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第一卷 第六話  肉じゃが 2_鴨川食堂(鸭川食堂)_日语阅读_日语学习网

时间: 2024-10-24    作者: destoon    进入日语论坛
核心提示:2 桜が盛りを迎えた京都は、混雑を極める。それを予測して久彦は新幹線の中から、タクシーを予約しておいた。 八条口の東の端
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  桜が盛りを迎えた京都は、混雑を極める。それを予測して久彦は新幹線の中から、タクシーを予約しておいた。
  八条口の東の端で待つ、黒塗りのセダンに乗り込んだ久彦は、『鴨川食堂』の在り処かをドライバーに告げた。
  「この仕事に就いて三十年になりますけど、そんな食堂は聞いたこともありませんわ。何ぞ名物でもあるんでっか?」
  ルームミラー越しにタクシードライバーが訊いた。
  「今日は肉じゃがらしいよ。日によって違うみたいだけど」久彦は車窓を流れる京景色に目を細めた。
  幹線道路も細い抜け道も、どこもが車で溢あふれている。何度も腕時計に目を走らせて、久彦は眉をひそめる。
  乗り込んでから十五分以上も掛かって、やっと辿り着いたときに、久彦は不機嫌な表情を隠せずにいた。
  「釣りは要らないから、早くドアを開けてくれ」慌ててドアを開けるドライバーを撥はね退のけるようにして、久彦は『鴨川食堂』の前に立った。
  「お待ちしてました」
  気配を感じて、こいしが引き戸を開けた。
  「ご連絡ありがとうございました」
  久彦がベージュのスプリングコートを脱いで、店に入った。
  「道、混んでましたやろ」
  柔らかな笑みを浮かべながら、流が厨房から出て来た。
  「ある程度は覚悟していたんですが」
  黒いシャツ姿の久彦が肩をすくめた。
  「今日はお腹の具合はどうです?」
  「この時間ですから、それなりに」
  十一時半を回ったばかりの柱時計を横目で見て、久彦が左の頰を緩めた。
  「肉じゃがだけ、っちゅうのもなんですさかい、定食風にしますわ。白ご飯と一緒に食べてもろた方が、味もようわかりますしな。すぐに支度しますんで、ちょっとだけ待ってください」
  顔を引き締めて、流が厨房に入って行った。
  久彦はパイプ椅子に腰掛けて、バッグからスマートフォンを取り出した。
  「ご覧になりますか」
  久彦がこいしにディスプレイを向けた。
  「フランス料理ですか?」
  ディスプレイに目を近づけて、こいしが訊いた。
  「舘野が試作してくれた、僕の思い出の肉じゃがですよ」久彦が両頰で笑った。
  「これが肉じゃがですか」
  こいしが目を丸くした。
  「肉は松阪牛のA5ランク、イモは北海道産のノーザンルビー、どちらも最高級品です。
  味付けに使った醬油は千葉県の下しも総うさ醬油、砂糖は和菓子に使う和三盆糖。もちろん母がこんな材料を使ったのではないでしょうが、今の僕からイメージすると、これくらいのレベルの肉じゃがだったんじゃないかと言ってくれて」久彦が胸を張る。
  「薄切りのロース肉で、この紫色のぁ·モを包んで食べるんですか。どう見ても肉じゃがやとは思えませんね」
  こいしは鼻白んだ。
  「お待たせしました」
  折敷を持って、流が久彦の横に立った。
  「こちらで出される料理をいただいてから、どちらを取材してもらうか決めようと思っています」
  久彦がスマートフォンをバッグに戻すのをたしかめて、流が小ぶりの折敷をテーブルに置いた。
  「これが、おふくろの……」
  折敷に覆いかぶさるようにして、久彦は料理をつぶさに見た。
  古伊万里のくらわんか鉢には、たっぷりと肉じゃがが入っている。鮮やかなコバルト顔料で線描された飯茶碗には、こんもりと白飯が盛られ、信しが楽らきの小皿に広島菜が載る。根ね来ごろ塗りの椀からは湯気が立っている。
  「あなたのお母さんが作ってはった肉じゃがです。ご飯は広島産の〈コシヒカリ〉。粘りのある米ですわ。これを軟らかめに炊くのが、あなたの好みやったそうです」「僕の好み? どうしてそれを」
  「話はお食べになってから。お漬けもんは広島菜の古漬け。味噌汁は鯛のアラで出だ汁しを取ってます。具は落とし玉子だけ。どれもあなたの好物ですやろ。ゆっくり召し上がってください」
  一礼して流が席を離れると、こいしもそれに続いた。
  久彦は最初に肉じゃがの匂いを嗅ぎ、大きくうなずいた。
  箸を取り、肉じゃがの肉片を口に運んだ久彦は、嚙みしめて直ぐに首をかしげる。ジャガイモと玉ねぎを食べて、右の頰を緩めた。思い直したように肉をつまんで、しげしげと眺めてから口に放り込む。また首を斜めにする。
  椀を手に取って、味噌汁を啜る。短い吐息を漏らす。箸で玉子を崩し、椀を傾けると、左の頰を緩めた。広島菜を少し広げて、白飯を包むようにして食べる。今度は両の頰を緩めた。
  一度、背筋を伸ばしてから、再び肉じゃがの肉片をつまみ上げ、ご飯に載せて口に運ぶ。何度も嚙みしめてから、久彦は箸を置いた。
  「どないです? 懐かしおしたやろ」
  益子焼の急須を持って、流が久彦の横に立った。
  「お味噌汁も、お漬物も、ご飯も、すべて懐かしい思いでいただきました。でも、肉じゃがだけは違います。鴨川さん、この肉じゃがは僕の母ではなく、幸子さんが作ったのと同じです。僕が捜して欲しかったのは、実の母の作ってくれた肉じゃがでした。勘違いなさったようですね。残念ながら、捜し直してもらう時間はありません。もちろん探偵料はお支払いします。名刺の住所に請求書を送っておいてください」久彦は立ち上がって、帰り支度を始めた。
  「ちょっと待ってください……」
  こいしが久彦と流の顔を交互に見ながら、うろたえている。
  「ちゃんと覚えてはったんですな。おっしゃるとおり、これは伊達幸子さんが作ってはった肉じゃがです」
  流が平然と言ってのけた。
  「こんな肉じゃがを捜して欲しいなんて言ってなかったんですがね」鼻で笑って、久彦がベージュのコートを羽織った。
  「いえ、捜してはった肉じゃががこれなんですわ」流が真っ直ぐに久彦の目を見た。
  「おかしなことを言う人だなぁ。僕が捜していたのは、母の君枝が作ってくれた肉じゃが。これは幸子さんが作った肉じゃが。色もまったく違うし、別物じゃないですか」久彦が早口で言った。
  「別物やおへん。同じもんなんですわ」
  「同じなわけないでしょう。母と幸子さんは別人なんですよ」久彦が色をなした。
  「急せいてはるんでしたら、どうぞお引き取りください。ご意向に添わなんだんですから、料金は要りまへん。けど、わしの話を聞こうと思うてくれはるなら、どうぞ、おかけください」
  流が久彦にやさしい笑みを向けた。
  「別に急いでいるわけではありませんが」
  久彦がコートを脱いで、渋々といった表情でパイプ椅子に腰をおろした。
  「あなたのおっしゃったとおり、このレシピは幸子さんからお聞きしたもんです。せやから色は赤いことはおへん。けど、それ以外はまったく同じはずです。幸子さん、お元気になさってました。児島の町外れにある小さいお家を訪ねて来たんですわ」赤いトタン屋根の平屋造り。小さな家の写真を流が久彦に見せた。
  「まだ、この家に?」
  驚いたように久彦が写真を手に取った。
  「七年前に美帆さんが嫁がはってから、幸子さんはおひとりでこの家を守ってはります。
  あなたの部屋も、そのまま残してありました」「……」
  久彦の視線は一葉の写真にそそがれたままだ。
  「この肉じゃがですけどな、実はあなたのお母さんの君枝さんが、幸子さんに託さはったレシピなんです。このノートに、どんな材料を使うて、どういう味付けをして、と、詳しいに書いてあります。無理を言うてお借りして来ました」すっかり変色した大学ノートを、流がテーブルに置いた。
  「〈久彦のたべもの〉。これをおふくろが?」表紙のタイトルを一瞥し、久彦は急いで頁ページを開いた。
  「病弱やったお母さんは、あなたの面倒を最後まで見切れんことをわかってはったんでしょう。後添えになる幸子さんに託さはったんです。偏食気味やったあなたが、どんなもんを好んで食べたか、何が苦手やったか、ぜんぶ記してあります」「母が幸子さんに……」
  頁を繰りながら、食い入るようにして、久彦が字を追っている。
  「肉じゃがは五頁目です」
  流の言葉に、慌てて久彦は頁を戻した。
  「豊島のある呉は肉じゃが発祥の地と言われてます。その呉式やとジャガイモは煮崩れせんようにメークインを使うんですが、お母さんの君枝さんは、島の近くの特産品、赤崎の馬ば鈴れい薯しょを使うてはりました。〈出島〉という品種で、今でも人気のある馬鈴薯です。玉ねぎは淡路島産、お醬油は小豆島しょうどしまのもん。三十年近ちこぅも前に、こない食材にこだわってはったというのは、大したもんや。大事に育てられはったんですなぁ」
  「この大和煮って、もしかしたら……」
  ノートに目を釘付けにして、久彦がつぶやいた。
  「そうです。缶詰ですわ。牛肉の大和煮。そこにも書いてありますけど、その頃の豊島では、質のええ牛肉を安定して供給する店がなかったんですやろ。あなたは脂身の多い肉が苦手やったらしいて、いつも同じ質を保てる赤身の缶詰を使うてはった。食品の倉庫会社を経営なさってたんやから、手に入れやすかったという理由もあるんでしょうな」流が缶詰をテーブルに置いて続ける。
  「ご両親の会話に大和煮という言葉が出て来た。それを聞いたあなたは山を想像してはったんでしょう。小さい子には大和てな言葉は浮かびまへんやろ」缶詰に書かれた大和煮という文字を流が指した。
  「それで山が」
  手に取って久彦が顔を丸くした。
  「あなたの記憶にあった肉じゃがが赤みを帯びてたんは、小さい時苦手にしてはったニンジンを、お母さんがすり潰して煮込んではったからです。けど、幸子さんに引き継ぐ時には、ニンジンを形のまま入れても食べはるようになった。色の違いはそういうことです。
  もうひとつ、ふたつの鍋があった時。一方に肉が入っとらなんだんは、大和煮やからです。火も通って、味も付いてますさかい、食べる前に入れてられたんでしょう。脂身もほとんどありませんし、煮込み過ぎると固ぅなると思わはったんでしょうな」「今は霜降りの方が好きなんですが」
  久彦が缶詰を手に取った。
  「ええ肉の脂身は旨いもんですが、質が落ちるとあきまへん。歳としと共に味の好みも変わるんですけど、幸子さんはお母さんからの申し伝えを、忠実に守ってはったんでしょうな。律儀な方です」
  玄関先に立つ幸子の写真をそっと置いた。
  「小さくなったなぁ」
  久彦の瞳がわずかに潤んだ。
  「広島菜の古漬け、落とし玉子の味噌汁は、筆跡が違いますさかいに申し送りやない。幸子さんが新たに書き加えはったもんやと思います」流が急須を傾けた。
  「こんなノートがあったなんて」
  久彦がノートを閉じ、表紙をゆっくりと撫でた。
  「あなたが食べてはった肉じゃがは、ふたつや無のうて、ひとつやった。ふたりのお母さんがリレーしてはったんです」
  「幸子さんは、わざわざ僕の分だけ、別の肉じゃがを……」宙に目を留めて、久彦はふたつの鍋を思い出している。
  「けど、まぁ、今人気の女性誌に載せはるんなら、料理の賢人さんの方がよろしいやろ。
  さっき、チラッと拝見しましたけど、あなたのイメージに、よう合おうてます。缶詰の肉を使うてなこと、貧乏臭いですわな」
  「……」
  久彦は無言のまま、ノートの表紙を指でなぞっている。
  「あなたが成功を収めて、活躍なさっていること、幸子さんはえらい喜んではりました。
  あなたの記事を切り抜いてスクラップブックに、びっしり貼ってはりました。毎年、暮れになったら多額の仕送りをなさっているそうですがな。感謝してはりましたで。けど、びた一文手を付けんと、きっちり残してはるそうです」「建て替えるか、新しい家でも買えばいいと思ったのに」流の話を聞いて、久彦が微苦笑した。
  「息子が高みに登ったら嬉しい半面、今度はいつ落ちるか気が気やない。万が一そんな時が来たら、あなたに返さんならんと思うてはるんでしょう。血が繫がっていようが、いまいが、いつになっても子供の将来を案じる。それが母親というもんです」諭すような口調で流が言った。
  「いろいろとありがとうございました。この前の食事代と合わせてお支払いを」久彦がこいしに顔を向けた。
  「お気持ちに見合うた金額をこちらに振り込んでください」こいしがメモ用紙を渡した。
  「このノートと缶詰、持って帰ってもいいですか」久彦が流に訊いた。
  「どうぞお持ち帰りください。荷物になりますけど五缶用意してますんで」流が久彦の目を真っ直ぐに見た。
  「紙袋を用意しますわ」
  こいしが書棚の扉を開ける。
  「バッグに入りますから大丈夫です」
  言うが早いか、久彦はバッグに入れ、しっかりと胸に抱いた。
  「『キュービック』楽しみにしてます」
  引き戸を開けて、こいしが久彦に言った。
  「発売されたらお送りしますよ」
  言葉を返した久彦の足元に、ひるねがのっそりと寄って来た。
  「いいなぁ猫は。のんびりできて。なんていう名前だったっけ」屈かがみ込んで久彦がひるねの頭を撫でた。
  「ひるねて言うんです。いっつも昼寝してるんで」こいしがその横に屈むと、ひるねがひと声鳴いた。
  「茜によろしゅう」
  裾を払って立ち上がった久彦に、流が声をかけた。
  「ぶしつけなことを訊くようですが、大道寺とはどういうご関係で?」久彦が流に顔を向けた。
  「亡のうなった家内の親友でしたんや。茜とは、わしらが結婚する前からの付き合いでしてな。妹みたいに思うてます」
  「それで『料理春秋』に広告を」
  納得したように、久彦がうなずいた。
  「グルメ情報てな軽いもんやのうて、食のことをきちんと書いてる雑誌です。そこに広告を出したら真っ当な尋ね人が来てくれはる。ご縁のある方だけがここまで辿り着いてくれはる。そう思いましてな」
  流が唇を一文字に結んだ。
  「茜さんと『料理春秋』のこと、ちゃんと守ったげてくださいね」こいしが頭を下げた。
  一礼して久彦は西に向かって歩き出す。その背に向けて流が腰を折ると、こいしもそれに続いた。
  「どっちの肉じゃがにしはると思う?」
  店に戻るなり、こいしが流に訊いた。
  「どっちでもええがな」
  流がぶっきらぼうに答えた。
  「この前の時は気にもかけてはらへんかったけど、今日はひるねの頭を撫でてはった。心境に変化が出て来たんと違うかなぁ」
  腕組みしながらこいしが言った。
  「ちょっとはお前も見る目ができて来たやないか」「やっぱりお父ちゃんも気付いてたんや」
  「当たり前や。それより、今晩夜桜見に行こか。花見弁当こしらえて」「ええなぁ。お酒もたっぷり持って行こ。どこ行くん?」「賀茂川の半木なからぎの道の枝垂れ桜が見頃やそうなさかい、地下鉄で北大路駅まで行こうと思うとる」
  「お母ちゃん、寂しがるかなぁ」
  こいしが仏壇に目を遣った。
  「弁当も三人分こしらえて、写真も持って行ったったらええがな」流が厨房に足を向けた。
  「そや、あれ持って行こ」
  居間に駆け上がって、こいしがタンスの引き出しを開けた。
  「何や?」
  後に続いた流が覗き込む。
  「お母ちゃんのお気に入りやった、桜で染めたストール。覚えてる?」ピンク色のストールをこいしが胸に当てた。
  「覚えてるに決まったぁるがな。信州へ旅行したときに買こうてやったんやが、帰りの汽車の中に忘れて来よったんや。えらいことした、言うて掬子が泣き出しよって往生した。
  戻って来たときにもまた嬉し泣きしよって……」流が瞳を潤ませる。
  「うちは、お母ちゃん、ひとりでええな」
  ストールを抱きしめる、こいしの頰を涙が伝う。
  「掬子によう似て来たなぁ」
  流が目を細めた。
 
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