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第一卷 第六話  肉じゃが 1

时间: 2024-02-27    进入日语论坛
核心提示:第六話  肉じゃが     1 一年のうち、春と秋のトップシーズンは京都が最も混み合う季節である。わけても花の命が短い春
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  第六話  肉じゃが
  1
  一年のうち、春と秋のトップシーズンは京都が最も混み合う季節である。わけても花の命が短い春は、ごく短期間に観光客が押し寄せ、大げさではなく京都中が人で埋まる。
  昼を少し過ぎたばかりの東本願寺前の広場でも、多くの旅人が桜の木々を見上げ、スマートフォンのレンズを向けていた。
  ただ桜の花だけを写して、どうしようというのか。その意を理解できないという風に、スーツ姿の若い男は何度も首をかしげた。
  ひと渡り記念撮影をした後、今度は桜の穴場とも言われる、枳き殻こく邸ていへと旅人の群れは移動する。男はその人波の流れに乗るようにして、地図を片手に正面通を東へと向かう。やがて右側に目指す店らしき建物が姿を現した。
  「ここか」
  男はモルタル造りの二階屋と、手描きの地図を見比べた。半分ほど開いた窓から中の様子を覗のぞき見る。
  ひとりの老婦人がテーブル席で悠々と食事をしている。傍らに立つ白衣姿の男性は料理人のようだ。他に客はいない。
  「こんにちは。鴨川流さんは?」
  「わしですけど」
  振り向いて流が男の風ふう采さいに目を留めた。
  仕立てのいい濃紺のスーツにはペンシルストライプが入っている。小脇に抱えているセカンドバッグはボッテガヴェネタ。先の尖とがった茶色のブーツはエナメルの輝きを放っている。
  「失礼します。おや、山菜の天ぷらですか。ウマそうですね」男は店に入り込み、老婦人の前に置かれた皿を一いち瞥べつしてから、上着を脱いで椅子の背に掛けた。
  「どちらさんです?」
  白いシャツにブラックジーンズ、黒いソムリエエプロンを着けた、鴨川こいしが訝いぶかしげに訊きいた。
  「申し遅れました。伊だ達て久ひさ彦ひこと申します。大道寺の紹介で伺いました」男が恭しく名刺を差し出した。
  「おたくが伊達さんでしたか。茜から聞いてましたんやが、いつお見えになるんかなと。
  ダテエンタープライズ……」
  名刺を受け取って、流がしげしげと見ている。
  「あなたがこいしさんですね。大道寺からお噂うわさはかねがね。聞きしに勝るお美しいお嬢さんだ」
  久彦がこいしに流し目を送った。
  「お嬢さんやなんて。とっくにァ⌒サンになってるんですよ。ねぇ、妙さん」顔を真っ赤にして、こいしが来栖妙の背中を叩たたいた。
  「なんですか。ひとが食事中だというのに。少し騒がし過ぎるんじゃありませんか」藤色の着物に利休鼠りきゅうねず色の帯を締めた妙が、ぴしゃりと言った。
  「これは失礼しました。あまりにも美お味いしそうな天ぷらと、美しいお嬢さんを前にしてつい」
  久彦が深々と頭を下げた。
  「そういう薄紙のような軽い言葉は、京都では通じませんことよ」妙が箸を伸ばしてコゴミを天つゆに浸つけた。
  「お腹なかの方はどないです?」
  流が間に入った。
  「突然で申し訳ないのですが、何か食べさせてもらえれば」久彦がお腹を押さえた。
  「初めての方には、おまかせを食べてもろてますので、それでよかったら」「お願いします」
  テーブルに名刺を置いて、流が厨ちゅう房ぼうの暖の簾れんを潜くぐった。
  「どうぞおかけください」
  赤いシートのパイプ椅子をこいしが引いた。
  「看板もないし、メニューも置いてない。大道寺から聞いてはいましたが、思っていた以上に不思議な店ですね」
  腰を下ろして、久彦が店の中をぐるりと見回した。
  「茜さんとは、どういうご関係ですのん?」
  こいしが久彦の前に湯ゆ吞のみを置いた。
  「大道寺が編集長をしている『料理春秋』という雑誌を、会社ごとうちで引き受けることになりましてね。出版社はどこも厳しいですから」さらりと言って、久彦がゆっくりと湯吞みを傾ける。
  「ダテエンタープライズて、何の会社なんです?」横目で名刺を見ながら、こいしがダスターを使った。
  「なんでも屋です。金融から不動産、飲食業から出版まで。事業と名が付くものならすべて手がけています」
  「CEO……」
  こいしが名刺を手に取った。
  「最高経営責任者。日本風に言えば会長ってところですかね」茶を飲みながら、久彦がスマートフォンを操作した。
  「お若いのに会長ですか」
  こいしが久彦の横顔と名刺を交互に見比べた。
  「こいしちゃん、お抹茶を少しいただけるかしら」箸を置いて、妙がこいしに顔を向けた。
  「今すぐお抹茶ですか? まだお食事続きますけど」振り向いて、こいしが訊いた。
  「違うわよ。お抹茶の粉を少し持って来て、って言ってるの」「抹茶塩になさるんですか」
  白磁の盃を手にして、鴨川流が厨房から出て来た。
  「さすが流さん。察しが早いこと」
  「最初からご用意しといたらよかったですな」流は黒塗りの折お敷しきの横に盃を置いた。
  「わたくしの気のせいかもしれませんが、今日の山菜は苦みが乏しいように思いまして」来栖妙は抹茶を塩に混ぜ、コシアブラの天ぷらをそれに付けて口に運んだ。
  「妙さんには、かないまへんなぁ。おっしゃるとおり、苦みも香りも弱いと思います。大原の奥の久く多たの山まで行って、採って来たんですけど」腕組みをして流が首をかしげた。
  「食材もご自分で調達なさるんですか」
  久彦がスマートフォンをテーブルに置いた。
  「山菜やらキノコだけは山へ採りに行くんですわ。市販のもんは香りが頼りのうて」流が顔だけを久彦に向けた。
  「さすが京都。ますます楽しみだな」
  「すぐにご用意します」
  流が小走りで厨房に向かった。
  「どちらからいらしたのかは存じませんが、京都のお店がみんな、こんなんじゃありません。ここは特別なお店ですのよ」
  久彦の顔を見据えて、妙が釘くぎをさした。
  「何も知らない東京者なもので。もっとも生まれは広島の田舎ですから、山猿みたいなものです」
  久彦が左側の頰だけを緩めた。
  「若い人は勘違いなさいますが、田舎は広島じゃなく東京の方です」そう言って、妙が久彦に背中を向けた。
  「お待たせしましたな。若い方がお腹を空すかせてはるんやから、多めにご用意しました」
  流が、青竹で編んだ大ぶりの籠かごを、久彦の前に置いた。
  「こいつはすごい」
  久彦が目を輝かせる。
  「この時期ですさかい、花見弁当のまね事をさせてもらいました。懐紙の上に載ってるのが山菜の天ぷらです。コゴミ、モミジガサ、ヨモギ、タラノメ、コシアブラとシァ∏です。抹茶塩もご用意しましたけど、天つゆ浸けてもろても美味しおす。お造りは桜さくら鯛だいと細魚さより。ポン酢で召し上がってください。焼きもんは桜さくら鱒ますの味み噌そ漬け、煮物は若竹です。ホタルイカとワカメの酢味噌和あえ、ひと晩煮込んだ近江牛、手羽先の唐揚げ。お椀わんは浅あさ蜊りと筍たけのこの真しん蒸じょ。ご飯は筍ご飯ですけど、白いご飯も用意してます。お代わりもありますから、足らなんだら言うてください。どうぞごゆっくり」
  流の言葉に目を左右、上下に動かし、いちいちうなずいていた久彦が箸を取った。
  「盛りだくさんですねぇ。どれから食べるか、迷いますよ」「言っておきますけどね……」
  妙が向き直ると同時に、久彦が口を開く。
  「京都の店がみんな、こんな風じゃない。ここは特別な店なんですよね」妙に笑顔を向けてから、真っ先に久彦が箸を付けたのは近江牛の煮込みだった。
  「わかっているならよろしい」
  妙が大きくうなずいた。
  「とろけますね。なんてやわらかいんだろう」目を閉じて、久彦はじっくりと肉の旨うまみを味わっている。
  「長いこと時間かけて煮込んだら、肉はやわらこうなります。ゆっくり召し上がってください。お食事が終わったら、娘が話をお聞きしますんで」久彦の様子を見届けて、流は厨房に戻って行った。
  「急須を置いときますよって、お茶が足らんかったら声をかけてくださいね」こいしが流の後に続いた。
  久彦は椀を手に取り、ひと口啜すすって、吐と息いきを漏もらす。山菜の天ぷらに抹茶塩を振りかけ、口に運ぶ。サクサクと嚙かむ音が店に響く。鯛の薄造りをポン酢に浸けて舌に載せる。
  「これこれ、この味。瀬戸内の鯛でしょうね、きっと」妙の様子を窺うかがいながら、久彦はひとりごちた。
  「正確には宇う和わ海かいだそうですよ」
  久彦に背を向けたまま、妙がつぶやいた。
  「宇和の海ですか。道理で旨いわけだ」
  久彦が筍ご飯を頰張りながら言った。
  よほど空腹だったと見え、焼き魚、手羽先の唐揚げ、煮物、和え物と次々平らげ、あっという間に、青竹の籠は空になった。
  「お口に合いましたかいな」
  益まし子こ焼やきの土瓶を持って、流が久彦の横に立った。
  「とても美味しかったです。大道寺ほどの食通が絶賛するのですから、間違いないとは思っていましたが、これほどとは」
  久彦が相好を崩した。
  「それはよろしおした。お番茶に替えておきますんで、いっぷくなさったら声をかけてください。奥へご案内します」
  流が京焼の急須を益子焼に替えた。
  「そろそろお菓子をいただけるかしら」
  妙が流に言った。
  「承知しました。今日は桜さくら餅もちを作りましたさかい、楽しみにしとってください。お抹茶はいつものように濃いぃのがよろしいかいな」「桜餅でしたら、少し薄めがいいかしらね」
  「そうですな。甘さを控えてますんで」
  「じゃ、そうしてくださいな」
  流と妙の遣やり取りが終わるのを待って、腹をさすりながら、久彦が立ち上がった。
  「ごちそうさま。僕ひとりで行けますから、お仕事なさってください。左手のドアから廊下を真まっ直すぐに行けばいいんですよね。大道寺から聞いてますので大丈夫です」「そないしてもろたら助かります。向こうでこいしが待っとりますんで」流が奥のドアを指した。
  「わたしならいいんですよ。ちっとも急ぎません。どうぞ案内してあげてくださいな」「子供じゃないんですから、奥の部屋くらいひとりで行けます。どうぞごゆっくり」おくびを飲み込んでから、久彦が奥のドアを開けた。
  長い廊下が続く両側の壁はピンナップされた写真で埋め尽くされている。中には人物のスナップもあるが、ほとんどは料理の写真だ。久彦が目を留めるのは肉料理の写真ばかりである。一、二歩進んでは、また止まる。何度かそれを繰り返しながら、ようやく『鴨川探偵事務所』と札が掛かるドアをノックした。
  「どうぞお入りください」
  待ち構えていたように、中からこいしがドアを引いた。
  「失礼します」
  久彦は黒いソファの真ん中に腰を下ろした。
  「ここにご記入いただけますか」
  向かい合って座るこいしがバインダーをローテーブルに置いた。
  「意外にちゃんとしてるんですね」
  久彦が左の頰を緩めて、ペンを取った。
  「茜さんのご紹介やし、名刺も頂いてるんで、連絡先の電話番号だけでもええですよ」こいしが遠慮がちに言った。
  考える風もなく、久彦はすらすらとペンを進め、一分と経たたずにバインダーをこいしに返した。
  「伊達久彦さん。三十三歳ですか。お住まいは六本木ヒルズ?アートタワーレジデンス……。きっと凄すごいお住まいなんでしょうね」こいしがため息を吐いた。
  「住まいと言っても、毎晩のように会社のパーティーを開くので、ァ≌ィスみたいなものです。三十九階ですから、眺めだけはいいですけどね」「そんな高いビル、京都にはありませんわ」
  「だから京都は街並みが綺き麗れいなんじゃないですか。僕なんか生まれは田舎の島ですから、東京よりこういうところの方が落ち着きますよ」久彦が窓の外に目を遣った。
  「お生まれはどちらです?」
  「瀬戸内海の豊とよ島しまという小さな島です」久彦が長い足を組んだ。
  「どの辺にあるんですか」
  「広島の呉くれという町をご存知ですか?」
  「だいたいわかります」
  こいしは頭の中に地図を浮かべた。
  「その近くです。今は橋が架かっていますが、僕が住んでいるころは船でしか行けない離れ島でした」
  久彦が遠い目をした。
  「捜してはるのは、そのころの味ですか?」
  こいしが本題に入る。
  「小さいころに食べた肉じゃがを捜して欲しいんです」久彦が身を乗り出した。
  「どんな肉じゃがでした?」
  こいしがノートにペンを走らせる。
  「覚えていないんです。おふくろが作ってくれたことはたしかなんですが」久彦が声を落とした。
  「まったく、ですか?」
  「ええ」
  「困ったなぁ。捜しようがないわ。何かヒントはありませんか」こいしが顔を曇らせた。
  「五歳のとき、母が病気で亡くなる直前に、豊島から岡山の児こ島じまというところへ引越しました。それから後のことはたいてい覚えているのですが、豊島のころのことは記憶が曖昧で……」
  「お母さまが亡くなったのは二十八年前ですね」こいしがノートに書き付けた。
  「母と一緒に遊んだことや、お風呂に入ったこと、島の中を探検したことなんかは、なんとなく覚えているのですが、料理の味まではまったく覚えていなくて。美味しかったとだけしか」
  「おうちのお仕事は?」
  こいしが緒いとぐちを見つけようとする。
  「倉庫会社を経営していたんです。島一番の金持ちだと言って、よく父が自慢していました。たしかに裕福な暮らしだったと思いますが、たかが田舎の小さな島ですからね」俯うつむき加減に久彦が答えた。
  「岡山へ引越しされてからも?」
  こいしが久彦の顔を覗き込んだ。
  「会社ごと引越したのですが、二年ほどで倒産してしまいました。母の治療費がかさんで、思うように設備投資できなかった、と後に父から聞きました」「長患いやったんですか」
  「一年半ほど闘病していたようです。難病だったと聞きました」久彦が声を落とした。
  「お父さんも苦労なさったんやね」
  「そうでもないですよ。母が亡くなって一年も経たないうちに再婚したのですから。それも母の病床に付き添っていた女性とね」
  久彦が冷ややかな笑みを浮かべた。
  「小さなお子さんには、お母さんが要ると思わはったんでしょう」「付き添いさんだった女性を、或ある日突然お母さんと呼べ、って言われてもねぇ。おまけに、いきなり七つ上の姉まで出来ましたし」「皆さんのお名前を確認させていただいてもよろしい?」「父は伊達久ひさ直なお。母は伊達君きみ枝え。継母は伊達幸さち子こ。連れ子の姉は伊達美み帆ほです」
  至極事務的に伝えながら、久彦がこいしの手元を覗き込んだ。
  「皆さん、今はどうなさっているんです?」
  「父は僕が小学校を卒業した春に亡くなりました。それから、中学、高校の六年間は継母と姉と三人暮らしでした。ひとつ屋根の下で僕だけが他人なんです。毎日が息苦しくて、岡山の高校を出てすぐ、家を飛び出して上京しました」久彦がローテーブルに視線を落とした。
  「家を出はったんは十八歳の時。それから十五年……」こいしが指を折った。
  「夢中で突っ走って来ましたから、あっという間でしたね」「岡山から東京へ出て、成功を収めはって、今なんで肉じゃがを?」こいしがペンを持つ手を止めた。
  「『キュービック』という女性誌の取材を受けることになりましてね」「知ってます。て言うか愛読者です。わたしらアラサー世代にはピッタリの雑誌……、ひょっとして〈サクセスメン〉に登場しはるんですか」目を輝かせながら、こいしが両膝を前に出した。
  「インタビュー取材が来月に予定されています。幾つかのコーナーがあって、成功の秘ひ訣けつだとか、今の日常生活、思い出のァ≌クロの味を紹介することになってます」久彦が答えた。
  「男のソウルフードはァ≌クロの味。そんなコーナーでしたね」こいしがペンを走らせた。
  「自分にとってァ≌クロの味って何だろうと考えていて、ふと肉じゃがを思い出したんです」
  久彦が声を暗くした。
  「どんな料理やったか、味も覚えてへんのに、ですか」こいしが怪け訝げんそうな顔付きで訊いた。
  「間違いなく肉じゃがは僕のソウルフードだと気付いたんです」久彦が口元を引き締めた。
  「でも、覚えてはらへんのでしょ?」
  こいしがソファにもたれ込んだ。
  「美味しかったということと、何となくですが、母の肉じゃがは全体が赤っぽかったような記憶がある。それくらいしか……。でも、もうひとつの肉じゃがは鮮明に覚えているんです」
  久彦が眉間にしわを寄せる。
  「もうひとつ?」
  こいしが身体からだを起こして、ペンを取った。
  「中学を卒業したばかりの春休みでした。高校入学の手続きをして、家に帰って来ると、もう夕食の支度が出来ていました。幸子さんと美帆さんは出掛けていて留守だったので、何気なく台所に行くと、肉じゃがの鍋がふたつあったんです」久彦が思い出を語り始めた。
  「ふたつの鍋、ですか」
  こいしが不思議そうに訊いた。
  「食べ比べると、明らかに味が違いました。僕がいつも食べているより、うんと美味しい肉じゃががあったんです。肉もたっぷり入っている。それが幸子さんと美帆さんの分でした。僕の方は肉なんか入ってませんでした。なのにテーブルに並んだ時には肉があった。
  少しは気が引けたんでしょう」
  久彦が哀かなしげな声を出した。
  「全部入り切らへんかったから、ふたつの鍋に分けはっただけやと思いますけど」こいしが慰めとも取れる言葉をかけた。
  「中学生にもなれば、それくらいはわかりますよ。ずっと騙だまされていたんだと思うと怒りがこみ上げて来て……。やっぱり血が繫つながっていないから差別されたんだと」久彦が唇を真っ直ぐに結んだ。
  「そうやったんですか……」
  こいしは言葉の続きを探しあぐねている。
  「そのとき、心に決めたんです。この家を出たら、絶対に成功して、このふたりを見返してやる、って」
  久彦は拳に力を込めた。
  「けど、亡くなったお母さんが作ってくれはったのは、どんな肉じゃがやったか、まったく覚えてはらへん。難しいなぁ」
  こいしが顔を曇らせた。
  「大したヒントにはならないかもしれませんが、豊島に居たころは裕福な暮らしだったので、きっと上等の肉を使っていたと思うんです。《普通の家ではこんな肉は食えんさけぇな》。父がそう言っていたことだけは覚えていますから」久彦が誇らしげに胸を張った。
  「肝心の味付けがわからんことには。ええ肉を使つこうてたというだけではねぇ」こいしがノートを繰りながら、何度も首を斜めにした。
  「それと……」
  久彦が言い淀よどんでいる。
  「何か?」
  こいしが久彦の目を覗き込んだ。
  「どういうわけか、亡くなった母の肉じゃがと言うと、山が頭に浮かぶんです」「山? 肉じゃがと山……。なんでやろ」
  腕組みしてこいしが天井をじっと見つめる。
  「ま、五歳にもならないころの記憶ですから」久彦が気を取り直した。
  「上等の肉、山、これだけで再現するのはねぇ」こいしがため息を吐いた。
  「もしダメだったら、いちおう抑えはキープしてあるので」挑むような視線を、久彦がこいしに向けた。
  「抑え?」
  「テレビにもよく出ていますが、料理の賢人で有名な舘たて野のヨシミに頼もうと思っています。創作和食のプリンスと呼ばれていますが、僕の親友なんです。彼なら最高の食材を使って、僕が子供のころに食べただろう肉じゃがを、再現してくれるでしょう」久彦が鼻を高くした。
  腹立たしく思いながらも、こいしは何も反応せず、流の心情を慮おもんぱかって、ノートにも書かずにおいた。
  「お母さんやお姉さんとは?」
  「成人式のときに児島に帰って、そのとき家に戻ったのが最後でした」「十三年も会おうてはらへんのですか」
  「会う必要もありませんしね」
  久彦が涼しい顔をした。
  「わかりました。なんとか捜してみます」
  こいしがノートを閉じた。
  「取材を受けるのが来月なので、そのつもりで捜していただけますか。無理だとわかったら早めに連絡ください。次の手を打ちますから」久彦が立ち上がって、こいしを見下ろした。
  勝手知ったる、とばかりに、久彦は廊下をさっさと歩き、店に通じるドアを開けた。
  「もう済んだんですか」
  流は広げていた新聞を慌てて畳んだ。
  「お嬢さんに、要領よく話を聞いていただけたんで」後ろから付いて来るこいしを、久彦が振り返った。
  「せいだい早いこと捜させてもらいます」
  立ち上がって、流が腰を折った。
  「見つかり次第ご連絡ください。すぐに参ります」久彦も流に一礼した。
  「ようけの事業なさってたら忙しぉすやろ」
  「優秀な部下がたくさん居りますので、こう見えて意外にヒマなんです。真っ黒い醬しょうゆ油味のラーメンを食べるためだけに、京都にやって来ることもあるくらいですから」久彦がにっこり笑った。
  「茜からも聞いとりますさかい、気張って捜しますわ」流が笑みを返した。
  ふたりの遣り取りを黙って聞いていたこいしが、引き戸を開けた。
  「じゃ、よろしくお願いします」
  久彦が玄関を出ると、トラ猫が駆け寄って来た。
  「これ、お洋服汚したらアカンよ」
  慌ててこいしが、ひるねを抱き上げた。
  猫など眼中にないかのように、久彦は正面通を悠々と西に向かって歩いて行った。
  「お父ちゃんは何も聞かんでよかったん? けっこう難問やと思うけど」店に戻るなり、こいしが不安そうな表情を流に向けた。
  「モノは何や?」
  流がパイプ椅子に腰掛けた。
  「肉じゃが」
  向かいに座って、こいしが答えた。
  「思うてたとおりやな。亡くなったお母さんの料理やろ」流が自信ありげに笑みを浮かべた。
  「思うてたとおり、て?」
  「ひと月ほど前にな、茜から頼まれたんや。伊達久彦という男のことを調査してくれと。
  その男の下で働いてもええもんか、どうか、っちゅう話。せやから、あの男のことは、大方調べてある。生まれはどうで、どんな育ち方をして、今はどういう仕事ぶりなんか、とかな」
  戸棚から流がファイルケースを取り出した。
  「急に東京へ行ったんは、茜さんに会うためやったんか」こいしが声を落とした。
  「放っとけへんがな。切羽詰まった声で電話して来よったさかい」流はファイルに目を通している。
  「お父ちゃん」
  こいしが真剣な表情を流に向けた。
  「なんや?」
  流が顔を上げた。
  「……。なんでもない」
  目を逸そらして、こいしが立ち上がった。
  「おかしなやっちゃな」
  流がファイルを繰った。
  「うちのお母ちゃんの肉じゃがて、どんなんやったっけ」こいしが話の向きを変えた。
  「普通の肉じゃがやった。牛の切り込みと、玉ねぎ、ニンジン、糸こん。ジャガイモは男爵やった。ちょっと甘めに煮るのが、掬子のクセでなぁ」手を止めて、流が遠い目をした。
  「お父ちゃんのと同じやんか」
  こいしが笑った。
  「そういうもんや」
  ファイルケースを閉じた流は、こいしが綴つづったノートを開いた。
  「伊達さんが言わはるには、上等の肉やったらしいわ。当時は裕福に暮らしてたんやて。
  なんか好きになれへんなぁ、こういう話」
  こいしが小鼻を歪ゆがめた。
  「依頼を受けたんやから、好きも嫌いもない」ノートから目を離さず、流がきっぱりと言った。
  「それ、ヘタやけど山の絵やねん」
  ノートの端に描いた富士山のような絵を、こいしが指した。
  「山、か。山なぁ……。お父ちゃん、岡山へ行って来るわ」流が地図を広げた。
  「岡山? 捜してはるのは、広島のころの肉じゃがなんよ」「両方行くに決まってるがな。けど岡山が先や」流が地図を指した。
  「岡山かぁ。おみやげはキビ団子やね」
  こいしが流の肩を叩たたいた。
 
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