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第三卷 第五話  オムライス 1

时间: 2024-02-27    进入日语论坛
核心提示:第五話  オムライス     1 京都駅を八条口から出た城じょう島じま孝たか之ゆきはタクシー乗り場へ急いだ。「ここへ行き
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  第五話  ァ∴ライス
  1
  京都駅を八条口から出た城じょう島じま孝たか之ゆきはタクシー乗り場へ急いだ。
  「ここへ行きたいんだが」
  乗り込むなりタクシーの運転手に地図を見せた。
  「仏壇屋はんでっか?」
  老眼鏡をかけて、運転手が訊きいた。
  「『鴨川食堂』というお店だけど」
  「こんなとこに食堂てあったかいな。とにかく行ってみますわ」老眼鏡を外して、運転手がハンドルを握った。
  孝之の脳裏に山紫水明という言葉が浮かんだ。高架から見上げる東山は春はる霞がすみに包まれて紫色に染まっている。鴨川も澄みわたっているのだろうか。
  「頼山陽。結局試験には出なかったな」
  孝之は二十五年ほども前の大学入試を思い出していた。
  黒いタクシーは、JRの線路をまたぎ、京都タワーを横目に、烏丸通を北上し『東本願寺』の前に出た。
  「正面通は西行の一方通行でっさかい、こっちから回りこみますわ」右折のウィンカーを点つけて、運転手が孝之を振り向いた。
  二度左折して正面通に出ると、運転手は速度を落とした。
  「たぶん、ここだと思う。停とめてください」正面通の南側を見ていた孝之が声をかけた。
  「食堂には見えしませんけどな」
  ブレーキを踏んで、運転手が不審そうに言った。
  「ここでいいんだ。食堂に見えない食堂だと聞いているから」孝之が千円札を渡した。
  古びた二階家。グレーのモルタル造。看板も暖の簾れんもなし。聞いていたとおりの佇たたずまいだ。孝之はグレーのコートを脱いで、引き戸を引いた。
  「いらっしゃい」
  黒いソムリエエプロンを着けた鴨川こいしが孝之を迎えた。
  「こちらは『鴨川食堂』でしょうか」
  「ええ。お食事ですか?」
  「食を捜してほしくて伺ったのですが」
  「そっちのお客さん……。あの広告を見はったんですか?」「広告? なんのことです?」
  「『料理春秋』の広告を見て来はったんやないんですか?」「こちらのことを伊だ達てくんに教えてもらって来たんです」「伊達? 誰のことやろう」
  「伊達久ひさ彦ひこさんのご紹介ですか」
  白衣姿の流が厨房から出てきた。
  「はい。わたしは城島孝之ともうします」
  孝之が名刺を差しだした。
  「わしは鴨川流、これは探偵事務所をやっとる、娘のこいしですわ」流が紹介すると、こいしがぺこりと頭をさげた。
  「伊達さんて、ひょっとして、あのダテヒコさん?」「ええ。伊達はグループ会社の会長なんです。歳としは彼のほうが下なので、くん付けで呼んでくれと言われて、上司におそれ多いのですが、伊達くんと呼ばせてもらっています」
  「元気にしたはりますか?」
  こいしが訊いた。
  「元気すぎますね」
  孝之が苦笑いした。
  「何よりです」
  流が顔を丸くした。
  「お母さんを引き取って、東京で一緒に暮らしていることを鴨川さんに伝えてくれ、と言付かってきました」
  孝之はブリーフケースから、一葉の写真を取り出して流に手渡した。
  皇居前広場だろうか。伊達久彦と車いすに座る母親が満面の笑みを浮かべている。
  「よろしおした」
  目を細めて、流が写真を返した。
  「伊達くんから聞いてきたのですが、美お味いしいものを食べさせていただけるとか」写真を仕舞いこんで、孝之が流に顔を向けた。
  「初めての方にはおまかせを食べてもろてますんやが、それでよかったら」「もちろんです。よろしくお願いします」
  「すぐに用意しますさかい、ちょっと待っとぉくれやっしゃ」白い帽子をかぶり直した流が厨ちゅう房ぼうに戻っていった。
  「愉たのしみだなぁ」
  孝之がコートをフックに掛けた。
  「ダテフードサービス取締役て、食べものの会社にお勤めなんですか」名刺を見ながら、こいしが茶を淹いれた。
  「居酒屋がメインの外食産業です。『いだてん』という居酒屋をご存知ないですか」孝之が湯ゆ呑のみに口をつけた。
  「行ったことあります。安くて美味しい店ですよね。あそこもダテヒコさんのお店やったんですか。知らんかった。そうそう、お酒はどうしはります?」「お料理を拝見してから考えます」
  孝之が白い歯を見せた。
  「大したお酒はありませんけど、お父ちゃんもわたしも呑み助やから、いろいろありますし言うてくださいね」
  「ありがとうございます。わたしも嫌いなほうじゃないので」孝之が指で杯を真ま似ねた。
  「えらいお待たせしましたな」
  銀盆の上に大きな竹籠を載せて、流が厨房から出てきた。
  「お花見にはちょっと早おすけど、花見弁当ふうにしつらえました」孝之の前に竹籠を置いて流が蓋を取った。
  「これはまた華やかな」
  孝之が大きく目を見開いた。
  「いちおう説明させてもらいますと、左の上の串は花見団子ふうに、海え老びの真しん蒸じょ、姫ひめ胡きゅ瓜うり、うずら団子を柳の枝に刺しとります。その隣の厚焼き玉子は江戸前の寿す司し屋と同じ甘いカステラ。海老のすり身を入れて焼いてます。その右は鰆さわらの西京焼き、その下の小鉢は野菜の炊き合わせです。小芋、金きん時とき人にん参じん、かぼちゃ、蓮れん根こん、聖護院かぶらを盛っとります。真ん中の懐紙に載ってるのは山菜のフライ。コゴミ、フキノトウ、モミジガサ、タラノメ、ヨモギです。抹茶塩を付けてもろてもよろしいし、小さい壺つぼに入ってるウスターソースでも美味しおす。その左隣の青あお笹ざさに包んであるのは桜さくら鯛だいの押し寿司、その横の小鉢は近江牛の湯引き。ポン酢のジュレを載せて召し上がってください。ご飯とお汁は後からお持ちします。どうぞゆっくり召し上がってください。お酒はどないです?」「いやぁ、これほどの料理を前にして、飲まずに済ませるわけにはいきませんよ。やっぱり日本酒でしょうね」
  「肌寒いような、ちょっと蒸すような、ややこしい気候ですさかい、燗かんをつけるかどうか、迷いますなぁ」
  「常温でいただきます。銘柄はおまかせしますので」「それがよろしいやろな。いくつか持ってきますわ」流が小走りで厨房に向かった。
  「お強いんですやろね。常温の日本酒を好まはる方は、たいてい大酒飲みですわ。うちのおじいちゃんみたいに」
  こいしが肩をすくめた。
  「否定はしません。飲み始めると止められないほうでして」孝之も同じようなしぐさをした。
  「高知の『酔鯨』、福島の『笹の川』、青森の『田酒』、静岡の『磯自慢』。ぜんぶ純米ですわ。京都の酒もありますけど、常温でお奨すすめしたいのは、このあたりです」四本の一升瓶を抱えてきた流がテーブルに置いた。
  「シブいセレクトですね。順番に飲みたいような」孝之が腕組みをした。
  「置いときますさかい、好きに飲んでください」とりどりのぐい呑のみを竹籠の横に置いた。
  「伊達くんの言ったとおりだ。これだけで来た甲か斐いがあります」孝之が『磯自慢』の瓶から、酒をぐい呑に注いだ。
  「お口に合うたらええんですが」
  言い置いて、流がこいしと一緒に厨房に入っていった。
  穴が開くほど、というのは、こういうことを言うのだろう。孝之は竹籠の中を隅から隅まで、舌なめずりしながら、じっくりと眺めまわしている。
  大ぶりのぐい呑を一気に飲みほした孝之が、最初に箸をつけたのは厚焼き玉子だった。
  ふわりと香ばしく焼かれた玉子は、甘いカステラふうで孝之の好みにぴたりと合った。
  柳の枝に刺した団子をひとつずつ外し、ぽいと口に放りこむ。海老は甘く、塩をした胡瓜は青く、くだいた骨も混ぜ込んだうずら団子は濃密に旨うまい。
  孝之は伊賀焼のぐい呑に『笹の川』をなみなみと注いだ。
  フキノトウのフライに指で抹茶塩をふり、口に入れた。パリパリと噛かみしめて、酒をあおる。タラノメはソースをたっぷりとつけて舌に載せた。少し迷った末に『酔鯨』を注いで、そのまま一気に飲み干した。
  とにかく早く酔ってしまいたい。それがいつもの孝之の習性だった。
  「どないです。お口に合うてますかいな」
  流が孝之の後ろに立った。
  「聞きしに勝る、というのはこういうことなんでしょうね。伊達くんから聞いてはいましたが、これほどまでとは。お酒が進みすぎて困ります」「えらいお強いんですな」
  流が酒瓶に目を遣やった。
  「あまりいい飲み方じゃないと思うんですが」孝之が肩をちぢめた。
  「お声をかけてもろたら、ご飯をお持ちします」流が厨房に向かった。
  鰆の西京焼、野菜の炊き合わせと順に片付けていき、三合ほどの酒を飲んだが、一向に酔いがまわってこない。首をかしげながら、孝之は厨房に声をかけた。
  「なんや急せかしたみたいで、申し訳ないですな」「いえいえ、このまま飲み続けたら、お話をさせてもらうどころじゃなくなりますから」「筍たけのこご飯を炊かせてもらいました。旬にはちょっと早いんですが、徳島もんです。木の芽醤しょう油ゆに漬けて、炭火で炙あぶった筍を刻んで炊き込んでます。お嫌いやなかったら、刻み木の芽をたっぷり載せて召し上がってください。お汁は鯛の潮うしお汁じる、わかめは新モノです。どうぞごゆっくり」流が織部ふうの土鍋の蓋を取ると、まっすぐ湯気が立ち上った。馨かぐわしい薫かおりがテーブルを覆う。
  「木の芽とか、薫りの強い葉っぱは大好きなんです」「よろしおした」
  しゃもじと京焼の飯めし茶ぢゃ碗わんを置いて、流が下っていった。
  土鍋から上る湯気に顔を近付けて、孝之は目を細めた。
  ひとり暮らしというせいもあり、めったに食べることのない炊き込みご飯だが、しゃもじでよそったご飯に、木の芽を山ほど載せ、あっという間にかっこんだ。
  黒漆の小吸椀わんからは、品のいい潮の薫りが漂い、これをして山海の珍味というのだろうか、と孝之は思いを巡らせている。
  大盛りにして二度お代わりをすると、さすがに腹が張る。ゆっくりとさすりながら、満ち足りた様子で孝之が箸を置いた。
  「お茶をお持ちしました。煎り番茶です。ちょっと薫りがきついんですけど、苦手やおへんか」
  瀬戸焼の急須の蓋を開けて、孝之のほうに向けた。
  「大丈夫です」
  一、二度小鼻を膨らせてから、孝之が大きくうなずいた。
  「飯の後には、これがよう合いますんや。気持ちも落ち着きますしな」流は急須の茶を湯呑みに注いだ。
  「お嬢さんをお待たせしているんじゃないですかね」湯呑みに口を付けて、孝之が厨房を覗のぞきこんだ。
  「奥の部屋で用意しとります。ひと息つかはったらご案内しますわ」「じゃあお願いします」
  眼鏡をかけて孝之が腰を浮かせた。
  「こういうのを鰻うなぎの寝床と言うんでしたか」流の先導で、細長い廊下を歩きながら、孝之が訊いた。
  「そうです。間口が狭ぉて、奥に深い。昔からの京都の家はたいていこんな感じですわ」「この写真はぜんぶ鴨川さんがお作りになった料理ですか」孝之が廊下の両側に貼られた写真を指した。
  「メモ代わりに撮ったもんです。料理だけやのうて、ちょいちょい記念写真も混ざってますけどな」
  振り向いて、流が笑顔を向けた。
  「オールマイティーなんですね。和食だけじゃなくて、洋食も中華も、韓国料理まで」歩をゆるめて、孝之が写真に見入っている。
  「器用貧乏っちゅうやつですわ。何ひとつ極めることもできんと、この歳まできてしまいました」
  流は前を向いたまま歩き続けた。
  「いいじゃないですか。ひとつのことにこだわり続けて、人生を棒に振ってしまうより、はるかに有意義な人生だと思います」
  「ここから後は娘に任せてありますんで」
  ドアを開けて、流は食堂に戻っていった。
  「そない端っこに座らんと、真ん中に座ってくださいな」ロングソファの右端に腰かけた孝之に向かって、こいしが声をかけた。
  「ちょっと怖おじ気けづいてしまいまして」
  「別に面接するわけやないんですし」
  こいしが笑顔を浮かべた。
  「トラウマが抜けなくて」
  おそるおそるといったふうに、孝之が少しずつ尻をずらした。
  「簡単でええんで、ここに記入してもらえますか」こいしがバインダーをローテーブルに置いた。
  「分かりました」
  孝之がバインダーをひざの上に置き、ペンを走らせた。
  「城島孝之さん。四十三歳。佐賀県唐津市ご出身。どの辺やったかなぁ」バインダーを受け取って、こいしが言った。
  「福岡の西のほうです」
  「今は小金井市在住。ご家族はおひとりも?」「天涯孤独、なんていうようなカッコイイものじゃありませんが」「ご結婚は?」
  「二度したんですが、どっちもすぐに別れてしまって」「お子さんは?」
  「二度とも子どもは作りませんでした」
  「寂しいことはないんですか?」
  「気楽でいいですよ。あなたは独身?」
  「相手に恵まれへんのですわ」
  こいしが唇をゆがめた。
  「あなたのような美人なら、すぐに見つかりますよ」「おおきに。おせじでも嬉しいですわ。ところで、どんな食を捜してはるんですか」「ァ∴ライスです」
  「えらい可愛かわいらしいもんを」
  こいしがクスッと笑った。
  「こんなァ′ジには似合いませんか」
  「そういうわけやないんですけど。子どものころのことですか?」「高校三年生だから、二十五年ほど前のことですね」「おうちで? それともどこかのお店で?」
  「友だちの母親が作ってくれたんです」
  孝之が小さくため息をついた。
  「高校は佐賀県のほうですか?」
  「ええ」
  こいしの問いかけに、孝之が短く答えた。
  「そのお友だちのお母さんて、ご存命ですの?」「お元気みたいです」
  「そしたら、その方にお訊きするのが早道と違います?」「それをしたくないから、お願いにきているんですよ」孝之が唇を尖とがらせた。
  「そらそうやね。詳しいに聞かせてもらいます」肩をすくめて、こいしがノートを開いた。
  「こう見えて、わたしは勉強ができるほうでね」「こう見えて、て。どこから見ても秀才タイプですやん」「福岡の国立大学を目指していたのですが、合格は確実だと担任から太鼓判を押してもらっておりました」
  「ホンマに秀才やったんや」
  こいしの合いの手を挟んで、孝之が話を続ける。
  「三年生になった春でした。友人の河かわ波なみ伸しん二じの母親から家庭教師を頼まれたんです」
  「同級生の家庭教師を?」
  「最初は断ったんですが、麻あさ子こさんに熱心に頼まれましてね。週に一度だけ、ということで引き受けました」
  「ァ∴ライスを作ってくれはったんは、河波麻子さんですね」こいしがノートに書き留めた。
  「素敵なお母さんでした。わたしが早くに母親を亡くしていたものですから、実の息子同然に可愛がってくれましてね」
  「ある意味でおふくろの味なんですね」
  「そうかもしれません。麻子さんが作ってくれる料理はどれも本当に美味しかった」孝之が目を閉じた。
  「家庭教師に行ったら、いつもご飯をよばれてはったんですか」「毎週土曜日の夕方五時ころに行って、三時間ほど勉強を教えたあとに、ご飯を出してくれて、伸二とふたりでそれを食べて、それから帰るんです」「どれも美味しかったて言うてはりましたけど、その中で、なんでァ∴ライスを?」「わたしの好物だったからです」
  「いろんなァ∴ライスを食べた中で、麻子さんが作らはったんが一番美味しかった。そういうことですか」
  「少し違います。わたしが最後に食べたのが麻子さんのァ∴ライスだからです」「最後? ていうことは……」
  こいしが上目遣いに、孝之の顔を覗きこんだ。
  「最後の家庭教師の日に、麻子さんのァ∴ライスを食べてから、一度も口にしていません」
  孝之が唇をまっすぐに結んだ。
  「どういう意味なんか、ちょっと分からへんのですけど」こいしが眉を八の字にした。
  「そうですよね。ちゃんとお話ししないといけませんね」孝之が座りなおした。
  「はい。お願いします」
  こいしが身を乗りだして、ペンを構えた。
  「家庭教師を始めて、最初の夜はとんかつでした。次がコロッケ、三度目はカレーでした。どれも本当に美味しかった」
  孝之が天井に目を遊ばせた。
  「よう覚えてはるんですね」
  「それが一番の愉しみでしたから。わたしはそれほどでもないのですが、伸二は大食漢でして、必ずお代わりをしてましたね。麻子さんの手作りではないのですが、唐津でも有名な鰻屋の『武たけ屋や』から持ち帰ってきた鰻丼なんかは、麻子さんの分まで食べてました」
  「唐津の鰻て有名なんですか」
  「有名かどうかは分かりませんが、『武屋』の鰻は美味しかったです。僕は粉こな山さん椒しょうをたっぷりかけるのですが、伸二は何もかけずに一気にかっ込んでました。麻子さんはその様子を嬉しそうに見てましたね」
  「目に浮かびますわ。男の子が丼をかっ込む姿てカッコええんですよね」こいしはペンを走らせている。
  「僕が四月五日生まれで、伸二が三月三十日生まれ。学年は同じですが、伸二は僕を兄のように思っていたのでしょうね。僕は伸二を呼び捨てにしていましたが、彼は僕をタカさんと呼んでました」
  「なんか、うらやましいなぁ。ええ感じですやん」こいしがイタズラ描きをした。
  「カレーを食べた後に、麻子さんが僕に好物を尋ねてきたので、即座にァ∴ライスと答えました。僕が八歳のときに母が亡くなっていて、おふくろの味というものをほとんど覚えてなくて。ただひとつ、ァ∴ライスだけは美味しかったという記憶があったもので」「それでァ∴ライスを作ってくれはったんや」「さっそく次の土曜日にァ∴ライスを出してくれたのですが、その旨さといえば、天にも昇る気持ち、としか言えなかったですね。僕が大喜びで食べるのを見て、麻子さんも喜んでくれて。それからは二回に一回はァ∴ライス。いや三回に二回だったかな。土曜日が待ち遠しかったです」
  「そんなに美味しかったんですか」
  「たっぷりの鶏肉と玉ねぎの入ったチキンライスも、甘さは控えめなんですが、とっても香ばしい味で、なんとなく懐かしい味がして。それを巻いた玉子の焼き加減も絶妙でした。そして上からかかるトマトソースもまた、びっくりするほど美味しかった」孝之が遠くに目を遣やった。
  「ふつうのケチャップと違うんですか」
  こいしが訊いた。
  「ベースはケチャップだと思うんですが、甘みがおさえてあって、おとなの味っていう感じでした」
  「おとなの味のケチャップソース、と。他になにか特徴はありました?」書き留めて、こいしが顔を上げた。
  「他にねぇ。何かあったかなぁ」
  孝之が腕組みをした。
  「なんでもええんです。もうちょっとヒントが欲しいんです」「ヒントにはならないと思いますが、あの大食いの伸二が、麻子さんのァ∴ライスは必ず残してました」
  「ァ∴ライスが嫌いやったんと違います?」
  「いや。学食のァ∴ライスはいつも大盛りを頼んでいましたから」「不思議な話やねぇ」
  こいしが考えこんでいる。
  「なんで残すんだ、って僕が訊くと、伸二はいつも無言で。いったい何だったのか、今でも謎です」
  「今お聞きした話やと、城島さんが、なんでァ∴ライスを食べはらへんようになったのかが分からへんのですけど」
  「そうですよね。一番大事な話。すみません、お水をいただけますか」「うっかりしてました。お茶も出してませんでしたね」慌てて立ち上がったこいしが、サーバーから汲くんだ水を孝之の前に置いた。
  紙コップの水を一気に飲みほして、孝之が重い口を開いた。
  「結論から言いますと、伸二が合格して、わたしが落ちたんです」「え?」
  「何回合格発表を見ても、わたしには信じられませんでした。伸二の合否ばかり気にしていて、まさか自分が落ちるなんて、思ってもいませんでしたから」「何があったんです?」
  「分かりません。何かミスをしたんでしょうね。気付かないうちに」孝之が顔を曇らせた。
  「麻子さんもびっくりしはったやろねぇ」
  「一緒に発表を見に行ってましたから、気の毒なほどうろたえられまして。涙を流して土下座されました。なんだか分かりませんが、わたしも伸二も地べたに座り込んで、ただただ泣くしかありませんでした」
  「神さまのいたずらなんやろか。そんなことが起こるんですね」「ひとえに、わたしの力不足ですから。伸二が受かってよかった。それしか言えなかったです」
  孝之は拳を握りしめた。
  「どっちも辛つらいなぁ」
  しばらく沈黙が続いた後、こいしがぽつりと言った。
  「一番辛かったのは麻子さんだったと思います」孝之が目を伏せた。
  「そうかもしれませんね。家庭教師に時間を取られへんかったら、たぶん結果は逆やったんやもん」
  「そこに因果関係があるかどうか、誰も証明できませんから」「そういうことがあったんですか。それでァ∴ライスを……」「歯車が狂った、というのはこういうことなんでしょう。それ以来、やることなすことすべてが裏目に出てしまって。自分の人生がこうなったのは、あのァ∴ライスがきっかけだったと思うようになってしまって……」
  「人生て、そういうもんなんですね」
  こいしが顔を曇らせた。
  「それ以降、冷静に考えることができなくなってしまって、伸二に対抗することしか頭にありませんでした。浪人する余裕がなかったので、大学こそ伸二の後こう塵じんを拝しましたが、最初に就職した商社は、わたしのほうが格上だったし」こいしには、孝之の鼻がわずかに高くなったように見えた。
  「親友がライバルになってしもうたんですね」「伸二が商社を辞めて会社を作ったと聞けば、わたしも同じようにしました。彼が航空会社のキャビンアテンダントと結婚したと聞いて、わたしもライバル会社のキャビンアテンダントを妻にした」
  「そこまで……」
  呆あきれ返ったように、こいしが言った。
  「ただひとつ違ったのは、伸二のやることなすこと、すべてうまくいくのに、わたしはことごとく失敗したということです。あれよあれよという間に、彼の会社は大きくなり、わたしの会社はあっけなく潰れてしまったし、それと同時に妻も出ていきました」孝之が深く長いため息をついた。
  「どう言うたらええのか」
  こいしも同じように長嘆息した。
  「伸二の会社は飛躍的な成長をとげて、今では五十を超える子会社を持つ河波グループの総帥。その対抗軸と目されているのが伊達くんのグループなんです」「それでダテヒコさんのところに」
  「わたしはただの一兵卒ですがね」
  自らをあざけるように孝之が笑った。
  「ひょっとして河波グループて、あの『リバーウェーブ』の?」こいしが訊いた。
  「日本だけではなく、海外にも展開しているファミリーレストランの『リバーウェーブ』が有名ですが、不動産、金融など幅広く展開してますよ」「その伸二さんて、テレビのコメンテーターしてはる河波伸二さんのことやったんですか。週刊誌にもよう出てはるし、超有名人ですやん」「彼が出てくると、すぐテレビのスイッチを切りますし、週刊誌も買わないので、よく分かりませんが」
  孝之がまた同じような笑みを浮かべた。
  「ひとつ確認したいんですけど」
  こいしがペンを取った。
  「何でしょう」
  孝之がこいしの目をまっすぐに見た。
  「ァ∴ライスのことを、直接麻子さんにお尋ねしてもええんですか」「……」
  「あきませんよねぇ」
  押し黙る孝之に、こいしはペンを置いた。
  「やむを得んやろうね。ただし最後の手段という条件を付けてもよかですか」心を決めたせいか、孝之からお国訛なまりが出たことに、こいしは少しばかり気け圧おされた。
  「わかりました。もうひとつお訊きしますが、今になってなぜ、そのァ∴ライスを食べたいと思わはったんです?」
  「呪縛から早く抜けだしたいんです。お情けで伊達くんの会社に置いてもらっていますが、それもあとふた月。夏までには自分で小さな会社を作るつもりです。これから先は伸二を意識せずに、思うまま生きてみたいんです」「分かりました。必ずお父ちゃんに捜しだしてもらいます」こいしがノートを閉じた。
  食堂に戻ると、流は熱心に週刊誌に見入っていた。
  「お父ちゃん。済んだよ」
  こいしの声にようやく我に返った流は、週刊誌を閉じて立ちあがった。
  「あんじょうお聞きしたんか」
  「長々とお話しさせていただきました」
  孝之がこいしと顔を見合わせた。
  「城島さんの第二の人生がかかってるんやから頑張ってや」こいしが流の背中を叩たたくと大きな音がした。
  「いつも気張ってるがな」
  流が顔をしかめた。
  「どうぞよろしくお願い致します」
  孝之が流に一礼した。
  「せいだい気張らせてもらいます」
  流が礼を返した。
  「次はいつおじゃましたら?」
  「だいたい二週間いただいてます。そのころに連絡させてもらいますわ」「承知しました。愉しみにしております。そうだ、今日のお代を」孝之がブリーフケースを開けた。
  「探偵料と一緒でけっこうです」
  こいしが口を挟んだ。
  「分かりました。ではこの次に」
  ブリーフケースを閉じて、孝之がコートを手に取った。
  正面通を西に向かって歩く孝之を見送って、流とこいしは店に戻った。
  「お父ちゃんが週刊誌を熱心に読むなんて珍しいな。何か気になる記事でもあったん?」「ダテヒコの記事が載ってたんを思い出してな」「手広うやってはるみたいでよかったやん」
  「ちゃんとお母さんを引き取ったんやからエラいもんや」「部下の人が来はるやなんて思いもしいひんかったわ」「で、何を捜すんや」
  「ァ∴ライスやて」
  「城島さんには、あんまり似合わんようやが。なんぞ事情があるんやろな」「気の毒て言うのか、何て言うてええか分からへんねんけど、ちょっと込みいった話やわ」
  「どう込みいってるんか、ゆっくり聞こうやないか」流とこいしが向かい合ってパイプ椅子に座った。
 
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