、デミグラスソースを足して煮込むと、こんな味になります。最初から野菜と肉を一緒くたに煮ると、形が崩れるし、味も混ざる。この『グリル?フルタ』風でやると、デミグラスソースをまとった肉、という感じになる。肉の旨うまみとソースの味が口の中へ入って初めて混ざり合うんですわ」
  流が少しばかり胸を張った。
  「ちょっと味見したけど、メチャクチャ美味しかったわ」こいしが流の耳元でささやいた。
  「お父ちゃんの渾こん身しんのレシピや。まずいわけがない」流が小声で返した。
  信子と妙は語らいながら、ゆったりとした時間を過ごしている。食べ終える頃を見計らって流が声を掛けた。
  「同じビーフシチューでも、おふたりの味は違うたと思います」「どういう意味です?」
  口元をナプキンで拭ぬぐいながら妙が訊いた。
  「妙さんと違うて、信子さんには三十分という待ち時間がありました。その時間も味わいに加わるんですわ。今日はきっと、思い出というスパイスが効いていると思います」流がやさしい眼まな差ざしを信子に向ける。
  「子島さん、今はどちらに?」
  わずかに頰を染めて、信子が流に訊いた。
  「岡崎にある『金こん戒かい光こう明みょう寺じ』というお寺に眠っておられます。京都の人には『黒谷さん』と言うた方がわかりやすいかもしれません。亡くなったのは去年の十二月、寒い日やったらしいです」
  流がそう答えると、信子は唇を一文字に結んだ。
  「ご無礼な振る舞いをしたこと、お詫わびすることもできないままに」「ボタンの掛け違いさえなかったら」
  こいしがぽつりと言った。
  「そろそろ失礼しましょうか」
  気持ちの整理を付けようとしてか、信子がバッグから財布を取り出した。
  「お代金はお客さんに決めてもろてます。お気持ちに見合うた金額をここに振り込んでください」
  こいしがメモ用紙を手渡した。
  「美味しいビーフシチューでした」
  妙が流に一礼した。
  「お口に合うてよかったです。妙さんにはスパイスが足りんかったと思いますけど」流が妙に笑みを向けた。
  「ありがとうございました」
  店の外に出るなり、信子はこいしと流に頭を下げた。
  「そや、うっかりしてました。お渡しせんならんもんがあったんですわ」流が白衣のポケットから、文庫本ほどの白い封筒を取り出した。
  「信子さんにお渡しするように、と、お嬢さんからあずかりました。ハンカチが二枚入ってます」
  流が二枚のハンカチを取り出して見せた。
  「これは」
  信子が驚いた声を出した。
  「五十五年前、お店を飛び出さはった信子さんの忘れ物やそうです。もう一枚は子島さんが信子さんにプレゼントしようと思うてはったスワトウのハンカチですわ。綺麗なもんですやろ。『一いっ片ぺんの月つき』というんやそうです。唐の詩人、李り白はくの子し夜や呉ご歌かにちなんだ図柄らしいです。調べてみたら、子夜呉歌という詩は、遠くに離れた人のことを恋しく待つ、という内容でした。お忘れになったハンカチと一緒に、信子さんのお家に送らはったんですが、受け取りを拒否されたそうです。あなたが留守してはった時に届いたんでしょうな。縁が繫がらんかった……」二枚のハンカチを封筒に戻し、流が信子に手渡した。
  「ありがとうございます」
  差出人の名をじっと見つめ、封筒を握りしめた信子の頰を、ひと筋の涙が伝った。
  「こんな粋なプレゼントをなさるなんて」
  妙が目頭をハンカチで押さえた。
  妙と信子はゆっくりとした足取りで店を後にする。こいしと流はふたりの姿が見えなくなるまで店の前で立ち尽くしていた。
  店に戻った流とこいしは片付けを済ませ、夕ゆう餉げの支度を始める。
  「お父ちゃん。まさか、昔の恋人、こいしていう名前やったんと違うやろね」居間に入るなり、こいしが流をにらんだ。
  「アホ言え。わしは生涯お母ちゃん一筋や。なぁ掬子」振り向いて、流が仏壇に笑みを向ける。
  「お母ちゃん、騙だまされたらアカンよ。男の人なんて、何を考えてるか、ワカラへんねんから」
  「そんなこと言うとるさかい、いつまで経ってもヨメに行けへんのや」「行けへんのと違う。行かへんの。しょうもない男ばっかりやもん」「減らず口叩いてんと、早ぅ晩飯の仕度せい。お母ちゃん、待ちくたびれてるがな。ビーフシチューとワイン。掬子の好物やったな」
  「ちょ、ちょっと待って、お父ちゃん、どないしたん。そのワインてメチャクチャ高いんと違うの」
  「ようわかるやないか」
  「ようそんなワイン買うお金あったなぁ」
  「秀さんな、思わんようけ振り込んでくれはったんや」「楽しみやねぇ。それ、何ていうワインなん? 聞いてもわからへんやろけど」「『シャトー?ムートン?ロートシルト』や。お母ちゃんの生まれ年一九五八年。このラベルはダリが描いたんやで。高い言うても五九年より安いんや。大したことはない。お前にこの前買うてやったパソコンと同じくらいや」「え? このワイン一本が十万円もするん?」「まあ、ええがな。お母ちゃんは生きとる間、かけらも贅ぜい沢たくせんかったんやから」
  「お父ちゃんて、ときどきこういう思い切ったことするなぁ」「それに今日はお母ちゃんの命日やさかいな。まさかお前忘れてたんやないやろな」「忘れるわけないでしょ。はい。お母ちゃん」こいしが花束を解いた。
  「クリスマスローズ。お母ちゃんが大好きやった花」仏壇の前に置かれた小机に供える。
  「ちょっと冷えて来たな」
  流が窓の外に目を遣る。
  「初雪、やったらええのにね。お母ちゃん、雪が大好きやったし」目を閉じたこいしが仏壇に手を合わせた。
 
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