第一話 親子丼
1
のぞみ号のドアが開いた瞬間、熱風が頰をなでた。
九月半ばの京都は、まだ夏の続きなのだと思い知らされた。
ホームに降り立った黒くろ沢さわ紗さや香かはうだるような暑さに顔をゆがめ、額から流れ落ちる汗を白いタァ‰ハンカチで拭った。
エスカレーターを降りた紗香は、コンコースの柱の陰に立ち、どの改札口から出ればいいのか迷っている。
ベージュのノースリーブのワンピースの上に羽織った、薄手の茶色いカーディガンを脱いで、それを黒いトートバッグに仕舞いこんだ。ハンカチを頰に当てながら、左右ふたつの改札口を交互に見比べて、紗香は三年前の記憶を辿たどった。
二十八歳の秋に小お埜の寺でら修しゅう二じと一緒に来たときは、だまって修二の後ろを付いてゆくだけでよかった。何もかもを修二にまかせておけば、迷うことなく目的地に辿りつけた。観光名所もスムーズに見物できたし、頃合いの時間になればホテルへと案内してくれた。
ホテルの窓からは五重塔が真正面に見え、その向こうには山が広がっていて、ことのほか夕ゆう陽ひがきれいだった。
そんなことを思いだしながら、紗香は八条口側の中央口改札に向かい、年輩の駅員に目的の場所を告げた。
「ここに行きたいのですが、改札口を出てどう行けばいいですか?」「間あい之の町まち通の正しょう面めん通西入る……。お東さんの辺りやなぁ。ここから出てもええけど、あっちの東のりかえ口から出て、地下を通っていったほうが分かりやすいな」
年輩の駅員は反対側の改札口を指さし、目的地までの道筋をていねいに教えてくれた。
言われたとおりに地下へ降りた紗香は、地下東口を出て、道なりにまっすぐ北へ歩いた。
地下通路の時計は午後一時をまわったばかりだ。両側のレストランからはいい匂いが漂ってくる。空腹を覚えてはいるが、先を急ぐ気持ちが紗香の歩みを早めた。
京都駅の地下はこんなに長く延びているのかと驚きながら歩くと、やがて地下通路は行き止まりになった。
立ち止まってトートバッグを床に置いた紗香は、スマートフォンを耳に当てた。
──突き当たったら、右側の出口から階段を上って地上に出てください。そこが烏からす丸ま七条の交差点。信号を渡って烏丸通をまっすぐ北へ行って、ふた筋目が正面通やさかい、それを右に行ったら間之町通に行き当たる。その辺でもういっぺん訊きいてもらえまっか──
録音しておいてよかった。知らない街で道案内されても、すぐに忘れてしまう。再生した音声をたしかめながら、紗香は目的の場所に近づいた。
モルタル造の二階屋。看板もなく暖の簾れんもかかっていない。店の特徴を記したメモどおりの建物を見つけた紗香は、息を整えてから引き戸に手をかけた。
「こんにちは」
おそるおそるといったふうに、ゆっくりと引き戸を開けた紗香は、顔だけ敷居をまたがせた。
「いらっしゃい」
ジーンズに白いシャツ。黒いソムリエエプロンを着けた若い女性が振り向いた。
「こちらは『鴨かも川がわ探偵事務所』でしょうか」紗香は視線を目まぐるしく移動させながら訊いた。
「ええ。そうですけど」
一瞬の間をおいて女性が答えた。
「よかった。食を捜していただきたくて参りました。黒沢紗香と言います」中に入りこんで、紗香は後ろ手に引き戸を閉めた。
「『鴨川探偵事務所』の所長をしてます鴨川こいしです。どうぞおかけください」こいしがパイプ椅子を奨すすめた。
「『料理春秋』の一行広告を拝見しても場所が分からなかったので、編集部に電話して教えてもらいました」
座りこんで紗香がタァ‰ハンカチを額に当てた。
「ご縁がありましたな」
暖簾のあいだから、料理人らしき男性が顔を覗のぞかせた。
「どちらからお越しになったんです」
「東京からです」
紗香が短く答えて、こいしに顔を向けた。
「父の鴨川流ながれです。お父ちゃんは『鴨川食堂』の主人をしてますねんよ」「やっぱりこちらは食堂だったんですね。探偵事務所にしてはヘンな造りだなぁと思ってたんです」
紗香がぐるりと店の中を見まわした。
「お腹なかの具合はどないです。おまかせでよかったらお昼をお出しできますけど」「いいんですか? 是非お願いします。実はお腹ぺこぺこなんです」紗香は大げさにお腹を押さえた。
「すぐにご用意します。しばらく待っといてください」流が暖簾を元に戻した。
「京都へはよう来はるんですか」
こいしが紗香の前に冷茶を置いた。
「今回で京都は三度目です。この前来たときから三年経たちました」冷茶のコップを左手に持って、紗香が天井に目を遊ばせた。
「ひとり旅がお好きなんですか」
こいしが訊たずねると、紗香はいくらか不満そうな顔つきになった。
「今回はひとりですけど、三年前は彼と一緒でした。その前はネットの友だちグループでした」
「そうやったんですか。うちはほとんどひとり旅とかしたことないんです」「おきれいな方だから、きっとよくおもてになるのでしょうね」紗香の言葉は少なからず毒をふくんでいた。
「そうやのうて、家族旅行しかしたことないんです」こいしの言葉を聞いた紗香はあきれ顔になった。
「結婚されてるんですか」
「そんなわけありませんやん。彼氏もいてへんのに」こいしがカウンターを念入りに拭いた。
「お父さまがうるさい、とかですか?」
紗香は暖簾の奥に目を遣やりながら、こいしの耳元でささやいた。
「まぁ、それもあるかもしれませんけど」
同じほうを見ながら、こいしが肩をすくめた。
「そろそろ料理が上がりますけど、お酒はどないです?」流がその暖簾から顔を覗かせたのに、紗香とこいしは顔を見合わせて笑った。
「あまりお酒は飲めないのですが、ビールを少しだけいただきます」「暑いときはやっぱりビールやね」
こいしが冷蔵庫から瓶ビールを取りだした。
「肝心のお話をしなけりゃいけないのですから、酔っぱらわないようにしないと」コップに注つがれたビールを、紗香はひと口だけ飲んだ。
「お待たせしましたな」
流が伊万里焼の大皿を紗香の前に置いた。
「すごいご馳ち走そうじゃないですか。写真とか撮っても大丈夫ですか」紗香が目を輝かせて、トートバッグからスマートフォンを取りだした。
「どうぞどうぞ」
こいしがビールを注ぎ足した。
「簡単に料理の説明をさせてもらいます。左上は鱧はもの南蛮漬けです。ネギと鱧を一緒に食べてください。その横は秋あき茄な子すの田楽。胡ご麻ま味み噌そに実み山ざん椒しょうを砕いたんを混ぜて茄子に塗ってます。右上はぶどうのゼリーを巻いた鴨ロースです。粒マスタードを付けて召し上がってください。その下の猪ちょ口こに入ってるのは鱚きすの昆こ布ぶ〆じめで三つ葉を巻いたもんです。ポン酢をかけてますので、そのままどうぞ。その左のガラス皿には豆とう腐ふ餻ようを載せとります。ちょびっとずつ食べてください。隣は鰻うなぎの白焼き。柚ゆ子ずこしょうを付けて食べてください。その下は馬のモモ肉の竜田揚げ。味が付いてますさかいそのままどうぞ。その右の小鉢に入っとるのは小芋の炊たいたんの鶏とりそぼろ和あえ。右下の端っこは小こ海え老びのあられ揚げ。
カレー粉を振ってますんで、そのまま食べてください。あとでご飯をお持ちします」よどみなく料理の説明を終えて、流が小さく一礼した。
説明にいちいちうなずいていた紗香だが、写真を撮るのに夢中で、聞いた内容はほとんど頭に入っていないようだ。流が厨ちゅう房ぼうに戻っていったあとも、ずっと写真を撮り続けている。
「そろそろ食べはったほうがええと思うんですけど」おそるおそるといったふうに、腰を引いてこいしが小声で言った。
「すみません。クセになってしまっているので、ついつい」そう言いながらも、紗香はスマートフォンを手放さずにいる。
「やっぱりフェイスブックとかに投稿しはるんですか」「いえ、わたしはインスタ派なんですよ。美お味いしいものを食べるときは必ずアップします」
料理の全景を写真に収めた紗香は、ようやくスマートフォンをテーブルに置いた。
「適当なとこで声かけてください。ご飯をお持ちしますんで。どうぞごゆっくり」丸盆を小脇にはさんで、こいしが厨房に入っていった。
「どれから食べようかなぁ」
箸を持ったまま、紗香は大皿の真上から料理を眺めまわした。まさかこれほどのご馳走が出てくるとは思いもしなかった。
さんざん迷ったあげく、最初に箸を付けたのは鰻だった。紗香は鰻の白焼きに柚子こしょうを少しだけ載せて口に運んだ。
ほんのりあたたかい鰻は塩味が付いていて、そこに柚子こしょうの香りと辛みが加わって、これまで食べたことのない味わいだ。
いっときは結婚まで考えたのに、ささいなことで別れてしまった修二の好物が鰻だったことを思いだした。修二がこの鰻を食べたらどんな感想を口にするだろうか。思いを巡らせてはみたが、修二の言葉は浮かんでこない。
ビールで喉を潤してから、次に箸を伸ばしたのは小海老のあられ揚げだった。
揚げ立てなのか、これもまだあたたかい。あられの塩味とカレー粉の風味が絶妙にマッチしている。意識したわけではないが、カレーも揚げ物も修二の好物だ。紗香の口元にかすかな笑みが浮かんだ。
ビストロのカウンターで隣り合ったことが、きっかけとなって付き合うようになった修二との思い出は食にまつわることばかりだ。
一緒に旅行した沖縄で食べた豆腐餻も、紗香は好んで食べたが修二は苦手だったようで、ひと口だけで残していたことを思いだす。
そのときとは比べようがないほど、まろやかな味でなおかつコクがある豆腐餻だ。これなら修二でも食べられるのではないだろうか。
「ビールのお代わりはどうしましょ」
こいしが厨房から出てきた。
いつの間にかビール瓶が空になっていたのだ。大皿の料理はまだ半分以上残っている。
「少しだけでいいのですが冷酒をいただけますか」紗香は笑顔を斜めに傾けた。
「小ぶりのグラスにしときます」
こいしが笑顔を残して厨房に戻った。
改めて大皿に目を遣って、少しばかり紗香は考えこんでいる。あとでご飯をと言っていたが、それは白ご飯のことだろうか。それとも炊き込みご飯なのか。それによって今食べるものと、あとに取っておくものとを分けておきたい。そんなことを教えてくれたのも修二だ。
「お待たせしました。『徳次郎』ていう伏見のお酒ですけど、うちが今一番気に入って飲んでるお酒ですねん」
こいしが信しが楽らき焼のぐいのみを紗香の前に置いた瞬間、馨かぐわしい香りが鼻先をかすめた。
「このあとのご飯ってどんなご飯ですか」
紗香が単刀直入に訊いた。
「今日は鮎あゆご飯を炊いてはります。子持ちの落ち鮎を塩焼きにして、その身をお米と一緒に土鍋で炊き込んであるんで、美味しいですよ」「愉たのしみにしてます。あと十分ぐらいしてからお願いします」腕時計を見ながら紗香がこいしに言った。
おかずと一緒に食べる白ご飯より、かやくご飯のような味の付いたご飯だけをひたすら食べるほうが好きな紗香には、何より嬉うれしい話だった。
食べるペースを少し速めた紗香は、時間どおりに料理を食べ終えてご飯が出てくるのを待った。
「ぼちぼちお持ちしてよろしいかいな」
上半身だけを暖簾から覗かせて流が訊ねると、紗香は笑顔を向けてうなずいた。
先に出てきたこいしがテーブルに鍋敷きを置き、そのあとに続いた流は小さめの土鍋を両手で運んできた。
「まずは炊き立ての香りを愉しんでください」流が土鍋の蓋を取ると、芳ばしい香りが立ち上った。
「ええ具合におこげができとると思いますわ」流が湯気を鼻で吸い込み、満足そうに目を細めた。
「いただきます」
紗香がしゃもじで鮎ご飯を掬すくった。
鮎がまるごと載っているのかと思ったが、身をほぐして炊き込んであるようで、見た目には白ご飯とさほど変わりはなく、ところどころ皮の切れ端が散らばっているといったふうだ。
大ぶりの飯めし茶ぢゃ碗わんに七分目ほどよそって、紗香は土鍋の蓋を元に戻した。
紗香は先に飯茶碗の鮎ご飯をひとしきり撮ったあと、土鍋を真ん前に置いて、真上からスマートフォンをかまえた。
まるでそれが食事前の儀式であるかのように、紗香は蓋を取ったり戻したりしながら、何度もシャッターを切る。出来栄えが気になるのか、それをディスプレイに映し出し、うなずいたり、首をかしげたりを何度か繰り返し、ようやく鮎ご飯を口に運ぶころには冷めはじめていた。
「あさりの味噌汁をお持ちしました」
こいしが椀わんを土鍋の横に置いた。
「どの料理もインスタ映えしますね」
椀の蓋を取って紗香がスマートフォンを構えた。
「そないようけ写真撮らはったら、あとの整理が大変なんと違います?」「そうなんですよ。だからこうやって撮ってからすぐにアルバムを作ってるんです」紗香がこいしにスマートフォンの画面を見せた。
「まめな性格やないと、絶対こんなんできませんわ」こいしが肩をすくめて厨房に戻っていった。
テーブルに置いたスマートフォンを横目で見ながら、紗香は鮎ご飯のお代わりもし、あさりの身を殻からはずして食べ、味噌汁を飲んだ。
気が付くと土鍋にはおこげご飯が残っているだけだった。紗香はその写真も撮り、しゃもじでこそげて土鍋をさらえた。
しっかり味わっているようで、気もそぞろのようでもある。店で食事をする紗香はいつもこんなふうだ。
「食事が終わらはったら声をかけてください。奥でこいしが待っとりますので」流は京焼の急須と湯ゆ吞のみを土鍋の横に置いた。
「すみません。お待たせしてるんですよね。急いで食べます」紗香は箸をせわしなく動かしはじめた。
「そない急いでもらわんでもよろしいんでっせ」苦笑いしながら、流が湯吞にお茶を注いだ。
「ちょっとそのままにしてもらえますか」
紗香はあわててスマートフォンを手にして、流の手元に向けた。
「こんなとこまで撮らはるんでっか」
目を見開いた流だが、紗香に言われるがまま、お茶を注ぐポーズを取った。
「このお店って、画えになるところがたくさんあるので嬉しいです」アングルを変え、画角を変えて、十回近くシャッターを切った紗香は満足げにスマートフォンをテーブルに置いた。
「なんぞそういうお仕事なさってますのか」
急須をテーブルに置いて流が訊いた。
「いえ。まったくの趣味です。商事会社に勤めてますし」両手で持った湯吞を、紗香がゆっくりと傾けた。
「えらい時代になったもんや」
流が左右に首を傾けた。
「ご馳走さまでした。じゃあご案内いただけますか」トートバッグを持って紗香が立ち上がった。
流が先を歩き、少し遅れて紗香が歩く。長い廊下を進むごとに、ふたりの距離が広がっていった。
「おんなじようなことを、やってらっしゃるじゃないですか」廊下の両側にびっしり貼はられた写真の前で、紗香が何度も立ち止まる。
「そう言うたらそうですな。わしのは自分が作った料理だけですけど」流が振り向いた。
「これ全部お作りになったんですか。凄すごいなぁ。尊敬します」料理写真をつぶさに見る紗香は、ほとんど前に進まない。
「そのときそのとき、気まぐれに作ってまっさかいに、レシピてなもんを残してまへんのや。覚え書きみたいなもんですわ」
「帰りにまた、じっくり拝見します」
廊下の突き当たりにあるドアを目指して歩く流に、ようやく紗香が追いつく。
流がノックするとドアが開き、黒のパンツスーツに着替えていたこいしが出迎えた。
「あとはこいしにまかせますんで」
言い置いて、流は廊下を戻っていった。
「簡単でええので書いてもらえますか」
向かい合うふたりの間にあるローテーブルに、こいしがバインダーを置き、ふたつのグラスにポットの冷茶を注いだ。
バインダーを膝の上に置いて、紗香はペンを止めることなく、すべての項目を書き終えてこいしに手渡した。
さっと目を通してテーブルに置いたこいしは、その横でノートを広げた。
「黒沢紗香さん。京都の親子丼を捜してはるんですね。三年前にお店で食べはった。お店の場所も名前も分からへん。まぁ覚えてはったら、わざわざこないしてうちに頼まんでもええんやし」
こいしはバインダーから紗香に視線を移した。
「わたしはいつも誰かに頼りっきりなんです。旅行なんかの行き先も、家族か友人の誰かが決めて、それについてゆく、って感じです。だいたいは今話題のところとか、人気があるところ。食べるお店も同じです。テレビとか雑誌とかで有名なお店があるじゃないですか。そういうのを見つけて、誰かに連れていってもらう」紗香はまるでひとり言のように語った。
「たしか三年前は、彼と一緒に京都に来たて言うてはりましたよね、そのお店も彼に連れていってもらわはったんやね」
こいしがペンをかまえた。
「連れていってもらった、というより、連れていかれた、というほうが正しいのですが」紗香の顔が急に曇りはじめた。
「いやいや行かはった、ていうことですか?」こいしが紗香の顔を覗きこんだ。
「ほかに行きたい店があったんです。『南禅寺』っていうお寺の近くにあって、京都で一番美味しい親子丼の店だ、って聞いてたので。そこに連れていって、って彼に頼んだんです」
「この店のことですよね」
こいしがガイドブックの地図を開いて、店の名前を赤でマーキングした。
「はい、ここです。超有名なお店だからお昼は長い行列ができて、二時間くらい待たないと食べられないんです。って、とっくにご存じですよね。でも開店前に並べば十五分くらいでお店に入れると聞いたので、お店が開く三十分前に行ったんです」紗香が冷茶のグラスを傾けた。
「ひとつお訊きしたいんですが、その彼とはもう別れはったん?」「はい。京都から戻って、しばらくしてから」「そうやわね。まだ付き合うてはったら、彼に訊いたら分かることやもんね」こいしがノートにペンを走らせた。
「別れる原因になったのがその親子丼なんです」紗香は憮ぶ然ぜんとした表情でそう言った。
「その話、もう少し詳しいに聞かせてください」こいしがペンをかたく握りしめた。
「彼は小埜寺修二っていうんですが、修二は並んだりするのが苦手なんです。だから最初はこの店には行きたくない、って言ってたんです」紗香は地図の赤い丸印を指で押さえた。
「うちもあんまり行きたないなぁ。長い時間並んでまで……」こいしが首をかしげた。
「開店前に行けば短い待ち時間で済むからって言って、渋る修二を無理やり引っぱっていったんですが、ちょうど連休だったこともあって、着いたときにはもうすごい行列で」そのときを思いだしたのか、紗香は悔しそうな顔をした。
「彼、怒らはったでしょう」
こいしが眉をしかめた。
「修二は怒らない人なんです。声を荒らげたりしたのを見たこともありませんし、このときも笑ってました。ほら言っただろ、って感じで」「修二さんてええ人やないですか」
こいしが微笑ほほえんだ。
「一時間半待ちって聞かされて、修二はわたしの腕をとって、さっさと歩きだしました。
わたしは待ってでも食べたかったのですが、泣く泣くあきらめました。後ろ髪を引かれる思いってこういうことなんだと思いました」
「うちも修二さんと一緒やな。なんぼ美味しいていうても、親子丼一杯のために一時間半はよう待たんわ」
「そうですか? たった一時間半待てば、京都で一番人気のある親子丼が食べられるんですよ。それくらいの時間をつぶしたからって、大したことじゃないと思うんですけど」紗香が口をとがらせた。
「紗香さんが食べたかった親子丼は、彼がいやがらはったので、食べられへんかった、ということやね。でも彼と別行動して自分だけ残って食べるていうこともできたんと違います?」
こいしはボールペンをしきりにノックしている。
「何もかも修二にまかせっきりでしたから、そのあとひとりでどうすればいいか、自信がなかったんです。ホテルから新幹線の切符から、何から何までぜんぶ修二がやってくれてたので」
「ええなぁ、そんな彼。お姫さま状態ですやん」「修二と一緒のときは、それが当たり前だと思ってましたから」紗香が涼しい顔をした。
「確認やけど、紗香さんが捜してはるのは、その食べられへんかった店の親子丼と違ちごうて、いやいや彼に連れていかれたお店の親子丼なんですね?」こいしが紗香の顔を真正面から見つめた。
「はい」
紗香は視線を外して、短く答えた。
「そのお店を捜すのにヒントになるようなことてありますか」こいしは仕事に徹することにした。
「さっきの地図を見せてもらえますか」
こいしは紗香に向けて地図を広げた。
「ここがあのお店で、ここからしばらく歩いて……、そうそうこの川に沿って歩きました。そしたら広い通りにでて、バスに乗って。三十分くらいだったかなぁ。お腹減ってる? って修二が訊いたので、まだ減ってないって言って。だったらと修二がお寺へ連れていってくれたんです」
紗香の指先はバスに乗ったというところで止まっている。
「川て疎水のことなんや。『仁王門』の辺やね。ここはようけバスが通ってるし、けど、どっちへ行ったんやろ。北か南か」
こいしは地図をにらみながら、何度も首をかしげた。
「そのお寺を見て回って、お腹が空すいてきたので近くのお店に入ったんです。そうそう、そのときのお寺の写真があるはずです」
紗香がスマートフォンを操作して写真を捜しだし、こいしに画面を見せた。
「これで分かります?」
「どこのお寺やろ。見たことない感じやなぁ。お父ちゃんやったら分かるかもしれんけど」
「こいしさんのアドレスを教えてもらったら送っておきますけど」「これ一枚だけですか?」
「ええ。特に有名なお寺ではなかったので」
「そや。その店の親子丼の写真は? 食べるもんの写真はきっちり撮ってはるでしょ」さっきの様子を思い浮かべて、こいしは目を輝かせた。
「撮る気がしなかったんです。京都に来る前からインスタ友だちのみんなには、あの人気のお店に行くって言いふらしてましたから、名もない食堂の親子丼の写真なんか投稿しても恥ずかしいだけなんです」
紗香は冷めた顔でスマートフォンを操作した。
「美味しいかどうかやのうて、その写真をお友だちがええて言うてくれはるかどうか、が大事なんやね」
こいしは言葉に精いっぱいの皮肉を込めた。
「間違っているってことはよく分かっているんです」紗香はローテーブルに目を落とした。
「いつから、こんなふうに? いえ、責めてるんやないですよ。なんかきっかけがあったんかなぁと」
「わたしって、子どものころから友だちって、ほとんどいなかったんです。引きこもりってほどではないんですが、人付き合いが苦手なので、いつもひとりでした」「ぜんぜんそんなふうには見えませんけど」
こいしが小首をかしげた。
「高校、大学、ずっとそんなでした。会社勤めをするようになって、ますますひどくなりました。同僚とのうわべだけの付き合いもいやだったけど、上司との付き合い� 「はい」
紗香は視線を外して、短く答えた。
「そのお店を捜すのにヒントになるようなことてありますか」こいしは仕事に徹することにした。
「さっきの地図を見せてもらえますか」
こいしは紗香に向けて地図を広げた。
「ここがあのお店で、ここからしばらく歩いて……、そうそうこの川に沿って歩きました。そしたら広い通りにでて、バスに乗って。三十分くらいだったかなぁ。お腹減ってる? って修二が訊いたので、まだ減ってないって言って。だったらと修二がお寺へ連れていってくれたんです」
紗香の指先はバスに乗ったというところで止まっている。
「川て疎水のことなんや。『仁王門』の辺やね。ここはようけバスが通ってるし、けど、どっちへ行ったんやろ。北か南か」
こいしは地図をにらみながら、何度も首をかしげた。
「そのお寺を見て回って、お腹が空すいてきたので近くのお店に入ったんです。そうそう、そのときのお寺の写真があるはずです」
紗香がスマートフォンを操作して写真を捜しだし、こいしに画面を見せた。
「これで分かります?」
「どこのお寺やろ。見たことない感じやなぁ。お父ちゃんやったら分かるかもしれんけど」
「こいしさんのアドレスを教えてもらったら送っておきますけど」「これ一枚だけですか?」
「ええ。特に有名なお寺ではなかったので」
「そや。その店の親子丼の写真は? 食べるもんの写真はきっちり撮ってはるでしょ」さっきの様子を思い浮かべて、こいしは目を輝かせた。
「撮る気がしなかったんです。京都に来る前からインスタ友だちのみんなには、あの人気のお店に行くって言いふらしてましたから、名もない食堂の親子丼の写真なんか投稿しても恥ずかしいだけなんです」
紗香は冷めた顔でスマートフォンを操作した。
「美味しいかどうかやのうて、その写真をお友だちがええて言うてくれはるかどうか、が大事なんやね」
こいしは言葉に精いっぱいの皮肉を込めた。
「間違っているってことはよく分かっているんです」紗香はローテーブルに目を落とした。
「いつから、こんなふうに? いえ、責めてるんやないですよ。なんかきっかけがあったんかなぁと」
「わたしって、子どものころから友だちって、ほとんどいなかったんです。引きこもりってほどではないんですが、人付き合いが苦手なので、いつもひとりでした」「ぜんぜんそんなふうには見えませんけど」
こいしが小首をかしげた。
「高校、大学、ずっとそんなでした。会社勤めをするようになって、ますますひどくなりました。同僚とのうわべだけの付き合いもいやだったけど、上司との付き合いなんて毛嫌いしてました。だから男性とのお付き合いもあるわけないですし、親が本気で心配してましたね」
紗香の語り口はどこか他ひ人とごとのように聞こえる。それはしかし、客観的という言葉がふさわしいとは思えない。
「友だちなんか要らない。本当にそう思っていたのじゃなくて、ただの強がりだったって分かったのは、SNSを始めて急激にお友だちの数が増えたときでした」紗香の頰に赤みがさした。
「友だちていうても、顔もみたことない人ばっかりと違うんですか」こいしはわざと意地悪い言葉を投げた。
「最初はそうなんですけど、何度かやり取りするうちに、リアルなお友だちになるんです」
紗香はいくらか自慢げに言った。
「それて怖いことないですか。ネットだけやったら、どんな人なんかまったく分かりませんやん」
こいしはあくまで否定的だ。
「友だちの少ないわたしには、少しくらい怖い人でもよかった。わたしが投稿したらすぐコメントを返してくれて、まるでそこにいるみたいに会話ができる。それがひとりやふたりじゃない。何人もの人がわたしが投稿した写真をほめてくれるんです」紗香の話はまるで理解できないが、食捜しとは直接つながることでもない。こいしはつとめて冷静に次の質問をぶつけた。
「お話はよう分かりました。捜してはる親子丼に戻りますけど、そのお寺から歩いてお店に行って、そのあとどうしはったんですか?」「あずけていた荷物をホテルに取りに戻って、それから新幹線に乗って帰りました」「お店からそのホテルまでは歩いて?」
「だったと思います。そんなに遠くなかったような」「ホテルから京都駅までも歩いて」
「行きたかった店に行けなかったことを、ずっと引きずっていて、かなり気持ちがブルーになっていたので、記憶があいまいなのですが」紗香は声を沈ませた。
ただそれだけの理由で、気もそぞろになるなど、こいしには想像もつかないが、記憶にないものを無理やり引っ張り出すと、かえって混乱しそうだ。
実際に捜し出すのは流だとはいえ、あまりにもヒントが少ない。ほかに何か糸口はないのだろうか。
「なんでもええので、そのときのことで覚えてはることがあったら教えてください」こいしがペンを持って、両膝を前に出した。
「京都駅に着いて、最初の日のことだったら写真もたくさん撮ったし、いろいろ覚えています。『清きよ水みず寺でら』の舞台、『金閣寺』、『二条城』、鴨川……。でも二日目のことはほとんど覚えていないんです」
紗香は思い出を辿っているようだ。
「ホテルは? そのお店はホテルの近くみたいなんやけど」「きれいなホテルでしたよ。朝ごはんも美味しかったし、眺めもよかったし……、そうそう、部屋の窓から五重塔が見えました」
「五重塔? どこのお寺の?」
こいしが身を乗り出した。
「どこかは分かりません。あまりにも夕陽がきれいだったので、うっかり写真を撮り忘れて……。夜景だけは撮ったのですが、ボケてしまっていて、どれが五重塔かも分かりませんよね」
紗香がスマートフォンを向けたが、こいしにはまったく判別できなかった。
「いちおうその写真も送っといてくださいね」こいしはノートにペンを走らせながら続ける。
「肝心のそのお店のことで、何か覚えてはらへん? お店の造りとか、お店の人のこととか」
「ふつうの食堂でした。わたしの田舎は埼玉なんですが、うちの近所にもあんな感じの食堂がありました。壁にメニューが貼ってあって、おそばとかおうどんとか丼とか。すごく安いなぁと思ったのを覚えてます。お客さんがけっこう入ってたので、どの人がお店の人かまでは……」
聞きながらこいしは店のイラストを描いた。
「味はどうやったん?」
「お腹が減ってたので、残さず食べたことだけは覚えていますが、味だとかは全然記憶になくて」
「覚えてへんけど、捜してはるんや」
その理由を訊ねるように、こいしが上目づかいに紗香を見た。
「ちゃんと食べてみたいんです。わたしが行きたかった店と、どれくらい味が違うのか」「ていうことは、その店はもう行ってきはったん?」「いえ。これからです。明日行こうと思っていて」「分かりました。お父ちゃんやったらきっと見つけはると思います」ペンを置いて、こいしがノートを閉じた。
こいしのあとをついて歩く紗香は、何度かスマートフォンを廊下の壁に貼られた写真に向けながらも、立ち止まることはなかった。
「あんじょうお聞きしたんか」
食堂に戻るなり、待ち受けていたように流が訊いた。
「ちゃんと聞かせてもろたけど、これまでで一番の難問やと思うえ」こいしが流の背中を二度ほど叩たたいた。
「簡単やったことはいっぺんもないけどな」
流が肩をすくめた。
「いつまでに捜していただけるのでしょう」
バッグを持って、紗香が遠慮がちに訊いた。
「ふつうは二週間ほどいただいてますんやがお急ぎでっか?」「いえ、特に急いでいるわけではありません」「二週間後ぐらいに電話かメールをさせてもらいます。それからご都合のつく日を言うてもろたらできるだけ合わせます」
こいしの言葉に、紗香は軽くうなずいて店の敷居をまたいだ。
「これからどちらへ?」
流が訊いた。
「四条烏丸の近くにホテルを取ったのでそちらへ」「それやったら地下鉄がよろしい」
店の外に出て、流が道順を指し示した。
「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします」一礼して紗香は正面通を西に向かって歩いていった。
「何を捜してはるんや」
紗香を見送って、店に戻った流はカウンター席に腰かけた。
「親子丼」
そう答えて、こいしは流の隣に腰かけた。
「誰かが作ったもんか、店の親子丼かどっちや」「お店のん」
「その店は今もあるんか」
「三年前に食べたて言うてはるから、たぶんまだあると思う」「どこの店や? て分かっとったら自分で行かはるわな」流が苦笑いを浮かべた。
「京都にあることはたしかなんやけど、お寺の近くにあったこと以外は、店の場所も名前もなんにも憶おぼえてはらへんねん」
こいしはノートを開いて、概略を流に説明した。
「寺の近く、て、京都の店はどこでもやで。なんのヒントにもならん」「そうそう、そのお寺の写真があんねんよ」
「それを早はよぅ言わんかい」
こいしが開いたタブレットの画面を流が覗きこんだ。
「小さい寺みたいやな。〈おびんずるさん〉がやはる。これもあちこちにやはるさかい、これだけではどこの寺か分からんなぁ」
流がディスプレイから目を遠ざけた。
「なにやのん、その〈おびんずるさん〉て」
こいしが訊いた。
「〈おびんずるさん〉知らんか。お釈しゃ迦かさんのお弟子さんで、〈獅し子し吼く第一〉さんのことや。〈おびんずるさん〉をお堂の前に置いといてやな、自分の病んでるとことおんなじとこを撫なでたら、病気が治るんや。いわゆる撫で仏っちゅうやつや」流がディスプレイを撫でた。
「はじめて聞いたわ。そう言うたら見たことあるような気もする」「『六角堂』さんやとか、うちの近くやったら『粟あわ嶋しま堂』さんにもやはるけど、これとは違うなぁ」
流に思い当たる寺はないようだった。紗香から聞き出したヒントをすべて伝えても、流は首をかしげるばかりで、地図をにらんではうなり、天井を見上げて何度もため息をついた。