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紅葉シーズン只ただ中なかとあって、京都の街は人で溢あふれかえっていた。鴨川食堂の前の正面通も、東本願寺と枳き殻こく邸ていを往き来する観光客で、いつにも増して賑にぎわいを見せている。
「山田さん、ちゃんと来はるかなぁ」
店の前で屈み込んだこいしが、ひるねの背中を撫なでている。
「あんじょう連絡したんかいな」
やきもきした表情で、往き来する人々を流が見回した。
「したわよ。けど山田さん、なんや忙しいしてはるみたいで、時間は先週より少し遅くなる、て言うてはったから」
「けど、もう一時やで。この前はお昼ちょうどに来はったがな」足元でじゃれつくひるねを、流が追い払った。
「あれと違うかな。今タクシーから降りはった、あの人」こいしが東本願寺の方を指した。
「遅くなりました。わざわざお出迎えいただいたんですか」ダークブルーのスーツを着た岩倉が、白衣姿のふたりに小走りで近付いて来た。
「猫と一緒に日向ひなたぼっこしてたんですわ。ま、どうぞお入りください」流が引き戸を引いた。
「急がせてしまって申し訳ありませんでした」店に入るなり岩倉が頭を下げた。
「これからお仕事でしょ。早速本題に入りますね。あとはお父ちゃんに」こいしが岩倉をテーブル席に案内した。先週のラフなスタイルと違い、どう見ても岩倉
は仕事中に抜け出して来たようだ。
デコラ貼りのテーブルを挟んで、流が岩倉と向かい合って座る。こいしは厨房に入って行った。
「で、どうでした。見つけていただけましたか」ひと呼吸おいてから、岩倉が切り出した。
「見つからんかったら、ここに来てもらわんでしょう」流が苦笑いした。
「ありがとうございます」
「礼を言うてもらうのは、まだ早いですわ。わたしは、山田さんが捜してはる鯖寿司はこれやと思うて作ってみましたけど、見当はずれかもしれまへん。そのときはどうぞ堪忍しとぅくれやっしゃ」
「元より承知しております」
射抜くような視線を岩倉が流に向けた。
「こいし。右から二本目を切ってくれるか。ひと切れを二センチ弱にな」厨房に向けて首を回した流が大きな声を出した。
厨房から、ストン、ストンと包丁の音が聞こえる。ゆっくりしたリズムで五回繰り返された。
「お酒もありますけど、お茶でよろしいやろか」黒塗りの盆に古伊万里の長皿を載せて、こいしが鯖寿司を運んで来た。
「もちろんお茶でけっこうです。まだ仕事を残していますから」岩倉が長皿にさっと目を向けた。
食い入るように見つめる岩倉は無言のままだ。
「さ、どうぞ」
背筋を伸ばした流が、掌てのひらを鯖寿司に向けた。
流の奨めにしたがって、岩倉が合掌してから、逸はやる気持ちを抑えられないように、急いで鯖寿司を口に入れた。流とこいしがその口元、表情をじっと窺っている。
岩倉は大きく口を動かして、嚙み締めながら鯖寿司をじっくり味わっている。
またしばらく沈黙のときが流れる。
「間違いない。これです。わたしが捜していた鯖寿司は」かすかに瞳を潤ませて、岩倉が口を開き、もうひと切れの鯖寿司を手に取った。
「よかったぁ」
こいしが思わず拍手した。
「この色と爽やかな酸味。歯ごたえ。完璧です。まるで魔法を見ているようだ。五十年前にわたしが食べた鯖寿司を、食べてもいないあなたがどうして……。もう少し詳しくお話しいただけませんか」
箸を置いて、岩倉が姿勢を正した。
「先週お越しになったとき、山田さんがこいしにお話しなさったことを、ひとつひとつたしかめてみましたんや。〈旅館くわの〉、〈生きてる鳥居〉、そして〈黄色い酢飯〉、〈沖縄〉。主なキーワードはこの四つやと思うたんです。まず、昔その旅館があったという上京区の武者小路町を訪ねてみました。もちろん今は旅館の影も形もありませんでしたが、ご近所の方に訊いたら、どうやら〈くわの〉は苗字やのうて、地名らしいということがわかりました。けど〈くわの〉てな地名は日本中に山ほどあります。ちょっと途方に暮れとったんですわ」
ひと息いれるように、流が茶を飲んでから続ける。
「〈旅館くわの〉の跡地はマンションになっていました。その前庭に一本、木が植わってましてね、それがトサミズキやったんです。訊いたら、旅館の頃からあったと言うんです。ひょっとしたら女将さんは土佐の方やないかなと。くわの、という地名にも覚えがあったんです。どっかでその名前聞いたなぁと。調べてみたら桑くわノ川かわという地名がある。高知県の南なん国こく市ですわ。土佐と〈くわの〉が繫がりました。こうなったら行くしかおへんがな」
流が笑顔を向けると、岩倉も笑みを浮かべた。
「お父ちゃんは現場主義やもんな」
頼もしそうに流を見つめて、こいしが合いの手を入れる。
「食堂を一日休んで、現地へ行ってみたんですわ。南国市の桑ノ川へ。まず〈生きてる鳥居〉を探しました。集落の人に訊いたら、地主神社のことやろ、と皆が口を揃えますねん。行ってみたら小さな古い社がありましてな、この社の鳥居が〈生きてる鳥居〉やったんですわ。山田さん。おたくは、どんな鳥居を思うてはったんです?」「どんな鳥居って。当時わたしはまだ八歳でしたから、神社の鳥居が夜になると、ゴソゴソ動き出すのかな、と。ァ~ルトっぽいイメージを持ってました」岩倉が素直に答えた。
「わたしも最初はそんな風に想像してました。けどそこにあったんは、それはもう不思議な鳥居でした。それがこれですわ」
流がデジカメで撮った画像を岩倉に見せた。
「これが鳥居? 杉の木の幹ですよね」
眼鏡を外した岩倉が目を白黒させた。
「そうです。二本の杉の木が合体して、鳥居みたいになってますやろ。桑ノ川の鳥居杉と言うて、地元ではよう知られた存在でしたんや。伐採した木を使うたんやのうて、生きた木やさかい〈生きてる鳥居〉。旅館の女将さんが言うてはったのはこれに間違いないと確信しました。それで宮司さんに訊たずねましたら、うまいこと行き当たりましたんや」「うちのお父ちゃん、いっつもうまいこと行き当たらはるんです」嬉しそうな顔で、こいしが岩倉に茶を注いだ。
「たしか京都で旅館をしてた人が近くに居おったて、宮司さんが思い出してくれはったんです。そこから少し西に行ったところに、土佐山西川という集落がありまして、〈旅館くわの〉の女将さんはこの郷の出身やったようです。平たいらハル子さんという名前、覚えてはりませんか」
流が岩倉の目を見た。
「そう言えば、旅館の人たちがハルさんと呼んでいたような……」岩倉がゆっくりとうなずいた。
「旅館を閉めた後に、郷に帰らはった平ハル子さんは、とうに亡くなられていましたけど、ハル子さんから直じかに作り方を教わったという女性に出で会おうたんです。その方からいろいろ聞き出して、作ってみたのがこの鯖寿司です。〆加減も土佐流ですが、鯖は当時の流通を考えて、若わか狭さモンを使うてます」流が鯖寿司をじっと見つめる。
「土佐の人だったのか。わたしはてっきり沖縄の人か京都人だと」口ひげに挟まった飯粒を指で取って、岩倉が三切れ目に手を伸ばした。
「土佐には田舎寿司というのがありまして、酢飯に特産の柚ゆ子ずを使うんですわ。お酢と柚子の絞り汁を合わせるさかい、酢飯が黄色ぅなるんです。独特の香りがあってええもんです。レモンとはちょっと違う香りですけどな」隣に座るこいしが鼻をひくつかせた。
「これは? 薄切りにした茄子のようだが」
岩倉が、鯖の切り身と酢飯の間に挟まっている野菜に気付いた。
「最後までわからなんだんが、それですわ。それが山田さんの記憶にあった沖縄、正しくは琉球です。ハスイモのことを土佐の方ではリュウキュウと呼んで、薄切りにしたもんを鯖と重ねて鯖寿司にすることもあるんやそうです。京都風の鯖寿司で言うたら昆布みたいなもんですな。山田さんの記憶にリュウキュウという言葉があって、それをいつの間にか沖縄に換えていったんやと思います。その歯触りに覚えがありますやろ?」「これが沖縄……の正体だったのか」
岩倉がリュウキュウをつまみあげて、しみじみとした顔付きをした。
「こんなことお訊ねしたら、失礼かもしれませんけど、なんで山田さんは、その旅館で鯖寿司を食べてはったんです」
おそるおそるといった風に流が訊いた。
「うちは、なんだか寂しい家でね。父はほとんど家に居なかったし、母も昼間はいつも忙しくしていた。家族の温ぬくもりっていうものを感じた経験はあまりない。女将さんはやさしい人でね。わたしが家の前で寂しそうにしていると、遊びにおいで、といつも誘ってくれた」
遠い目をした岩倉の瞳がきらりと光る。
「それがハルさんやったんですな」
「ひとつ思い出した。ハルさんはね、わたしが鯖寿司を食べるたびに訊くんだ。『おいしおすやろ?』って。わたしが美味しいと言うでしょ? すると次もまた訊くんだ。『おいしおすやろ?』。ひと切れ食べるたびに繰り返すのが面倒になって、つい口ごたえした。
一度言えばいいだろう、みたいなことを。そうしたら……」「ハルさんは怒らはったんですね」
こいしが身体を乗り出した。
「『なんべんでも美味しいて言うたらよろしい。口は減りまへんで』そう言われた。怖い顔だったなぁ。母や父には られたことがなかったからね」当時を思い出すように、天井を見上げながら岩倉が続ける。
「『人間言うのは、すぐに慣れてしまう。最初は美味しいと思うても、だんだんそれが当たり前になってくる。最初の感動を忘れたらあきまへん』。たしかそんな風な話だったと思う。この鯖寿司をいただいて、いろんなことがよみがえって来たよ」岩倉が愛いとおしそうに鯖寿司を見つめる。
「その平ハル子さんの決まり文句、覚えてはりますか。鯖寿司の作り方を教わったという方が言うには、毎回ハルさんが口にしはる言葉があったそうです」流が言葉を挟んだ。
「なにしろ五十年も前のことですから」
何度も首をかしげると、岩倉の胸ポケットの携帯がメールの着信を報せた。
「お急ぎでしたんやな。こいし、お包みしたげてくれるか」「わかった。今日もタクシーは呼ばんでもええんですね」岩倉がうなずくのをたしかめてから、こいしが厨房へ急いだ。
「なんだか急がせてばかりで申し訳ない」
「なんにしても、お捜しできてよかったです。ホッとしましたわ」流が胸をなでおろした。
「『料理春秋』の広告でこちらのことを拝見して、本当によかった」岩倉が頰をゆるめた。
「けど、あの雑誌には場所も連絡先も書いてなかったですやろ。〈鴨川食堂?鴨川探偵事務所──食捜します〉としか書いてないから。皆さん鴨川の近所やと思うて探さはる」流が苦笑いした。
「看板も外してありますしね」
岩倉が笑みを浮かべながらにらんだ。
「看板出してると、うるさいんですわ。インターネットのなんとか言う口コミサイトがありますやろ。あんなとこで、ごちゃごちゃ書かれとうないし。常連さんだけ来てもらえたらええんで」
流がぶっきらぼうに言った。
「グルメやとか、食通やとかと関係のないとこで、うちの店を続けたいんです」厨房からこいしが言葉を足した。
「よう見つけてくれはりましたな」
流が岩倉の目を見た。
「編集長の大だい道どう寺じ茜あかねさんにお聞きしました。無理やり聞き出した、というのが正しいですかな」
「茜とお知り合いなんですか」
「いや、知り合いというほどでは……」
岩倉が目をそらし、言葉を濁した。
「『料理春秋』を読んではるくらいやから、山田はんは、相当食に興味がおありなんですな」
「毎号欠かさず読んでいて、ずっと気になっていたんです。〈〝食?捜します〉が」岩倉が苦笑いを浮かべた。
「ここへお越しいただくには、あの一行広告に引っかかってもらうしかないんですわ」流も同じように笑った。
「だったら、もう少し情報を記して欲しいですね」岩倉が真顔で言った。
「人とのご縁言うのは不思議なもんでしてな、出会うべき人には必ず出会うもんなんです。と同じように、ご縁がある方は間違いのう、ここまで辿り着かはります。あなたのように」
流が岩倉の目を真まっ直すぐに見つめた。
「縁がなければここには来れない……」
岩倉が感慨深げに言った。
「ときどき編集部に問い合わせがあるらしいですわ。けど、茜は詳しいには答えとらんはずなんやが」
流は岩倉の様子を窺っている。
「きっとわたしの〝食?への執念に負けたんでしょう。なにしろ五十年来の思いですから。
先週たまたま休みが取れたのは運が良かった」「そこまであの〝食?にこだわってはったんですか」感慨深げに流が言った。
「いっときは流さんのような料理人を志したこともあったんですよ。人を幸せにする料理を作りたいと思って。もっとも父が許すはずなどなかったんですがね」岩倉は自らを嘲あざけるような顔で答えた。
「人を幸せにするのは料理人だけやおへん」
流がきっぱりと言い切った。
「おっしゃるとおりです。今の仕事を選んだのは、人を幸せにできると思ったからなんです」
「ええことやないですか」
「だけど、わたしの仕事では、あなたのように美味しいものばかりを出しているわけにはいかない。ときには不ま味ずいとわかっていても、出さなければいけないときがある」「良薬口に苦し、ということですか」
「そう。だが、わたしは食べさせる側の思いばかりが先に立っていた。身体のことを考えたら、ときには不味いものも食べないといけない。我慢して食べなさい。そう言うばかりで、食べる側の気持ちになっていなかった。本当に美味しいものを食べるということが、人にとってどれほど大切なのか、それをたしかめたくて……」「昔食べた鯖寿司を捜してはった、んですな」流の問いかけに岩倉がこっくりとうなずいた。
「おかげさまで、これで気持ちが動きました。急がせてしまって申し訳なかったが、なんとか間に合いそうだ」
「そら、よろしおした。人さんには旨いもんをお出しする。不味いもんがあったら、それは自分で食べる。わしらはずっとそうやって来ましたで」流が岩倉の目を真っ直ぐに見つめた。
「お待たせしました」
こいしが紙袋を提げて来たのを潮にして、岩倉がゆっくり立ち上がった。
「お代金はいかほど」
岩倉が財布を出した。
「探偵料はお客さんに決めてもろてます。おいくらでもかまいません。妥当やと思わはる金額を、ここに振り込んでください」
振込先の口座を記したメモ書きを、こいしが手渡した。
「承知しました。戻ったらすぐに手配します。特急料金をプラスして」岩倉がメモ用紙を財布に挟んだ。
「お気をつけて」
流が岩倉を送り出した。
「ありがとうございました」
店を出て姿勢を正した岩倉が深々と頭を下げる。
「お役に立てて何よりです」
流のそばに立つこいしが笑みを向けた。
「じゃ、これで失礼します」
岩倉が歩き始めて三歩で止まり、くるっと身体の向きを変えた。
「思い出しました。ハルさんの決まり文句。初心忘るべからず、でしょ?」「正解です」
流が頭の上で両腕を丸く合わせた。
軽く会釈して、岩倉がふたたび歩き出す。その横を黒塗りのセダンがすり抜けて行く。
「山田はん」
流が声を大きくすると、背中をびくりとさせて岩倉が振り向いた。
「あんじょう、頼みます」
小さく頭を下げた流に、岩倉は笑顔でうなずいて、踵きびすを返した。
「山田さん、喜んでくれはったみたいや。これもお父ちゃんのおかげです」流に向き直ったこいしが、頭をちょこんと下げると、ひるねがひと声鳴いた。
「たかが鯖寿司。されど鯖寿司。ひと切れの寿司が国を動かすかもしれんで」流がぽつりと言った。
「国を? またお父ちゃん、大きいこと言うて。調子に乗り過ぎ」こいしが流の背中を平手で打った。
「ま、なんでもええわ。振込を楽しみにして、と。さあ、鯖寿司ざんまいといこか」「そうや。お父ちゃんに訊こうと思うてたんやけど、七本の鯖寿司作ってて、なんで右から二本目やったん?」
「お酢の按配やとか、鯖の身、〆加減をちょっとずつ変えて、七本作ったんやけど、右から二本目が一番旨かったんや。人間てなもんは、なんぼ昔の味やとか言うても、結局は美味しなかったら満足せん。旨いもんを食べてこそ、ああ、あのときと同じ味や、そう思うもんなんや」
「ということはやで、お父ちゃん。あんまり美味しいことない鯖寿司ばっかりを今晩食べんとあかんねんな」
「比較論やがな。どれもそこそこ美味しいできてる。そや。土佐へ行ったときに、ええ酒を買うて来たんや。『酔すい鯨げい』と『南みなみ』っちゅう酒や。旨いらしいで」「ええな。昼酒大好きや。けど二升か……。ふたりで飲み切れるかな」上目遣いに、こいしが流を見る。
「浩さんを呼ぶんやったら、造りの盛り合わせくらいは、持って来てもらえよ」「なんでわかったん」
「当たり前やないか。わしは探偵やで、探偵。浩さんとこも今日は定休日やてなことくらい、ちゃあんとわかったぁる」
「さすが名探偵」
こいしが又、流の背中を叩く。
「お前の考えていることくらい、全部お見通しや」「せやから、うちはこんな大酒飲みになったんか」「ぐだぐだ言うてんと、早よ用意せい。お母ちゃんが待ちくたびれとるがな」流が仏壇に目を向けた。