第四話 とんかつ
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底冷えのする長い冬を過ぎ越し、ようやく京の街も春めいて来た。
東本願寺を背にして、広い烏丸通を渡ると正面通に至る。狭い通りを行き交う人々の装いにも、淡いブルーやレモンイエロー、ピンク色など春色が目立つ。
東に向かって歩く廣ひろ瀬せ須す也や子こは、チャコールグレーのワンピースに黒のジャケットという地味なスタイルだ。
念入りに下調べをしたから、目の前に建つしもた屋が目指す店に違いないだろうが、確信には至っていない。暖の簾れんはおろか、看板の一枚すら出ていないのだから。
アルミの引き戸の横には小さな窓があり、そこから洩もれてくる談笑は、居宅のものとは思えない。デパートの地下から漂って来るのと、同じ匂いもする。
「ごちそうさま」
勢いよく引き戸が開き、白いブルゾンを着た若い男性が出て来ると、店の前で寝そべっていたトラ猫が駆け寄った。
「すみません。ここは『鴨川食堂』ですよね」猫の頭を撫なでている男性に、須也子が問いかける。
「たぶんそうだと思います。鴨川親子がやっている食堂ですから」男性に小さく頭を下げた後、須也子はすっと引き戸を引いた。
「お食事ですかいな」
手て拭ぬぐいを使いながら、鴨川流が厨ちゅう房ぼうから出て来た。
「〈食〉を捜してもらいたくてお邪魔したのですが」「探偵の方やったら娘が担当ですわ」
そっけなく答えて、流がこいしに顔を向けた。
「ホンマに捜すのはお父ちゃんですけどね。お腹なかの方はよろしいの?」時計は十二時半を指している。
「どんなお料理があるのかしら。苦手な食べものが多いものですから」須也子は、カウンターに残された、わずかにスープの残ったラーメン鉢を一いち瞥べつした。
「初めての方には、おまかせを出させてもろてます。何ぞアレルギーでも?」流が話を引き継いだ。
「そうではありませんけど、お肉だとか、脂っこいものが苦手でして」店の中を見回して須也子が答えた。
「軽めでよろしかったら、すぐにご用意出来ますけど」「小食なものですから、そうしていただけると」須也子はホッとしたような表情を見せた。
「ちょうど今夜、和食のコースを食べに来られるお客さんがおられますんや。仕込みをしとったとこなんで、その中から見つくろうてお出しします」流が小走りで厨房に戻った。
「どうぞお掛けください」
こいしが赤いシートのパイプ椅子を引いた。
「看板もないし、メニューもない。不思議なお店ですね」須也子があらためて店の中をぐるりと見渡した。
「よう辿たどり着かはりましたね」
須也子の前に、こいしが湯ゆ吞のみを置いた。
「『料理春秋』の広告を拝見して」
「あの一行広告だけで?」
こいしが急須を止めた。
「連絡先も書いてありませんでしたし、編集部に問い合わせても、詳しくは教えられない、の一点張りで。何のための広告かしらと、申し上げても一向にらちがあかず。噂うわさを頼りになんとか」
須也子がゆっくりと茶を飲み干した。
「すんませんねぇ。皆さんからよう言われるんですけど、何せ頑固なお父ちゃんなもんで。たった一行でも、縁があったら必ず辿り着いてくれはる。そう言わはりますねん」こいしが横目で厨房を見た。
「お待たせしましたな。軽ぅ、小皿尽くしにさせてもらいました」料理を運んで来た流が、丸盆に載せた小皿を須也子の前に並べていく。
「可愛かわいらしいお料理」
須也子が目を輝かせた。
「左の上から、宮島牡か蠣きの鞍くら馬ま煮に、粟あわ麩ふの蕗ふきの薹とう味み噌そ田楽、蕨わらびと筍たけのこの炊いたん、モロコの炭火焼、京地じ鶏どりのササミは山葵わさび和あえ、若狭の〆しめ鯖さばは千枚漬けで巻いてます。
右下のお椀わんは蛤はまぐり真しん蒸じょを葛くず引ひきにしました。冬の名残りと、春を待つ空気を出して欲しいとリクエストされたんで、こんなような料理になっています。今日のご飯は丹波でこしらえてるコシヒカリです。どうぞゆっくり召し上がってください」
丸盆を脇に挟み、並んだ皿を流が順に辿った。
「どれからいただこうかしら」
目を丸くして、須也子が箸を取った。
「急須を置いときますよって、お茶が足らんかったら声を掛けてくださいね」こいしは流と肩を並べて、厨房に引っ込んだ。
須也子が最初に箸をつけたのはモロコだった。いかにも春らしい風情が漂う皿に目が引き付けられたからである。小判型の黄瀬戸豆皿に、小ぶりのモロコが二匹盛り付けてある。須也子は、別れた夫岡おか江え傳でん次じ郎ろうと、三年前に京都の割かっ烹ぽうで食事したときのことを思い出した。
傳次郎は相好を崩し、モロコは京都の春を告げる風物詩であり、琵び琶わ湖こで獲とれる小魚だと教えてくれた。須也子はそのとき、傳次郎がすっかり関西の人間になったと思ったのだった。
二杯酢につけて、あっという間に二匹のモロコを食べ終えた須也子は、千枚漬けで巻いた鯖の身を口にした。鯖寿司なら何度か食べたことがある。郷里の山口でも行きつけの小料理屋で、時折り関せき鯖さばの棒ぼう寿ず司しが〆に出て来る。だが漬物と一緒に食べるのは初めてだ。甘みの効いた千枚漬けと〆鯖の酸味が舌の上で混ざり合う。
椀蓋の蒔まき絵えは柳の芽吹き。季節を象かたどった蓋を取ると湯気が立ち上り、蛤と吸い口の柚ゆ子ずが香る。吸すい地じをひと口啜すすって、須也子はホッと吐息を洩らした。
「お口に合いますかいな」
厨房から流が出て来た。
「大変美お味いしゅうございます。田舎ものには過ぎたるお味ですわね」須也子がレースのハンカチで口元を拭う。
「どちらから?」
「山口からまいりました」
「遠いとこをご苦労さんですな。お食事が済んだら、すぐにご案内します」流が空いた皿を下げた。
流の姿が見えなくなったのをたしかめて、須也子は、牡蠣の鞍馬煮をご飯に載せ、茶を掛けて、勢い良くかき込んだ。ササミの山葵わさび和えを箸休めにして、ご飯のひと粒も残さずにさらえた。
「ご飯のお代わり、どうです?」
厨房から出て来て、流が丸盆を差し出した。
「充分です。下品な食べ方をして失礼しました」茶漬けにしたのを気付かれたかと、須也子が顔を赤らめた。
「食べ方に、下品も上品もありまへん。好きなように召し上がるのが一番です」器を下げて、テーブルを拭きながら、流が言った。
「ごちそうさまでした」
箸を置いて、須也子が合掌した。
「そろそろ奥へご案内しましょか」
タイミングを図っていたこいしが言った。
カウンター横のドアを開けて、こいしが廊下を先に歩く。須也子は少し遅れてその後に付いて行く。
「こちらのお写真は?」
廊下の中ほどで須也子が立ち止まった。
「ぜんぶお父ちゃんが作った料理ですねんよ。和洋中、何でも作れるんです」廊下の両側にびっしり貼られた写真を指して、こいしが誇らしげに胸を張った。
「何でも作れるというのは、ご専門の料理がないということですね」「そう言えへんこともないですけど」
こいしは不満そうに頰をふくらませた。
「これもですか」
驚いたように須也子が数枚の写真を交互に見ている。
「呉服屋さんのご主人に頼まれて、ふぐ尽くしのコースを出したときです。大皿に盛ってあるのがてっさ、コンロに載っているのが焼きふぐ、土鍋はてっちりの後の雑炊ですわ。
お父ちゃんはふぐ調理師の免許も持ってるんですよ」こいしが胸を張った。
「ふつうの食堂だと思っていました。お店とお料理が少々つり合いませんわね」須也子が軽く笑みを浮かべて食堂を振り向いた。
「ふぐがお好きなんですか」
歩き始めてこいしが、不機嫌そうに訊きいた。
「生まれが山口なものですから、小さいころからふぐは大好物です」須也子がさらりと答える。
「うちなんか、ふぐを初めて食べたんは大学の入学祝のときでしたよ」振り向いてこいしが言った。
「父が大学の学長をしておりましたので、いただきモノが多くて」「そうですか」
高慢な物言いが続くように感じたこいしは、自然と仏頂面になり、大きな音を立ててドアを開けた。
「どうぞお入りください」
「失礼します」
こいしの表情の変化などまるで気にしていないように、須也子は平然とした様子でソファに座り込んだ。
「こちらにご記入いただけますか」
いつにもまして、至極事務的な口調で、こいしがバインダーを差し出した。
こいしは急須に茶葉を入れながら、須也子の様子を横目で窺うかがう。須也子はすらすらとペンを走らせた。
「これでよろしいかしら」
「廣瀬須也子さん。五十歳には見えしません。お若いですね。で、どんな〈食〉を捜してはるんです?」
こいしが、ぶっきらぼうに問いかけた。
「とんかつです」
須也子は真まっ直すぐにこいしを見つめた。
「肉とか脂っこいもんは苦手、と違ちごうたんですか」意外な答えにこいしが切り返した。
「わたしが食べたいというのではありません。ある人に食べさせてあげたいんです」須也子が訴えるような目を向けた。
「どんなとんかつなんですか」
こいしが訊いた。
「それがわからないから捜していただきたいのです」「それはそうなんやろけど……。もうちょっと詳しいに話してもらえませんか」こいしが顔をしかめる。
「どこまでお話しすれば……」
須也子のためらいは、口元を歪ゆがめさせる。
「お気持ちが動く範囲で」
こいしが素っ気なく言った。
「出町柳という駅をご存知でしょうか」
「京都に住んでるもんやったら知らん人はないと思いますけど」こいしが頰をふくらませる。
「その駅のすぐ近くにお寺があるのですが」
「お寺……あったかなぁ」
あくびを嚙かみころして、こいしは首をかしげた。
「じゃあ、そのそばに『かつ傳でん』というとんかつ屋があったのもご存知ないでしょうね」
須也子の問い掛けに、こいしは黙ってうなずいた。
「その店のとんかつを捜して欲しいのです」
「その店、今はもうないんですね」
今度は須也子が同じように首を縦に振った。
「いつごろまであったんです?」
「店を閉めたのは三年半ほど前のようです」
須也子が神妙な顔をした。
「そんな古い話と違うんや。そしたらなんとか捜せると思います。『かつ傳』ですね」こいしがノートにペンを走らせる。
「わたしもそう思って、インターネットで検索してみたんです。でも、ほとんど情報がなくて」
須也子が顔を曇らせる。
「三年半前くらいやったら、口コミサイトとか、グルメブロガーとかの書き込みがあるのと違うんかなぁ」
「こちらのように、現に営業なさっていても、まったく情報が上がって来ない店だってあるじゃないですか」
須也子の言葉に、こいしの表情が緩んだ。
「そう言うたらそうですね。うちもお父ちゃんも、ヘンな評判に惑わされるのがイヤなんです。なんべん断っても、口コミサイトに書かれるんで、それで看板を外して、廃業したことにしてます」
「うちの主人も同じ考えだったようです。さすがに看板と暖簾だけは上げていたようですが」
須也子がさらりと言った。
「『かつ傳』て、おたくのご主人の店やったんですか」目を見開いたこいしが、ローテーブルに身を乗り出した。
「ええ。正確には、元主人ということになりますが」須也子が小さくうなずいた。
「それやったら、その、元ご主人に訊かはったらよろしいやん」こいしがまた頰をふくらませた。
「それができるくらいなら、こちらにお願いしたりはしません。食べさせてあげたい人というのが、当の主人なのですから」
うつむいたままで須也子が言った。
「ようわからん話やなぁ。どういうことなんです?」こいしがイラついたようにペンを指先で回した。
「『ふぐ傳』というふぐ料理の専門店を山口で開いていた人と、二十五年前に結婚しました。父はもちろん、家族からは猛反対されましたが」ひと息つくように、須也子が湯吞みに手を伸ばした。
「大学の学長さんですもんね。で、そのふぐ料理屋さんが、なんで京都でとんかつ屋を?」
こいしが顔を上げた。
「店でふぐ中毒を出してしまったことが、きっかけになりました」須也子がゆっくりと茶を啜すする。
「ふぐ中毒て言うたら、命に関わりますやん」こいしが顔をしかめる。
「ひとり亡くなってしまって……」
「お気の毒に」
こいしが声を落とした。
「わたしの従い兄と弟こなんです。子供の頃から強引で、言い出したら絶対後には引かない人でした。自分で釣ったふぐを持ち込んで、店の者に無理やり料理をさせて食べてしまいました。組合の会合で主人が居ない日のことで、二番手だった増ます田だに留守を任せたばっかりに、とんだことになってしまって」須也子が唇を嚙んだ。
「ご主人の親戚やし、断り切れへんかったんやろなぁ」こいしが哀れんだ。
「増田は何度も断ったようですが、最後は脅しに近いような形で」「お店の方は?」
「小さな街ですから、いろんな噂が広がりまして、店を閉めるしかありませんでした。それだけですめばよかったのですが……」
須也子が顔を曇らせた。
「補償問題とかですか?」
こいしがノートのページをめくった。
「従兄弟の家は貿易で財をなした名家ですから、金銭的にどうこうという話にはならなかったのですが……。親戚関係はぎくしゃくしてしまって、主人の方から離婚したいと言い出しました」
須也子が目を伏せた。
「従兄弟さんが自分で無理に持ち込んだんやし、ご主人に責任はないでしょ?」こいしは少しばかり憤慨している。
「岡江は人一倍責任感の強い人でしたし……」「別れたご主人は岡江さんて言わはるんですね」こいしがペンを走らせて、続ける。
「岡江傳次郎といいます」
須也子がノートを覗のぞき込んだ。
「べつに別れんでもよかったんと違うんですか。奥さんと一緒に山口を離れたら、それですむことやと思いますけど」
こいしが不満そうに口を尖とがらせた。
「わたしが言うのも何ですが、廣瀬の家は山口では特別な存在でして、何よりも名誉を重んじる家系です。それにわたしにはピアノ教師という仕事もありましたので……」須也子が背筋を伸ばした。
「奥さんはピアノの先生なんですか」
「幼稚園の子供から、コンクールに出場する音大の学生まで、多いときは百人以上の生徒さんが居ました」
「離婚した後も奥さんは山口に居られて、ご主人は京都に来てとんかつ屋さんを始めはったんですね」
「離婚して当初二年間ほどは料理の仕事から離れて関東方面を転々としていたようで、京都へ来たのはその後みたいです」
須也子が淡々と話す。
「京都に来られたのは……二十年ほど前、になるんかな」こいしが両手の指を折ってから続ける。
「どうしてとんかつ屋やったんでしょう」
「そこがよくわからないんです。一度だけ、店のまかない料理でとんかつを作ったといって、岡江が家に持って帰って来たことがありました。ときどきまかないを持って帰っていましたので」
考えを巡らすように、須也子が何度も首をかしげた。
「まかない料理て美味しいんですよね。うちなんか、いっつもそれですわ」こいしが須也子に笑顔を向けた。
「そうでしょうか。なんだか残り物を食べさせられているようで」須也子は眉を八の字にした。
「そしたら、なんで今になって、別れたご主人がやってはった店のとんかつを捜してはるんです? そしてそれをなぜ、元ご主人に訊けへんのか。食べさせてあげたいのか。わからんことだらけなんですけど」
こいしが上目遣いに須也子を見た。
「わたしの誕生日、十月の二十五日には毎年、形ばかりのプレゼントを送って来てくれていたのですが、去年は何も届きませんでした。少し気になったものですから、連絡を取ってみました。そうしましたら、東山の日赤病院に入院しているというのです。今年に入ってすぐ病室を訪ねましたら、大柄なあの人が、見る影もなくやせ細ってしまっていて」須也子が言葉を選びながら、語った。
「重い病気やったんですね」
ペンを止めて、こいしが声を落とした。
「お医者さまによると、よく持って三み月つきだろうと」「三月、ということは、もう時間がありませんやん」壁掛けのカレンダーを横目にして、こいしが叫んだ。
「毎日のように『かつ傳』のとんかつの話ばかりしていると、看護師さんから聞きまして、どんなとんかつだったのかと本人に訊ねるのですが、わたしには皆目話してくれません。そんなときに偶然『料理春秋』の広告を拝見して」話し終えて須也子が、大きなため息を吐ついた。
「どんなとんかつやったか、看護師さんたちにも言うてはらへんかったんですか」こいしが上目遣いに須也子を見た。
「あまり詳しくは。看護師さんのお話では、岡江がとんかつの話をした夜は決まって、五ミリか三ミリ、そんなことをうわ言で言っていると聞きました。でも、わたしには何のことだかさっぱり」
須也子が二度、三度首を横に振った。
「五ミリ、三ミリ、ですか。見当も付きませんね。けど、お話はようわかりました。お父ちゃんやったらきっと捜してくれると思います。急がせますわ」ノートを閉じて、こいしが立ち上がった。
「よろしくお願いいたします」
須也子も立ち上がって腰を折った。
「あんじょうお聞きしたんか」
ふたりが食堂に戻ると、流が開いていた新聞を閉じた。
「大至急やねん、お父ちゃん。急いでとんかつを捜して」こいしが声を高くした。
「なんやねん、やぶからぼうに」
「『かつ傳』ていうとんかつ屋さん、知ってるやろ?」「『かつ傳』? 聞いたことあるような、ないような」流が首をかしげる。
「何よ、その頼りない返事」
こいしが、むくれた顔をつくる。
「ええか、こいし。話っちゅうもんは、落ち着いて、相手にちゃあんと伝わるようにせんとあかん。いっつもそう言うてるやろ」
流の言葉に気分を落ち着かせたのか、こいしが須也子に椅子をすすめ、その隣に座った。
「訳があって、須也子さんは、ご主人とは別れはったんやけど、そのご主人は重い病気に罹かかってはるんよ」
こいしが順を追って、話の概略を流に伝えた。
流は話に聞き入りながら、ときに首をかしげ、或あるいはうなずき、棚から京都市内の地図を取り出す。
「お父ちゃん、その『かつ傳』のとんかつを思い出したわ。十年以上も前やけどな、何度か食べに行ったことがある。たしか出町柳駅のすぐ近くにある『長得寺』という寺の裏手にあった。小さい店で大柄なご主人が、ひとり黙々ととんかつを揚げてはってな」流が地図を広げた。
「そうです。このお寺の近くにあったようです。その大柄だった主人が今は……」須也子がバッグから手帳を取り出し、挟んであった写真を流に見せた。
「当時の面影がないこともおへんけど。大きな人やったという印象が強過ぎて」流が写真をじっと見つめている。
病院の大部屋だろうか。窓際のベッドで半身を起こしている、やせ細った男が岡江傳次郎だと須也子が言った。
「それにしても、綺き麗れいな指をなさってますな」写真を持つ須也子の手に、流の目が留まった。
「須也子さんはピアノの先生やから、綺麗な指をしてはって当たり前や。そんなことより、な、お父ちゃん。時間がないねん」
こいしが流に目で訴える。
「三月……ですか」
写真から目を離さずに流がつぶやいた。
「よく持って、だそうです」
須也子が消え入るように言った。
「わかりました。二週間あったら何とか捜せると思います。再来週の今日、お越しいただけますやろか」
「二週間? もっと早はよぅ出来ひんの」
こいしが金切り声を上げる。
「『かつ傳』のとんかつを捜し出して、再現するには最低でも二週間は要る」流がきっぱり言い切ると、立ち上がって須也子が深々と頭を下げた。
店を出た須也子の足元に、ひるねがまとわりついて離れようとしない。
「これ、ひるね。早ぅ離れんとアカンやないの」こいしが屈かがみ込んだ。
「いいんですよ。うちでも猫を飼ってますから」ひるねを抱き上げて、須也子がこいしに手渡す。
「何ていう名前です?」
「ハノン。ピアノの練習曲集のことなんですよ」須也子が今日初めてこいしに見せた会心の笑みだった。
「どこまでもピアノの先生なんですね」
こいしが笑顔を返すと、須也子は西に向かって歩き出した。その背中に向かって一礼した流とこいしのそばで、ひるねが二度ほど鳴いた。
「お父ちゃんのこと、見損のうたわ」
「なにがや」
こいしの書き留めたノートを繰りながら、流が言った。
「よっしゃ、三日でなんとかしまひょ。お父ちゃんやったら、きっとそう言うと思うたのに。お母ちゃんのときのこと、忘れたん?」
こいしが尖った横目で流を見る。
「五ミリ、三ミリ……」
こいしの言葉が耳に届いていないかのように、流はノートを繰っている。
「お父ちゃん。聞いてんの?」
こいしが流の背中を叩たたいた。
「ただの食中毒でも店に疵きずがつくのに、死人を出したら、そらアカンやろう」「何をブツブツ言うてるん」
こいしが流をにらみつけた。
「お父ちゃんな、明日、山口へ行ってくる。せっかくやから湯田温泉で一泊してくるわ。
温泉まんじゅうくらいは土産に買こうてきたるさかい、しっかり留守番しとけよ」ノートを閉じて、流が立ち上がった。
「どうせなら、ふぐ鍋セットくらい買うて来てな」こいしが頰をふくらませる。
「そんな贅ぜい沢たくなことできるかい」
今度は、流がこいしの背中を叩いた。