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第五卷 第二話  焼売 1

时间: 2024-03-05    进入日语论坛
核心提示:  第二話  焼売  1  もみじ狩りを兼ねて京都へやって来た澤さわ野の桂けい子こは、ステップに杖つえを突き、京都駅の新
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  第二話  焼売
  1
  もみじ狩りを兼ねて京都へやって来た澤さわ野の桂けい子こは、ステップに杖つえを突き、京都駅の新幹線ホームにゆっくりと降り立った。
  「車椅子を借りたほうがいいんじゃないですか」先に降りていた義娘の叔よし江えが桂子の肘を支えた。
  九十歳近くになった桂子と、まだ六十を過ぎたばかりの叔江だが、着物姿で並ぶと、義理の母娘というより、姉妹に見えてしまう。いくらか背中の丸い叔江に比べて、杖頼りではあるものの、背筋をしゃんと伸ばした桂子が、少しばかり若く見えるせいだろうか。或あるいは叔江の着物がいくらか暗い利り休きゅう鼠ねず色なのに対して、桂子は明るい藤色の着物を着ているせいかもしれない。
  「あんなものに乗っちゃうと足が弱るわよ。人間、足が何よりだいじだからね」しっかりと杖を突きながら、桂子がエレベーターの乗り場に向かう。
  「タクシーで行きましょうね。だいぶ歩かないといけないみたいですから」叔江が念を押した。
  「わたしは大丈夫よ。毎朝歩いてきたえてあるから」「でも、明日も嵯さ峨が野のまでもみじを見に行かないといけませんし」「そうね。じゃあタクシーにしようか」
  意外とすんなり桂子が応じたことに叔江は安あん堵どした。
  年寄りのわがままと言えばそれまでだが、桂子の気まぐれな言動に、いつも叔江は手を焼いている。軽い認知症を患っているが、本人は絶対にそれを認めようとしない。どころか叔江のほうがボケているのだと思い込んでいる。
  「なんかお腹なかが減ったね」
  エレベーターの扉が開くと、桂子がお腹を押さえた。
  「さっき新幹線の中でサンドイッチを召し上がったばかりじゃないですか」叔江は改札口に向かって、ゆっくり歩を進める。
  「そうだった? 朝から何も食べてないと思うんだけど」食事のことでは、しばしばこうした口論になる。それに懲りた叔江は写真を撮っておくことにした。
  「ほら、お義か母あさん。美お味いしそうに食べてらっしゃるでしょ」笑顔でサンドイッチを頰張る、自分の写真がスマートフォンの画面に現れると、桂子は首をかしげながらも納得したようだ。
  「そうそう。その探偵さんのところでも何か食べられるってことだったわよね」部分的には記憶力良好なのだが、あくまで断片に過ぎない。
  「聞いた話だと、腕利きの料理人さんらしいですよ」「どうせ大したものは出ないでしょうけどね」皮肉っぽい言い回しは、叔江が三十年も前に嫁いできたときから、まったく変わらない。むしろ磨きが掛かってきたようにも思える。
  「そんな減らず口をたたいてると、肝心のものを捜してもらえませんよ」たまには、やんわりと注意するが、聞こえていないようなふりをするのもいつものことだ。
  ふたりは改札口を抜け、タクシー乗り場に向かった。
  「運転手さん、この地図のところへ行きたいのですが、わかります?」あとから乗りこんで、叔江が手描きの地図を見せた。
  「正面通の東ひがしの洞とう院いんを東……、正面通は西向きの一通やさかい、間之町通から入らんならんな」
  ひとりごちて運転手はサイドブレーキを外した。
  「運転手さん、ここから京都大学って遠いの?」桂子が運転席の背もたれを両手でつかんだ。
  「京大でっか。遠いことはおへんけど、近いこともありまへんな。十五分くらいですわ」「そう。用事が済んだら寄ってみたいわね」
  同意を求める桂子に、叔江はあいまいな笑顔を返した。
  「もみじを見はるんやったら、東山か嵯峨野がよろしいで」「明日はその嵯峨野へ行くんですよ。きれいでしょうねぇ」桂子が余計なことを言いださないようにと、叔江はもみじの話に乗った。
  「ここしばらく朝晩はよう冷えこんでますさかい、きれいに色づいてると思います。この近くやったら本願寺はんのいちょうもきれいでっせ」「いちょうもいいわね」
  桂子が身を乗りだした。
  「この辺りやけど、お店かなんかでっか?」
  スピードを落として、運転手が正面通の両側を目で追った。
  「お店ですけど、看板も出てないらしいから、この辺でおろしてください。あとはわたしが捜しますから」
  叔江が財布を取りだすと、運転手は車を停とめた。
  「本当にここで合ってるのかい?」
  車を降り十歩ほど歩いたところで桂子が立ち止まった。
  「お義母さんはここで待っててください。わたし捜してきますから」小ぶりのキャリーバッグを電柱の陰に置いて、叔江が小走りで正面通を西に向かった。
  仏壇屋、仏具商、仏教書専門店など、東本願寺の門前町ならではの店が並んでいるばかりで、食堂らしき店は見当たらない。唯一それらしき建家があるのだが、人の気配が感じられない。
  おそるおそるといったふうに、叔江が引き戸をゆっくりと開けると、駆けよってきたトラ猫が鳴き声をあげた。
  「ひるね、お店に入ったらあかんよ」
  店の奥から若い女性の声が聞こえてきた。
  「すみません」
  顔だけを店の中に入れて、叔江が控えめに声をかけた。
  「はい。どちらさんです?」
  グレーのワンピースを着た女性が奥から出てきた。
  「澤野叔江と申しますが、こちらは『鴨川食堂』ですよね。『鴨川探偵事務所』と同じ経営の」
  「はい。うちが、その探偵のほうの鴨川こいしです」「よかった。ちゃんと来られて」
  叔江は胸を撫なでおろした。
  「澤野さんは明後日あさってお越しになるて聞いてたんですけど」壁掛けのカレンダーを横目にして、こいしが困惑したように言った。
  「明後日のお約束だったのですが、義母の桂子が明後日から検査入院することになりまして。突然ですが今日お伺いしたようなわけで。これからお出かけですか?」「え、ええ。まぁ、ちょっとその」
  「ようお越しいただきましたな。わしが食堂の主人をしとります鴨川流です。連絡はご主人の澤野誠せい二じさんからいただいとります。たしかお義母さんとご一緒やと……」奥から出てきた流は叔江の背後を覗のぞきこんでいる。
  「お店が見つからなかったものですから、外で待たせております」「そら気の毒に。こいし、呼んできたげ」
  流が目で合図すると、こいしは少し躊躇ためらったように足踏みした。
  「でも、今日はご迷惑でしたら、また出直してまいりますので」「何を言うてはりますねや。横浜からわざわざお越しになったんを追い返せますかいな。
  こいしは恋人ともみじを見に行く約束をしとったんやが、そんなもん、いつでも見られる。な?」
  流の言葉に、こいしは半笑いしながら小刻みにうなずいた。
  「どうしましょ。そんなだいじな日に。やっぱり出直します」思いがけない展開に、叔江はうろたえている。
  「遠慮なさらんでよろしい。こいし、早ぅ呼んできたげなさい」流の言葉に、こいしは急いで店を出た。
  「本当に申し訳ありません。年寄りは言いだしたら聞かないものですから。お留守だったらまた出直せばいいと。もみじ狩りのつもりで参りましたので、今日はご遠慮いたします。お嬢さまのせっかくのデートを邪魔したのでは、心苦しいですから」叔江が何度も頭を下げた。
  「ほんまに遠慮は要りまへんて。うちはご覧のとおり、気ままな商売をしてまっさかい、休みはいつでも取れますのや。まぁまぁ、そない言わんとおかけください。どうぞ」流が赤いビニールシートを張った丸いパイプ椅子を奨すすめた。
  「そこ、段がありますんで気ぃつけてくださいね」こいしがキャリーバッグをころがしながら桂子の手を引いて店の敷居をまたいだ。
  「おじゃましますよ」
  背筋を伸ばして、桂子が流に顔を向けた。
  「遠いとこを、ようお越しいただきました。食堂の主人をしとります鴨川流です。どうぞよろしゅうに」
  流が一礼した。
  「座らせてもらっていいかしらね。ずっと立ちっぱなしだったから」桂子が叔江をにらみつけた。
  「ごめんなさいね、お義母さん。なかなかお店が見つからなくて。こちらに座らせてもらいましょうね」
  「食堂なんだから看板くらいは付けてもらわないとね」憮ぶ然ぜんとした表情で桂子がパイプ椅子に座りこんだ。
  「えらいすんまへんな。いろいろ事情がありまして」流が苦笑いを浮かべた。
  「ぶしつけなことを言って申し訳ありません。遠慮がない義母ははなものですから」叔江は桂子を見下ろしながら、小さくため息をついた。
  「お腹の具合はどないです?」
  中腰になって、こいしが桂子に訊きいた。
  「なにか食べさせてもらえるなら、喜んでいただきますよ。なんせ朝から何も食べてないので」
  桂子が答えると、即座に叔江は顔をゆがめた。
  「噓うそばっかり。さっき見せたでしょ。お義母さんが新幹線の中で、美味しそうにサンドイッチを食べてる写真を」
  「あら。そうだったかしらね」
  桂子がしれっと答えたのに、お手上げとばかりに、叔江は両手のひらを天井に向けた。
  「少なめに用意させてもらいますわ」
  流が叔江に目くばせした。
  「すぐに着替えてきますんで、ちょっと待っててくださいね」こいしが小走りで奥に消えた。
  「すみませんね。せっかくのお休みを台無しにしてしまって」叔江がこいしの背中に向かって小さく頭を下げた。
  「なんぞ苦手なもんはおへんか」
  流の問いに、ふたりは顔を見合わせてから揃そろってうなずいた。
  「しばらく待っとぉくれやっしゃ」
  流が厨ちゅう房ぼうに入っていった。
  「大丈夫かね」
  桂子が小声で叔江に訊いた。
  「何がです?」
  「なんだか小汚い食堂だけどさ、食あたりとかしないかい?」「情報通の誠二さんが太鼓判を押してくれたのだから大丈夫ですよ」「誠二の言うことなら信用してもいいけど、こんなところで死ぬわけにはいかないからさ」
  桂子は店の中を見まわしている。
  「それよりお義母さん、お酒はどうなさいます?」「それそれ。いつものようにアルコールで消毒しないとね」酒豪の桂子が舌なめずりした。
  「すみません。お酒をお願いできますか」
  叔江は立ち上がって声をあげた。
  「お好みはありますか?」
  暖の簾れんのあいだから、こいしが顔を覗かせた。
  「なんでもいいんです。常温でコップに注ついでください。あふれるくらいに」叔江がこいしに目くばせした。
  「あんまり飲み過ぎないようにしてくださいね。この前の中華街みたいになったら大変ですから。ここまで誠二さんは介抱しに来てくれませんよ」桂子の耳元で叔江は大きな声をあげた。
  「わたしゃ耳はいいんだから、そんな大きな声出さなくても聞こえてますよ」桂子が眉をひそめた。
  「お待たせしましたな。軽めにしときましたけど、足らなんだら言うてください。ほかにもご用意できますんで」
  流は小ぶりの重箱をふたりの前に置いた。
  「あらま。なんだかお正月みたいね」
  桂子が満面に笑みを浮かべて、二段重の蓋を取った。
  「きれいなお料理だこと」
  蓋を手にして叔江も目を輝かせた。
  「簡単に料理の説明をさせてもらいます。上の段がおかずで、下の段はてまり寿ずしを入れとります。上のおかずは七品をちょびっとずつ盛りました。京焼の小鉢に入ってるのが焼き胡ご麻ま豆腐。薄味のタレがかかってまっさかい、そのままどうぞ。伊万里の小皿には海え老び真しん蒸じょを載せてます。わさび醬じょう油ゆを付けて召し上がってください。葉形の皿は秋あき鮭じゃけの西京焼、その横の小さな籠かごは、さつまいもの天ぷら。抹茶塩を振ってください。串に刺してるのは鶏とりのつくね。山さん椒しょう醬油を塗ってます。下の煮物は生なま麩ふと豚の角煮。やらこうに煮てあります。辛子を付けてもろても美味しおす。右端のガラス鉢に入ってるのは、柿かきの白しら和あえです」流の説明に目を動かしながら、ふたりはその度にうなずく。
  「下の段のてまり寿しは五つ。マグロの漬づけ、もみじ鯛だいの昆こ布ぶ〆じめ、松まつ茸たけの含め煮、薄焼き玉子と鯵あじのたたきです。シャリは小さめにしてますんで、ちょうどええ量になると思います。声をかけてもろたら、お吸いもんをお持ちします。どうぞゆっくり召し上がってください」
  流はそう言いおいて、厨房に戻っていった。
  「やっぱり誠二の言うことは間違いないね。こんな小汚い食堂でこれほどの料理が出るとは、ふつうは思わないわよ。こうなったら焼シュウ売マイなんかどうでもいいわ。しっかり食べてどんどん飲まなきゃ」
  桂子は迷い箸をしながら、コップ酒をあおった。
  「さすが京都ですね。どれも美味しそう」
  叔江が目を細めて箸を取った。
  桂子が最初に箸を付けたのは、さつまいもの天ぷらだった。抹茶塩をたっぷり振りかけ、口いっぱいに頰張った。
  揚げ物好きの桂子は、ふた切れの天ぷらを一気に食べ終えて、コップの酒を空にした。
  「食べるのも飲むのも、ゆっくりにしましょうね」苦笑いしながら、叔江はこいしに酒のお代わりを頼んだ。
  「天ぷらなんてものは、揚げたての熱いうちに食べなきゃ。その油をお酒ですーっと流すからいいのよ」
  そう言いながら、桂子は豚の角煮に箸を伸ばしている。歳としを重ねるごとに脂っこいものを好むようになってきているようだが、それは桂子に限ったことなのか、やがて自分もそうなるのか。叔江はマグロのてまり寿しを、じっくりと味わった。
  いつもながら、桂子の食べるペースは驚くほど速い。三年前に作った義歯の具合がよほどいいのか、総入れ歯だとは思えないほど、どんなに固いものでも平気で食べる。
  「この松茸は国産だろうかね。外国の松茸なら遠慮しようと思うんだけど」桂子が耳元でささやいた。
  「そんなこと訊くわけにもいきませんけど、わたしは国産だと思いますよ。香りも歯ごたえも、とてもよかったですし」
  「そうかい。じゃあ食べとこう」
  桂子は即座に松茸のてまり寿しを口に放りこんだ。
  「どないです。お口に合おうてますかいな」
  急須を手にして、流が厨房から出てきた。
  「とても美味しくいただいております。さすが京都のお店はお味も上品で」隣を見ると、桂子は黙ってうなずいている。少しはほめ言葉も並べて欲しいところだが、余計なことを口にするよりは、無言でいてくれるほうがありがたい。
  「量はどうです? 足りんようやったら遠慮のう言うてくださいや」桂子が流と目を合わせた。
  「このお寿す司しをもう二個ほどもらえますか」桂子は空になった下の段の重箱を見せた。
  「ネタは何がよろしい?」
  「マグロと松茸」
  「承知しました」
  厨房に戻ってゆく流の背中を叔江が目で追った。
  「少しは遠慮していただかないと。恥ずかしいじゃないですか」「だって言ってたじゃないか。遠慮するな、って」無駄だと分かっていても、言うべきことは言っておかないといけない。
  「お酒が空なんだけど」
  桂子が空のコップを見せた。
  「お義母さん、今日はこれくらいにしておきましょうね。これから大事な話をしなきゃいけませんから。京都までお酒を飲みに来たんじゃないんですよ」不服そうな桂子を横目に、やんわりとコップを取り上げた。
  「てまり寿しをお持ちしました。奥で用意してきますんで、お食事が終わったらお父ちゃんに声かけてください。捜してはる食べもんのお話を、奥でゆっくり聞かせてもらいますので」
  伊万里の丸皿に二貫のてまり寿しを載せて、こいしが桂子の前に置いた。
  「せっかくのお休みなのに申し訳ありませんね。どうぞよろしくお願いします」中腰になって叔江がこいしに頭を下げたが、桂子は表情ひとつ変えることなく、てまり寿しを口にした。
  先を歩く流から少し遅れて、杖を突きながら桂子が歩き、廊下の両側に貼られた料理写真の数々を興味深げに眺めている。
  「この料理はみんな流さんがお作りになったんですって。すごいですね」桂子の耳元で叔江が言った。
  「洋食から中華まで、なんでも作れるんだねぇ」感心したように桂子が首を左右に振った。
  「いちおうなんでも作れますけど、逆に言うたら得意料理がない。器用貧乏っちゅうやつですわ」
  足を止めて流が振り返った。
  「この人はあんたの奥さんかい?」
  桂子がスナップ写真を指さした。
  「掬きく子こと別府へ行ったときですわ。亡くなる一年ほど前やったかなぁ。急に温泉に行きたいて言いだしよって」
  流が写真に近づけた目を細めた。
  「そうかい。奥さん、亡くなったのかい。良さそうな人じゃないか。いい人ほど早く死ぬってのは、ほんとなんだねぇ」
  じっと写真を見つめて、桂子が長いため息をついた。
  「こいしがじっくり話を聞かせてもらいますさかい」廊下の突き当たりにあるドアを開けると、黒いパンツスーツに着替えたこいしが迎えた。
  「どうぞお座りください」
  後ろ手でドアを閉めて、こいしがロングソファを奨めた。
  桂子が奥に座り、その横に叔江が座る。向かい合ってこいしがチェアに腰かけると、部屋はいくらか狭く感じる。
  「お手数ですけど、こちらに記入していただけますか」ボールペンを挟んだバインダーを、こいしは叔江に手渡した。
  「どうしましょう。捜しているのはわたしではないので、義母の名前を書いたほうがいいですね」
  「そうしてください」
  こいしはしごく事務的に答えた。
  よどみなくペンを走らせて、叔江はバインダーをこいしに返した。
  「澤野桂子さん。八十八歳。お若く見えますね。お住まいは横浜。ええとこに住んではりますやん。捜してはるのは焼売ですか。詳しいにお話ししてもらえますか」こいしはローテーブルにノートを広げた。
  「お義母さん、どこで食べた焼売だった?」
  叔江が桂子の顔を覗きこんで水を向けた。
  「食べてないのよ。食べてないから捜してるんじゃない」さらりと桂子が言った。
  「そのへんのお話を聞かせてください」
  こいしがペンをかまえた。
  「今からだと四十年くらい前になるかしら。長男の利とし守もりが『京都大学』に入学してね、たしか吉田山の近くだったと思うけど、そこに下宿してたの」桂子が淡々と語り始めた。
  「利守さんというのは、うちの主人のお兄さんでして。主人と違ってとてもできのいい人だったようです」
  叔江が言葉を足した。
  「国立大学だから学費が安いのはありがたかったわね。でも、主人は平凡なサラリーマンだから、大した仕送りもできないわけよ。それで利守はアルバイトをはじめてね。家庭教師と中華料理屋のアルバイトと掛け持ちしてたの」桂子が遠くに目を遊ばせた。
  「京大入るだけでも大変やのに、ふたつもバイトするやなんて親孝行な息子さんですね」こいしは無難な受け答えをした。
  「そのアルバイト先の中華料理屋の焼売がやたら気に入ったみたいで、何かというと利守はその話をするわけよ。わたしは鼻白んじゃってさ」桂子が眉根にしわを寄せた。
  「どういう意味です?」
  こいしが膝を前に出して桂子に訊たずねた。
  「だって利守が生まれ育った横浜には、『崎き陽よう軒けん』っていう日本一美味しい焼売の店があるのよ。いくら京都が美味しいところだったって、焼売は横浜に勝てるわけないわさ」
  桂子の言葉に、叔江は苦笑いしながら肩をすくめた。
  「勝ち負けはどうか分かりませんけど、たしかに横浜の焼売は美味しいですよね。お父ちゃんがおみやげに買うてきてくれた『崎陽軒』の焼売を食べたことありますけど、ほんまに美味しかった」
  桂子の言い分をよく理解できないこいしは、適当に話を合わせようとした。
  「だろう? 京都の焼売なんて聞いたこともないし、たいして美味しいとは思えない。利守にそう言ったらさ、今度帰省するときに持って帰るから、一度食べてみてくれ、だって」
  桂子が鼻で笑った。
  「そのバイト先の中華料理屋さんの名前とかは憶おぼえてはりません?」こいしがペンを持つ手に力を込めた。
  「それがねぇ、あんまり興味がなかったから憶えてないのよ。四条のほうにあるお店だったってことだけしか。そうそう。最初に利守からその店の名前を聞いたときに、雀ジャン荘そうでアルバイトなんかして大丈夫かい? って言って、利守が大笑いしたの。あれはなんでだったかしらね」
  桂子は首をかしげているが、こいしはずっとペンを走らせている。
  「誠二さんだったらギャンブル好きだから、雀荘でアルバイトしそうですけど、義あ兄にの利守さんはまじめなかただったらしいですから、なにかの勘違いだったのでしょうね」叔江は桂子の顔を見ながら笑みを浮かべた。
  「利守さんは今?」
  こいしがストレートに訊くと、桂子は黙りこくってしまった。
  「わたしが主人の誠二と一緒になる前のことですから、聞いた話ですが、京大を卒業する直前に交通事故で亡くなったそうです。卒業式に着ていくスーツを買いに行く途中、バイクで事故を起こして」
  桂子の顔色をうかがいながら、叔江がゆっくりと語った。
  「そうやったんですか」
  こいしは声を沈ませた。
  「オートバイは危ないから乗るんじゃない、ってさんざん言ったのに」桂子が悔しそうに顔をゆがめた。
  「そしたら話だけ聞いてはったけど、その焼売は見はったこともないんですね」こいしがノートに焼売のイラストを描いた。
  「見るのは見たのよ。食べてないだけで」
  「見たけど食べてへん、てどういうことです? よう分からへんのですが」こいしは小首をかしげた。
  「利守が亡くなる前の年、三回生の夏にうちに帰ってきてね、そのとき土産にっていって、焼売を持って帰ってきたの。今みたいに保冷剤なんてものがあるわけじゃないし、炎天下にオートバイで長い時間かけて帰ってくるわけだから、傷んでるんじゃないかと思ってさ」
  桂子が眉をひそめて続ける。
  「主人はひとつ食べて、うまいうまいって言ってたけど、わたしは食べずに捨てちゃったのよ。もちろん利守には美味しかったって言っといたわよ」「せっかく持って帰ってきはったのに……」
  こいしが声を落とすと、叔江はこくりとうなずいた。
  「なんだか見た目もぼってり大きくて、美味しそうに見えなかったのよ」桂子は言い訳めいた言葉を口にした。
  「焼売を食べはったご主人は、うまいの他に何か言うてはりませんでしたか」ペンをかまえてこいしが訊いた。
  「歯ごたえが独特だって言ってたの。それでわたしは利守にそのまま言ったら、喜んでた。この歯ごたえは横浜の焼売にはないんだ、って自慢げに言ってた」「焼売に歯ごたえ、ですか」
  こいしがノートにペンを走らせた。
  「お義母さんの記憶違いということもあるかもしれませんよ」叔江が小声でこいしに伝えた。
  「ほかのことはあんまり覚えてないけど、これだけはたしかよ」桂子が叔江をにらみつけた。
  「息子さんがアルバイトしてはった、京都の中華料理屋さんが作ってた焼売。大ぶりで歯ごたえあり、と。ヒントはそれくらいかなぁ」ボールペンをノックしながら、こいしがノートを見つめた。
  「難しいでしょうか」
  叔江が心配そうな顔つきをこいしに向けた。
  「けど、なんで今になってその焼売を捜そうと思わはったんです?」こいしが桂子に訊いた。
  「わたしガンになっちゃったの。それも末期ガンらしくて、長くないのよね」桂子が叔江に同意を求めるように顔を向けた。
  「そんなこと先生はおっしゃってなかったでしょ。ちゃんと手術すれば大丈夫だって」叔江が桂子をたしなめた。
  「どのみち、あっちに行くのは、そう遠い話じゃないでしょ。向こうで利守に会ったらさ、あの焼売を食べた感想をちゃんと伝えたいの。自分も食べたかのように、歯ごたえがよかった、なんて言っちゃったから。閻えん魔まさんに舌抜かれちゃうでしょ」本気とも冗談ともつかない顔をして、桂子がため息をついた。
  「どうも、美味しくないということをたしかめたいらしいですよ。やっぱり焼売は横浜に限る、って向こうでお義に兄いさんに言いたいみたい」叔江が口元をゆるめた。
  「利守さんの写真があったら助かるんやけどなぁ」こいしがふたりに顔を向けると、叔江がすぐにバッグから写真を取りだした。
  「お義兄さんが京大に入学された直後の写真だそうです」「イケメンさんですやん。頭はええし親孝行やし、こんな顔してはったら、ようモテたやろなぁ」
  「彼女のひとりくらいできたかい、っていつ訊いても、まだだ、って言っていたわね」桂子が苦い顔をした。
  「この写真おあずかりしてもよろしい?」
  「そのためにお持ちしたのですから」
  叔江が薄茶に変色した角封筒をこいしに手渡した。
  「分かりました。お父ちゃんやったら捜してきはると思います」こいしは写真を入れた封筒をノートにはさんで閉じた。
  「なんだい。あなたが捜してくれるんじゃないのかい。じゃ最初からお父ちゃんに話せばよかった」
  桂子がむくれ顔をした。
  食堂に戻ると、タァ‰で手を拭きながら、流が厨房から出てきた。
  「あんじょうお聞きしたんか」
  「ちゃんと聞かせてもろたけど」
  こいしが桂子の顔色をうかがった。
  「捜してくださるのはあなたなんですってね。だったらお話はあなたにすればよかった」桂子が不服そうに言った。
  「こちらにはこちらの事情がおありなんですから。ねぇ」叔江が流のほうに視線を向けた。
  「世の中には聞き上手と話し上手と両方おります。わしらみたいに」流が顔半分で笑った。
  「次はいつ来ればいいでしょう?」
  話を断ち切るように叔江が訊いた。
  「だいたい二週間あったら捜せると思います。そのころにご連絡しますんでお越しいただいたら」
  流が自信ありげに答えた。
  「承知しました。そのころでしたら検査入院も終わってるはずですから、ちょうどいいと思います」
  叔江が顔を向けると、桂子は渋面を作りながらも小さくうなずいた。
  「今日のお代をお支払いしないといけないわよ」桂子の言葉に、叔江はあわてて財布を取りだした。
  「探偵料と一緒にいただきますので」
  こいしが叔江にさらりと告げた。
  「分かりました。それではご連絡をお待ちいたします」叔江が深く腰を折った。
  「このままお帰りでっか?」
  店の外に出たふたりに流が声をかけた。
  「せっかくですから、もみじ見物をしようと思って。明日は嵯峨野へ行く予定をしております」
  「ちょうど今が見ごろやと思います。愉たのしんで帰ってください」こいしが笑顔を向けると、ふたりは正面通をゆっくりと歩きだした。
  ふたりの背中を見送りながら、流がこいしに訊いた。
  「ものは何やった?」
  「焼売」
  こいしが短く答えた。
  「店のか?」
  流が店に戻り、こいしがそれに続いた。
  「むかし京都にあったお店みたい。四十年前の話やからたぶん今はもうないと思うんやけど」
  こいしは後ろ手に引き戸を閉めた。
  「四十年前か。残ってる店もようけありそうやけどな」流はこいしが開いたノートを繰った。
 
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