2
一年で一番寒いのは節分のころだ。
京都に住む友人の言葉どおり、京都駅を出ると、凍り付くような寒さに包まれた。寒さには強いと自負していた結子も、さすがにコートなしで京都を訪れるような無謀は避けた。
仕事が立てこんでいて、連絡があってから十日ほども過ぎている。きっとその分、寒さも厳しさを増したに違いない。
もう何年も袖を通していない、グレーのツイードのコートを引っ張り出してきたのは正解だった。生まれ育った東京でも、長く暮らしてきた名古屋でも、こういう寒さに見舞われたことはない。
早足で歩きながら何度もコートの合わせを押さえ、ようやく「鴨川食堂」の前に立つと、結子は肩の力を抜いてひと息ついた。
「こんにちは」
結子はゆっくりと引き戸を開けた。
「お待ちしてました」
待ち構えていたこいしが笑顔を結子に向けた。
「ようこそ、おこしやす」
厨房から出てきて、流が帽子を取った。
「ご無理を言って申し訳ありませんでした。先週はずっと出勤が続きましたので」結子はふたりに頭を下げた。
「いえいえ、このとおり暇な店ですさかい、うちはいつでもかましません」流が口元を緩めた。
「ちゃんとお父ちゃんが見つけて来はりましたよ」こいしが耳元でささやくと、結子は目を丸く見開いた。
「グラタンはちょっと時間がかかりますさかい、しばらく待っとぉくれやっしゃ」言い置いて、流は厨房に戻っていった。
結子は脱いだコートをたたんで椅子に置いた。
「すんませんねぇ、コートかけもない店なんですわ」「お気遣いなく。普段着ですから」
「今日はお酒はどうしはります? よかったらワインでも」「今日は飲まずにおきます。しっかり味わわないといけませんから」「日本茶でよろしい? お奨めのハーブティーもありますけど」こいしが結子の目を見つめながら訊いた。
「ハーブティーをお願いしようかしら」
「カモミール、ローズヒップとレモンバームがありますけど」こいしはホッとしたように、ハーブの種類を並べた。
「レモンバームをお願いします」
「先にお持ちしましょか?」
「はい」
結子の答をたしかめてから、こいしも厨房に入っていった。
まだ二度目なのに、食堂の中を見まわすと懐かしさがこみ上げてくる。それは故郷の食堂に似ているからという理由だけでなく、これから食べることになる料理を雅也と共有したいからだ。ふと振り返るとそこに雅也がにこにこしながら立っている。結子はそんな夢を見ている。
厨房のほうから漂ってくるのはハーブティーの香りだ。どこか懐かしさをかんじさせる爽やかな香りに、結子は自然と顔をほころばせた。
「ポットも置いときますし、よかったらお代わりしてください」こいしが茶葉の入ったガラスポットと、ミントンのティーカップをテーブルに置いた。
「いい香り。ハーブティーをいただくのは久しぶりなんです」結子が目を細めた。
「『タペストリー』では、ハーブティーを飲まはらへんかったんですね」こいしが結子にたしかめた。
「メニューにあったかなぁ。マカロニグラタンばかりに目が行ってしまって。とりあえずアイスコーヒーを頼んだんだと思います」
こいしの言葉に、結子は首をかしげながら答えた。
「焼きあがるまでに、もうちょっと時間がかかるみたいですし、ゆっくり飲みながら待っててくださいね」
こいしが下がっていくと、結子はティーカップに口を付けた。
「タペストリー」にハーブティーはあったのだろうか。記憶をたどってみたが、どうしても結子には思いだすことができない。だが、こいしはどこか意味ありげな目つきをした。
何かマカロニグラタンと関係があるのかもしれない。レモンバームの香りを胸に吸いこみながら、結子はあの日の「タペストリー」に思いを寄せていた。
そう言えば、カウンターの後ろに今日と同じカップが並んでいたような気がする。結子は手に持ったカップをまわして、つぶさに見つめた。
飲みほして、ポットからお代わりを注いだところに、厨房から出てきた流が、赤いタータンチェックのランチョンマットを結子の前に敷いた。
「えらいお待たせしてますな。しっかり焼いたほうが旨いと思いますんで、もうちょっと待っとぉくれやっしゃ」
そう言って、小走りで厨房に戻っていった流の背中に、あの日の「タペストリー」が重なった。
──時間が少しかかりますけど、お待ちくださいね──そう言って、背中を向けた若い男性は、雅也の子どものころと同じく、少しばかり猫背気味だった。
背中を丸めた雅也が幼稚園に向かう姿を見て、結子は何度も注意したが、夫は気にかけるふうもなく、遺伝だから仕方がない、と言っていた。
「タペストリー」のマスターがきっと雅也に違いないと確信したのは、その後ろ姿を見たときだった。
今も元気に暮らしているのだろうか。見つけてきたと、こいしが言ってくれたのは、きっと雅也が元気で店にいるというサインを送ってくれたのだと思うものの、いくらか不安は残る。
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「ポットも置いときますし、よかったらお代わりしてください」こいしが茶葉の入ったガラスポットと、ミントンのティーカップをテーブルに置いた。
「いい香り。ハーブティーをいただくのは久しぶりなんです」結子が目を細めた。
「『タペストリー』では、ハーブティーを飲まはらへんかったんですね」こいしが結子にたしかめた。
「メニューにあったかなぁ。マカロニグラタンばかりに目が行ってしまって。とりあえずアイスコーヒーを頼んだんだと思います」
こいしの言葉に、結子は首をかしげながら答えた。
「焼きあがるまでに、もうちょっと時間がかかるみたいですし、ゆっくり飲みながら待っててくださいね」
こいしが下がっていくと、結子はティーカップに口を付けた。
「タペストリー」にハーブティーはあったのだろうか。記憶をたどってみたが、どうしても結子には思いだすことができない。だが、こいしはどこか意味ありげな目つきをした。
何かマカロニグラタンと関係があるのかもしれない。レモンバームの香りを胸に吸いこみながら、結子はあの日の「タペストリー」に思いを寄せていた。
そう言えば、カウンターの後ろに今日と同じカップが並んでいたような気がする。結子は手に持ったカップをまわして、つぶさに見つめた。
飲みほして、ポットからお代わりを注いだところに、厨房から出てきた流が、赤いタータンチェックのランチョンマットを結子の前に敷いた。
「えらいお待たせしてますな。しっかり焼いたほうが旨いと思いますんで、もうちょっと待っとぉくれやっしゃ」
そう言って、小走りで厨房に戻っていった流の背中に、あの日の「タペストリー」が重なった。
──時間が少しかかりますけど、お待ちくださいね──そう言って、背中を向けた若い男性は、雅也の子どものころと同じく、少しばかり猫背気味だった。
背中を丸めた雅也が幼稚園に向かう姿を見て、結子は何度も注意したが、夫は気にかけるふうもなく、遺伝だから仕方がない、と言っていた。
「タペストリー」のマスターがきっと雅也に違いないと確信したのは、その後ろ姿を見たときだった。
今も元気に暮らしているのだろうか。見つけてきたと、こいしが言ってくれたのは、きっと雅也が元気で店にいるというサインを送ってくれたのだと思うものの、いくらか不安は残る。
「焼きあがりましたで。火傷やけどせんように気ぃつけてくださいや」湯気の上るグラタンを流が運んできた。
「おんなじ匂いがする」
結子が鼻をひくつかせた。
「どうぞごゆっくり」
一礼して下がっていった流をたしかめてから、結子はグラタン皿を真上から見て写真を撮った。
グラタン皿は独特の形をしている。外側が茶色になっていて、内側が白い器に白いグラタンが盛られ、しっかりと焦げ目が付いたそれは、どう見てもあの日の「タペストリー」と同じだった。敷かれたランチョンマットも同じく赤色だったことは間違いないが、タータンチェックだったかどうかまでは記憶が定かでない。でも「タペストリー」まで行って、再現してくれているのだから、きっと同じだったのだろう。
ひとさじすくって、結子は息を吹きかけて少し冷ましてから口に運んだ。
ゆっくりと嚙みしめると、口の中に懐かしさが一気に広がった。そうだ。この味だ。結子はうっとりと目を閉じた。
「タペストリー」での時間ではなく、結子のまぶたには「キャンドル」のテーブルで向かい合う雅也が映し出されていた。
自らがまいた種だとはいえ、雅也と会えなくなるという哀しみに、張り裂けんばかりの思いを胸に秘めて、最後となるかもしれない時間を過ごした、あのときのこと。
運ばれてきたのがお子さまランチではなく、白一色の地味な眺めの料理だったことに失望した雅也は、口をへの字に結んだまま、真上からじっと皿を見つめていた。
結子はあえて急かすことをせず、雅也に見せつけるようにして、スプーンにグラタンを載せ自分の口に運んだ。じっくりと味わって、顔中にしわを寄せて笑顔を作ると、しぶしぶといったふうに雅也がスプーンを手にした。
──火傷しないように気をつけてね──
年輩のホールスタッフが言葉をかけると、雅也は小さくうなずいて、スプーンに載ったグラタンに何度も息を吹きかけた。
ようやく口に運んで、二度、三度、四度、五度嚙みしめて、雅也はにっこりと笑った。
目を開いて結子はもう一度スプーンですくって、グラタンをじっくりと味わってみる。
「キャンドル」と「タペストリー」が重なった。
やっぱり同じ味だったのだ。はるか昔の銀座と、少し前の静岡とが、今この場所で重なり合う。その不思議を感じながらも、結子はスプーンを止めることなく食べ終えた。
カチャン。空になったグラタン皿にスプーンを置いた音を合図としたかのように、流が暖簾をかきわけて厨房から出てきた。
「どないでした?」
「間違いありません。『タペストリー』で食べたのと同じマカロニグラタンです」結子は白いハンカチで口のまわりを拭った。
「よろしおした」
ホッとしたように、流がほほを緩めた。
「『タペストリー』でレシピをお訊きになったんですか」ぶしつけな問いかけだと思いながら、結子が流に訊いた。
「さすがに、そんな無遠慮なことはようしません。一回食べただけでは分かりませんでしたが、二回食べたら、なんとのう分かりました」「二回食べただけで再現されるなんて、さすがですね」「これが仕事でっさかいに」
流は少しばかり胸を張った。
「わたしでも作れるでしょうか」
「レシピを書いときましたさかい大丈夫やと思います。特別な材料も使うてまへんし、分量を間違えんと、調理時間さえ守ってもろたら、おんなじ味になると思います」流がメモ用紙を結子の前に置いた。
「ありがとうございます」
結子はそれをていねいに四つに折りたたんだ。
「あのお店のことを、少しお話しさせてもろたほうがよろしいやろな」流の言葉に結子は大きくうなずいてから、中腰になって向かい合う椅子を奨めた。
「ほな失礼して」
帽子を取って、流がパイプ椅子に腰を落とした。
「お聞かせください」
結子は姿勢を正して、唇をまっすぐに結んだ。
「ハーブティーのお代わりを置いときますね」こいしがティーポットを入れ替えて、流の後ろに立った。
「ふつかも続けて、それもええ歳したァ′ジがマカロニグラタンを食べにきたら、誰でも不思議に思いますわなぁ。ふつか目に食べ終わったころに、マスターが話しかけてきはったんです。マカロニグラタンがそんなにお好きなんですか、て言うて」「なんてお答えになったんです?」
テーブルに覆いかぶさるようにして、結子が流の言葉を待った。
「つい刑事時代のクセがでましてな」
流は苦笑いを浮かべながら続ける。
「長い時間張り込みしとると、不審がられることもちょいちょいありまして、怪しまれてしもたら、刑事失格ですけどな。そんなときはとっさに口から出まかせをいいますんや。
それと同じですわ。昔、子どものころに、母親に連れられて洋食屋で食べたんとおんなじ味で、懐かしいなって、とうそをつきました」「そしたら雅也は? いえ、そのマスターの方はなんと?」結子は鼻息を荒くした。
「小川雅也さんは、自分も同じやと言うて、握手を求めてきはりました」小川雅也の名を記したショップカードを流から受け取って、結子は見る間に目を潤ませた。
「やっぱり雅也はちゃんと覚えてくれてたんだ」感慨深げな結子の表情が落ち着くのを待って、流は重そうに口を開いた。
「ただ……」
「は?」
結子の表情に薄雲が浮かんだ。
流の後ろに立つこいしは天井を仰いだ。
「雅也さんいわく、父親に連れて行ってもろたんやと」流の言葉に、結子の面ざしは厚い雲に覆われ、こいしは大きなため息をついた。
「銀座にある老舗の洋食屋へ父親が何度も連れて行ってくれて、チキンマカロニグラタンを食べさせてくれた。その思い出の料理を再現している。そう言うてはりました」流は結子の表情をたしかめながら、ゆっくりと話した。
「そうでしたか」
心をどこかに置いてきてしまったような表情で、結子が声を落とした。
「あなたがお連れになった店で食べさせはったグラタンを、息子さんはよっぽど気にいらはったんでしょうな。きっと父親にせがまれたんやと思います」夫に店の名を教えたことを、今になって結子は後悔した。自分との思い出を夫の手によって汚されてしまった。そんな思いで結子は悔しさに顔を歪めた。
「雅也ははっきり銀座だと言ったんですね。父親が連れて行った店のことを」険しい表情で問いつめる結子に、流は無言でうなずいた後、追い打ちをかけるように口を開いた。
「それから、『タペストリー』という店の名前ですけどな」結子は気を取り直したように、流の目を見た。
「このカップが由来やそうです」
流がミントンのカップに目を遣った。
「これが?」
結子がティーカップを手に取った。
「わしも知らなんだんですけど、ミントンっちゅう会社のハドンホールという製品やそうで、ハドンホール城にかけられてたタペストリーをモチーフにしたデザインなんやそうです。雅也さんの大のお気に入りらしいて、そこから店の名前を付けたと言うてはりました」
「そうですよね。わたしが聴いていた音楽を、まだ幼かった雅也が覚えているはずないですよね」
結子は自分に言い聞かせるように、何度もうなずいた。
今回の結果を結子に伝えるこの時間は、こいしにとって、次々と高波が襲ってくるような、かつてない重苦しいものになった。
結子の淡い期待は、ことごとく打ち破られた。
傷口に塩を塗る、そんな言葉が浮かんだ。
依頼された食を捜してきて、それを再現する。その後はいつも穏やかな時間が流れていた。多くは懐かしさだが、その根っこには必ずといっていいほど、前を向く明るさがあった。過去を振り返り悔いることはあっても、それは未来へとつながるものだったはずだ。
依頼人の思い違い。仮にそれが事実だったとしても、言わずに済ませることはできなかったのか。
「でも、きっかけはわたしが作ったんですよね。わたしが最初にあのグラタンを食べさせたから、あの子の好物になって、そして静岡のお店で作っている。そう、わたしがいたから……」
目に涙をためながらも、結子は気丈に振るまおうとしている。
「そうそう、もうひとつ言い忘れてました」
流が何を言いだすのか、結子だけでなく、こいしも固唾をのんだ。
「これに見覚えはありませんか?」
タブレットをテーブルに置いて、流が一枚の写真を見せた。
「これは……」
結子はタブレットに顔を近づけ、大きく目を見開いた。
「あなたがこの間『タペストリー』を訪れた際、お店のコースターの裏に走り書きされたもんやないですか?」
流の言葉に、結子は驚いたように首を縦にふった。
「やっぱりそうでしたか」
「これはどこで?」
結子がタブレットを手に取った。
「『タペストリー』の壁に、額に入れて飾ってありましたんや」「額に入れて?」
「はい。雅也さんの話やと、お客さんの忘れもんなんやそうです。最初はただの走り書きやと思うてはったらしいけど、なんとなく自分を励ましてくれてる詩に思えてきて、額装して店に飾ってみはったそうです」
「なんだかはずかしいです」
結子がほほを赤らめた。
「雅也さんは毎朝、仕事を始める前、この五行を声に出して読んではるんやそうです。めげそうになったときは何度も読み返すて言うてはりました」ディスプレイを見つめる結子の目がきらりと光った。
「でも、これがわたしの書いたものだと、どうして?」「この前お越しになったときに、これをお忘れになりましたやろ。おんなじ字やさかいにピンときましたんや。コースターが入ってるやなんて、変わった額やなぁと思うて、訊いてみてよかったですわ」
流の言葉にこいしは、五行歌が書かれた紙ナプキンを結子に渡した。
「思いついたらすぐに書き留めるのがクセになってしまっていて」照れたように小さく笑うと、結子は紙ナプキンを小さくたたんだ。
「子どものころの記憶は曖昧なもんです。父親が連れて行ってくれたか、母親が食べさせてくれたか。そんなことどっちでもええやないですか。それより立派なおとなになって、心が通じ合うことのほうが、よっぽど大事やとわしは思います」向かい合う結子の目を、流がまっすぐに見つめると、こいしがこっくりとうなずいた。
「そう言うたら、子どものころのお母ちゃんのことは、あんまり思いださへんわ。おとなになってから、お母ちゃんに言われたことは、しょっちゅう思い返すけど」こいしの言葉をじっと聞いていた結子は、晴れやかな笑顔をふたりに向けた。
「ありがとうございます。捜していただいて本当によかったです」「よろしおした」
流が笑顔を返した。
「捜していただかなかったら、わたしはずっと過去の思い出ばかりを追いかけていたと思います。もう昔には戻れないんですものね」
「過去がどうやとかは、もうよろしいがな。人間は今が大事なんですわ。歳月人を待たず、っちゅう言葉があります。一日一日を無駄にせんように。そのためには昔のことにこだわらんことです」
「はい。肝に銘じます」
結子がきりっと顔を引きしめた。
「えらそうなことを言うてすんませんな。わしも自分に言い聞かせてますので、かんにんしてくださいや」
「何をおっしゃいますか。どうお礼を申し上げていいか」立ち上がって結子が腰を深く折った。
「頼まれたもんを捜すのがわしらの仕事ですさかい、それに関わりがありそうなもんは見逃しまへん」
流が笑みを浮かべた。
「この前のお食事代と併せてお支払いを」
結子がベージュの長財布を出した。
「特に料金は決めてませんねん。お気持ちに見合うた金額をこちらに振り込んでください」
こいしがメモ用紙を結子に手渡した。
「承知しました。名古屋に戻りましたらすぐに」メモ用紙を財布にしまって、結子は姿勢を正した。
「今が一番寒い季節やさかい、気ぃつけて帰ってくださいね」敷居をまたいだ結子にこいしが声をかけると、トラ猫が駆け寄ってきた。
「よく太った猫ちゃんだこと。飼い猫ですか?」結子が屈かがみ込んだ。
「ひるねて名前付けてるさかい、飼い猫と言えんこともないんですけど」こいしが流を横目で見た。
「美味しいものをたくさん食べてるんでしょ。ちょっとは運動しなきゃダメよ」結子はひるねの腹をなでてから、ゆっくり立ち上がった。
正面通を西に向かって歩く結子の足を、流の声が止めた。
「コースターを忘れて行った女性にお礼を言いたいから捜してる。雅也さんがそう言うてはったんで、心当たりがあるさかい伝えておきますと言うときました。えらい喜んではりましたで。あんじょう頼みます」
一礼した流に向かって、結子が同じ仕草を返し、早足になって、やがて姿を消した。
「お父ちゃん」
こいしが声を荒らげた。
「なんや、大きい声出してからに」
「なんで五行歌のことをうちに黙ってたん。途中まではらはらしたやんか」「忘れとっただけや」
悠然とした様子で、流が店に戻り、こいしもそれに続いた。
「うちがどないあせったか、分かってるん?」こいしの憤りはおさまらない。
「どないもこないも、わしは捜してきたことを、ありのままに話しただけやないか」カウンター席に腰を下ろして、流はまた新聞を広げた。
「ほんまにもう。どんな歌が書いてあったんか、先に教えてくれんと」こいしがタブレットのディスプレイをスワイプして写真を捜した。
「『タペストリー』っちゅうフォルダに入っとる」紙面から目を離さず、流が言った。
「──いとしき人よ 真白き 真綿のような 真心を いついつまでも──。思うたことをそのままコースターの裏に書かはったんや。ええなぁ。うちもいっぺん言われてみたいわ。いとしき人よ、て」
こいしがタブレットを胸に抱いた。
「いっつも言われとるやないか」
流が仏壇の横の遺影に目を遣った。
「そやった。お母ちゃんが言うてくれてるんやった。ありがとう、お母ちゃん」こいしが手を合わせると、流が黙礼した。