第三話 鯖寿司
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京都駅から乗り込んだタクシーの後部座席で、岩いわ倉くら友とも海みは何度も腹をさすった。
新幹線の車中で打ち合わせをしながら食べた弁当が、まだ腹にしっかり残っている。なのにこれから向かうのは食堂だ。常用している胃薬を持って来なかったことを、岩倉は少しばかり後悔した。
烏から丸すま通でタクシーを降りた岩倉は、周囲の様子を窺うかがった後、注意深く黒縁の眼鏡を外して、東本願寺の前に植わる銀杏いちょうの木を見上げた。
葉が黄金色に染まっている。秋が深まっていることに、岩倉は今初めて気付いた。東京で仕事をしているときには、まるで意識しない季の移ろいを感じさせてくれるのが京都という街だ。
信号が青に変わった。眼鏡を掛け直し、俯うつむき加減で横断歩道を渡る。正面通の左右を見渡しながら、気ぜわしげに目を動かす。細い通りには仏具店や法ほう衣い商、雑居ビルなどが建ち並んでいる。タクシー運転手が言ったとおり、たしかに食堂とおぼしき店は見当たらない。
タクシーの真後ろにピタっと追尾していた黒塗りのセダンは、真横を通り過ぎて道端に停とまり、こちらの様子を窺っているようだ。それを横目で見て、岩倉は小さく舌を打ってから、足早に歩き出した。
「この辺に食堂はありませんかね」
背を屈かがめ、手押し車を押す老婆に、すれ違いざま岩倉は訊きいた。
「食堂やったら、もう一本南の通りにありますわ。『第矢食堂』のことでっしゃろ?」腰を伸ばしながら老婆が答えた。
「いや、そんな名前じゃないんですが」
岩倉の言葉を聞いて、老婆は宅配便の車を指さす。
「あのお兄ちゃんに訊いてみなはれ。わてらみたいな年寄りにはようわからんで」岩倉は、小走りで通りの向かい側に停車しているトラックに向かった。
「すみません。この辺りに『鴨川食堂』という店はありませんか」「『鴨川食堂』? 聞いたことないですねぇ。この辺の住所なんですか」青い縦たて縞じまのユニフォームを着た、宅配便のドライバーが荷台を整えながら、二度ほど首をかしげる。
「ええ。正面通の東洞院ひがしのとういんを東、って聞いたんですが」口ひげを撫なでながら、岩倉がメモ書きを見せた。
「ああ。ここね。その右側の二軒目。看板を取り外した痕あとがあるでしょ」大きな段ボール箱を抱えたドライバーが、顎で差した先には、殺風景なしもた屋があった。
岩倉がメモをポケットに仕舞いこむと、ドライバーは小さく笑みを浮かべてから、トラックに乗り込んだ。
岩倉はゆっくりと歩を進め、細い通りを渡って建屋の前に立った。
店らしくない佇たたずまいに一瞬戸惑ったような表情を見せた岩倉は、意を決してアルミの引き戸を横に引いた。
「いらっしゃ……」
振り向いた女性の言葉が途中で固まってしまった。
「食事、できますか」
白衣をまとった若い女性は、ゆっくり首を傾けてから、料理人に伺いを立てるように、厨ちゅう房ぼうの奥を覗のぞき込んだ。
「おきまりの定食しかできしませんけど、それでよかったら」店の構えとは不釣り合いなほど、きちんとした身なりの料理人が、厨房から岩倉に顔を向けた。
「それでいいです。量は少なめにしてください」ホッとしたような顔を見せて、岩倉が四人がけのテーブルに着いた。デコラ貼りのテーブルの上には新聞と週刊誌が無造作に置かれている。つい今しがたまで客が居たのだろう。
赤いビニール貼りの丸いパイプ椅子に腰掛けて、周りを見回す。四人がけのテーブルが四つと、厨房との境にカウンター席が五つ。入口近くの天井には吊つり棚が取り付けてあり、神棚と並んで液晶テレビが置かれている。先客はふたり。テーブルとカウンターに男女がひとりずつ。どちらも岩倉に背を向けている。外観は怪しいが、中に入ればいたって普通の食堂だ。岩倉は新聞を広げた。
「こいしちゃん。お茶くれるかな」
テーブル席の若い男性が、白衣の女性に声をかけた。
「ごめんなぁ、浩さん。気がつかんと」
こいしと呼ばれた女性は猫なで声を出して、テーブルに駆け寄り、湯ゆ吞のみに急きゅう須すを傾けている。
言われてみればたしかに、こいしという名前がよく似合う女性だ。小柄で丸顔。どんな漢字だろうと考えて、岩倉はしごくシンプルに、小さい石を思い浮かべた。
「今日のカレーはいつもより辛かったな。激辛に近いよ。流さん、レシピ変えたのかな」額の汗を白いハンカチで拭ぬぐいながら、浩さんと呼ばれた男性客がこいしに訊いた。
「どうなんやろ。うちのお父ちゃん、気まぐれやさかいな。ただたんに、今日の気分は激辛、いうだけと違う?」
さっきの料理人はこいしの父親のようだ。親子で切り盛りする店なのか。どうやら料理人が言った、おきまりの定食とやらはカレーらしい。
「デザートをお持ちしま……、あ、すみません、水菓子をお持ちしました」こいしがカウンター席に小さな盆を運んで来た。
「それでよろしい。西洋料理ならデザートですが、日本料理の最後に出す果物は水菓子と言いなさい。おや。お抹茶が見事に点たってますこと。心していただきますわ。早くこっちを下げてくださいましな」
着物姿の老婦人が、幾つかの器が載った折お敷しきを差した。
「言われんでも下げますやんか。最後のご飯まで、綺き麗れいに召し上がってもろて、お父ちゃんも喜びますわ」
折敷を下げ、ダスターでカウンターを拭きながら、こいしが愚痴っぽい口調で言った。
「流さん。今日も美お味いしゅうございました」カウンターの老婦人が中腰になって、厨房に声をかけた。
「妙さん。いつもありがとうございます。お口に合うて何よりですわ」流と呼ばれた料理人が厨房から顔を覗かせて、老婦人に笑顔を向けた。
日本料理という言葉を使ったからには、どうやらこの老婦人が食べたのは激辛カレーではないようだ。広げた新聞の隙間から、岩倉が横目で覗くと、妙と呼ばれた女性の前には抹茶碗と果物が置かれている。
「でも流さん。茶碗蒸しに松まつ茸たけは余分ですわよ。きっと丹波産でしょうけど、香りが強過ぎて、せっかくの茶碗蒸しの風味が台無しです。過ぎたるは猶なぁ∈ントカって申しますでしょ。淡いお出だ汁しの効いた茶碗蒸しには百ゆ合り根ねと蒲かま鉾ぼこ、椎しい茸たけだけで充分です」
中腰になった老婦人がきっぱりと言い切った。
「妙さんには、かないまへんな。以後気ぃ付けますわ」白い帽子を取った流が苦笑いを浮かべた。
「いつもと同じでよろしいのかしら」
着物姿の妙さんが財布を出した。
「八千円ちょうだいします」
こいしが平然とした顔付きで応える。
「ごちそうさま」
妙さんは一万円札をこいしに渡し、釣りを受け取る気配などまるで見せずに、店を出て行く。妙さんの立ち姿は思ったより背丈も高く、伸びた背筋に龍田川の絵柄の帯がよく似合っていた。岩倉はその後ろ姿を呆ぼう然ぜんと見送った。
「長いことお待たせして、すんまへんでしたな」流と呼ばれていた料理人が、アルミのトレーに載せて、岩倉に料理を運んで来た。
「これが、おきまりの定食……ですか」
テーブルに並べられた料理を見て、岩倉が目を白黒させている。
「うちの店は品書きがないんですわ。初めてのお客さんには、おきまりの定食を出させてもろてます。これを食べていただいて、気に入ってもろたら、次にお越しになるときは、お好みの料理を作らせてもらいます。ま、ゆっくり召し上がってください」流がトレーを小脇に挟んで軽く一礼した。
「あの……」
その背中に岩倉が声をかけると、流が振り向いた。
「なにか」
「ここは『鴨川食堂』、ですよね」
「ええ、まぁ、そんなようなもんです」
「鴨川探偵事務所はどちらに?」
「なんや。そっちのお客さんやったんですかいな。それやったら、そうと最初から言うてもろたらよかったのに」
流が料理を片付け始めたのを見て、慌てて岩倉が制した。
「いや。料理はもちろんいただきます。その後で、ちょっとご相談を」言いながら岩倉が箸を取った。
水菜と揚げの煮びたし。にしんと茄な子すの煮物。カブの浅漬け。じゃこの玉子とじ。
〆しめ鯖さば。ずいきの胡ご麻ま和あえ。西京焼きはマナガツオだろうか。焼き立てらしく湯気が立ち上がっている。味み噌そ汁しるの具は玉ねぎとじゃがいも。岩倉は小さく合掌してから清きよ水みず焼やきのご飯茶碗を左手に持って、箸を伸ばした。
初めて訪れた店なのに、懐かしい皿が並んでいる。満腹状態なのもすっかり忘れ、真っ先に箸を付けたのは、じゃこの玉子とじだった。
口に運んですぐ、岩倉は思わず目を閉じた。甘い玉子に、じゃこの微かすかな苦味が重なる。芳ばしい胡麻油の香りも昔と同じだ。前屈みになって、岩倉は行儀悪く迷い箸をした。
箸で挟むと、あっさりとその身を崩すにしんは、いくらか濃い目の味付けが嬉うれしい。浅漬けで箸を休めて、味噌汁の椀を手にした。岩倉は子供の頃からずっと、味噌汁の具は、じゃがいもと玉ねぎの取り合わせを最上と信じている。味噌加減もちょうどいい按あん配ばいだ。次々と平らげ、思いがけず飯茶碗を空にすると、それを見たこいしが、くすりと笑った。
「ご飯のお代わり、どうです。まだ、たんとありますよって」こいしがトレーを差し出した。
「ありがとう。もっと食べたい気もするが、これくらいにしておくよ」ハンカチで口ひげを拭ってから、岩倉は飯茶碗に掌てのひらで蓋をした。
胃がはちきれそうになっている。夢中になって食べたことを幾分後悔していた。
「お口に合おうたようでよかったですわ」
急須の茶を注ぎながら、こいしが言った。
「所長。そちらさんは、おまえのお客さんやで。いっぷくしはったら、奥へご案内するで」
器を下げに来た流が言った。探偵はこいしの方だったのか。岩倉はいくらか驚いた。
「なんや、そうでしたん。それやったら、そうと最初から言うてもろたらよかったのに」ていねいにテーブルを拭きながらこいしが言った。
さすがに父と娘、言葉も口調もまるでそっくりだ。
「あなたが〈食〉を捜してくれるんですね」
茶を啜すすりながら、岩倉がこいしを見上げた。
「厳密に言うたら、捜すのはお父ちゃんやけどね。わたしはただの窓口。て言うか、通訳みたいなもんですわ。こんなこと言うたら失礼かもしれませんけど、〈食〉を捜してくれ、てなこと言わはるのは、けったいなお客さんでしょ。お父ちゃんには理解できひんことが多いんです。それをわたしが嚙かみ砕いて……」小柄なこいしが腰を屈めると、椅子に座る岩倉と顔が並ぶ。
「こいし。余計なこと言わんでええ」
熱弁を振るうこいしを、流が厨房から顔を覗かせて制した。
「ごちそうさま。流さん、やっぱりこれくらい辛い方が旨うまいと思うよ」ずっとスマートフォンをいじっていた浩さんが立ち上がって、厨房に声をかけた。
「おおきに。グルメの浩さんにそない言うてもろたら嬉しいな」流が満面に笑みを湛たたえた。
「いつも言ってるでしょ。僕はグルメなんかじゃない、ただの食いしん坊」浩さんは、五百円玉をパシっとテーブルに置いて、アルミの引き戸を引いた。
「こら、ひるね。入って来たらあかんよ。またお父ちゃんに蹴飛ばされるんやから」こいしが高い声で叫んだ。入口に寝そべっていたトラ猫が、浩さんの足元にじゃれついている。
「そうだよ、ひるね。流さんには気をつけないとな」浩さんがトラ猫の頭を撫でてから、東に向かって歩き出した。
「浩さん、明日はお休みやからね。他の店に行っといてな」こいしが寂しげな声を背中にかけると、浩は後ろ手をひらひらと振った。
客は岩倉ひとりになり、急に静かになった。こいしは早足で店の奥に引っ込んでいった。
岩倉の携帯電話が胸ポケットの中で震え、メール着信を報しらせた。
〈あと三十分がタイムリミットです〉
ディスプレイを見て、岩倉が小さくため息を吐ついた。
「よかったら奥へどうぞ」
厨房から出て来て、流が岩倉に手招きした。
「探偵事務所は店の奥にあるのですか」
「探偵事務所やなんて、立派なもんやおへんのですわ。よろず相談所みたいなもんで。今日び、食堂だけでは食うていけまへんしな」
厨房の横にあるドアを開けた流が細長い廊下を歩く。廊下の両側の壁は料理写真のピンナップで埋め尽くされている。
「これは全部、ご主人がお作りに?」
「そない大層なもんやないんですが。料理は作るのも食べるのも好きですさかい」振り向いて流が微笑ほほえんだ。
「これは、ひょっとして中華の……」
左側の壁の中ほどに貼られた写真を岩倉が指した。
「ああ、それね。そうです。仏ファッ跳チュー牆チョンですわ。あんまり旨そうな匂いがするさかい、修行中の坊さんでも、垣根を飛び越えて食べに来る、っちゅうやつです」立ち止まって流が答えた。
「しかしこの料理は食材を揃そろえるだけでも大変だと思うんですが、失礼ながらこの食堂で? どなたにお出しになったんですか」
岩倉が訊いた。
「うちの家内に作ってやったんですわ。万病に効く、と言われてましたさかいに。まぁ、大した効果はありませんでしたけど、美味しい、美味しいと何度も言うてくれたんで、効き目はともかく、味だけはよかったんやと思います」流が寂しげな笑みを浮かべた。
「どうぞ、こっちです」
先を歩く流がドアを開けた。岩倉は流に一礼して、真まっ直すぐ部屋に入って行った。
六畳ほどの洋室にはローテーブルを挟んでソファが二台置かれ、奥のソファには黒いスーツに着替えたこいしが座っている。向かい合って、岩倉が腰をおろした。
「鴨川こいしです。よろしくお願いします。早速ですけど、こちらにお名前、ご住所、年齢、生年月日、連絡先、ご職業をご記入いただけますか」改めて挨拶した後、こいしがグレーのバインダーをテーブルに置いた。
「全部書かないといけませんか」
岩倉がペンを持ったまま、こいしの顔を真っ直ぐに見た。
「大丈夫ですよ。個人情報はきちんと管理していますし、守秘義務もありますから。あ、けど差支えがあるようやったら、いいですよ。山田太郎、とか適当に書いといてくれはったら。連絡先だけ間違いないように」
こいしが事務的に答えた。
少し考えたあげく岩倉は、こいしの提案どおり、山田太郎と書き、適当な住所を記入し、職業は公務員とした。五十八歳という年齢は正直に記入し、連絡先は私用の携帯電話番号を書いた。
「そしたら、山田太郎さん。本題に入りましょか。どんな食を捜したらええんです」こいしが訊いた。
「鯖さば寿ず司しを捜して欲しいんだ」
「どんな鯖寿司ですか? たとえば京都の名店『いずう』さんの繊細な鯖寿司とか。それとも『花織』さんみたいなワイルドな……」
こいしがノートにペンを走らせる。
「いや、そんな有名な店のものじゃなくてね。子供のころに食べた鯖寿司なんだよ」岩倉が眼鏡を外して、遠い目をした。
「山田さん。以前どっかでお会いしたことありません?」こいしが前のめりになって、岩倉の顔を覗きこんだ。
「いや、今日初めてお会いしましたよ」
岩倉は顔をそらし、慌てて眼鏡をかけた。
「まぁ、それはええとして。で、どういう思い出なんですか」こいしがペンを持つ手を止めた。
「もう五十年近くも前のことだから、いくらか曖昧な部分もあるのだがね」岩倉が記憶を辿たどりながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
岩倉の生家は、ここから北へ五キロばかりはなれた京都御所の西、武む者しゃ小こう路じ町ちょうにあった。
「父はずっと東京に行っていて、家に居た記憶がない。たいてい、母親と妹と三人で食卓を囲んだな。会話もなく、静かな寂しい食卓だった。そこに鯖寿司があったわけじゃないんだ」
岩倉の眉が寂しげに歪ゆがんだ。
「そしたら、どこでその鯖寿司を?」
こいしが幾分声を落とす。
「近所にあった『くわの』という旅館で食べたんだ」「旅館ですか。ということはプロの料理ですね」こいしが勢い良くペンを走らせる。
「それは少し違うな。旅館といっても、わたしが食べたのは、店で出すものとは違ったと思う」
岩倉が思い出の中にある鯖寿司を語り始めた。
「五十年前ということは、山田さんはまだ八歳ですよね。失礼ですけど、小さい子供に、そんな区別がついたんですか。旅館で出す料理やないて」こいしが訝いぶかしんだ。
「もちろん同じ物を旅館でも客に出していたかもしれない。だが、わたしが食べたのは、たとえ同じものであったとしても、商品じゃなかった」そう言って、岩倉は小さく胸を張った。
「わかったようで、わからん話やな」
こいしが苦笑いした。
「旅館の一部が女将おかみさんの住まいになっていてね。わたしはいつもそこの縁側で遊ばせてもらっていた。三時を過ぎたころになると、決まっておやつを持って来てくれる。
甘いものじゃなくて、焼き芋だとか、赤飯だとか、お腹なかの足しになるような、そんなおやつだった。その中で特に記憶に残っているのが鯖寿司なんだ」「具体的に、どんな鯖寿司だったんです?」
ペンを持ったこいしが耳を傾ける。
「抽象的かもしれないが、あのときの鯖寿司といって真っ先に浮かぶのは、幸せという言葉だ。具体的にとなれば、一番記憶に残っているのは、酢飯が黄色かったことかな」「酢飯が黄色い、と。他には何か」
こいしがペンを走らせる。
「今のように甘くなく、酢飯の味がもっと酸っぱかったような気がする。レモンのような……。あと、そうそう、宿の女将さん、たしか沖縄が味の決め手だと言ってたな」「沖縄? 鯖寿司の味の決め手が沖縄、ですか」書きとめながら、こいしは何度も首をかしげた。
「五十年も前の記憶だから、違っていることもあるかもしれないがね」こいしの反応に、岩倉はいくらか弱気も見せる。
「女将さんが沖縄の出身だったかもしれませんね」「それはどうだか、わからんが、生きた鳥居がどう、とかという話はよく聞かされた。女将さんの家の近くに生きた鳥居がある、そんな話だったような」顎を上げた岩倉が、天井に目を休めた。
「生きた鳥居。沖縄にそんなんがあるんやろか。ますますわからんなあ」こいしはノートに想像図を描いて、大きなため息を吐いた。
「記憶にあるのは、そんなところかな」
イラストを見た岩倉が、ゆっくりとソファにもたれかかった。
「だいたいわかりました。けど、これだけで、お父ちゃん、捜せるかなぁ」書き終えたノートの数ページを繰りながら、こいしが不安げに首をかしげた。
「期待していますよ」
岩倉がソファから身体からだを起こした。
「今のお話やったら、そのものズバリは無理やと思うんです。その鯖寿司を再現して、食べてもらうということでよろしいですか」
こいしの問いかけに、岩倉は黙ってうなずいた。
「まずは、この人を捜して、それから食材を見つけて、やろ。それができたら味付けを探って……。そうやな、二週間いただけますか。二週間後にはなんとか」ノートを閉じて、こいしが顔を上げた。
「二週間? そんなには待てないな。一週間で捜してくれないか。来週の今日、またここに来るから」
岩倉がこいしの目を見返した。
「えらいお急ぎなんですね。一週間後やないと、あかんというわけでもありますのん?」岩倉は、ぎっしり埋まったスケジュール表を頭の中で思い浮かべた。来週の京都行きを逃すと、次はいつ来られるともしれない。
「それも言わないといけないかね」
眼鏡の奥で、岩倉の目が静かに開いた。
「いえ、別にええんです。個人的にちょっと興味があっただけで」気け圧おされて、こいしは目を伏せた。
「よろしく頼みます」
テーブルに両手をついて、岩倉が頭を下げた。
「すべてはお父ちゃん次第やけど。なんとか頑張らせてみます」「ありがとう」
「けど、こんなん言うたら失礼やけど、山本さんて変わってはりますね。お話聞いてたら、その鯖寿司、ちっとも美味しそうやないわ。今の京都にはいくらでも美味しい鯖寿司があるのに、わざわざそんな変わったんが食べたいやなんて」「こいしさん。それはあなたがまだ若いからですよ。若いときは無条件に旨いものに屈するんだがね、わたしらのように歳としをとってくると、思い出というスパイスに心を惹ひかれる。あんなにわたしを幸せにしてくれた鯖寿司をもう一度食べてみたい。それと、わたしは山本じゃなくて山田だ」
岩倉が苦い笑いを浮かべた。
「失礼しました。でも山田さん、わたし、そんな若くはないですよ。とうに三み十そ路じは過ぎましたし。一週間か……。もう一日だけください。来週の水曜日に。食堂の方が休みなんで、何かと都合がええし」
今回は束つかの間まの休みを使って訪れたが、来週は公用の出張となる。自由になる時間は限られるものの、少しばかり無理をすれば一時間くらいはなんとかなるだろう。
「水曜ですね。承知しました。ではお昼ごろに参ります。もし難しいようなら、早めに連絡ください」
「お父ちゃんは見極めが早いさかい、あかんときはあかん、てすぐにわかります」こいしが目尻に細かなしわを寄せた。
「さっきのお食事と併せて、お支払いを」
岩倉が財布を出した。
「こっちは成功報酬になってますので、来週お越しになったときに。おきまりの定食は千円になります」
「あの素晴らしい内容で千円? なんだか申し訳ないようだけど」岩倉が千円札をこいしに渡した。
「領収書はどないしましょ」
「いいよ、要らない。あ、そうだ、山田太郎宛に切ってくれるかな。いい記念になりそうだから」
岩倉が嬉しそうに答えた。
「タクシー呼びましょか。この辺は意外とつかまえにくいんです」領収書を切りながらこいしが言った。
「大丈夫。ぶらぶら歩いて帰るよ」
こいしに先導され、細長い廊下を歩いて店に戻ると、新聞を広げた流が険しい顔付きをして、カウンター席でカレーを食べていた。
岩倉を見た流は慌てて新聞をたたみ、スプーンを置いた。
「どうぞゆっくり召し上がってください」
岩倉が素早く新聞に目を走らせ、肩を強こわばらせた。
「こいし。あんじょう話はお聞きしたんか」
コップの水を飲み干して、流がこいしに訊いた。
「ちゃんと聞いといたって。あとはお父ちゃんの腕にかかってるんよ」こいしが流の腕を平手で打つと、小気味いい音が店に響いた。
「そない力入れんでも」
顔をしかめて流が腕をさする。
「じゃ、来週また。よろしくお願いします」
小さく微笑んでから、ゆっくり腰を折って、岩倉が店を出て行った。
「おおきに。そしたら来週また、お待ちしてます」その後ろ姿にこいしが一礼し、流もそれに続いた。
「こいし。お前、今なんて言うた。来週また? いっつも言うてるやろ、結果を出すのには最低でも二週間かかる、て」
頭を上げるなり、流がこいしをにらみつけた。
「せやかて山田さんが、一週間後にしてくれて、言わはったんやもん。お父ちゃん、いつも言うてるやないの。お客さんのリクエストに応えるのが探偵の役目やて」「口の減らんやつやな。ま、言うてしもたもんは、しゃあない。で、どんな案件なんや。
一週間で解決できそうな簡単な話やったか」
こいしの持つノートを、流が素早く取り上げて頁ページを開いた。
「お父ちゃんやったら簡単やろ。三日もあったら充分なんと違う」こいしが流の背中を叩たたくと、さっきよりも大きな音がした。
「こんな鯖寿司なんか知らんで、わし」
ノートに目を落としたまま、流が眉間に縦ジワを何本も作った。
「それを捜し出すのが、お父ちゃんの腕やんか。しっかり頑張ってな。そや。わたしもカレー食べよ。浩さんが気に入ってはったカレーって、どんな味なんやろ」スキップしながら、こいしが厨房へ入って行った。
パイプ椅子に腰掛けて、流はノートの頁を繰った。流の表情は険しくなる一方だ。
「カレー、美味しいわ」
こいしが厨房から笑顔を覗かせるが、流はノートから目を離すことなく、指で字を追っている。
「〈黄色い酢飯〉、〈レモン〉、〈沖縄〉、〈旅館くわの〉、〈生きてる鳥居〉……。主なヒントはこれくらいか。えらい難問やがな」ノートを閉じた流が、腕を組んで天井を見上げた。
「大丈夫。お父ちゃんやったら、それくらいの謎はすぐ解けるて。それより、お父ちゃん。さっきエライ恐こわい顔して新聞読んでたけど、なんかあったん?」皿を洗いながらこいしが大きな声を上げた。
「もう十日もしたら、また消費税アップの法案が通るらしい。今でも苦しいのにやな、これ以上上がったら、日本中皆お手上げやで」
流が新聞をテーブルに放り投げた。
「ほんまやね。今の総理大臣も成り立てのころは、エエこと言うてはったのに、今はもうグズグズや」
こいしが食器棚に皿を重ねた。
「あの人も所詮、二世政治家やさかいなぁ。周りに流されてしまうんやろ。けど、総理になったときに、『決断するときは毅然として……』て言うたことを忘れてはらへんと、わしは信じとるんやが」
視線に力を込めて、流が新聞の写真を見つめた。
「政治がどないなっても、とにかくうちらは仕事せんと。銀行行って来るわ」こいしがエプロンを外した。
「そやな。ここでじっと考えとっても、ええ知恵は浮かばん。ちょっと武者小路町へ行ってみるわ。一週間しかないんやから、ぐずぐずしとられん。近所で訊いたら、なんぞ旅館のこともわかるやろ」
流が白衣を脱いで椅子の背にかけた。
「行ってらっしゃい。けど夜までには帰るやろ? 今晩どうする? なんかお寿司食べたい気分なんやけどな」
こいしが流に流し目を送った。
「贅ぜい沢たくなこと言いおってから。どうせ、あれやろ。浩さんとこ行きたいんやろ」「あたり。さすがお父ちゃん。素晴らしい推理や」「おだててくれてもな、お父ちゃん今ピンチやねん。ァ〈ルわけにはいかん。言うとくけど、今夜は割り勘やで」
「ケチ。ま、ええわ。浩さんのお寿司食べられたら」こいしが頰を紅あかく染めた。