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第四卷 第六話  マカロニグラタン 1

时间: 2024-02-27    进入日语论坛
核心提示:第六話  マカロニグラタン     1 京都駅の中央口を出た富とみ田た結ゆい子こは、目の前にそびえ立つ京都タワーを、ゆっ
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  第六話  マカロニグラタン
  1
  京都駅の中央口を出た富とみ田た結ゆい子こは、目の前にそびえ立つ京都タワーを、ゆっくりと見上げた。
  比ひ叡えいおろしが時折吹きおろす都みやこ大おお路じを、コートも着ずに颯さっ爽そうと歩く結子は、とても還暦が近いふうには見えない。短く刈り上げた黒髪はまるで少女のような純粋さを見せ、しかしベージュのツーピース姿は、キャリアウーマンさながらの戦闘姿勢をも秘めているようだ。
  友人と連れだって、幾度となく訪れたことのある京都だが、目的が異なると、こんなにも空気が違って感じられるのか。不思議な感覚に包まれながら、結子は信号が青に変わるのを待った。
  烏丸通を北に向かって歩き、七条通を越えて、正面通を東に折れる。やがて右手に見えてくるモルタル造の二階屋が目指す店だ。
  看板もなければ、もちろん暖の簾れんなどあがってはいない。ただひとつの印は辺りに漂う美お味いしい匂い。そう聞かされていた結子は、小鼻を膨らませて目を細めた。
  和食の出だ汁しの薫りがかすかに鼻先をくすぐる。唇を一文字に結んで、結子は引き戸を開けた。
  「ごめんください」
  「はい」
  ソムリエエプロンを着けた若い女性が、顔だけを結子に向けた。
  「こちらは『鴨川探偵事務所』でしょうか」
  おそるおそるといったふうに結子が訊きいた。
  「はい。わたしが所長の鴨川こいしです。もしかして、富田さんですか?」こいしが上目遣いになった。
  「大だい道どう寺じ茜あかねさんの紹介で伺いました、富田結子です」黒いトートバッグを左手に持ち替えて、結子が唇をゆるめた。
  「ようこそ、おこしやす。茜から聞いとります。わしが鴨川流です」厨ちゅう房ぼうから飛びだしてきた、作さ務む衣え姿の流が帽子を取って一礼した。
  「はじめまして。富田と申します。お噂うわさは茜さんからかねがね。どうぞよろしくお願いいたします」
  結子が深く腰を折った。
  「どうぞおかけください」
  パイプ椅子をこいしが奨すすめると、結子は上着を脱いで腰かけた。
  「捜してはる食はあとでこいしがお訊きしますんで、まずはお昼を召し上がってください。すぐにご用意します」
  帽子をかぶり直して、流が厨房へと続く暖簾をくぐった。
  「お酒はどうです?」
  「あまり強くはないのですが、お酒は大好きなんです。美味しい日本酒があれば少しだけいただきます」
  こいしの問いかけに結子が答えた。
  「うちが今一番気に入ってるお酒をお出ししますわ。広島の〈宝ほう寿じゅ〉ていうんですけど、ちょっとだけ燗かんをしたら美味しいんです」「広島のお酒ですか。じゃあそれをいただきます。ほんの少しでいいですから」結子が親指と人差し指を近づけた。
  「そしたら一合だけ、ぬる燗にしときますね」こいしが小走りで厨房に向かった。
  しんと静まった店の中を、結子はぐるりと見まわした。
  幼いころ父親に連れられて食事をした、故郷の食堂によく似ている。幼稚園児だった結子はうどん一杯を食べるのに三十分ほどもかかり、何度も父親に急せかされたことを思いだしていた。
  「古臭い店でしょ?」
  こいしが苦笑いしながら、結子の前に備び前ぜん焼の徳利と杯を置いた。
  「初めて来たのに、なんだか懐かしい気がします」結子が徳利を両手で包みこんだ。
  「すき間だらけやさかい、冬は風がどっかから入ってきて、寒いんですよ。暖房もあんまり効かへんし、お酒で身体からだを温めるしかないんです」こいしがぺろりと舌を出した。
  「よっぽどお酒がお好きなんですね」
  「お父ちゃんゆずりや、て、おかあちゃんがよう言うてました」こいしが仏壇に目を遣やると、結子はその視線を追いかけて、小さく頭を下げた。
  「ところで、失礼ですけど結子さんてホンマはおいくつなんです? 茜さんからお聞きしてた年齢には、とても見えへんのですけど」
  こいしがまじまじと結子を見た。
  ベリーショートの髪には白髪の一本も見当たらず、整った目鼻立ちは、日本人離れしている。
  「正真正銘、五十七歳ですよ。あちこちいじってますから、本物じゃないかもしれませんけどね」
  目と鼻を指さして、結子が口の端を歪ゆがめた。
  「いじる、て、ひょっとして整形しはったんですか?」こいしが目を見開いた。
  「ちょっとしたわけがあって、若いころに。父親にはこっぴどく られましたけど」結子が肩をすくめた。
  「へんな言い方かもしれませんけど、上手ですね。どう見てもうちと歳とし変わらへんわ。うちもいじろかなぁ」
  首を左右に傾けながら、こいしは結子の顔を間近で見つめた。
  「やめたほうがいいです。人生が変わっちゃいますよ」結子が哀かなし気な表情を浮かべた。
  「お待たせしました。寒い時季やさかい、あったかいもんをご用意しました」三段重ねになった白木の蒸せい籠ろを、流が結子の前に置いた。
  「見ているだけであたたまりますね」
  結子が流と目を合わせた。
  「料理の説明をさせてもらいます」
  流が蓋を取って、三段の蒸籠をそれぞれ白い皿の上に置き、横に並べた。
  「食べきれるかしら」
  見まわして、結子が目を輝かせた。
  「ようけに見えますけど、どれも量は少のうしてますさかい、ちょうどお腹なかにおさまると思います。ひとつの蒸籠に三品ずつ入ってます。左の蒸籠に入ってるのが、鰆さわらの西さい京きょう焼、聖しょう護ご院いん蕪かぶらの風呂吹き、すっぽんの茶ちゃ碗わん蒸むしです。真ん中の蒸籠に入ってるのが、鴨かもロースと生なま麩ふの重ね焼き。溶き辛子を付けて召し上がってください。その横は蒸し牡が蠣き。大きめのサイズやさかい、包丁を入れてます。もみじおろしをたっぷり載せてもろたら美味しおす。隣は蟹かに身みの寄せ蒸しです。柚ゆ子ずのジュレを絡めて食べてください。三つ目の蒸籠は、左から近江おうみ牛うしのタンシチュー。白味み噌そと八丁味噌を合わせて煮込んでます。スプーンでどうぞ。真ん中は河ふ豚ぐのちり蒸し。河豚は刻みネギとポン酢で召し上がってください。右端は車くるま海え老びを湯葉で包んで軽ぅ炙あぶってます。抹茶塩を振ってもろたらおいしおす」
  ひとつずつ指をさしながら流が料理の説明をした。
  「すごいご馳ち走そうですね。どれも食べたことがないものばっかり」箸を持ったまま、結子がため息をついた。
  「ぬくいもんばっかりでっさかい、口直しに漬けもんを置いときます。すぐき菜、千枚漬け、柴しば漬け。どれも細こう刻んでますんで、匙さじですくうて食べてください。ご飯は後でお持ちしますさかい、どうぞごゆっくり」三つの小鉢を置いて、流は厨房に戻っていった。
  「お酒が足らんかったら声かけてくださいね」こいしがその後を追った。
  三つの蒸籠を改めて見た結子は、両端の蒸籠に蓋をし、真ん中のそれだけを手前に引いた。
  杯を傾けて、少しばかりなめてから、蟹身の寄せ蒸しに柚子のジュレをかけ、そっと口に運んだ。
  「おいしい」
  結子の口から思わず大きな声が出た。
  ほんのりと温かい蟹の身はやさしい甘みを湛たたえ、酸味の効いたジュレがそこにアクセントを加える。鼻から抜けてゆく柚子の香りに、結子はうっとりと目を閉じた。
  九品のうちの、たったひとつを食べただけで、既に結子の心は満たされていた。
  看護師という仕事上、不規則な暮らしを強いられることも多く、加えてひとり暮らしというせいもあって、家でまともな夕食を摂とることは滅多にない。病院の帰りにコンビニで買って帰る弁当か、近所の蕎そ麦ば屋から取る、出前のうどんくらいで、それ以外はマンションの一階にある居酒屋での夕食になる。
  冬ともなれば蟹料理のひとつも品書きに載るが、どこで獲とれたかも分からないような味気ない蟹で、食べた後はいつもうら悲しい気持ちになる。
  蒸し牡蠣も、生麩と重ねて食べた鴨ロースも美味しかったが、蟹身の印象が強すぎて、さほど心は動かなかった。
  手酌をして、杯になみなみと注ついだ酒を、結子は一気に飲みほした。居酒屋でのそれは、乾いた蟹の生臭さを消すためだが、今は蟹の余韻を愉たのしむために飲んでいる。結子はそれを心底実感した。
  食べ終えた蒸籠を奥へ追いやり、右端の蒸籠を真ん中に置いた。
  小さなグラタン皿に入ったタンシチューは、紙ナプキンに包まれたスプーンを使った。
  まだ湯気が立つほどに熱く、合わせ味噌の味がしっかり染みこんだ肉は、見た目ほどにくどくなく、あっさりとした後口で、日本酒にもよく合った。
  空になったグラタン皿を見て、ふと思いついた言葉を、結子は急いで紙ナプキンに書き残した。
  「お酒は足りてますかいな」
  暖簾のあいだから流が顔を覗のぞかせた。
  「まだ少しあります」
  結子が徳利を軽く振った。
  「もう一本つけときますわ」
  流が結子に笑顔を向けた。
  「ありがとうございます」
  結子が笑みを返した。
  ちょうど半分ほどを食べ終えて、結子は残りを食べるのが惜しくなってきた。できるなら持ち帰って冷凍保存し、毎日少しずつ食べたい。そんな思いがつのるほどだった。
  徳利を持って厨房から出てきた流に、結子はその思いを告げた。
  「そう思うてもらうのもありがたいことですけど」流が苦笑した。
  「一度にこんなご馳走を食べてしまったら、明日にでも死んじゃうんじゃないかと思ってしまいます」
  「そないおおげさな」
  「本当にそう思うんです。ばちが当たりそうな気もしますし」結子の目が笑っていないのを見て、流は唇を引きしめた。
  「ゆっくり召し上がってください」
  「はい」
  結子は蒸籠から目を離すことなく短く答えた。
  河豚の身はどの部分になるのだろう。まるで鶏とりの胸肉のような、というたとえ方は間違っているのだろうけれど、心地よい歯触りですんなりと嚙かみきれてしまい、おろしの爽やかさもあって、いくらでも食べられそうだ。
  最後の蒸籠は名残を惜しむように、慈しみながら食べ進めている。
  「ぼちぼちご飯をお持ちしまひょか。今日の料理には揚げもんが入ってなんだんで、小さな蟹天丼をご用意しとります」
  「天ぷら、大好きなんです。お嬢さんをお待たせしているでしょうから、すぐいただきます」
  「急いでもらわんでもええんですけど、ご用意しますわ」流が踵きびすを返した。
  食堂と厨房は暖簾一枚を隔てているだけなので、同じ空気が流れている。天ぷらを揚げる油の音がして、胡ご麻ま油の香りが漂ってくる。満腹に近いのに、天ぷら好きの結子は腹の虫を鳴らせた。
  「ご飯はちょっとしか入ってまへんさかい、ぜんぶ食べられると思います。蟹の爪の身だけをまとめて揚げてます。丼つゆはわしの好みで関東風に濃いめに仕立ててます。お好みで粉こな山さん椒しょうを振って召し上がってください。赤だしはシンプルに豆腐だけです。どうぞごゆっくり。と言うても、丼はささっとかっこむほうが旨うまいんでっけど」言いおいて、流は暖簾をくぐった。
  染付の小ぶりの蓋茶碗からは、薄うっすらと湯気が上っている。急いで蓋を取った結子は、小さく、あっ、と声を上げた。
  蟹の爪の身だけをまとめて揚げた、という流の言葉から想像したのは、クリームコロッケのような、爪の付いたままの揚げ物だったが、ご飯の上に載っているのは丸く薄いかき揚げである。どうすればこんな形にして揚げることができるのか。そんな疑問はしかし、芳こうばしい天ぷらの香りに押されて消え去り、結子は勢いよくかき込んだ。
  さくっ、さくっと音を立てて、甘辛い味の天ぷらを嚙みしめ、丼つゆの染みこんだご飯を飲みこむ。後には蟹の甘い香りが舌に残る。こんなに美味しい天丼が世の中に存在するのか。結子は泣きそうになった。豆腐の赤だしを合いの手にして、三分とかからず、米のひと粒も残すことなく、天丼をさらえた。
  「お口に合いましたかいな」
  益まし子こ焼の土瓶を持って、流が結子の傍そばに立った。
  「言葉がありません。これも持って帰りたいと思ったのに、あっという間に食べてしまいました」
  「よろしおした。ひと息つかはったら、奥へご案内します」流が茶を注いだ。
  「ありがとうございます。きっと長いことお待たせしたでしょうから、すぐに参ります」結子が急いで湯ゆ吞のみを傾けた。
  先を歩く流に、何度も結子が遅れをとるのは、長い廊下の両側にびっしりと貼られた写真に見とれているからである。
  ほとんどは料理の写真だが、中には家族の記念写真とおぼしきものもある。背景が山だったり、遊園地だったり、海辺だったりするのはどこの家族も同じなのだと結子は妙に納得した。
  どこも同じだと思いながら、ここと違うのは、自分には成長した子どもと一緒に撮った写真が一枚もないことだ。叶かなうはずもないのだが、青年になった息子と一緒に写る姿を想像して、結子は胸を騒がせた。
  「あとはこいしにまかせてますんで」
  廊下の突き当たりのドアを流が開けると、こいしが明るい声で迎えた。
  「どうぞお入りください」
  「失礼します」
  流の背中に会釈してから、結子は部屋に入った。
  「早速ですけど、ここに記入してもらえますか」こいしがバインダーを手渡すと、ソファに座った結子がにこりと笑った。
  「なんかおかしいですか?」
  こいしが怪け訝げんそうな顔を結子に向けた。
  「ごめんなさい。わたしも毎日同じようなことをしているので、つい。いつもは渡す側で、渡される側に立つと、こんな感じなんだと愉快になってしまって」結子はほほを緩めたまま、すらすらとペンを走らせた。
  「渡す側……なんの仕事やろ。お役所とかですか?」こいしは水の入ったグラスを結子の前に置いた。
  「いえ。看護師なんですよ。問診票に主訴といって、患者さんの来院理由というか、どこがどう具合が悪いのかを記入してもらうんです」「結子さんて看護師さんなんや。全然そんなふうに見えませんわ。銀座のクラブのママさんか、モデルさんかと思うてました」
  銀座という言葉に、結子はかすかに反応したが、こいしはそれに気づかなかったようだ。
  「二十五年以上前のわたしだったら、きっと看護師だと見抜かれたと思いますよ」結子が口の端で笑った。
  「本題に入ります。どんな食を捜してはるんです?」こいしが結子を真正面から見た。
  「マカロニグラタンです」
  「どこかのお店のですか?」
  「静岡にある『タペストリー』というお店で食べたマカロニグラタンです」「そのお店は今はもうないんですね?」
  「いえ、まだあると思います」
  「それやったら、また食べに行かはったらええんと……、行けへん理由があるから捜してはるんですよね。失礼しました」
  結子の固い表情に合わせて、こいしは言葉の向きを変えた。
  「ちゃんと事情をお話ししたほうがいいですよね」結子は組んでいた足を解いた。
  「はい。差支えのない範囲で」
  こいしがペンをかまえた。
  「二十五年ほど前に離婚をしまして、ひとり息子の雅まさ也やは主人が引き取りました。
  雅也がまだ五歳のときでした。その雅也が……」「ちょっと待ってください。二十五年前ということは三十二歳のときですね。それからずっとおひとりで?」
  「ええ。二十五年間ずっとひとりで生きてきました」「すんません、話の腰を折ってしもて。で、息子さんの……?」こいしが話の続きをうながした。
  「雅也とは二度と会わないという取り決めをして離婚しましたので、その約束を守って、ずっと会わずにおりました。というより、消息が分からなかったんです。別れた主人とも音信不通ですし、生きているのかどうかすら知らないままでした」「何度もお話を止めて申し訳ないんですが、立ち入ったことをお訊きしてよろしい?」「なにか?」
  ずっとローテーブルに伏せていた目を、結子がゆっくりと上げた。
  「一般的な話ですけど、五歳の息子さんがやはったら、母親のほうで引き取るのがふつうやと思うんですけど。ましてや二度と会わへん、やなんて何か特別な理由があったんですか?」
  ペンを握ったまま、こいしが問いかけた。
  「やっぱり、そこもお話ししないといけませんよね」結子は足を組んだ。
  「言い辛づらいことやったらええんですよ。ちょっと気になったもんやさかい」こいしがペンをノートの上に置いた。
  「離婚の理由が、わたしの不倫だったからです。不貞をはたらくような女に、息子を育てさせるわけにはいかない。主人も、主人の母も強くそう主張しまして。不倫をしてしまったことは事実ですし、そう言われると反論できず、母親失格の烙らく印いんを押されてしまったというわけです」
  一瞬悔しそうな顔をした結子だが、すぐにあきらめ顔になり、やがて自らをあざけるような薄笑いを浮かべた。
  「どう言うてええのか分かりませんけど、五歳の男の子には母親が必要ですやん」こいしが険しい表情をして、ボールペンをせわしくノックした。
  「当時はまだ主人の母も若かったですし、自分が母親代わりを務めるから、なんの問題もないと言われまして。わたしが悪いのですから、仕方がないとあきらめました」「そらそうかもしれんけど、なんか納得できひん話やなぁ。どんな理由があっても、五歳の子どもやったら母親が育てたほうがええと思うけどな」こいしが両ほほをふくらませた。
  「息子を諍いさかいに巻き込みたくなくて。雅也が元気であれば、それでいいと」結子が天井を仰いだ。
  「すんません、横道に引っ張ってしもうて。肝心のマカロニグラタンの話を聞かせてください」
  こいしが膝を前に出した。
  「離婚の条件のひとつに、わたしが東京を離れること、というのもありました。雅也との接触を避けたいということもあったのだと思いますが。名古屋に引っ越して、千ち種くさの病院に勤めるようになりました。しばらくして、生き甲が斐いのひとつも欲しいと思って、五行歌のグループに入ったんです」
  「五行歌て何ですのん?」
  「文字どおり、五行で歌を詠むんです。短歌や俳句みたいに決まりがあるわけではなく、五行でありさえすれば、なんでもいいんです。思ったままを詠む」「愉しそうやね。うちもやってみたい」
  「でしょ? わたしもすぐにのめりこんでしまって。仲間と一緒に旅をするのが本当に愉しくて。テーマを決めて、旅先で歌を詠んでお互いに披露し合うんです。批評し合ったり、ほめ合ったりして。でも歌だけが目的じゃないんです。一緒に美味しいものを食べたり、お酒を飲んだりして、身の上話をしたりすることで、寂しさを紛らわせていました」「五行歌のグループかぁ。うちにもそういう潤いが必要やな」こいしがペンで自分の頭を叩たたいた。
  「一年に三、四回はそういう旅をするのですが、三年前の秋は静岡へ行きました」「静岡やったら、富士山をテーマにして歌を詠んだりするんですか」「そのとおり。でも、どうして分かったんですか?」「いちおう探偵事務所の所長ですから」
  ふたりは顔を見合わせて笑った。
  「吟行旅はいつも一泊二日なんです。二日目の朝に解散して、あとは自由行動になります。そのときも静岡の駅前ホテルに泊まって、みんなで朝食を食べた後、解散になりました。ひとりで浅せん間げん神社や駿すん府ぷ城を巡ってお腹が減ったので、ランチにしようと思って、お店を探して歩いていました」
  「静岡て行ったことないんです。歩いてたらお茶の匂いとかしてきそうですね」こいしが言葉をはさんだ。
  「たしかにお茶屋さんがあちこちにありました。両替町だとか紺こう屋や町まちとか古い町名も残っていて、その近くに青葉通りという緑の綺き麗れいな通りがあったんです。以前に仙台へ行ったときも、たしか同じような通りがあったなぁと思って歩いていると、公園の近くに『タペストリー』というカフェがあったんです」結子が目を輝かせた。
  「『タペストリー』って壁にかける織物のことですよね」こいしがノートにイラストを描いた。
  「お若い方は馴な染じみがないかもしれませんが、わたしより上の世代は『タペストリー』というと音楽が思い浮かびます。キャロル?キングという女性シンガーのアルバムに『タペストリー』というのがあって、夢中で聴いたものです。なんて生意気なこと言ってますけど、十歳上の姉の受け売りなんですよ。わたしはまだ子どもだったのですが、おませだったんでしょうね」
  「キャロル?キング、ですか。聴いたことないなぁ。やっぱりレコードの時代ですか?」「もちろんです。アルバムは直径が三〇センチもあって、それが入っているジャケットも愉しみのひとつでした。カーリーヘアーのキャロル?キングが、窓際のベンチにジーンズ姿で座っていて、片膝を立ててほほ笑んでいるんです。姉と一緒にその格好を真ま似ねて写真を撮ったことを覚えています」
  結子が遠い目をした。
  「どんなんか見てみたいなぁ。で、やっぱりその店の人もそういう思い出があって、店の名前にしはったんですかね」
  「マスターと呼ばれている男性を見て、ひょっとしたら、と思ったんですが……。訊けませんでした」
  「マスターは忙しいしてはったんですか?」
  こいしが訊いた。
  「ランチタイムにはまだ早かったので、客はわたしひとりでした」「そしたら訊いてみはったらよかったのに」
  こいしが眉を斜めに歪めた。
  「訊くのが怖かったんです」
  結子の目が鈍く光った。
  「怖かった? 何がです?」
  「母親って不思議なんですが、自分がお腹をいためて産んだ子どもって、絶対分かると思うんです」
  結子が唇をきつく結んだ。
  「まさか……」
  こいしが向けた視線を受けとめることなく、結子は話を続けた。
  「コーヒーを淹いれているのは、息子の雅也に間違いない。そう思いました。最後に会ったのは五歳でしたから、顔つきも身体つきも声もまったく違いますが、でも、分かるんです。わたしが母親ですから。雅也に、子守歌代わりに聞かせていたのがキャロル?キングの歌だったんです。だからきっと……」
  結子はうつろな目で宙を見つめたまま答えた。
  「そんな偶然てあるんですねぇ。うちやったら腰抜かすかもしれん。子どもはいいひんけど」
  こいしのジョークも耳に入らなかったように、結子は相変わらず視線を宙に遊ばせている。
  「ランチのメニューは三種類でした。日替わりランチ、本日のパスタ、そしてマカロニグラタン。迷うことなくわたしはマカロニグラタンを頼みました」「それを捜すんですね。やっと本筋や」
  「あちこち回り道をしてごめんなさい」
  結子が顔を正面に向けて、小さく頭を下げた。
  「うちも余計なことをようけ訊いてしもて」
  こいしがそれに倣った。
  「心臓が破裂するんじゃないかと思いました。わたしと雅也を最後につないだのがマカロニグラタンでしたから」
  「最後につないだ、そのお話、詳しいに聞かせてください」こいしが背筋を伸ばして、ペンを握りなおした。
  「少し長くなってもかまいません?」
  「もちろんです。しっかり聞かせてもらいます」「ありがとうございます」
  結子がグラスの水を一気に飲みほした。
  「いえいえ。食捜しのヒントになりますので」こいしが、ピッチャーを傾けた。
  「わたしの浮気が原因で、離婚することが決まって、二度と雅也に会わない約束をしたあと、最後に一度だけ、雅也とふたりだけで会う時間を主人が作ってくれました。たった半日だけだったけど、デパートでおもちゃを買って、ジューススタンドへ行って、夢のような時間でした。お昼は『キャンドル』という銀座の洋食屋さんへ行きました。雅也はお子さまランチを食べたいと言ったのですが、わたしは雅也との最後のランチはマカロニグラタンと決めていました」
  「なんでです?」
  「同じ洋食でも、ハンバーグとかエビフライなんかは父親のイメージですが、マカロニグラタンって母親のイメージありません? 離れた後も、マカロニグラタンを食べるたびに、わたしのことを思いだしてくれるんじゃないかと」「そう言われると、たしかにそんな気がします。うちもマカロニグラタン食べたらお母ちゃんを思いだすなぁ。なんでやろ。ほんまにそやわ」こいしは不思議そうな顔を何度も縦に振った。
  「『タペストリー』で料理ができあがるまでの間、わたしのことに気づいているんじゃないだろうか。どんなマカロニグラタンが出てくるのだろうか。ふたつもわたしをどきどきさせることがあって、過呼吸を起こしそうになりました。すぐにお水を飲みほしてしまって、それに気づいた若い女性店員さんが、注ぎに来てくれました。とても綺麗なひとで、雅也の恋人かしら、いや、もうお嫁さんになっているのかもしれない。そう思うとまた息が荒くなって」
  そのときのことを思いだしたのか、結子は肩で息をし始めた。
  「お水でよろしい? お茶もありますけど」
  こいしが立ち上がった。
  「お茶をいただけますか」
  差しだされた湯吞を、結子はゆっくりと傾けた。
  「なんか映画を観みてるみたいです。早ぅ続きを聞きたいんですけど、落ち着かはってからでええんですよ」
  急かすような、そうでないような、中途半端なこいしの言葉に苦笑いしながら、結子は言葉を続ける。
  「時間にしたら十五分ほどなのでしょうけど、わたしにはとても長く感じられました。雅也がときどき、ちらっとわたしのほうを見て、目が合ったりすると、心臓が止まりそうになりました」
  結子がグラスの水を飲みほしたのを見て、こいしがピッチャーの水を注いだ。
  「その気持ち、よう分かりますわ。うちも彼氏が作ってくれた料理はなかなか手が付けられへん」
  「彼はお料理屋さんなの?」
  「え、ええ。まぁ、そんなようなもんです」
  こいしのほほに赤みがさした。
  「長いあいだ離れていたから、今になって思えば、昔の恋人にあったような気分だったのでしょうね。目が合うたびにどぎまぎしてしまって」「息子さんも気づいてはったんと違います? なんちゅうても親子なんやもん」「いえ。それはないと思います。さっきもお話ししたように、生まれ変わるつもりで、離婚してすぐに整形しました。雅也の記憶にあるわたしと、顔かたちがまったく違いますから」
  「そうかなぁ。顔がどうやとか、髪型やとか、そういうことやのうて、直感で気づくんと違うやろか」
  納得がいかない顔をするこいしにかまわず、結子は興奮した様子で続きを話した。
  「ひと口食べた瞬間に、あのとき雅也と一緒に食べた銀座の『キャンドル』を思いだしました。おなじ味がしたんです。熱々でまろやかで、芳ばしくて」結子は大きく見開いた目を天井に向けた。
  「また話に水を差すみたいで悪いんですけど、マカロニグラタンいうたら、どこで食べても熱々でまろやかで芳ばしいんと違います?」こいしが上目遣いになった。
  「そりゃそうですけど、なんていうか、ほら、懐かしい味がしたんです。昔の味そのままで」
  結子は夢見心地のような顔で話し続けている。
  「マカロニの茹ゆで加減って難しいんです。芯があってもダメだし、やわらかすぎてもいけない。それがもう、これ以上はない、っていう感じのマカロニ。ベストな状態でした。
  そうそう、ベシャメルソースもね、ちょっと油断するとダマができてしまうでしょ。そうすると舌触りが悪くなってしまうし。ところがあのグラタンのソースったら、滑らかで、でもちゃんとコクがあって、素晴らしい舌触りなんです。中に入っている具は鶏肉。雅也は甲殻類のアレルギーだったから、海老じゃなく鶏肉。『キャンドル』でもチキンマカロニグラタンにしたんです。でも、やっぱり一番大事なのは味付けよね。塩加減がぴったりだったのには本当に驚きました。あのとき『キャンドル』で食べたのとまったく同じ味がしました」
  結子は手振り身振りを交えて、「タペストリー」のマカロニグラタンを一気に語った。
  「メモが追いつきませんやん。あと、息子さんのフルネームを教えてもろてもよろしい?」
  苦笑いして、こいしがペンを立てた。
  「小お川がわ雅也。小さい川、の小川です。雅也はみやびなり、です。捜していただけそうですか?」
  結子が前のめりになって訊いた。
  「この『タペストリー』ていうお店は今も静岡にあるて言うてはりましたよね」「ええ。そのはずです」
  「そしたらそのお店に行って、食べてきてもええんですね。もちろん結子さんのお名前も一切出しませんし、ただの客として食べるだけですけど」「もちろんです。そうしてもらわないと再現してもらえませんもの」「そしたら、そない難しいことないと思います」こいしの言葉を聞いて安心したのか、結子はソファの背にもたれかかった。
  「けど、なんで今になって、そのマカロニグラタンを捜そうと思わはったんです?」こいしが訊いた。
  「わたしの残りの人生もそう長くはない。もう一度雅也に会いたいと思う気持ちが日に日につのってきて、でも会っちゃいけない、そんなジレンマに毎日苦しめられていて」「分かりました。お父ちゃんに必ず捜してもらいます」こいしはノートを閉じた。
  こいしが先を歩き、結子はその後を追いながら、廊下の両側に貼られた写真に目を遣っている。
  「こんなにいろんな料理をお作りになるのだから、心配要りませんよね」自分に言い聞かせるように結子がうなずいた。
  「どっちかて言うたら洋食は苦手みたいやけど、見本を食べてええんやから、お父ちゃんにとっては楽な話やと思いますよ」
  こいしが振り向いて笑顔を浮かべた。
  「どや。あんじょうお聞きしたんか」
  ふたりが食堂に戻ると、カウンター席に腰かけていた流が立ち上がった。
  「はい。しっかりと聞いていただきました」
  結子は弾んだ声でこいしの代わりに答えた。
  「よろしおした」
  流はふわりとほほを緩めた。
  「今回は楽勝パターンやと思うで」
  こいしが流の背中を叩いた。
  「今まで一回でもそんな楽勝パターンがあったか」流がこいしをにらみつけた。
  「今日のお食事代をお支払いしなければ」
  結子が黒いトートバッグからベージュの長財布を取りだした。
  「探偵料と一緒にこの次にいただきます」
  「承知しました」
  こいしの言葉に、結子は財布をしまった。
  「次にお越しいただくのは、だいたい二週間後にしてますんやが、それでよろしいか。お急ぎやおへんか」
  流が訊いた。
  「ちっとも急ぎません。ご連絡いただきましたらご指定いただいた日に参ります。勤務日が不規則なので、多少は前後するかもしれませんが」ジャケットを羽織ってからトートバッグを肩にかけ、結子が敷居をまたいだ。
  「寒いことないんですか?」
  寒風が舞う正面通に出て、こいしが結子の背中に声をかけた。
  「寒いのは昔から平気なんです。暑いのは苦手ですけど」振り返って、結子が小さくほほ笑んだ。
  「お気をつけて」
  流の言葉に結子が斜めに一礼した。
  「今日はえらい冷えるなぁ」
  店に戻って、こいしが手に息を吹きかけた。
  「何を捜してはるんや」
  カウンター席に座って、流が新聞を広げた。
  「マカロニグラタンなんよ」
  「どっかの店のか?」
  「静岡のカフェ」
  「もうないんやろ?」
  「まだあるんやて」
  「そこへ食べに行ってもええんか?」
  広げた新聞の横から、流がこいしに顔を向けた。
  「ええて言うてはった」
  「たしかに楽やな」
  「せやろ? お父ちゃんやったら、片目のケンケンや」「簡単そうに見えるもんには落とし穴が付きもんや。用心してかからんとな」流が緩んだほほを引きしめた。
  「これ何?」
  厨房の壁に貼られた紙ナプキンを、こいしが指した。
  「なんやよう分からんけど、メモを忘れていかはったんや。帰らはるときに渡さんならんと思うてたのに、うっかり忘れてしもた」
  新聞をたたんで、流が壁に目を遣った。
  「──黒じゃない 捜しているのは白き思い出 遠き日の 我が子の笑顔 いま一度──。
  分かった。五行歌や」
  こいしが手を打った。
  「なんや、その五行歌て」
  「五行で歌を詠むことなんやて」
  「そのままやないか」
  流が苦笑いした。
  「そうかぁ。素直に詠んだらええんや。うちもやってみよ」こいしが紙ナプキンをてのひらでなでた。
  「歌やったら、これくらいきれいな字が書けんと。ま、こいしには無理やな」流が鼻で笑った。
 
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