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第五卷 第五話  芋煮 1_鴨川食堂(鸭川食堂)_日语阅读_日语学习网

时间: 2024-10-24    作者: destoon    进入日语论坛
核心提示:  第五話  芋煮  1  琵び琶わ湖こを右手にしながら西に向かっていたのぞみ二十五号は、少しずつ速度を落としはじめた。
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  第五話  芋煮
  1
  琵び琶わ湖こを右手にしながら西に向かっていたのぞみ二十五号は、少しずつ速度を落としはじめた。
  「そろそろ降りる準備をしたほうがいいんじゃないか」窓側のE席に座る白しら川かわ啓けい介すけは、左隣に座る本ほん田だ秀ひで樹きに声をかけた。
  「もう京都に着く時間か?」
  腕時計に目を遣やった秀樹は慌ててノートパソコンをシャットダウンした。
  「仕事熱心もいいけど、ほどほどにしないと」文庫本に和紙のしおりを挟んで、啓介が言った。
  「啓介はどこで降りるんだっけ?」
  秀樹はブリーフケースにノートパソコンを仕舞いこんで、荷物棚からキャリーバッグをおろした。
  「僕は岡山で降りて在来線に乗り換えて四国まで行く」啓介が窓に目を遣った瞬間にトンネルに入った。
  「たしか目的地は祖い谷やだったよな。気を付けて行けよ。谷底に落ちたらおだぶつだぞ」
  グレーのジャケットに袖を通しながら、秀樹が啓介に笑顔を向けた。
  「なあ秀樹」
  「なんだ?」
  茶色いネクタイの結び目をたしかめながら、秀樹が啓介と目を合わせた。
  「一緒に祖谷へ行こうぜ。あんなもん捜さなくてもいいじゃないか。どうせ見つかりっこないんだし」
  啓介があごひげを撫なでた。
  「きっと見つかるさ。どんな食でも捜しだすって評判の探偵なんだから」秀樹が気き忙ぜわしく腕時計に目を遣る。
  「見つかったら何かいいことがあるのか? どうだっていいじゃないか」啓介が吐きすてるように言った。
  「お前は文学者だから、あいまいなままでいいのかもしれんが、俺ははっきりさせたいんだ。生命科学の研究者だからな」
  秀樹は口の端に笑みを浮かべて立ち上がった。
  「新年会での結果報告を愉たのしみにしてるよ」啓介が酒を飲む真ま似ねをした。
  「残念ながら啓介の夢をぶち壊すことになると思うけどな」トレンチコートを羽織って、秀樹はデッキに出ていった。
  秀樹の背中を見送って、啓介は前の座席の網ポケットからスキットルを取りだして、ゆっくりとスコッチを飲んだ。
  京都駅に降り立った秀樹は、スマートフォンの画面を見ながら中央口をでて、烏丸通を北に向かって歩いた。
  ナビにしたがって正面通を東に歩くと、やがてそれらしき建家が見えた。
  秀樹はネクタイを強めに締めて、引き戸を横に引いた。
  「いらっしゃい」
  戸が開くと同時に、ジーンズに白いシャツ、ソムリエエプロンを着けた若い女性が出迎えた。
  「予約した本田秀樹と申しますが」
  「本田はん、お待ちしてました」
  茶色い作さ務む衣え姿の男性が暖の簾れんの奥から出てきて、同じ色の帽子を取った。
  「鴨川さんでいらっしゃいますね。長々とお電話をしてしまい失礼しました」トレンチコートを腕にかけた秀樹がていねいに頭を下げた。
  「鴨川流です。こっちが娘のこいし。探偵事務所の所長はこいしのほうです。まぁどうぞおかけください」
  少し驚いたような顔をした秀樹は、こいしに一礼してパイプ椅子に腰かけた。
  「お父ちゃんが長電話してはるのはめずらしいなぁと思うてたら、探偵のほうのお客さんやったんやね」
  こいしがあたたかい茶を出した。
  「茜あかねの甥おい御ごさんやて言うて電話をくれはったんやけど、茜の近況やらを聞かせてもろてるうちに、えらい長電話になってしもうて、食を捜してはるいう話は最後になってからやった」
  流が頭をかいた。
  「お食事はどないしましょ」
  こいしが秀樹に訊きいた。
  「是非お願いします。今日はそれを愉しみにしてまいりましたので」秀樹が首を曲げて、こいしと目を合わせた。
  「お酒はどないです?」
  「ワインが好きなのですが置いてらっしゃいませんよね」店の中を見まわして、秀樹が流に顔を向けた。
  「たいしたワインと違いますけど、信州から送ってもろた地ワインがありますねん。それでどうです?」
  「最近は日本のワインばっかり飲んでるんです。信州の地ワインなら言うことありません。白でも赤でもどちらでもいいです」
  秀樹が頰を紅潮させた。
  「軽い赤を冷やしてありますんで、最初はそれを召し上がってください」流が小走りで厨ちゅう房ぼうに入っていった。
  「どちらからお越しになったんです?」
  クロスでワイングラスを磨きながら、こいしは秀樹の前に置いた。
  「郡こおり山やまからです」
  「奈良のですか?」
  「いえ、福島です」
  「遠いとこからですねんね」
  「遠いといえば遠いですが、仕事しながら新幹線に乗ってるとあっという間ですよ」「新幹線の中でお仕事しはるんですか。大変ですねぇ。うちらいっつも乗ったらすぐに寝てしまいますわ」
  「論文の提出期限が迫ってなければ、僕も高いびきで来たいですよ」「学生さんどすか?」
  こいしが驚いたように、秀樹の顔をまじまじと見た。
  「まさか。大学を卒業してからもう十年になります。僕らは論文を発表するのが仕事みたいなものなんですよ」
  秀樹が苦笑いした。
  「ていうことは学者さんとかですか」
  「そう呼ばれてますね」
  「すごいですねぇ。毎日勉強ばっかりしてはるんや」「こいし、余計なこと言うてんと、ワイン注ついだげんとあかんがな」「いいですよ。自分でやりますから」
  秀樹は慣れた手つきで抜栓した。
  「信州に栗くりで有名な小お布ぶ施せっちゅう町があるんですけど、そこで作ってるワインです」
  流がラベルを秀樹に向けた。
  「『ァ≈セワイン』ですね。たしか佐さ賀がさんという方のワイナリーだったと思いますが、科学的なワイン造りをしている方ですよね」秀樹はまじまじとラベルを見ている。
  「難しいことはわしには分かりまへんけど、和食にもよう合うワインやさかいに、家でときどき飲んでます。ゆっくり飲みながら待っといてください」流はそう言って、厨房に入っていった。
  どっしりと重いワインより、これくらいの軽いワインのほうが、今の気分にはふさわしい。ライトボディのワインを喉に流しこみながら、秀樹はブリーフケースからタブレットを取りだしてテーブルに置いた。
  ふだんはノートパソコンを、食事中はタブレットを、と秀樹は睡眠中以外は常にコンピューターを傍らに置く暮らしを続けている。
  そんな秀樹でもさすがに法事の席にまで、コンピューターを持ち込むことは遠慮した。
  長くご無沙汰していたせいもあって、親戚との会食では思いがけず話が弾んだ。
  千載一遇という言葉は、こんなときのために用意されたものだろう。長い間喉元に引っかかっていた小骨を取り除く絶好の機会を与えてくれたのは、伯母の茜だ。大叔父の回忌法要の席で、ふと洩もらした言葉を聞き逃さず、食捜しの探偵がいることを教えてくれ、紹介までしてくれたのだ。茜が食の雑誌の編集長をしていることなどすっかり忘れていた秀樹は、会食ということもあって、愚痴話として語ったに過ぎなかった。
  食を捜すというのは本来の目的ではなく、白黒決着を付けたいというのが本音だ。大学こそ別になったが、中学、高校とずっと机を並べてきた啓介を、打ち負かしてやりたい一心で食捜しを依頼したのであって、それをもう一度食べたいと茜に告げたのはまったくの方便なのである。
  「お待たせしましたな。お口に合おうたらええんですが」旅館の夕食を部屋へ運んでくる仲居が手にするような、大きな盆を持ってきた流がそれを隣のテーブルに置いた。
  「なんだかすごいご馳ち走そうみたいですね」秀樹が斜めに首を伸ばした。
  「わしらの歳としになりますと、一年があっという間に過ぎていきます。ついこないだまで、暑い暑い言うとったら、いつの間にか秋になっとって、気が付いたら冬がすぐそこまで来とる。料理をしとったら、ほんまにせわしいこってすわ」そう言いながら、流は秀樹の前に料理を手際よく並べてゆく。
  「ほかにもお酒はありますのでお声かけてくださいね」注ぎ終えたボトルを置いて、こいしが暖簾の奥に入っていった。
  「簡単に料理の説明をさせてもらいます。左上の織おり部べの小鉢は剣先イカのウニ和あえです。海の苔りで包んで召し上がってください。その隣の備前の皿はノドグロの西さい京きょう焼です。柚ゆ子ずを絞ってもろたら美お味いしおす。その右の籠に入っとるのは翡ひ翠すい銀ぎん杏なん。素揚げして塩を振ってますんで、そのままつまんでください。
  その下の蓋もんは蟹かに身みの餡あんかけです。生しょう姜がの刻んだんを添えてますさかい、ちょっとずつ載せて食べてください。真ん中の長皿はフグのから揚げです。柚子こしょう、かんずり、実み山ざん椒しょうを薬味にしてください。その左のガラス鉢は牛タンのタタキ。白髪ネギを巻いてますので、わさび醬じょう油ゆをつけて食べてください。
  その下は殻付きの牡か蠣き。リンゴのチップでスモークしとります。ポン酢のジュレごと召し上がってください。下の段の真ん中、朱色の漆器は梨の白和え、口直しによろしおす。その右の白磁には名残の焼やき松まつ茸たけを盛っとります。柚子塩を振って、お好みで溶き辛がら子しを付けて召し上がってください。ご飯とお汁つゆはお声をかけてもろてからお持ちします。どうぞごゆっくり」
  流の説明に合わせて視線を移し、その都度うなずいていた秀樹は、言葉が途切れるのを待って、長い息をはいた。
  「伯母から聞いてはいましたが、聞きしに勝るとはこういうことなのですね。こんなご馳走を食べるのは初めてのような気がします」
  改めて料理を見まわして、秀樹は見開いた目をきらきらと輝かせた。
  「秋から冬へと季節が変わるころは、ようけ旨うまいもんがありますさかいな」言い置いて、流は暖簾をくぐって奥へ消えた。
  ひとり食堂に残った秀樹は立ち上がって、タブレットのレンズを料理に向けた。
  「祖谷じゃあこんなご馳走は出ないだろう。くやしいか啓介!」そうつぶやきながら、その言葉を添えた写真をラインで啓介に送った。
  肉好きの秀樹が最初に箸を付けたのは、牛タンのタタキだった。
  ネギの青臭さを苦手にしている秀樹は、白髪ネギを外そうと思ったが、ためしにとそのままわさび醬油に浸して口に入れた。
  糸のように細切りにされた白ネギは何ほどの抵抗もなく、喉へ滑り落ちていった。生のネギが美味しいと思ったのは初めてのことだと、秀樹は不思議を感じながら、こんどは翡翠銀杏を指でつまんだ。
  スモークした牡蠣を食べ、ワインを飲み、焼松茸を手づかみで食べ、またワインを飲む。食べて飲んでを繰り返すうち、ふと気づけばタブレットがスリープ状態になっていた。
  差し迫った仕事がある場合はもちろんのこと、急ぎの課題がないときでも、タブレットを操作しながら食事をするのが習慣になってしまっている秀樹にとって、それは滅多にないことだった。
  寸暇を惜しんで、という言葉とは少しニュアンスが異なる。とにかくいつでも仕事をできる態勢に自分を置いておかないと不安になるのだ。目標を達成するまではこれを続けたいと思っている秀樹は、結婚はおろか女性と付き合うこともお預けにしている。
  向こうはおそらくそう思ってもいないだろうが、秀樹のほうは啓介を生涯のライバルだと決め込んでいる。
  ずっと理系の道を突き進んできた秀樹とは逆に、ときに理系を進み、あちこち寄り道もしながら、やがて文系へと方向転換し、あっという間に名だたる文学賞を獲とった啓介には、一歩も二歩も遅れを取ってしまった。
  いつも飄ひょう々ひょうとした生きかたでありながら、常に前を歩いている啓介を妬むわけではないが、悔しさを抱いていることは否定できない。そんな思いが食事中もタブレットを手放さずにいることに繫つながっているのだ。
  「お水を置いときますね」
  こいしがピッチャーにたっぷり入った冷水とコップをテーブルに置いた。
  「お父さんはすごい料理人なんですね。これだけの料理をおひとりで作られるなんて。さぞや大変な修業をなさったんでしょうね」
  フグのから揚げを食べながら、秀樹がこいしに顔を向けた。
  「修業ていうほどのことはしてへんと思いますよ。なんせ元刑事ですしね」こいしが口の端をゆるめた。
  「本当ですか。いやいや、冗談でしょう。伯母からもそんな話ひと言も聞いてませんし。
  料理ひと筋に歩んでこないと、こんな素晴らしい料理は作れっこないですよ」秀樹が鼻で笑った。
  「茜さんには昔の話をせんようにて、お父ちゃんがくぎを刺してはるみたいですよ」そんな言葉を残して、こいしが奥に引っ込んだ。
  予想だにしなかった言葉を聞いて、秀樹は少なからず動揺している。
  何ごとも、その道ひと筋でなければ抜きんでた仕事はできない。子どものころから親にそう言われ、自身でもそう思い続け、それを信条として日々過ごしている身には、にわかに信じがたい話だ。
  食通にはほど遠いものの、学会の重鎮に連れられて外食するときは、星付きの店や名店の誉ほまれ高い店の暖簾をくぐってきた。ときには完全紹介制で一年も前から予約しなければ入れない店もあった。そんな店でもこれほど選えりすぐった料理は出てこない。その料理を作っているのが元刑事だと言われて、それを信じろというほうが無理というものだ。
  ノドグロの西京焼を口にして、その思いは更に強くなった。高級魚で名高いノドグロだが、焼魚にするとくどさが先に立ってしまい、白身魚ならではの淡い味わいを舌が感じることは極めて少なかった。西京焼というのだから、甘い白しろ味み噌そを使っているのだろう。にもかかわらず、まるで鯛たいの塩焼のようなあっさりした味わいで、これまで食べたノドグロの中ではダントツに旨い。
  「どないです。お口に合うてますかいな」
  小脇に銀盆をはさんで、流が秀樹の傍らに立った。
  「合うなんてものじゃないですよ。伯母から聞いてはいましたけど、これほど美味しい料理が出てくるとは」
  「そないたいそうに言うてもらうようなもんやおへんけど、お口に合うてよろしおした。
  これで茜にクソミソに言われんですみますわ」「さきほどお嬢さんに聞いたのですが、元刑事さんというのは本当なんですか」「そんなこともしとりましたけど。昔の話はよろしいやないか」そのことには触れられたくないようだが、修業のことだけはどうしても聞いておきたい。
  「本当に料理の修業はなさってないのですか」「生まれた家が料理屋でしたさかい、なんでも見よう見真似ですわ。板長はなんにも教えてくれまへんでしたさかいにな」
  「長いあいだ料理人ひと筋の人生だから、これほどの料理を作れるのだと思ったのですが」
  噓うそをつく理由もないから本当の話だと思うが、どうにも納得できない。並外れた料理人になるためには、親方や先輩からいじめられ、血のにじむような努力を長年続けないとなれないものだと思っていたのだが。
  啓介といい流といい、よほどの才能に恵まれていたのか、それとも強運の持ち主なのか。
  「よかったらご飯をお持ちしまひょか」
  ほとんどの器が空になっているのを、流が横目で見た。
  「お願いします」
  ここを訪れた目的は食捜しであって、食事ではない。さっさと食べて本来の目的を果たさねばならない。ワインも少しばかり過ぎたようだ。コップ二杯ほどの水を飲みほして、待つ間もなく流が小さな土鍋を両手で持って、秀樹の傍そばに立った。
  「今日はフグの炊き込みご飯にさせてもらいました。フグっちゅうと、どうしてもフグ鍋のあとの雑炊のイメージがありますけど、フグ粗で炊き込むとええ味が出ます。あらかたの骨は外してありますけど、小骨が残っとるかもしれまへん。気ぃつけて召し上がってください。あとでお持ちするお汁は蟹味噌を溶いた出だ汁しで大根を炊いてます。お汁もお代わりがありますさかい、声をかけてください」流が土鍋の蓋を取ると、一気に湯気が上がり、上品なフグの薫りが漂ってきた。
  フグ料理といえば、地元では一、二を争う高級料理だ。何度か相伴にあずかったが、いつも〆は雑炊だった。当然のごとくフグの身などはかけらしか入っておらず、スープに味が染みこんでいるだけだった。それがこの炊き込みご飯はどうだ。白飯と同じくらいのフグ身が混ざっている。どちらも白い色だから見過ごしがちだが、口に入れるとはっきりそれが分別できる。なるほど、フグとはこんな味をしていたのかと再確認した。
  茶ちゃ碗わん三杯ほどもお代わりをし、お汁も飲み干すと、食捜しなどどうでもよくなってきたが、気を引き締めてピッチャーが空になるほど水を飲んだ。
  「どないでした。ゆっくりお召し上がりいただけましたかいな」銀盆を小脇にはさんで、流が暖簾をくぐって出てきた。
  「こんなに美味しい料理をいただいたのは初めてです」正直な感想を述べた。
  「そないたいそうな。美味しいもんをようけ食べてはりますやろに」「いえいえ、今日のお料理に比べることも失礼なほどです」「落ち着かはったら奥へご案内しますわ。娘が待っとりますので」「すみません。ついつい長居をしてしまって、お嬢さんをお待たせして申し訳ありません」
  秀樹は慌てて立ち上がった。
  俗に〈うなぎの寝床〉と呼ばれる、狭い間口に比べて奥に長く伸びる京民家の典型なのだろう。長い廊下を先導する流について歩くうち、両側の壁にびっしりと貼られた料理写真に目を引かれた。
  「これはぜんぶ鴨川さんがお作りになった料理ですか」ブイヤベースらしき写真の前で足が止まった。
  「わしはレシピやとかを書き留めんもんですさかい、こないして写真にして残しとります。これを見たら、あんな材料でこんな調理した、て思いだせます」振り向いて流が答えた。
  「やはり天才なんだ」
  思わずつぶやいてから流の後を追った。
  「あとは娘にまかせてますんで」
  突き当たりのドアを開けて、流は食堂に戻っていった。
  「どうぞお掛けください」
  探偵用のユニフォームなのだろうか。黒のパンツスーツに着替えたこいしが、ロングソファにてのひらを向けた。
  「失礼します」
  「そんな端っこやのうて、真ん中に座ってください」こいしがクスリと笑った。
  「なんだか緊張してしまって。若い女性とふたりきりで同じ部屋にいると息が詰まります」
  「そない緊張せんと、簡単でけっこうですから記入してください」こいしが差しだしたバインダーを受け取って、秀樹はすらすらと記入した。
  「本田秀樹さん。三十三歳。生命科学研究、えらい難しいことやってはるんですね。お父さんは数学者ですか。すごい父おや子こやなぁ。紹介者は大だい道どう寺じ茜さん。秀樹さんは独身なんですね。何を捜してはりますのん」こいしがローテーブルにノートを広げた。
  「芋煮です。ご存じですか?」
  「聞いたことはありますけど、まだ食べたことはありません。たしか山形の名物でしたね。どこかのお店で食べはったものですか?」こいしはノートに芋煮らしきイラストを描いている。
  「友人と月がっ山さんへ登ったときに、立ち寄った茶ちゃ店みせで食べた芋煮です」「そのお店はもうないんですね」
  「よく分かりましたね。どうして分かったんです?」「せやかて、もしまだそのお店があるんやったら、わざわざうちらが捜さんでも、食べに行ったらすむことですやん」
  「なるほど。実に論理的ですね」
  「そない言うてもらうような話やないと思いますけど」こいしが苦笑いした。
  「すべて世の中は論理的でないといけません。そう思いませんか?」「え、ええ。それはそうと、どんな芋煮でしたん? 詳しいにお聞かせください」こいしは話を本筋に戻して、ペンをかまえた。
  「今から十年ほど前の秋のことです。友人の白川啓介と月山に登ったのですが、途中で道に迷いましてね。遭難というほどではありませんが、濃い霧雨で視界がゼロになったんです。夏スキーができる山だからと甘く見ていたのがいけなかったんでしょう。今だから平気で話せますが、そのときは死を覚悟したくらい怖かったです」青ざめた顔で秀樹が当時の思い出を語りはじめた。
  「えらい怖い思いをしはったんやねぇ。山をなめたらアカンてお父ちゃんがよう言うてはりますわ」
  「ふもとでは軽装でハイキングするような人もたくさん見かけたので、気持ちがゆるんでたんですね。まさかこんなことになるとは。楽天家の啓介は、なんとかなるさ、と言って、寒さに震えながら口笛なんか吹いて強がっていましたが、僕は最悪の事態を想定して、家族あての遺書も書きました」
  「遺書まで書かはったんやから、よっぽどやったんやね」こいしが大きく目を見開いた。
  「比喩ではなく、ほんものの五里霧中という状態の中で、ぼーっと灯あかりのついた民家が目に飛び込んできたときは、死なずに済んだとホッとしました」「お店の名前とか覚えてはります?」
  「まったく覚えていません。看板もありませんでしたし、店なのか民家なのかも分からず、凍えそうに寒かったので、とにかく飛び込んだものですから」「場所も不確かで、店の名前も覚えてはらへん。難しいなぁ。お店の中の感じはどうですか」
  「信州なんかによくある古民家というのでしょうか。玄関を入って土間があって、奥に板の間があって、囲炉裏がきってありました。茶色い着物を着た白髪のおばあさんが迎えてくれて」
  「なんか日本むかし話の世界みたいですね」
  ノートにイラストを描きつけながら、こいしが頰をゆるめた。
  「囲炉裏端に座って、昆こ布ぶ茶ちゃをいただいて、ほっこりしたら急にお腹なかが空すいてきました。そしたらおばあさんが、〈芋煮でも食べるかい〉と言ってくれ、自じ在ざい鉤かぎに掛かった鉄鍋から、木き杓じゃく子しで掬すくった芋煮を僕らに出してくれたんです」
  秀樹は目を細め、当時を思い出しながら語った。
  「お味はどないでした?」
  「空腹だったせいもあるでしょうが、芋煮があんなに美味しいものだと思いませんでした。すき焼きから甘さを減らした味と言えばいいのでしょうか。芋がほくほくとしていて、いくらでも食べられそうな感じでした」
  「なんとなく想像できるんやけど、本場の芋煮を食べたことがないから、はっきりとは分かりませんわ。ほかに具は入ってませんでした?」「里芋とお肉と、こんにゃくも入ってたような気がします。ネギも入ってたかなぁ」秀樹が首を左右にひねった。
  「だいたい分かりました。月山の登山ルートの途中にあった古民家ふうの食堂で食べはった芋煮を捜したらええんですね」
  こいしがタブレットに月山の地図を表示してマーキングした。
  「たぶんこの道筋のどこかだと思います」
  秀樹は地図の右端を指さした。
  「そのお店が店仕舞いしはったんはいつごろか分かります?」こいしがノートの上でペンをかまえた。
  「それが……」
  秀樹が口をつぐんだ。
  「分からへんのですね。おばあさんがひとりでやってはった食堂やから、あんまり目立たへんし、近所の人らも気にかけてはらへんかった。いつの間にか店仕舞いしてはった。田舎ではようあることですね」
  こいしがペンを置いた。
  「そうじゃないんです。そうじゃなくて」
  秀樹の話は急に歯切れが悪くなった。その理由をこいしははかりかねているようで、上目遣いに秀樹の目を覗のぞきこんでいる。
  「芋煮を捜してほしいと言いましたが、本当を言えばその店を捜してほしいんです」うつむいていた秀樹が顔を上げて、こいしにまっすぐな視線を送った。
  「もちろんそのお店のことも捜しますよ。けど、うちは食を捜す仕事をしてるんで、店だけ捜すことはしてませんねん」
  こいしは困惑した表情を秀樹に向けた。
  「正直にすべてお話ししないといけませんよね」ため息をついたあと、秀樹がソファに深く座りなおした。
  「正直な話てなんですの?」
  こいしが両ひざを前に出して揃そろえた。
  「芋煮を食べ終えたころでした。急に天窓から明かりが差してきて、障子を開けると霧が晴れていたんです。そしたらおばあちゃんが〈今の間に早く山を下りなせえ。また霧が出てきたら帰れなくなる〉と言って、追い出すようにして僕らの背中を押したんです。お金も払ってないので、と言うと、怒ったようにおばあちゃんが〈早く行きなせえ〉と言って、僕らが渋々外に出ると、ぴしゃりと引き戸を閉めてしまったんです。おばあちゃんが言うとおり、また霧が空を覆いはじめたので、僕らは慌てて山を下りました」宙を見つめながら秀樹が一気に語った。
  「そういうことやったんですか。で、そのまま、ですのん?」ノートに書き留めながら、こいしが訊いた。
  「代金もさることながら、命の恩人といってもいいおばあちゃんにもう一度会いたくて、翌年の雪ゆき融どけを待って啓介とふたりで月山に行きました。ところがその辺りには食堂どころか、家の一軒も建っていないんです」「引っ越さはったんですか?」
  こいしがペンを持つ手を止めた。
  「ふもとの売店や旅館、近所の人に訊いても、誰ひとりとしてその店のことを知らないのです。それどころか昔から家の一軒もない場所だというのです。狐きつねにつままれたみたいな話なのですが、啓介は、そんなこともあるかもしれないと言うのです。僕らの先祖か神さまがおばあちゃんの姿を借りて、命を救ってくれたんだろうと、事もなげに言うのですが、そんなバカげた話があるわけがありません。むかし話のころならともかく、これほど科学が発達している現代に、そんな話を誰が信じますか。『月山神社』の宮ぐう司じさんにも訊きましたし、町役場にも問い合わせたのですが、まったく手掛かりはつかめませんでした」
  秀樹が両肩を落とした。
  「不思議な話があるんですねぇ。夢でも見てはったんやろか。でも、ふたり揃うてやもんね。やっぱり狐か狸たぬきに化かされはったんかなぁ」こいしはノートに狐と狸のイラストを描いた。
  「何らかの理由があって、記録から抜け落ちているだけで、必ずあのお店はあったはずですし、おばあちゃんも狐や狸じゃなくて、ちゃんとした生身の人間だったと確信しています。僕はそう思っているのですが、啓介はふたりで夢を見ていたんだと言い張るのです。
  そんなバカげた話があるわけがない。是非その形跡を芋煮と一緒に捜しだしてほしいんです」
  「長いこと探偵やってますが、こういうご依頼は初めてのことなんで、自信はありませんけど、お父ちゃんやったらなんとか捜して来はると思います。けど、十年も前のことを、なんで今になって捜しだそうと思わはったんです?」「啓介にひと泡ふかせてやりたいんです。啓介はずっと僕のライバルなのですが、彼には一歩も二歩もリードされていて、その差は広がる一方なんです。その啓介が芋煮のことを夢物語で済ませている。あの日の出来事をきちんと解明して、目にものを見せてやりたいんです。文学者である啓介に屈したくない。科学で証明できないことなどないのだと教えてやりたい」
  秀樹が語気を強めた。
  「男の人て大変なんですね。そんなことにまでライバル心を燃やすやなんて。うちやったら、どっちでもええと思うてしまうけど」
  そう言って、真剣な表情の秀樹と目を合わせたこいしは慌てて口をふさいだ。
  「あんじょうお聞きしたんか」
  流が食堂で待ち受けていた。
  「今回は超難問やで。絶対お父ちゃんにしか捜せへんと思うわ」「こいしがおだてるくらいやさかい、よっぽど難しい話やな」「やっかいなことをお頼みしますが、どうぞよろしくお願いします」秀樹が深々と腰を折った。
  「こないだの電話で、おおよその話はお聞きしましたんやが、たしかにやっかいなお話ですな」
  顔を上げた秀樹に、流が複雑な笑顔を向けた。
  「申し訳ありません」
  秀樹は真顔を流に返した。
  「次にお越しいただく日ですけど、だいたい二週間後くらいやと思うといてください。こちらから連絡しますので」
  「承知しました。ご連絡をお待ちしております」こいしと流に一礼して、秀樹が早足で正面通を西に向かって歩きだした。
  背中を見送ったふたりは食堂に戻った。
  「話を聞いてたんやったら断ったらよかったのに」敷居をまたぐなり、こいしが不服そうに言った。
  「茜の甥御さんの頼みを断れるかいな」
  流が両手を広げて肩をすくめた。
  「無い袖も振れへんけど、無い店も捜せへんやんか。夢の中の話なんやろ」「そうとも言えんで。とにかく現地へ行ってみるわ」「おみやげ買こうてきてや。山形牛がええな」「遊びに行くのと違うんやで」
  流が苦虫を嚙かみつぶした。
 
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