第三話 豚のしょうが焼き
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京阪本線の七条駅に降り立った原はら沢さわ敏とし夫おは、エレベーターを使って地上に出た。
南海本線の堺さかい駅から、電車を二度乗り換えて着いた駅は、鴨かも川がわのすぐ傍そばにあった。
これから向かう店は「鴨川食堂」と名が付いてはいるが、目の前の鴨川とは無関係だと聞いていたことを、ふと思いだした。
ベージュのジャケットにグレーのスラックス。軽やかな出いで立ちのはずが、原沢は少しばかり窮屈に感じていた。きっとそれは、セミリタイアしてから、急激に体重が増えたからに違いない。
会長とは名ばかりで、会社に出勤しても、何ひとつするべきことはなく、一時間もすれば退社する。後は一日、堺の街や難なん波ば界かい隈わいをうろつくだけで、目についた店に入っては旨うまいものを食べ、昼酒を愉たのしむ。そんな日々が毎日続いているのだから、太っても当たり前だ。秋も深まっているというのに、少し歩いただけで、額に汗が滲にじみだす。
原沢は息を切らせながら、七条通を西に向かって歩き、最近のそんな日々を振り返っていた。
河原かわら町まち通を西に越えて三筋目、間あい之の町まち通を北へ進み、二筋目を西に折れる。メモ用紙と地図を見比べながら歩き、原沢は目指す店らしき建物の前に立った。
看板も暖の簾れんもない。とうてい飲食店には見えない。聞いていた話と一致するのだが、それでも引き戸を開けるには、いくらかの勇気が要る。二度ほど深呼吸してから、思い切って戸を引いた。
「いらっしゃい」
黒いソムリエエプロンを着けた、若い女性が明るい声で迎えてくれた。原沢はホッとして女性に訊たずねた。
「こちらは『鴨川食堂』ですやろか」
「そうですけど」
声のトーンを下げて女性が答えると、原沢は不安を感じながら問いかけた。
「こちらで食を捜してくれはると聞いてきたんですけど」「そうでしたか。それやったらうちの担当ですわ。『鴨川探偵事務所』の所長をしている鴨川こいしです」
こいしがぺこりと頭を下げた。
「大阪の堺から来ました、原沢といいます」
ジャケットから名刺入れを取りだして、原沢がこいしに名刺を手渡した。
「堺からですか。よう来てくれはりましたなぁ。わしは鴨川流いいます。食堂の主人をしとります」
厨ちゅう房ぼうから出てきた流が、帽子を取って一礼した。
「うちが所長やけど、実際に捜すのはお父ちゃんなんですよ」「原沢と申します。どうぞよろしくお願いいたします」原沢が流に名刺を差しだした。
「『堺原沢精密工業株式会社』取締役会長、えらい立派な方ですんやな」眼鏡をかけて名刺を読んだ流が、原沢の顔をまじまじと見た。
「たいそうな名前が付いてますが、機械の部品を作る小さな町工場です」「お腹なかのほうはどないです? おまかせでよかったらお作りしますけど」帽子をかぶり直して、流が原沢に訊きいた。
「突然来て、厚かましいことやと思いますけど、お願いできたら嬉うれしいです」「ちょっとだけお時間いただきます。しばらく待っといてください」流が厨房に戻っていった。
「どうぞおかけください」
こいしはテーブル席の赤いパイプ椅子を引いた。
「ありがとう」
浅く腰かけて、原沢は店の中を見回した。
「うちのことは、どうやって?」
こいしが訊いた。
「大阪の北新地に行きつけの店がありまして、そこのママさんが教えてくれたんですわ。
食を捜してくれるとこがある言うて」
「北新地ていうたら高い店ばっかりと違いますのん?」こいしは茶を淹いれる手を止めた。
「京都でいうたら祇園みたいなもんですかな。どっちも堺とは全然空気が違いますわ」原沢が苦笑いした。
「堺てどんなとこなんです? 一回も行ったことないので」「どう答えたらええんでしょうな。工場もようけありますし、街の中を電車が走ってます。海の傍ですんで、魚も旨いんですよ」
原沢はとりとめのない言葉を並べた。
「テレビで見たんですけど、魚市場の中で、夜中から店を開けはる天ぷら屋さん、あれてたしか堺でしたよね」
「そうそう。よう知ってはりますね。わたしも何度か行きましたが、夜通しずっと満席なんですよ」
「夜中に天ぷらやなんて、堺の人は胃が丈夫なんですね」「ネタが新鮮やからかもしれませんけど、不思議と胃もたれはしませんねん」「そうなんや。いっぺん食べてみたい気もしますわ」ふたりが他た愛わいもない会話を交わしていると、流が大きな丸盆を持って厨房から出てきた。
「お待たせしました」
盆のまま、流は料理を原沢の前に置いた。
「これ全部、わたしの、ですか」
原沢はのけぞったまま、目を丸くしている。
「皿数が多いさかいに、ようけに見えますけど、量は大したことおへん。原沢さん、お酒はどないです?」
「好きなんですけど、しょっちゅうお酒で失敗してるもんで」原沢が苦笑いした。
「そしたらお茶にしときましょか」
こいしがほほ笑んだ。
「これだけのお料理を前にして、お酒抜きいうのも拷問みたいなもんですしな」原沢がほほ笑みを返した。
「日本酒でよろしい?」
こいしが訊いた。
「あまり重くないのをお願いします」
「分かりました」
こいしが厨房に入ったのをたしかめて、流が原沢の傍らに立った。
「料理の説明をさせてもろても、よろしいかいな」「お願いします」
原沢が居住まいを正した。
「ちょこっとずつ、九種類の料理をご用意しました。左の上から、楽焼の皿に載ってるのが秋あき茄な子すの田楽、赤あか味み噌そと白味噌を塗ってます。その隣の九谷皿が海え老びの湯葉巻き揚げ。柚ゆ子ず塩しおで食べてください。右手の蔓つる籠かごは鹿肉の竜田揚げ、味が付いてますさかい、そのままで。その下の染付皿は厚揚げの焼いたん、鰹かつお節ぶしを間に挟んでます。ど真ん中の白磁の角皿はフグの唐揚げ、ポン酢味が付いてます。その左手、織おり部べの小鉢はもみじ鯛だいの昆こ布ぶ〆じめ、柚子胡こ椒しょうを付けて、お醬しょう油ゆで召し上がってください。その下のガラス鉢は蟹かに身みの酢のもん。二杯酢を掛けて、薄切りの胡瓜きゅうりで巻いて食べてください。下の段の真ん中、赤絵の皿に載ってるのは、養老豚の煮豚です。溶き辛子をたっぷり載せて食べてください。右端の信楽しがらき角皿は松まつ茸たけのフライ、ソース味が付いてますんで、そのままどうぞ」
流が説明を終えるのを待っていたかのように、こいしは片口と杯を丸盆の横に置いた。
「お好みに合うかどうか分かりませんけど、〈八海山〉をお持ちしました」「ありがとうございます。あんまり日本酒には詳しいことないので」そう言って、原沢は片口の酒を大ぶりの杯になみなみと注ついだ。
「あとはサンマご飯を用意してますんで、声をかけてください」「お酒が足らんかったら言うてくださいね。どうぞごゆっくり」流の後を追うようにして、こいしが厨房に入っていった。
ひとり食堂に残った原沢は、盆の中にずらりと並んだ皿をじっくりと見まわした。どれもが美しく盛られ、何より美お味いしそうだ。ひとつ咳せき払ばらいしてから箸を取った。
堺には原沢が行きつけにしている小さな割かっ烹ぽうがあり、電車一本で通えるミナミにも、馴な染じみの日本料理屋が十軒ちかくある。堺の店は気楽な居酒屋ふうだが、ミナミの料理屋は主に接待用の高級店で、名の知れた店ばかりだ。十軒のうち半分以上がグルメガイドで星が付いている店だが、それらとは一線を画す料理だということだけは、原沢にも分かった。
これ見よがしな盛付でもなければ、何かを強く主張するような料理でもない。しごく控えめなのだが、どの料理もいぶし銀のような輝きを放っている。清せい楚そという言葉が似合うのか、堅実といえばいいのか。
原沢が最初に箸を伸ばしたのは、鯛の昆布〆だった。箸先に米粒ほどの柚子胡椒を取り、それを鯛の刺身に載せ、醬油に付けてから口に運んだ。
これまで数えきれないほど、鯛の刺身を食べてきたが、これほどの旨みを感じたことは一度もなかった。薄造りのときはポン酢の味、平造りのときは醬油の味が勝ちすぎていて、鯛そのものがどんな味わいなのかを、たしかめることもなかった。鯛の質そのものがいいのか、昆布で〆たせいなのかは分からない。鯛は魚の王様だという言葉を実感したのは、原沢にはこれが初めてのことだった。
〈八海山〉を杯半分ほど飲んでから、蟹身の酢のものに手を付けた。言われたとおり、二杯酢をかけ、薄切りの胡瓜で巻いて食べると、磯の香りが口中に広がった。
蟹の本場といわれる山陰の温泉へは、解禁の直後に社員を連れて食べに行ったことが何度もある。ミナミの料亭でも冬ともなれば、主役はたいてい蟹だ。どちらも決して安くはなかったが、それでも今食べている蟹は、それらと比べものにならないくらいに美味しい。
美食家にはほど遠い舌しか持ち合わせていない原沢だが、このふた品を食べただけでも、鴨川流の作る料理は尋常ではないことが分かった。
料理を食べては酒を飲む。それを何度か繰り返すうち、あっという間に片口が空になった。
「お代わりお持ちしましょか」
タイミングよく、厨房からこいしが出てきた。
「お願いします」
原沢は朱塗りの片口をこいしに手渡した。
新地のママの言葉どおり、食堂とは思えないほど居心地がいい。
片口の酒を二度もお代わりし、九つの料理を慈しむようにして食べながら、なんとしてもこれを食べさせてやりたいと願う相手が、妻の早さ代よでなかったことに原沢は自分でも驚いた。
「そろそろご飯をお出ししまひょか」
ほとんどの皿が空になったころに、流が原沢の傍に立った。
「お願いします。こんなにゆっくり料理を味わったのはいつ以来だったか、思いだせないほどです」
原沢が笑顔を流に向けた。
「よろしおした。すぐにご用意します」
小さくうなずいてから、流は厨房に戻っていった。
料理の余韻を嚙かみしめながら、空になった杯を、原沢が未練がましくもてあそんでいると、小さな土鍋が運ばれてきて、芳こうばしい匂いが漂いはじめた。
「たいして珍しいこともおへんのやけど、ええサンマが入りましたんで」流がしゃもじで土鍋のご飯をかき混ぜると、よりいっそう芳ばしい香りが広がり、原沢は生唾をごくりと吞のみこんだ。
「骨は外してあるんですね」
「おおかたは取りましたけど、小骨はちょこっと残ってるかもしれまへん。気ぃつけてくださいや。苦手やなかったら、刻んだスダチの皮と大葉も一緒に召し上がってください。
土鍋ごと置いときますさかい」
染付の飯めし茶ぢゃ碗わんによそったサンマご飯を、流が原沢の前に置いた。
「焼き魚は骨を外すのが面倒で敬遠してたんですが、こうしてもらうと、すっと箸が伸びますね」
原沢は、刻んだスダチの皮と大葉を指でつまみ、サンマご飯に振りかけてから、箸を飯茶碗に入れた。
「ほうじ茶も急須ごと置いときます。お茶漬けにしはるんやったら、抹茶塩をぱらっと振ってもろたらええと思います。どうぞごゆっくり」丸盆を小脇にはさんで、流が厨房の暖簾をくぐった。
サンマご飯と聞いて、焼き魚が丸ごと一匹載っているのかと思ったが、見た目には白ご飯とみまがうような、素朴な外見に、原沢は驚くしかなかった。
ご飯とサンマの身が渾こん然ぜん一体となり、魚が入っているようには見えない。軽やかで品のいい味わいに、箸を止められずにいる。
どれほどの量が入っていたのかは分からないが、二度お代わりをして、三度目は茶漬けにして食べると、土鍋に残ったのは三分の一ほどだった。はち切れんばかりになった腹をさすりながら、原沢はほうじ茶を飲みほした。
「お口に合いましたかいな」
流が暖簾の間から顔を覗のぞかせた。
「合うてなもんやなかったですわ。こんな旨い飯を食うたんは久しぶりです」原沢が相好を崩した。
「よろしおした。ひと息つかはったら奥へご案内します」「そうそう。肝心なことを忘れるとこやった。お待たせして申し訳なかったですな。あんまりにも料理が旨いもんやから、ゆっくりし過ぎてしもうた」「ちっとも急ぎまへんのやで。お腹を落ち着かせてからでよろしおすさかい」流が急須のほうじ茶を湯ゆ吞のみに注いだ。
「いえいえ、あんなべっぴんさんを長いこと待たしたら失礼ですがな。すぐに行かしてもらいます」
茶を飲み干して、原沢が腰を浮かせた。
「どうぞこちらへ」
流が先を歩き、原沢がその後に続いた。
「こちらの料理は?」
京町屋の特徴といわれる〈鰻うなぎの寝床〉らしく、奥へ長く続く廊下の両側に、びっしりと料理写真が貼られている。
「たいていは、わしが作った料理です」
「和食だけやのうて、中華も洋食も作らはるんですな」「根っから料理が好きなんですわ。家内が食べたいて言うた料理は、意地になって作ったもんです」
流が目を細めた。
「奥さんはお店には出はらへんのですか」
「仏壇からにらみを利かせるのが家内の仕事ですわ」流が寂しげな笑いを浮かべた。
「失礼しました」
原沢が深く腰を折った。
「あとは娘に任せますんで」
突き当たりのドアを開けて、流が廊下を戻っていった。
少しばかり気おくれして、部屋の前でためらっていると、こいしが高い声で招いた。
「どうぞお入りください」
「はい」
原沢は、女性教師に職員室へ呼びだされた、中学生時代を思いだしていた。
「失礼します」
一礼して部屋に入ると、黒のパンツスーツに着替えたこいしが笑顔で迎え入れた。
「そないに固まらんでもよろしいやん。気楽にしてください」こいしの言葉に、いくらか肩の力を抜いた原沢は、ロングソファの真ん中に、浅く腰かけた。
「ご面倒やと思いますけど、簡単にご記入いただけますか」向かい合って座るこいしが、バインダーを差しだした。
住所、氏名、生年月日など、ごくありきたりの項目をさらりと書き込んで、原沢はバインダーをこいしに返した。
「原沢敏夫さん。どんな食を捜してはるんです?」こいしがいきなり直球を投げた。
しばらくは、あたりさわりのない世間話が続くものと思っていた原沢は、少し慌てたふうに姿勢をただし、前のめりになって答えた。
「豚のしょうが焼きです」
「しょうが焼きですか。うちも大好きなんです。美味しいですよね。どっかのお店のですか?」
「いえ。ある人が作ってくれたものです」
心なしか、原沢の声が少し震えた。
「ある人。なんか意味深やなぁ。詳しいに聞かせてもらえますか」ノートを開いて、こいしが膝を前に出した。
「詳しいに、となると、不細工な話もせんなりませんなぁ」原沢が深いため息をついた。
「差しさわりのない範囲で聞かせてください」こいしは顔をやわらげた。
原沢は胸のうちで話の順序をたしかめてから、口を開いた。
「うちの会社はわたしで二代目になるんですが、仕事はずっと順調でして、そない必死にならんでも、なんとかやっていけてました。還暦を機会に、会社は息子に任せたんです。
肩書だけは会長になってますけど、なんの仕事をするでもなし、ここ数年は遊んで暮らしてるようなもんです」
「うらやましいなぁ。遊んで暮らしてはっても、お金が入ってくるんでしょ。理想やわ」こいしが目を輝かせた。
「現実となると、そうでもないんですよ。しゃかりきに働いているころは、早くリタイアしたいと思うてたんですが、もう働かんでもええとなると、それはそれで寂しいものなんです。世の中で必要とされんようになった人間ですしね」原沢がローテーブルに目を落とした。
「そんなもんなんかなぁ。遊んで暮らせるんやったら、それが一番やと思うけど」「何も仕事がない人生なんて、ほんまにつまらんもんです」「会社はそうかもしれんけど、家庭は違いますやん。ずっと仕事人間やった人が家庭に戻ってくれはるんやから、奥さんは喜ばはったでしょ」こいしが身を乗りだすと、原沢は気け圧おされるように腰を引いた。
「五つ年下の早代とは見合い結婚でしたんや。わたしが二十八、早代は二十三のときですわ。見合いっちゅうのは、ええこともあるけど、不都合なこともあるもんでしてな」大きな咳払いをした原沢に、こいしが冷茶を奨すすめた。
「早代は松江の出でして、人見知りするっちゅうか、社交性がありませんねん。できたらずっと家に籠っていたい、というタイプです。旅行に行こうか、て言うても乗ってきませんし、外食も苦手ですねん。自分で料理を作るのは好きみたいですが、いつも同じような料理ばっかりです。何が愉しみで生きとるのか、よう分からん妻です」原沢は何度も首をかしげながら、そんな話をした。
「夫婦て難しいもんなんですねぇ。相性がようても、行動が合わへんかったら愉しいないですもんね」
「わたしは若いときから旅好きで、外食も大好きなもんですから、ずいぶんと悩みました。結婚してしばらくは無理をして付き合うてくれてたようですけど、だんだんそれが苦痛になってきたようで」
原沢が深いため息をついた。
「うちやったら嬉しいけどな」
「結婚して五年経たったころからは、一緒に旅行に行くこともなくなりましたし、よほどのことがなければ、外食にも行かんようになりました。家内はそれで楽になったようでしたけど、わたしには物足りんのですわ」
原沢が冷茶を飲んだ。
「そらそうですわね」
こいしがあいづちを打った。
「そのことを不足に思うてたんやないんです。それで早代が楽なんやったら何も問題ないし、わたしもマイペースでいけますしな」
「それと豚のしょうが焼きは、いつつながりますんやろ」こいしが上目遣いに原沢を見た。
「そうでした。肝心の話を早いことせんといけませんわな」冷茶でのどを潤してから、原沢は話を続ける。
「今から五年前、高校のときの同窓会が堺のホテルで開かれたんです。三年に一回やってたみたいですが、わたしはずっと仕事が忙しかったんで、久しぶりの出席でした。そこで運命の出会いをしてしもたんです」
原沢は顔を紅潮させて、息を荒くした。
「運命の出会いですか」
こいしが目を輝かせて、ペンを強く握った。
「昔の恋人に出会うてしまいました。三十数年ぶりでした。顔を見た途端、なんや一気に青春時代に戻ってしもうて。わたしは老いてしまいましたけど、向こうはちっとも変わっとらん。美女のままですねん」
「その美女のお名前を聞かせてもろてもよろしい?」「大和やまと幸みゆきといいます」
「ひょっとして、その人が作らはったしょうが焼きを捜してはるんですか」こいしの問いかけに、原沢は少年のようなはにかみを浮かべてうなずいた。
「同窓会で作らはったんですか?」
「同窓会はようけ級友がおりますさかい、会のときは近況を語り合って、それだけで終わったんですが、どうしても会いとうなって、ひと月後に彼女が住む美みま作さかへ遊びに行きましたんや」
「ちょっと話を整理させてもろてもよろしい?」「ええ」
「おかしな言い方かもしれんけど、原沢さんには奥さんが今もやはるんですよね。それでその美作に住んではる幸さんは?」
「幸は独りもんです。高校を卒業して、わりと早うに美作へ嫁いでいきよりました。けどご主人が若うして亡くなったみたいで」
「そしたら不倫関係ですやん」
「そうなりますね」
原沢が目を伏せた。
「不倫相手が作った料理を捜してはる、ということですね」こいしが強い口調で言った。
「はい」
原沢は消え入るような声で答えたが、こいしは無言のまま、ペンを握りしめている。
「まともな依頼やないことは、よくよく承知しとります」「どんなもんでも捜しだすのが、うちらの仕事やていうことも、よう分かってます」こいしが声を落とした。
「なんとかお願いできますやろか」
「分かりました」
気を取り直したように背筋を伸ばしたこいしが、ノートのページを繰った。
「ありがとうございます」
「同窓会からひと月経って、幸さんの家を訪ねはった。そのときに豚のしょうが焼きを作ってくれはった。そういうことですね」
「いえ。正確に言うと、豚のしょうが焼きを幸が作ってくれたのは、同窓会から一年後です」
「ていうことは、不倫関係を一年も続けてはったんですか」こいしの言葉がとがった。
「お恥ずかしい話ですが、幸とは三年半……」原沢は言葉の最後を吞みこんだ。
「奥さんはそのことに気づいてはらへんのですか」「岡山に古くからの取引先がありまして、月に一度はそこへ出張してました。その流れで美作に行ってたんで、早代はまるで気づいていませんでした」「月に一度、ですか」
こいしが顔を歪ゆがめた。
「わたしもまさか自分がこんなことになるとは、思ってもいませんでした。早代には申し訳ないと思いながら、幸に会いたくなると自分を止められんようになって」「幸さんはひとり住まいなんですか」
「幸は梶かじ並なみ川沿いの市役所近くで『むくげ』という小さな喫茶店をやってまして、そこの二階を住まいにしてました。『むくげ』はわたしの好きな花でしてな、幸はそれを覚えてて、店の名前にしよったんやと思うたら、胸がいっぱいになりました。月に一度、岡山の取引先へ挨拶に行き、打ち合わせをした後、夕方には『むくげ』に入って、六時の閉店まで店で時間をつぶして、その後二階へ上がって一緒に夕食を摂とる。毎回そんな感じでした。目立たんように隅のほうの席で隠れるようにしてましたんや。最初のころは岡山のホテルへ戻っていたんですが、けっこう遠いもんで、そのまま泊まるようになってしもうて」
原沢が顔を赤らめた。
「喫茶店をやってはるくらいやから、料理は上手なんや」こいしが話を本筋に戻した。
「そうですねん。から揚げやとか、ハンバーグなんかは絶品としか言えません。喫茶店のランチで毎日作ってるさかいに、簡単なことや、と言うてくれましてな。常は小食なんやけど、幸のとこへ行ったら、いっつも満腹で苦しいなるくらい。そうそう、今日と同じです。お腹がはち切れそうになるまで箸が止まらへん」原沢が腹をさすった。
「中でも、豚のしょうが焼きが一番美味しかったんですね」こいしが、ぶっきらぼうに言った。
「豚のしょうが焼きは、若いころからの大好物ですねん。幸とデートしてたころも、よう一緒に食べたもんです。それを覚えててくれた幸が、一年経った記念日に作ってくれたんです」
原沢が赤い顔をほころばせた。
「どんなしょうが焼きやったんですか」
ようやく本題に入って、こいしがペンを構えた。
「歳としをとってから、濃い味が好きになってきましてね、まさにその好みにぴったりの味でしたんや。わたしの身体からだを気遣うてくれてるんやと思いますけど、早代の作る料理はどれも薄味で物足らんのですが、幸の料理はわたしの好みの味ですねん。しょうが焼きも、焼肉のタレみたいな濃いタレにまみれとって、白ご飯によう合うんですわ」その味を思いだしたのか、原沢はごくりとのどを鳴らした。
「焼肉のタレっぽい濃い味。ご飯に合う味。他に何か特徴はありませんか」ノートに書き留めて、こいしが顔を上げた。
「焼肉のタレほどは甘いことのうて、どっちかていうたら醬油味が勝ってましたかな。幤くからの取引先がありまして、月に一度はそこへ出張してました。その流れで美作に行ってたんで、早代はまるで気づいていませんでした」「月に一度、ですか」
こいしが顔を歪ゆがめた。
「わたしもまさか自分がこんなことになるとは、思ってもいませんでした。早代には申し訳ないと思いながら、幸に会いたくなると自分を止められんようになって」「幸さんはひとり住まいなんですか」
「幸は梶かじ並なみ川沿いの市役所近くで『むくげ』という小さな喫茶店をやってまして、そこの二階を住まいにしてました。『むくげ』はわたしの好きな花でしてな、幸はそれを覚えてて、店の名前にしよったんやと思うたら、胸がいっぱいになりました。月に一度、岡山の取引先へ挨拶に行き、打ち合わせをした後、夕方には『むくげ』に入って、六時の閉店まで店で時間をつぶして、その後二階へ上がって一緒に夕食を摂とる。毎回そんな感じでした。目立たんように隅のほうの席で隠れるようにしてましたんや。最初のころは岡山のホテルへ戻っていたんですが、けっこう遠いもんで、そのまま泊まるようになってしもうて」
原沢が顔を赤らめた。
「喫茶店をやってはるくらいやから、料理は上手なんや」こいしが話を本筋に戻した。
「そうですねん。から揚げやとか、ハンバーグなんかは絶品としか言えません。喫茶店のランチで毎日作ってるさかいに、簡単なことや、と言うてくれましてな。常は小食なんやけど、幸のとこへ行ったら、いっつも満腹で苦しいなるくらい。そうそう、今日と同じです。お腹がはち切れそうになるまで箸が止まらへん」原沢が腹をさすった。
「中でも、豚のしょうが焼きが一番美味しかったんですね」こいしが、ぶっきらぼうに言った。
「豚のしょうが焼きは、若いころからの大好物ですねん。幸とデートしてたころも、よう一緒に食べたもんです。それを覚えててくれた幸が、一年経った記念日に作ってくれたんです」
原沢が赤い顔をほころばせた。
「どんなしょうが焼きやったんですか」
ようやく本題に入って、こいしがペンを構えた。
「歳としをとってから、濃い味が好きになってきましてね、まさにその好みにぴったりの味でしたんや。わたしの身体からだを気遣うてくれてるんやと思いますけど、早代の作る料理はどれも薄味で物足らんのですが、幸の料理はわたしの好みの味ですねん。しょうが焼きも、焼肉のタレみたいな濃いタレにまみれとって、白ご飯によう合うんですわ」その味を思いだしたのか、原沢はごくりとのどを鳴らした。
「焼肉のタレっぽい濃い味。ご飯に合う味。他に何か特徴はありませんか」ノートに書き留めて、こいしが顔を上げた。
「焼肉のタレほどは甘いことのうて、どっちかていうたら醬油味が勝ってましたかな。幸は秘伝のタレやと自慢してましたけど」
「豚はどんな肉でした? ロースかバラか」
「たぶんロースやと思います。厚切りと違うて、すき焼きの肉くらいの厚みでした。それにキャベツ、タマネギ、青ネギ、モヤシが一緒に炒いたまっとって。そんなとこですかな」
原沢の言葉を一言一句聞き逃すまいとして、こいしは耳を原沢に向け、ノートにペンを走らせた。
「だいたいは分かりました。で、今になってその豚のしょうが焼きを捜してはるのは、幸さんと別れはったからですよね。でなかったら幸さんに頼んで作ってもろたらそれで済むことやし」
こいしは原沢の目をまっすぐに見すえた。
「そのとおりです。一年半ほど前のことでした。いつものように『むくげ』を訪ねると、幸がえらい哀かなしそうな顔しとるんですわ。どうしよったんかと、話を聞いてびっくりしました」
原沢が冷茶を飲みほして続ける。
「同窓会で再会したときに、幸と話を合わせようと思うて、わたしも妻と死別したと言うてしもたんです。ついついほんまのことを言いだせんと、ずるずるうそをつきっぱなしやったんですが、早代が生きてることを友達から聞かされよったらしいて」原沢が深いため息をついた。
「奥さんもだまし続けて、浮気の相手にもうそをついてはったんですか。うそだらけですやん」
こいしが声を荒らげた。
「早代にはともかくも、幸にはいつかほんまのことを言わんならんと思うてました。場合によっては早代と別れて幸と一緒になってもええ、と思うてたくらいですから」原沢が声を沈ませた。
「幸さんはショックを受けはったでしょう」
「早代が生きていることもですが、わたしがずっとうそをついていたことにショックを受けたようで。絶対に許せない。幸はそう言うて、わたしを責めました」「当然やわね。奥さんが亡くなってたら恋愛やけど、生きてはるんやったら不倫やもん。
えらい違いや」
こいしが小鼻をふくらませた。
「同窓会で再会したときは、まさかそんな関係になるとは思うてもいませんでしたから、ついうそをついてしもたんです」
「それでどうなったんです?」
「二度と会いたくないと言って、『むくげ』を追い出されてしまいました」「そのまま今日まで?」
こいしの問いかけに、原沢は黙ってうなずいた。
「一年半も経って、なんで今になって、豚のしょうが焼きを捜してはるんです?」「正直なとこ、わたしは今でも幸に未練があります。それを断ち切るには、あのしょうが焼きをこれからも食べ続けるのが一番やと思うんです」原沢が身を乗りだした。
「かえって未練が残るんと違います?」
こいしが首をかしげた。
「あるとき早代に頼んだんです。旨いしょうが焼きを作ってくれんかと。そしたら早代が言いよった。あんたの好みに合うレシピを捜してくれと。自分の作り方やったら、たぶん気に入ってくれへんと思う、と。勝手な言いぐさかもしれまへんけど、あのしょうが焼きを早代が家で作ってくれよったら、幸のことは忘れられそうに思うんです」「そんなもんかなぁ。逆なように思えてしょうがないんやけど。勝手すぎませんか」「そう言われたら何も言い返せまへんけど、元に戻るようなことにはならしません。本人が言うてるんやから間違いありませんて」
原沢が胸を張った。
「まぁ、そういうことにしときましょ」
こいしがノートを閉じた。
原沢とこいしが食堂に戻ると、仕込みの手を止めて、流が厨房から出てきた。
「あんじょうお聞きしたんか」
「ちゃんと聞かせてもらいました。隅から隅まで」こいしが意味ありげな視線を原沢に送った。
「えらい無理なことをお願いしたみたいで、申し訳ありません。なにとぞよろしゅうに」原沢が腰を折った。
「なにがどうや分かりまへんけど、せいだい気張って捜させてもらいます」流が帽子を取って礼を返した。
「とりあえず今日の食事代を」
原沢が分厚くふくらんだ長財布を取りだした。
「探偵料と一緒に、この次にいただきますから、今日はけっこうです」こいしがそう言うと、原沢は納得したように財布をバッグにしまった。
「次はいつ来たらよろしいですか」
「だいたい二週間ほど時間をいただいとりますけど、それでよろしいかいな」こいしと目を合わせて、流が答えた。
「別に急ぐわけやないんで、連絡いただいたら堺からでてきますわ」原沢が引き戸を開けて、店の外に出た。
「ひるね、そないにくっついたらあかん」
トラ猫のひるねが原沢の足元でじゃれついているのを、流が引き離した。
「おたくの飼い猫ですか」
屈かがみこんで原沢が、ひるねののどをさすった。
「飼うてるような、野良猫のような。中途半端な存在ですねん。かわいそうでしょ」こいしがひるねを抱き上げた。
「幸も猫が好きでしたわ。夜も一緒に寝とりました。けど『むくげ』には絶対入れてやりませんでした」
「食いもん商売の店に猫を入れるてなことはできまへん」流の言葉に驚いたように原沢が目をむいた。
「幸も同じことを言うてました」
「そんなかたいこと言わんでもええと思うんやけどなぁ」こいしがひるねを抱きあげた。
「ほな、二週間後を愉しみに待ってます」
原沢は正面通を東に向かって歩きだした。
「京都駅やったら、こっちですよ」
こいしが西を指さした。
「堺へ帰るには京阪が便利ですねん。七条駅から乗ります」小さく頭を下げて、原沢はゆっくり歩を進めた。
「何を捜してはるんや」
原沢の背中を見送って、流がこいしに訊いた。
「豚のしょうが焼き」
「どっかの名店のか?」
「不倫相手が作ってくれはったんを捜して欲しいんやて」ひるねをおろして、こいしが吐き捨てるように答えた。
「どんな事情があっても……」
「それを捜すのがうちらの仕事。よう分かってます」流の言葉をさえぎって、こいしは自分に言い聞かせるように後をつないだ。
「その不倫相手の人はどこに住んではるんや」「岡山の美作らしいけど、今でも住んではるかどうか分からへんよ」「行ってみなしゃあないがな。美作っちゅうたら、美作三湯というて、ええ温泉があるんや。どや、一緒に行くか」
「行くに決まってるやん。温泉て久しぶりやし嬉しいわぁ。美人のお湯やったらええのにな」
こいしが満面に笑みを浮かべた。