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期待と興奮で眠れぬ一夜を明かした葉山聡は、新尾道から山陽新幹線で京都へ向かった。新幹線にしたのは気持ちが前のめりになっていたからである。
一刻も早くあの春巻と再会したい。
そんな気持ちを表すように、小走りになった聡は京都駅から烏丸通を北へ上り、正面通を東に向かって進んだ。
「こんにちは」
引き戸を開けると、すぐに流が姿を現した。
「おこしやす」
茶色い作務衣を着た流が和帽子を取った。
「お電話ありがとうございました。今日はよろしくお願いします」聡が頰を紅潮させているのは、寒さのせいでも、急いだせいでもない。ひどく気持ちが高ぶっているからだ。
「そのむかしに召しあがってはったように、料理っちゅうより、おやつとして食べてもろたほうがええやろさかい、たいしたことはせんことにしました。お友だちのおうちへ遊びに来た、いう気分で待っとってください」
流の言葉に、聡はだまってうなずいた。
流が厨房に戻って行くと、聡の胸の鼓動はいっそう早く、強く打つようになった。それはちょうど半世紀以上も前に、初めて恋心を抱いたときとおなじだ。
今はどんな容貌になっているのだろうか。大学生のときに別れたころを思い浮かべ、聡は口もとをゆるめた。
「お待たせしましたな。捜してはったんはこんなんと違いましたかいなぁ」赤いバラの絵が描かれたケーキ皿を、流が聡の前に置いた。
「そう。こんなお皿でした。扶美江のお母さんは、先にこのお皿だけを持って来て……」聡は懐かしそうにケーキ皿を手に取った。
「そのあとから、紙ナプキンに包んだんを持って来て、お皿に二本載せはった」油が染みた白い紙ナプキンから、春巻らしきものがはみ出ている。
「思いだしました。これです。こんな感じでした」皿を持ち上げて、聡はためつすがめつ眺めまわしている。
「どうぞごゆっくり」
流とこいしは連れ立って厨房に戻って行った。
聡は急いで紙ナプキンを開いて、小さく声をあげた。
春巻ではなかったのだ。
薄切りのパンを丸めて揚げたものである。横から見ると中に具が詰めこんである。こんなだったか。少なからぬ疑問を抱きながら、紙ナプキンごとつまんでみた。
そうだ。これだ。この感触だ。記憶がよみがえってきて、すぐにかじりついた。
十センチほどのロールの半分くらいが口に入っている。歯型の付いた切り口を見つめながら味わうと、疑問は確信に変わった。
春巻だと思いこんでいたが、パン巻きだったのだ。中の具もてっきり海え老びだと思っていたが、どうやら魚のすり身のようだ。つまりは天ぷらの一種だったのか。
残った半分を食べると、海風が吹いてくるような気がした。思っていた以上に濃い塩味が付いている。あっという間に食べ終えて、二本目を手に取った。
──葉山くんは船が好きやないん?──
扶美江の声が聞こえてきた。
──そんなことない。大好きや──
──ほんまかなぁ。さっきから船が通っても、ぜんぜん見とらんよ────ほんなことないて言うとるやん──
造船会社に勤める父の影響なのか、扶美江の船好きは尋常ではなかった。次々に海を行き交う船を指さしながら、その船の種類と大きさを扶美江は言い当てていた。
さほど興味を持っていなかった聡だが、それ以来船好きになったのである。
気が付けば、二本目も食べ終えていた。
「どないです。こんなんでしたか?」
流がうしろに立った。
「まったくおなじものです。僕が勘違いをしていました。春巻ではなくパン巻きだったんですね」
「そうみたいですな。あなたが子どものころに、扶美江はんのお母さんがおやつに出してはったんは、間違いのうこれやと思います」
「よく捜しだしていただきました。で、扶美江はやっぱり今も長崎に?」聡が勢い込んで訊いた。
「らしいですわ」
流が声を落とした。
「らしい? らしいってどういうことですか。扶美江に会って、これを訊きだしてもらったんじゃないんですか」
聡は中腰になって語気を強めた。
「座らしてもろてもよろしいかいな」
回り込んだ流は、聡と向かい合った。
「どうぞ。詳しい話を聞かせてください」
うつろな目をして聡が椅子を奨めた。
「長崎に行ってきました。扶美江はんのお父さんが勤めてはった造船会社は、今も長崎にありました。尾道の支社のほうは閉鎖になったみたいですけどな。木元さんという方は退職されて、社宅は出はったんやが、すぐに亡くならはったみたいで、ご遺族がその近所に家を建てて住んではるらしいということでした」流がタブレットをテーブルに置き、地図アプリを開いていると、こいしがふたりに茶を運んできた。
「大きい造船会社でしてな、ピーク時には十カ所、今も五カ所も社宅になってるマンションがあるんですわ。そのうちのひとつに当たりを付けたんは、葉山はんが蛍を覚えてはったからです。ここに蛍ほたる茶ぢゃ屋やという駅名がありますやろ」流が地図を指さしたまま、タブレットの向きを変えた。
「駅名だったんですか。実際に蛍が出るのかと思っていました」「駅名になっとるぐらいやさかい、むかしは蛍が居おったんでしょうな。扶美江はんが住んではるころは、どうやったか分かりまへんけど」「この辺に扶美江の家があるんですね」
聡はタブレットに覆いかぶさるように目を近づけた。
「正確に言うと、家やのうて店ですわ」
「店? 扶美江はお店をやっているんですか?」顔を上げて聡が訊いた。
「扶美江はんて言うより、お母さんのほうです。お菓子の教室をしてはったぐらい、お菓子作りが好きやったお母さんやったら、きっとお店をやりたがらはるんやないかと思いましてな」
「そう言えば扶美江もそんなことを言ってたような記憶がかすかにあります」「ここに蛍茶屋の停留所がありますやろ。このすぐ北側にあるマンションを、社宅として会社が借り上げてはったんです。おそらくこの社宅に扶美江はん一家は、長崎に戻ってからも住んではった。となるとお知り合いもようけやはる、この辺りの家に住みながら、お店をやってはるやろと思いました」
「よくそんな発想が浮かびますね。僕にはとても」聡が何度もかぶりを振った。
「お父ちゃんは元刑事やさかい」
聡の耳元でこいしがささやいた。
「こいし、余計なこと言わんでええ」
られてこいしが舌をぺろりと出した。
「道理で。凡人では無理ですよ」
聡が大きくうなずいた。
「自慢にもなんにもなりまへん。むかしの仕事が染み付いとるだけですわ」「お店を開いてたとして、どうやって捜すんですか。雲をつかむような話ですよね」「目星を付けるのは屋号ですわ。店の屋号っちゅうもんには、その主人なり、家族なりの強い思い入れが表れるもんです。これまでもそれがヒントになったことは何べんもありますんや」
流の言葉に、こいしは嬉しそうにうなずいている。
「そう言えば僕も店を開くときに、どんな名前にするかずいぶん悩みました。船にちなんだ店なのと、ここで錨いかりをおろして動かないという意味を込めて『アンカー』にしたんです」
「そうですやろ。人間てそういうもんなんですわ。扶美江はんか、お母さんがお店しはるとなったら、好きなお菓子の名前か、思い入れのある地名か、それとも自分らの名前か、なんぞのつながりがある屋号にしはるはずや。そう思うて長崎近辺のお菓子屋はんを、片っ端から当たってみましたんや」
「なんだか犯人を捜す刑事さんみたいですね」「でしょ?」
こいしが誇らしげに鼻を高くした。
「そうして行き当たったんがこの店ですわ」
流がディスプレイを指でタップすると、カフェらしき店が映しだされた。
「『ウタノシマ』と読めますが……」
聡が不審そうに首をかしげた。
「ピンと来まへんか?」
「ウタノシマ。聞いたことないですね」
「扶美江はんのお母さんは、歴史の先生してはったていうのがヒントになりました。扶美江はんが引っ越して来はった島、向島は平安時代に〈宇多乃之萬〉という字を書いて、ウタノシマと呼ばれてたんやそうです。和歌が盛んに詠まれたとこらしいですな」「お恥ずかしい話ですが、生まれ育った島なのに、そのことはまったく知りませんでした」
「向島に今住んではる人も、あんまりご存じないんやろけど、歴史に詳しい人は知ってはるんでしょうな。ひょっとすると扶美江はんが懐かしんで付けはったんかもしれまへん」「それでこの店に、今も扶美江は居るんですか」聡が気ぜわしく訊いた。
「順を追うてお話ししまっさかい」
流がたしなめた。
「すみません」
「蛍茶屋の電停から北へ、坂道を十分ほど上って行った住宅街に『ウタノシマ』がありました。看板がなかったら民家やと思うて通り過ぎるような、控えめな店構えです」ディスプレイを指でなぞり、流が写真を順に見せている。
「この辺はなんとなく尾道の街に似ています。細い坂道が曲がりくねっていて」聡が目を細めた。
「情緒はあるけど、実際に暮らすのは大変やろなぁ。バリアフリーとはほど遠い感じやし」
こいしが横から覗きこんだ。
「そういう意味では向島は暮らしやすいところでしたね。うちのギャラリーは尾道の狭い坂道に建っているので、毎日大変なんですよ」「扶美江はんのお母さん、民たみ子こはんは今年、米寿を迎えはるんやそうでっけど、車椅子どころか杖つえも突かんと、さっそうと歩いてはりました」民子が店の前に立つ姿を流が見せた。
「あのころとあんまり変わってないように見えますけど、本当に最近の写真なんですか?」
聡はディスプレイをじっと見つめている。
「わしもお歳を聞いてびっくりしました。七十過ぎくらいにしか見えしません。この『ウタノシマ』というカフェの名物が、さっき食べてもろた春巻です。いや、正確に言うと春巻やなかった。そのことはあとで話します。客はわしひとりやったもんで、屋号の由来やらを訊いてるうちに、すっかり話しこんでしまいましてな。この店をはじめはった切っ掛けやら、いろいろ聞かせてもらいました」
「お母さんがひとりでやっておられるんですか」聡がおそるおそる訊いた。
「このお店をはじめはったころは、扶美江はんと民子はんがふたりでやってはったんやそうです。お菓子を作るのは民子はんで、接客は扶美江はん。観光地でもなんでもない、辺へん鄙ぴな場所やさかい、常連客だけで、雑誌やらの取材も断ってはったらしいです」「扶美江はどこかへ行ってしまったんですね」聡が深いため息をついた。
「広いおうちでして、一階の道路に面した部屋がお店になってて、奥のほうと二階が住まいになってるんやそうです。お会いできまへんでしたけど、扶美江はんはこの家に民子はんとふたりで住んではります」
ふたりの名前が書かれた表札の写真が、ディスプレイに映しだされると、聡は食い入るように見つめた。
「ここに住んではいるけど、扶美江は店には出ていない。どうしてなんですか?」聡が顔を上げた。
「こういう土地でっさかい、足の悪いお年寄りは来にくおすやろ? そういう人らのために、扶美江はんは近所に出前っちゅうか、配達をしてはったんやそうです。配達料も取らんと、相手によっては家に上がってお茶まで淹れたりしてはったんで、評判やったそうです。ところが四年前の冬、配達してはるときに坂道でこけてしもて、大けがしてしまわはりましたんや。こんな坂道やさかい、なかなか途中で止まりまへんわなぁ。一命は取りとめはったけど、自由の利かん身体になってしまわはったんやそうです」「そうだったんですか」
聡ががっくりと肩を落とした。
「意識はしっかりしてはって、聞いたり話したりは、そこそこできるけど、手足のほうはさっぱりやと」
「お気の毒に」
こいしの言葉は扶美江に向けてか、それとも聡に向けたものかは判別できなかった。
「扶美江はんはひとりっ子なんやそうで、民子はんのほかに世話をする身内はおらんみたいです。自分が死んだら扶美江の面倒をみるもんがおらん。そんな気持ちでやはるさかい、民子はんは若わこぅ見えますんやろなぁ」「そういうことでしたか」
思ってもみなかった事態に、聡は自分の気持ちを整理できずにいる。
生きていること。独身であること。そのふたつはよい知らせだったが、身体が不自由だということは想定外だった。
しばらく沈黙が続いたあと、流が重い口を開いた。
「今食べてもろたパン巻きでっけど、あれはハトシロールっちゅうて、長崎の郷土料理なんですわ」
「ちっとも知りませんでした」
「明治時代に中国から伝わった、卓しっ袱ぽく料理のひとつらしいんですが、たいていはパンを四つに切った四角い形をしてて、ハトシて言いますんや。それをロールにしたんがハトシロールっちゅうことです」
「それでようやく腑ふに落ちました。てっきり僕のために作ってくれたものだと思いこんでいました。扶美江は、サトシじゃなくて、ハトシって言ってたんですね」聡が苦笑いした。
「ほんまはハトシは海老を使うみたいやけど、民子はんはアジをすり身にしてはりました。むかしからこのやり方してるて言うてはったんで、葉山はんが子どものときに食べてはったんも、たぶんおんなじやと思います。パンは市販の食パンで、サンドイッチ用の十二枚切りを使うてはりました。叩たたいてすったアジに塩胡椒して、ちょこっとだけマヨネーズと醬油を混ぜるんやそうです。そして薄切りパンにアジのすり身を塗って、くるっと巻いて揚げる。そない難しいレシピやおへんけど、いちおう作り方は書いときました」流がファイルケースを聡に手わたした。
「ありがとうございます」
表情をなくしたまま受け取って、聡はゆっくりと頭を下げた。
「わしも知らんかったんでっけど、長崎では旨いアジが獲とれるんやそうです。〈ごんあじ〉やとか〈野の母もんあじ〉っちゅうブランドアジもありました。それもあって民子はんは海老やのうてアジを使うてはったんやと思います。ハトシっちゅう料理も知らなんだし、長崎の食いもんをもうちょっと勉強せなあかんなぁと思うてますねん」「もっと長崎のことを、扶美江に訊いておけばよかった」聡が悔しそうに唇を嚙んだ。
「ハトシロールとハトシ。ようけ作ったんで持って帰ってください」こいしが紙袋を差しだした。
「いい匂いがする。あのときの扶美江の家と一緒だ」受け取って聡が鼻を鳴らした。
「『ウタノシマ』の住所と電話番号を書いたメモも一緒に入れときました」こいしが聡の手元を指した。
「何から何まで。ほんとうにありがとうございます。この前の食事代と併せてお支払いを」
聡が財布を取りだした。
「うちはとくに金額を決めてません。お気持ちに見合うた分をこの口座に振り込んでください」
折りたたんだメモをこいしがわたした。
「承知しました」
聡はそれを財布に仕舞い、身支度を整えて店の外に出た。
「お気を付けて」
こいしと流は聡を見送りに出た。
「ひとつお訊きしたいのですが」
聡が背筋を伸ばした。
「なんですやろ?」
「扶美江が大けがをしたのは四年前とおっしゃいましたね。いつごろだったか、聞いておられますか?」
「お正月明けに九州を強い寒波が襲うたときやて言うてはったと思います」「四年前の正月明け……ですか」
聡が霞かすみがかった空を仰いだ。
「春が近づいとる空ですなぁ」
横に立って、流がおなじ空に目を向けた。
「あともうひとつお訊きしたいんですが、京都に美味しいカステラ屋さんってありますか?」
「うちが好きなんは千本今出川にある『越えち後ご家や多た齢れい堂どう』さん。子どものときから食べてるけど美味しいですよ」
「この近所がよかったら、『亀かめ屋や陸む奥つ』はんの〈松まつ風かぜ〉っちゅう和風カステラも旨いでっせ。堀川七条やさかい歩いて行けます」「分かりました。両方行ってみます。ありがとうございました」「ご安全に」
流が一礼すると、こいしがそれに続いた。
「お世話になりました」
聡が頭を下げてから、正面通を西に向かって歩きだした。
「葉山はん」
流の呼びかけに聡が足を止めて振り向いた。
「縁はだいじにしなはれや」
聡がこっくりとうなずいた。
紙袋を振りながら聡は小走りになって去って行った。
見送って店に戻るなり、こいしがパイプ椅子に座りこんだ。
「ホッとしたていうか、なんや気が抜けてしもうたわ」「わしらは食を捜すのが仕事で、そのあとのことは関係ないて言うもんの、やっぱり気になるわなぁ」
流が隣に座った。
「扶美江さんの話をしても、あんまり驚かはらへんかったし、どう思うてはるのか分からへんかったからハラハラしたわ。身体が不自由やて聞いてあきらめはるのと違うやろか、て」
「カステラの話出さはってホッとしたな」
ふたりは顔を見合わせて微笑ほほえんだ。
「こういうのも因縁て言うん?」
こいしが訊いた。
「そやなぁ。離婚しはったんと、ほとんどおんなじ時期に大けがしはった言うのは、因縁やろなぁ」
「聡さんと再会して、奇跡的に治るっていうこともあるかもしれんな」「神さんはちゃんと見てはるはずや」
流が仏壇の前に座った。
「お母ちゃんにも頼んどかんとな。扶美江さんがようならはるように」流のうしろに座って、こいしが手を合わせた。
「なんでもかんでもわたしに頼まんといて、て掬子が言いよるんと違うか」苦笑いしながら流が線香を供えた。
「お母ちゃんがそんな水臭いこと言わはるかいな。よっしゃ、わたしにまかしとき、て言うてはるわ」
こいしがそっと目を閉じた。