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第三卷 第一話  かけ蕎麦 1

时间: 2024-02-27    进入日语论坛
核心提示:第一話  かけ蕎麦     1 阪急電鉄京都本線の烏からす丸ま駅は地下にある。 地上に出たほうがいいのか。地下鉄に乗り換
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  第一話  かけ蕎麦
  1
  阪急電鉄京都本線の烏からす丸ま駅は地下にある。
  地上に出たほうがいいのか。地下鉄に乗り換えるべきか。さんざん迷ったあげく、片かた岡おか左さ京きょうは地上に出るほうを選んだ。
  ダンサーという仕事がら身のこなしは美しい。左京は一段飛びで長い階段を上ってゆく。
  五番出口から上ると、そこは烏丸仏光寺の交差点だった。どんよりと曇った空からは、今にも白いものが落ちてきそうだ。
  「すみません。正しょう面めん通はどっちに行けばいいですか」左京はコートの襟を立てて、信号待ちしているビジネスマンに訊きいた。
  「正面通? 〈おひがしさん〉のほうか?」
  スタイリッシュなスーツ姿とは、いささか不釣り合いな口調で男は問いかけてきた。
  「〈おひがしさん〉というのは東本願寺のことですか?」「決まっとるがな」
  「だったら、そこです。そっちに行きたいんです」「それやったら地下鉄に乗り。ほんで京都で降りて、地下道通って七条のほうに行ったらええ」
  「もう地上に出ちゃったので、歩いて行きたいんですが」「けっこう歩かんとあかん。にいちゃんみたいな華きゃ奢しゃな身体からだやとキツイで」
  ビジネスマンは左京をまじまじと見た。
  「こう見えて、筋肉はしっかり付いてますから、歩くのは平気なんです」左京は屈伸してみせた。
  「まぁ、さぶい時期やさかい、身体がぬくたまってええかもしれんな。それやったら、この烏丸通を、まーっすぐ南に行き。五条通越えて、四つ目の信号が正面通や。真ん前に〈おひがしさん〉がある」
  「ありがとうございます」
  当たり前のことなのかもしれないが、京都ではビジネスマンでも、標準語を使わないことに、左京は不思議な感動を覚えていた。
  言われたとおりに烏丸通をまっすぐ南に歩き、五条通の角に立った。
  つま先立ちをして、鼻歌を歌っていると、すれ違った老婦人が不審そうな眼まな差ざしを向けてきた。信号が青になるのを待つ間、ハンバーガーショップから芳こうばしい匂いが漂ってくる。左京はごくりと生唾を呑のみ込み、腹を鳴らしながらも、じっと我慢した。
  言われたとおり、四つ目の信号が正面通だった。京都人がいう〈おひがしさん〉を右手に見て、左に折れた。
  「ここかな」
  一軒の二階家を前にして、左京の足が止まった。
  味もそっけもないモルタル造のしもたや。暖の簾れんも看板もなく店らしくない構え。
  鼻先をかすめる飲食店独特の匂い。聞いていたとおりの店だ。
  「こんにちは」
  引き戸を少しだけ開けて、左京は顔を覗のぞかせた。
  「いらっしゃい」
  黒いソムリエエプロンを着けた鴨かも川がわこいしが笑顔を向けた。
  「入ってもいいですか」
  「どうぞお入りください」
  こいしは引き戸を開け放った。
  「あなたが鴨川こいしさん?」
  「そうですけど」
  こいしが怪け訝げんな表情を見せた。
  「美人探偵さんだと聞いてましたが、予想以上ですね」左京が赤いダウンジャケットを脱いだ。
  「べんちゃら言わんといてください」
  こいしが頬を赤く染めた。
  「予約してないのですが、何か食べさせていただけますか」左京が腹を押さえた。
  「おまかせでよろしおしたら、ご用意させていただきますけど」白衣姿の鴨川流ながれが、左京に顔を向けた。
  「それでけっこうです。お願いします」
  「苦手なもんとかはおへんか」
  「ええ。何もありません」
  「しばらく待っとぅくれやっしゃ」
  流が厨ちゅう房ぼうに向かうと、左京はパイプ椅子に腰かけた。
  「捜しもんがあるんですか?」
  スマートフォンを操作する左京の前のテーブルを、こいしが丁寧に拭いている。
  「え?」
  左京が顔を上げた。
  「〈食捜します〉の広告を見て来はったんでしょ」「ええ。そうなんです。『料理春秋』の大だい道どう寺じさんから、こちらの場所を教わって」
  左京がスマートフォンのディスプレイをこいしに見せた。
  「役者さんなんですか?」
  ディスプレイに顔を近づけて、こいしが素っ頓狂な声を上げた。
  小さな画面には、真っ赤な全身タイツを着て、大道寺茜あかねの隣でにっこり微笑ほほえむ左京の写真が映しだされていた。
  「正確に言うとダンサーですが」
  左京がスマートフォンをテーブルに伏せた。
  「前衛とか、そういう感じですか?」
  「このときはそんな感じでしたけど、いろんなステージをやりますよ。時代物もやりますし、ホラー系だとか。肉体を使って表現するものなら、なんでも挑戦しています」「お待たせしましたな」
  流が銀盆に載せて料理を運んできた。
  「すごいご馳ち走そうですね」
  テーブルの上に並べられていく料理を見て、左京が身体を震わせた。
  「どないかしはったんですか?」
  驚いてこいしが左京の肩に手をおいた。
  「武者震いですよ。この素晴らしい料理をこれから食べられるのかと思うと、身体が勝手に震えてくるんです。大丈夫、心配しないでください。よくあることですから」こいしにそう答えながらも、左京は片ときも料理から目を離さない。
  「簡単に説明させてもらいます」
  並べおえて、流が左京の傍そばに立った。
  「お願いします」
  左京が背筋を伸ばした。
  「さぶい時期ですさかいに、あったかいもんをメインにしてます。左上の淡路焼の小皿は酒さけ粕かすをまぶして焼いたブリです。黒七味がよう合うと思います。その横の唐津の小鉢に入っているのは鶏肉の玉子とじ。言うたら親子丼の上だけですわ。粉こな山さん椒しょうを振ってもろたら美お味いしなります。その右のお椀わんには焼いた蕪かぶが入ってます。豆トウ豉チ味み噌そを上に掛けて召し上がってください。その下の信しが楽らきは鴨ロースのネギ巻き。溶き辛子がよう合います。その横は口直しの酢のもん、絹もずくと〆しめ鯖さばを和あえてます。左の伊万里はすっぽんの醤しょう油ゆ煮です。一番手前の織おり部べは伊い勢せ海え老びの白味噌煮。ご飯は後でお持ちします」流の言葉に、ひとつずつ目を移し、うなずいていた左京が大きなため息をついた。
  「いやぁ、聞きしに勝る料理ですね。大道寺さんに言われて、期待はしていましたが、まさかここまでとは」
  「茜とお知り合いでしたんか」
  「ええ。料理とダンスのコラボをするイベントで呼んでもらってからのお付き合いです。
  もう三年ほどになりますが、仕事だけでなく、よく飲み会にも誘ってもらっています」指先でリズムをとりながら、左京は相変わらず料理を見つめたままだ。
  「何か飲まはりますか?」
  こいしが訊いた。
  「ワインなんてないですよね?」
  「大したもんはおへんけど、国産のテーブルワインやったら」流が答えた。
  「少し冷えた白があれば嬉しいのですが」
  「ちょっと待っててくださいや」
  銀盆を小脇に挟んで、流が厨房に戻った。
  「ワインがお好きなんですか?」
  「好きというか、他のお酒が苦手なんです。日本酒や焼酎もダメで、ビールもあまり好きじゃなくて、ワインしか飲めないってとこです」「ァ》ャレやねぇ。さすがダンサーさんや」
  「こんなんでどうですやろ」
  流が小走りでワインボトルを持ってきた。
  「京都産のワインなんてあるんですか。是非これを」左京がラベルを見て、首を縦に振った。
  「天あまの橋はし立だてで作っとる『とよさか』っちゅうワインですわ。京都産の白ぶどうセイベル9110にドイツ系品種のバッカスをちょこっと足しとるようです。柑かん橘きつ系の香りが気に入ってます」
  抜栓して、流がコルクを左京の鼻先に近づけた。
  「ほんとだ。いい香りですね」
  「好きなだけ飲んでください。冷えすぎても何ですさかい、ワインクーラーは要いらんと思います」
  グラスを横に置いて、流がふたたび厨房に入っていき、こいしもそれに続いた。
  急にしんと静まり返った店の中で、左京は小さく咳払いしてから、ワインをグラスに注ついだ。殺風景な店と不釣り合いな光景に、ふわりと笑みを浮かべた。
  「いいワインだな」
  ひと口飲んで、左京はグラスを置いた。
  最初に箸をつけたのは伊勢海老だった。幾らか小ぶりではあるが、身はしっかりと太っている。白味噌味と聞いて、くどい甘さを想像したが、柚ゆ子ずの香りも重なって、爽やかな後口だ。煮てあるというより、さっと白味噌と和えただけなのだろう。身の中心は透き通っていて、ほとんど火が入っていない。このひと品を食べただけで、凄すご腕うでだということが分かる。父親に連れられて何度か足を運んだ祇ぎ園おんの奥の料亭など比べものにならない。
  ブリは照り焼きが一番だと思い込んでいたが、酒粕で味を付けると、複雑な味になって深みが出る。酒粕といってもそこいらに売っている粕ではないはずだ。吟醸酒の香りがブリの身に移っている。
  鴨ロースのネギ巻きに辛子を付けすぎてしまい、鼻に抜ける辛さを押さえつつ、ワインで喉を潤す。
  半分ほども食べ進んだところへ、流が現れた。
  「どないです。お口に合うてますやろか」
  「口に合うなんてものじゃないです。自然と踊りだしてしまいそうになるくらい美味しいです」
  「よろしおした。ご飯の用意もできてますさかい、いつでも声をかけてください」「ありがとうございます。もう少しワインをいただいてから」左京がグラスを高く上げた。
  焼いた蕪に豆豉味噌をまぶして口に運ぶ。ワイングラスを傾ける。鶏肉の玉子とじに粉山椒をたっぷり振って口いっぱいに頬ばる。グラスにワインを注ぐ。次第にピッチも上がり、ボトルには少しの白ワインが残るだけとなった。
  左京は目を閉じて、三日前のステージを思い出した。自分では完璧だったと思うのに、客席は冷ややかな反応だった。ソロダンスだから誰のせいでもない。構成も演技もすべて自信たっぷりだっただけに、スタンディング?ァ≠ーションもなく、あっけない幕切れに、全身の力が抜けた。魂までも抜かれたようだった。
  「後のお話もありますんで、そろそろご飯にさせてもらいますわ」流が小さな土鍋をふたつテーブルに置いた。
  「すみません。あまりに美味しい料理なので、つい……」「今日は蟹かにご飯を炊きました。バターを使うてますさかい、蟹ピラフみたいなもんですけどな」
  信楽の土鍋から飯めし茶ぢゃ碗わんにしゃもじで装よそい、左京の前に置いた。
  「たしかに洋食っぽい匂いがしますね」
  左京が鼻をひくつかせた。
  「味噌汁やのうて、スープが合うやろと思いまして」流がもうひとつの土鍋の蓋を取ると、具だくさんのスープが現れた。
  「ミネストローネですね」
  「まぁ、そんなようなもんです。今どきのラーメンふうに言うたらダブルスープというとこですな。昆布と煮干しで出だ汁しを引いて、牛骨で取ったブイヨンを足してます。具は刻み野菜とベーコン。ご飯もスープも鍋ごと置いときますんで、遠慮のう」「ミネストローネは好物なんですよ」
  椀を手にした左京は、スープに口をつけた。
  「お食事が終わらはったら、奥へご案内しますわ。お茶、置いときます」大ぶりの湯呑みを置いて、流が下がっていった。
  蟹ピラフをかき込み、スープをすすり、交互にそれを繰り返した左京は、一瞬迷ったあと、両方ともお代わりをした。
  和食の後にバタ臭いピラフが合うかどうか、箸を付ける前はいくらか案じていたが、まったくの杞き憂ゆうに終わった。それはおそらく、このスープのおかげなのだろう。左京はそう思った。味に刺激はないが、香りに刺激がある。それはスパイシーというような、軽い言葉で表現できるものではなく、深遠な、といえば少しおおげさかもしれないが、そんな奥深さを感じさせるスープが、いくらか尖とがった味のピラフを丸く包んでいる。
  フレンチ好みの自分が、これほどに満ち足りて箸を置くのは、いつ以来だろうか。過去を振り返りながら左京は手を合わせ、湯呑みを手に取った。
  「そろそろよろしいかいな」
  「ごちそうさまでした。大変美味しくいただきました」左京が中腰になって、頭を下げた。
  「えらい、急せかしてしもて、すんませんなぁ」「いえいえ。ちょっとゆっくりし過ぎました」薄うっすらと額ににじむ汗をハンカチで拭いながら、左京が立ち上がった。
  細長い廊下の突き当たりにある探偵事務所のドアを流がノックすると、こいしの返事が返ってきた。
  「どうぞ」
  「後は娘にまかせてありますんで」
  踵きびすを返して、流が廊下を戻っていく。部屋に入って左京はロングソファの真ん中に腰かけた。
  「お待たせして申し訳ありませんでした」
  「お父ちゃんの料理、美味しいでしょ」
  「素晴らしい料理を堪能させていただきました」「早速で申し訳ないんですが、簡単に記入していただけますか」向かい合って座るこいしが、ローテーブルにバインダーを置いた。
  「承知しました」
  受け取って左京が、すらすらとペンを走らせる。
  「やっぱりダンスしてはる人は違いますねぇ。踊りながら書いてはるみたい」笑みを浮かべるこいしに、左京が書き終えてバインダーを返した。
  「身についてしまっているんでしょうね。歯をみがくときなんか、鏡の前でいつも踊ってますよ」
  「片岡左京さん。本名ですか?」
  「ええ」
  「芸名みたいですね」
  「そういう面も無きにしもあらず、でしょうか」「どういう意味です?」
  こいしが前かがみになった。
  「そこにも書きましたが、片岡家は代々能楽師なんです。父の清せい雪せつが八代目になります。わたしも継いでいたら、いつかは清雪になるはずだったんですが」「お能のおうちやったんですね。継がはらんでもええんですか」「よくはないでしょうが」
  左京が苦笑いした。
  「能もダンスも踊りには違いないんやから、まぁ、似たようなもんなんか」「それは違います」
  こいしの言葉を左京が即座に否定した。
  「どこが違うんです?」
  気け圧おされて、こいしは身体を引いた。
  「まったく別ものなんです。能は舞う、のですが、ダンスは踊ります。舞うというのは平面的な動きで、踊るのは立体の動きなんです」「分かったような、分からんような、やけど。それはおいといて、どんな食を捜してはるんです?」
  こいしが話を本筋に戻した。
  「かけ蕎そ麦ばなんです」
  「かけ蕎麦て、素蕎麦みたいなもんですか」
  「こちらではそう言うのですか。何も具が入っていない、温かい蕎麦です」「やっぱり。けど、そんなん、どこで食べても似たような味と違います?」「わたしもそう思っていたのですが、今振り返ってみると、やっぱり特別な味わいだったなぁと」
  「どこでお食べになったんです?」
  こいしがペンを構えた。
  「神楽坂にある『若宮』という料亭です」
  「東京の料亭はお蕎麦も出さはるんですか」
  こいしがペンを止めた。
  「ふだんは出さないでしょうね。あのときは特別だったと思います」「もうちょっと、詳しいに聞かせてもらえますか」こいしがペンを構えなおした。
  「さっきもお話ししましたが、わたしは家を出て、ダンサーという仕事をしております。
  当然のことながら、父の清雪は家に戻るよう、何度か説得に来ます。稽古場に来ることもあれば、舞台が始まる前に楽屋までやって来て話しこむこともよくあります。わたしはダンスを一生の仕事と決めましたので、片岡家に戻る気はありません。来てもらうだけ無駄だと何度も言ったのですが」
  「お能とダンスの違いも分からないわたしが言うのも何ですけど、戻って継がはったらええのと違います? お父さん、可哀かわいそうですやん」「生意気だと思われるでしょうが、昔からの芸能をただ引き継ぐだけのために、わたしの人生を使いたくないんです。世阿弥が大成した能楽なら、わたしでなくて、誰が演じても同じでしょう。でもダンスは違う。基本的にすべて、わたしの創作ですから。いつの日かこれが日本の伝統舞踊になるかもしれない。わたしは世阿弥になりたいんです」左京が唇をまっすぐに結んだ。
  「わたしにはむずかしすぎる話やわ」
  こいしが深いため息をついた。
  「いつもは、ふた言、み言、言葉を交わすだけで帰っていった父なんですが、そのときは珍しく食事に誘ってきましてね。三年ほど前だったかなぁ。ステージの終わった後でした。二階席に父が居たのは分かっていたのですが、舞台がはねた後に楽屋を訪ねてきてくれまして」
  「それで料亭へ行かはったんですね」
  こいしがペンを走らせる。
  「能楽師ならともかく、わたしのような貧乏ダンサーには不釣り合いなので、気軽なバルなんかのほうがいいと言ったのですが」
  「お父さんには特別な意味があったんと違います?」「きっとそうだったと思います。出てきたワインも料亭には似合わないようなテーブルワインでしたし、京都のおばんざいのような、簡単な酒のアテみたいな料理ばかりで。父も特に何かを話すわけでもなく、世間話をしておりました」「父親と息子て話しにくいらしいですね」
  「小さいころから、父とは師弟の関係でしたので、ずっと敬語を使っていました」左京が遠い目をした。
  「お父さんに敬語を使わはるんですか。窮屈なことやねぇ」「それが当たり前だと思って育ってきましたから」「そのときにかけ蕎麦が出てきたんですね」
  「ええ。父もよく飲むほうなので、ふたりで、白と赤の二本を空けた後でした。滅多にわたしのステージのことを言わない父なのですが、そのときは厳しい言葉を浴びせられました」
  「うちらみたいな素人には分からへんやろけど、どんなことを?」「踊りが見えすぎる、なんていう、訳のわからないことを繰り返しましてね。そりゃあ見えるだろう。ステージの真ん中で踊っているのですから」左京が苦笑いした。
  「見えすぎる、ですか。お能をやってはる人は、言うことが違いますね。高尚すぎて分かりませんわ」
  こいしも追従した。
  「言ってることが通じないと、あきらめたのでしょうね。料亭の女将おかみさんの耳元で、父が何かを囁ささやいてから、しばらく経たって出てきたのが、かけ蕎麦なんです」「食堂の素うどんとは訳が違うんや」
  「出てきたときは驚きましたよ。せっかくの神楽坂の料亭なのに、居酒屋みたいな料理しか出てこず、あげくの果てに出てきたのがかけ蕎麦ですからね。馬鹿にされているのかと思いましたよ」
  「けど、それが普通やなかったんや」
  「食べているときは、それほどでもなかったんですが、店を出てから、じわじわと効いてきましてね」
  「どんな味やったんです?」
  「それが、どうにも説明できないんですよ。あんな味だったとか、こういう風味だったとか、まったく比較できるものがなくて。ただ、とても上品な味だったことは間違いないです。これまでに食べたことのない味で。蕎麦そのものは、手打ちっぽくなかったので、きっと乾麺だと思いますが、蕎麦出汁がとにかくすごかったんです。今から思えば、ですけどね」
  「ひとつだけ聞いておきたいんですけど、その『若宮』ていう料亭は今もあるんですか」「すみません。もうないんです」
  「やっぱり。あったら、ご自分で捜さはりますもんね」「どうしても、あのときのかけ蕎麦をもう一度食べたいと思って、神楽坂に行ったのですが、もう店仕舞いしたらしくて」
  きまり悪そうに左京が言った。
  「お父さんに訊いたら分かるのと違います?」「どんなに些さ細さいなことでも、父に頼るのはいやです」「そう言わはると思うたわ。ほかになんか特徴がありませんの?」「東京のかけ蕎麦を食べたことあります?」
  左京が訊いた。
  「いっかいもありません」
  こいしがきっぱりと言い切った。
  「ですよね。京都みたいな、あんなやさしい出汁じゃなくて、醤油がらいつゆにまみれた蕎麦。それはそれで好きなのですが、あのときのかけ蕎麦は、それとは別ものでした。澄み切った出汁で、高貴という言葉が一番似合うと思います。京都のうどんも時々いただくのですが、それとも違う、不思議な味のお蕎麦でした」「どんな味なんやろ。食べてみたいなぁ」
  「それ以来、いろんなお店で食べてみるのですが、まるで別ものでして」「もうちょっと何かヒントが欲しいなぁ。何かの味に似てるとか」「わたしも食べることは大好きなので、あれこれ考えてみるのですが、思い当たるものが何もなくて。強いて言えば塩ラーメンみたいな感じですかね。食べた後、身体が温まりましたし」
  「塩味か。単純な料理ほど再現が難しい、てお父ちゃんがよう言うてはります」「そう言えば……」
  左京が宙を見つめた。
  「なんです?」
  こいしが左京に顔を近づけた。
  「さっきいただいたスープと同じような……わけないですね。ミネストローネとかけ蕎麦は全然違いますよね」
  左京が微笑むと、書き留めてから、こいしは肩をすくめた。
  「最後にひとつお訊きしたいんですけど、なんで今になって、そのかけ蕎麦を捜そうと思わはったんです?」
  「それがねぇ、自分でもよく分からないんです。とうに忘れ去っていたのですが、なんだか急に食べたくなりましてね」
  「ひょっとして、家を継ごうと思い始めはったとか」「それはないです。さっきも言いましたが、わたしはダンスを一生の仕事と決めましたので。ただ……」
  「ただ?」
  「最近になって、ようやく能楽というのはすごいものだと気づいてきたことは確かです。
  ダンスと能はまったく別ものだと思っていましたが、似たところもたくさんあるんです」左京が目を輝かせた。
  「やっぱり。言うたとおりですやん」
  こいしが笑った。
  「いや、そうじゃないんです。能とダンスはあくまで別ものです。なんですが、相通じるものがある、というだけで」
  「ほんまに頑固なんや」
  こいしが笑いを苦くした。
  「一度ダンスを観みに来てくださいよ」
  「かけ蕎麦を捜しだせたら観に行かせてもらいます」こいしがノートを閉じた。
  「よろしくお願いします」
  左京が小さく頭を下げた。
  「かなりの難問やと思いますけど、お父ちゃんやったら、きっと捜してくれはると思います」
  立ち上がって、こいしがノートを小脇に挟んだ。
  食堂に戻ると、椅子から立ち上がって、流が迎えた。
  「あんじょうお聞きしたんか」
  「うん。聞かせてもろたけど、かなりの難問やで」「すみません。難しいことをお頼みして」
  左京がふたりに頭を下げた。
  「いやいや、そのほうが捜し甲が斐いがあるっちゅうもんです」流が苦笑した。
  「そんな強がり言うてられるのも今のうちやと思うで」こいしが流の顔を覗き込んだ。
  「今日のお代を」
  左京がポケットから財布を出した。
  「この次、探偵料と一緒にいただきます」
  「そうですか。で、次はいつ来れば」
  「だいたい二週間ほど後やと思うてください。こちらから連絡させてもらいますわ」「承知しました。公演がありますので、少し日にちはずれるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします」
  深々と一礼して、左京が引き戸を開けた。
  「飼い猫ですか」
  足元に寄ってきたトラ猫の頭を左京が撫なでた。
  「飼うてるていうたら飼うてるんですけど、食べもん屋に猫を入れたらアカンてお父ちゃんが言わはるさかい」
  こいしが流を斜めに見た。
  「あたりまえのこっちゃないか」
  「名前はついているんですか」
  「ひるねて言うんですよ」
  こいしが答えた。
  「ひるねちゃん、また来るからね」
  左京がひるねに手を振った。
  「そないな難問か」
  店に戻って流が訊いた。
  「これまでで一番難しいのと違うかな」
  こいしが答える。
  「ものは何や」
  「かけ蕎麦」
  「かけ蕎麦て、あれかい。素蕎麦かい」
  「うん」
  「たしかに難問やな」
  「そやろ。しかもな、今はもうなくなった神楽坂の料亭で出てきた、かけ蕎麦なんやで」「えらいもん引き受けてしもうたな」
  流が苦虫を噛かみつぶしたような顔をした。
 
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