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第七卷 第三話 チキンライス 1_鴨川食堂(鸭川食堂)_日语阅读_日语学习网

时间: 2024-10-24    作者: destoon    进入日语论坛
核心提示:  1  JR京都駅の十四番ホームに降り立った市いち橋はし香か織おりは、小さく身震いした。  東京を出るときは蒸し暑ささ
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  JR京都駅の十四番ホームに降り立った市いち橋はし香か織おりは、小さく身震いした。
  東京を出るときは蒸し暑ささえ感じていたのが、京都に着いたとたん空気が秋に変わっていた。
  ベージュのパンツにァ£ーブ色のシャツを合わせ、紺色のジャケットを羽織った香織は、ホームからコンコースへ降りるエスカレーターに乗ろうとして、右か左のどちらに立つか迷い、二段ほどやり過ごした。
  東京だと無意識に左側に立つのだが、関西は左を空けて右に立つのが一般的だ。そう香織に教えたのは、桑くわ野の毅たけ彦ひこだった。二年後には四十歳を迎える香織にとって、これまでにただひとり恋人と呼んだ男性である。
  毅彦を人生最初で最後の恋人にしようと固く心に決めて、この秋でちょうど十五年になるのだが、香織の決意は夏の陽炎かげろうのように、ゆらゆらと揺らぎはじめている。その揺らぎを止めることができるのは、あのひと皿の料理だけだと思って京都にやってきた。
  JR京都駅の中央口を出た香織は、烏丸通をまっすぐ北に向かって歩く。京都タワーの辺りは十五年前とまったく景色が違っているようで、しかし何も変わっていないのかもしれない。
  京都に限ったことではない。東京の街を歩いていても、あのころはぴったり寄り添う毅彦の顔しか見ていなかったのだから、街並みなどほとんど記憶に残っていない。
  ──食捜します 鴨川探偵事務所──
  たった一行だけの雑誌広告を見て、蜘く蛛もの糸を見つけたような気になった香織は、ネットの情報をつぶさに検索して、なんとかそれらしき場所をさぐりあてた。表向きは食堂のようだが、そこには暖の簾れんはおろか、表札も看板も出ていないそうだから、どうすればたどり着けるのか。不安は山のように積もっている。
  ネットの情報なんて信用できないとも思うが、今はそれに頼るしかない。香織は七条通を越え、正面通を東に折れた。
  『東本願寺』が近いせいか、仏具屋や法ほう衣いを商う店、仏壇屋などが建ち並んでいるものの、それらしき建物は見当たらない。探偵事務所はおろか、食堂らしき店もまったく見当たらない。
  香織は正面通の両側を一軒一軒覗のぞきこんでは首をかしげ、少しずつ東に歩を進めていく。
  両側を数えて十数軒目だろうか。一軒のしもたやの前で、香織の足がぴたりと止まった。
  何ひとつ目印はないが、この家のまわりには食べ物の香りが漂っている。もちろん、ふつうの民家で、ただ食事の支度をしているだけかもしれない。もし間違いだったとしても、謝れば済むことだ。半信半疑ながら、香織は思い切って、引き戸をがらがらと引いた。
  「こんにちは」
  がらんとした家のなかに香織の声がこだまする。
  カウンター席らしきものがあり、テーブル席も並んでいる。客の姿こそ見当たらないが間違いなくここは食堂だろう。そしてこの店の奥にはきっと『鴨川探偵事務所』がある。
  そう思うと香織の胸の鼓動は高まった。
  自分の声のこだまが消えてすぐ、似たようなトーンの声が奥から返ってきた。
  「おいでやす。ちょっと待ってくださいね」
  背伸びして覗きこめば厨ちゅう房ぼうがあり、料理を仕込んでいるのか、鍋から湯気が出ていて、出だ汁しの香りも漂ってくる。
  東京の下町には、こんな居酒屋もよくある。高級割かっ烹ぽう店の対極にあるような、場末の居酒屋だけど、知る人ぞ知る店とあって、よほどの常連客でないと門前払いを食らう。そんな店に連れて行ってくれたのも毅彦だった。
  「お待たせしました。食堂の主人はちょっと留守してますんで、お食事やったらしばらく待ってもらわんとあきませんけど」
  奥から出てきた、白いポロシャツに黒のソムリエエプロンを着けた女性は、香織より五歳ほど若く見える。
  「食事じゃなくて、『鴨川探偵事務所』を捜しているのですが、こちらではありませんか?」
  香織がおそるおそる訊きいた。
  「なんや。探偵のほうやったんですか。『鴨川探偵事務所』やったら、この奥にあります。うちが所長の鴨川こいしです」
  口角を上げて、こいしが小さく会釈した。
  「ということは、食を捜してくださるのはあなたなのですか」香織は不安そうな表情を隠すことなく、上目遣いにこいしの顔を覗いた。
  「心配しはらんでも大丈夫。ほんまに捜すのはお父ちゃんで、うちは聞き役専門ですねんよ」
  「お父さま、ですか」
  香織の不安はまだ消え去っていない。あのことがあってから、なんでも疑ってかかるようになってしまったのだ。
  「この『鴨川食堂』の主人で、うちのお父ちゃん。元刑事やったさかい、どんなもんでも捜すのは得意なんです」
  「そうでしたか。市橋香織と言います。食を捜していただきたくて東京から参りました」元刑事という言葉を聞いて急に声が明るくなった。肩の力を抜いた香織は、笑顔でこいしにあいさつした。
  「香織さん、お腹なかのほうはどうです。空すいてはるようやったら、ちょっと待ってもらえますか? お父ちゃんが帰って来はったら、美お味いしいもん作ってくれはるんで」「ありがとうございます。お昼を食べてないのでお腹も空いてはいるんですが、探偵さんに先にお話を聞いてもらったほうがいいかなと」「そうやねぇ。野菜を仕入れに行ってはるだけやから、そない遅ぅはならへんと思うんやけど、寄り道とかしてはったら、お待たせせんとあきませんしね」「よろしくお願いします」
  香織が頭を下げると、こいしはメモ用紙を広げてペンを手に問いかけた。
  「捜してはる食はちょっと横に置いといて、苦手な食べもんとかあります? アレルギーとか」
  「牡か蠣きがダメなんです。あとムール貝も。それ以外は大丈夫です」「──探偵のほうのお客さん。若い女の人。奥で先に話聞いてます。お腹空かせてはる。牡蠣とムール貝はアカン──と。お父ちゃんが帰って来はって、これ読んだら分かってくれると思います」
  こいしがメモ用紙に走り書きした。
  「それだけで通じるってすごいですね。いつもこんな感じなんですか」「はじめて。いっつもは、先にお父ちゃんが作った料理を食べてもろてから話を聞くんで」
  「すみません。なんだかイレギュラーなことになってしまったみたいで」「気にせんといてください。たまにはこんなんも気分が変わってええと思います。どうぞ奥のほうへ」
  厨房を横目にして、こいしが長い廊下を歩きだし、香織はあわててそのあとを追った。
  「このお写真は?」
  廊下の両側にびっしり貼られた料理写真に目を近づけて、香織の足が止まった。
  「ほとんどぜんぶお父ちゃんが作らはったんですよ。レシピを書くのが面倒くさい言うて、写真で残してはるんです」
  振り向いたこいしは誇らしげに胸を張った。
  「さっき、お父さまは元刑事だとおっしゃいましたよね」「ええ」
  「刑事をしておられて、こんな料理も作ってられたんですか?」「まぁ、いろいろあるんですわ。それはええとして、まずは捜してはる食のことをお訊きせんと。ここが『鴨川探偵事務所』です。どうぞおはいりください」廊下の突き当たりまで来たこいしは、ドアを開けて香織を招き入れた。
  ジャケットを脱いだ香織は、ローテーブルをはさみ、こいしと向かい合ってロングソファに腰かけ、部屋のなかをぐるりと見まわしている。
  「香織さん。いちおうこちらに記入してもらえますか。簡単でええので」こいしがローテーブルにバインダーを置くと、素早く手に取った香織は、揃そろえた両膝の上に置いて、すらすらとペンを走らせている。
  「お茶かコーヒーか、どっちがよろしい?」
  「お茶をいただきます」
  ペンを持ったままで香織が答えた。
  万古焼の急須にポットからお湯を注つぎ、しばらく茶葉を蒸らす。急須のふたに手を置いたまま、こいしは香織の様子を横目でうかがっている。
  「これでよろしいでしょうか」
  書き終えて、香織がバインダーの向きを変え、ローテーブルに置いた。
  「ありがとうございます」
  バインダーに目を落としながら、こいしが京焼の湯ゆ吞のみを茶ちゃ托たくに載せて香織の前に置いた。
  「さすが京都ですね。いい香りがする」
  湯吞を手にした香織が鼻先に近づけた。
  「市橋香織さん。三十八歳。独身。東京都渋谷区のスポーツウェアのお店にお勤め。お住まいは都内北区赤あか羽ばね台だい。て、どの辺のことなんです? 渋谷はなんとなく分かりますけど、東京は広いさかい、赤羽台て見当も付きませんわ」まずはどんなところに住んでいるのか。それを知ることがひとつの手がかりになる。これまでの経験でそれを知ったこいしは、タブレットを操作して地図アプリを開いた。
  「大ざっぱに言えば、東京都の北のはずれ。赤羽から荒川を越えれば、もうそこは埼玉。
  わたしの故郷なんです」
  たしかにすぐ北に県境があるから、東京都の一番北の端。香織の生まれが埼玉だということも頭に入れた。
  「早速ですけど、どんな食を捜してはるんですか」バインダーの横にあったノートを広げたこいしは、香織とまっすぐ向き合った。
  「チキンライスです」
  「えらいかわいらしい料理を捜してはるんですね。子どものときの思い出か何かですか」ァ∴ライスを食べることはあっても、チキンライスを食べることはめったにない。こいしは記憶の糸をたぐり、掬子がお弁当に作ってくれた、グリンピースだらけのそれを思いだした。
  「いえ。今から十五年ほど前に、中華料理屋さんで食べたチキンライスです」「東京では中華料理屋さんにチキンライスがあるんですか」開いたノートの綴とじ目を押さえながら、こいしは目を見開いた。
  「メニューには載ってないのを、お店のおばちゃんがわたしのためにわざわざ作ってくれたんです。以前に好物を訊かれて、チキンライスって答えたのを、おばちゃんが覚えていてくれたのだと思います」
  「リクエストしはったということですか?」
  「いえ。何も言わずに今日はこれを食べなさいと言って」「なんや不思議な話ですね。詳しいに聞かせてもろてもよろしいか」こいしがペンをかまえた。
  「東京に出てきて、ひとり暮らしをはじめてから夜はほとんど毎日外食でした。仕事を終えてアパートへ帰るまえに、駅の近くのお店で食べて帰るというパターンで、お気に入りの店を順番に回っていました。そのなかの一軒が隣の駅前にある中華屋さんで、何を食べても安くて美味しいのにいつもヒマそうな店でした。酢豚とか、天テン津シン飯ハンとか、甘酸っぱい料理が好きで、たいていそれを頼んでました。ひとりで切り盛りしているお店のおばちゃんは、かならず話しかけてくれたので、いつしかわたしも身の上話をするようになってました」
  「恋バナとか?」
  「はい。上司の愚痴とか、仕事の悩みとか、おばちゃんは聞きじょうずなので、包み隠さずなんでも話してました。母親代わりっていうところでしたね」「京都でもそういうおばちゃん、ようやはりますわ」こいしはノートにそれらしき女性のイラストを描いている。
  「おせじにもきれいとは言えない店でしたけど、思い切って恋人を連れて行ったんです。
  わたしはこういうお店の料理が好きだと彼に伝えたかったのと、結婚しようと思っていた相手だったので、おばちゃんに紹介しておきたかったんです」「ほんまのお母さん以上の存在やったんかもしれませんね」「はい。おばちゃんもすごく喜んでくれて、彼のことも気に入ってくれたようでした」「よかったですやん。次はほんまのお母さんの番やね」「そう思っていた矢先のことです。それから三日ほどが経たってお店に行き、いつものように注文しようとしたらおばちゃんが、今日はチキンライスを作るからそれを食べなさいと言ったんです。もちろんメニューにも載ってませんし、びっくりしたんですが、断る理由もありませんし、いただくことにしました」こいしはチキンライスらしきイラストをノートに描いている。
  「なんでその日に香織さんの好物のチキンライスを作らはったんやろ」「それがいまだに分からないんです」
  「そのおばちゃんに訊いてみはったらよろしいやん」「それからお店に行かなくなってしまったので」「なんでです? 料理も気に入ってはって、お母さん代わりのおばちゃんがやはって、恋人まで紹介するぐらい親しいしてはったのに。おばちゃんと喧けん嘩かでもしはったんですか?」
  「喧嘩って言うより、一方的におばちゃんから責められたんです。なぜあんな男を選んだのか、とか、早く別れたほうがいい、とか」
  「いきなりですか?」
  「そう。いきなりだったんで、ただただびっくりしてしまって。チキンライスが出てきて食べはじめたら、唐突に言いだされて気が動転してしまいました」香織が顔をゆがめた。
  「彼と一緒にお店へ行かはったときに何かありましたか? おばちゃんともめはったとか」
  「とんでもない。帰るときは店の外までわざわざ出てきて見送ってくれたぐらいです。食事中も、しあわせにしてやりなさいね、と彼に言ってましたし」「それで三日後にいきなり、ですか。たしかになぞやねぇ」こいしはノートにクエスチョンマークを書き並べた。
  「半年ほどの付き合いでしたけど、彼とはお互いに結婚するつもりでいましたから、すごいショックを受けて、半分も食べずにすぐ席を立ちました。食事代を払うと言ったんですが、自分が勝手に作って出したんだから要いらない、とおばちゃんが言い張ったので、結局払わずにお店を出ました。まさかそんなことを言われるなんて、思ってもいなかったので呆ぼう然ぜんとしてしまって、どうやって家に帰ったか覚えていないほどでした」「お気持ちはようよう分かりますわ。結婚しようとまで思うてはった相手やのに、いきなり早はよぅ別れなさいて言われてショックを受けへん人間はいませんわ。けど、なんでそんなことを言いださはったんやろ。何かその理由を言うてはりました?」「もちろん訊きましたよ。なぜ? って。そしたら何も言わないんです。あなたにはふさわしくない相手だ、その一点張りで」
  「それではらちが明きませんわね」
  「次の日は少し冷静になれたので、お店に行っておばちゃんの話を聞こうと思ったんですが、なんとなく怖くなって、結局それ以来お店に行くことはありませんでした」「怖いっていうのは?」
  「そんなことは絶対ないと思っていましたけど、彼のことで何か根拠があっておばちゃんが反対したのだとすれば……。万にひとつ、もしもそんなことがあったとしても聞きたくないと思いました」
  「それぐらい好きやったし、相手の男性を信頼してはったんやね」こいしがそう言うと香織はこっくりとうなずいた。
  こいしには、ひとごととは思えなかった。
  いつか誰かと結婚することになるのか。一生このままの暮らしを続けていくのか。先々のことは分からないが、いずれにせよ結論は自分で出したいと思っている。周りからとやかく言われたくない。結婚するとしても、相手も自分で決める。
  「そのお店は今もあるんですか?」
  こいしは話の向きを変えた。
  「もうありません」
  「お店の名前とかは覚えてはります?」
  「『南なん海かい飯店』っていうお店で、十条駅のすぐ近く、十条銀座のなかにありました」
  こいしはペンを走らせた。
  「東京にも十条ていう駅があるんですね。はじめて聞きましたわ。どの辺ですか」こいしがタブレットを香織に向けた。
  「ここが赤羽で、少し南にあるのが十条の駅です。駅前ののんびりした雰囲気が好きだったので、仕事場のある渋谷から赤羽に帰る途中、よく寄り道してたんです。『南海飯店』は十条銀座に入ってすぐ、そう、この辺にありました」ディスプレイをなぞっていた香織の指が止まった。
  「えらい遠いとこまで大変ですねぇ」
  言いながら、こいしがノートにメモした。
  「地図で見るとけっこう離れているみたいですけど、埼京線の快速に乗れば、渋谷から赤羽までは二十分ほどですし、十条だと十五分くらいなんです」「それやったらいいですね。京都に住んでると、電車で移動する距離感がよう分からへんのですわ。京都の地下鉄ていっつも空いてますけど、東京の通勤電車てたいへんなんでしょ? テレビとかで見てたらたいていすし詰め状態みたいやし」「はい。でもそんな満員電車から降りてしばらく歩くと、店の明かりが見えてくる。おばちゃんのお店はァ、シスのような存在だったのです」香織は笑っているのか、怒っているのか、どちらとも判別できないような表情を浮かべている。
  「肝心のチキンライスですけど、どんなんでした? ケチャップ味のふつうのチキンライスでしたか? それともなにか変わったもんが入ってたとか? 中華ふうのチキンライスでした?」
  こいしが矢継ぎ早に訊いた。
  「それがよく覚えていないんです。食べはじめたときにいきなり言いだされたので、味わう余裕なんてありません。頭が真っ白になってしまっていて」「そらそうですよねぇ。そんな話を聞かされながら冷静に味わって食べられるわけないわ」
  「ただひとつだけ記憶に残っているのは、ふつうのチキンライスみたいに赤くなかったことです。ほんのり赤いというか、どっちかっていうとピンクに近かったような気がします。と言ってもおぼろげな記憶ですけど」
  「ピンクのチキンライスかぁ。なんか美味しそうな気がします。味なんかは覚えてはりませんよねぇ」
  「はっきりとは覚えていないんですが、わたしの好物のチキンライスとはぜんぜん違う味でした。かすかに甘酸っぱい味がしたような気もします。あとは鶏とり肉がごろごろとたくさん入っていたかなぁ。それぐらいしか覚えてなくて」香織が天井をぼんやりと見つめている。
  「うちもチキンライスは好きやけど、お肉はこま切れがちょこっと入ってるぐらいで、あとはタマネギとかグリンピースとかばっかりていう印象ですわ。お肉がごろごろ入ってるチキンライスなんて一回も食べたことない」
  「ふつうはそうですよね。おばちゃんは中華料理しか作ったことがないから、チキンライスがどういうものか分からなかったんじゃないでしょうかね」「街の中華料理屋さんて、おじさんが作ってはるもんやと思うてました。おばちゃんて珍しないですか?」
  「おばちゃんの身の上話も聞かされてたんですが、子どものころに中国から移住してきたらしいんです。最初は和歌山に住んでたのが、両親が離婚してから東京へ働きに出てきて、中華料理屋さんのご主人と結婚したんだけど、五年ほどで別れてしまって、自分で店をやるようになった。そう言ってました」
  「中国から来てはったんか。苦労してはったんやなぁ、おばちゃん」「苦労話はあんまり好きじゃなかったみたいで、愉たのしかった思い出ばかり話してくれてました。和歌山の紀きノ川で泳いでいて溺れかけた話とか、別れたご主人が酔っぱらって、裸で歩道橋で寝てしまい警察に連れていかれた話とか、ユーモアたっぷりに話してくれるから、お腹の皮がよじれるほど笑いこけて」香織は当時を思いだして目を細めている。
  「ええおばちゃんやないですか。もう一回話をしはったらよかったのに」最初に香織が話しだしたときから、こいしのなかで少しずつ印象が変わっていった。世話焼きおばさんにありがちな、余計な口出しかと思っていたが、どうやらそうではなさそうだ。
  「今も独身やていうことは、当時恋人やった、そのお相手とはうまくいかへんかったんですよね。そこのところも聞かせてもろてもよろしい?」こいしが遠慮がちに訊いた。
  「そこもちゃんとお話ししないといけませんよね」口をつぼめた香織がため息をついた。
  「差しつかえのない範囲でいいですし」
  こいしはノートを繰って、綴じ目を手のひらで押さえた。
  「埼玉の大学を出てすぐ、東京に住むようになりました。今とおなじところです。勤め先は今の店と違って渋谷の大きなデパートでした。最初に配属されたのが紳士服の売り場で、彼とはそこで知り合いました」
  「同僚やったんですか?」
  「いえ。お客さんです」
  「お客さんにナンパされはった?」
  「まぁ、そうなりますね。ネクタイの柄を選んでくれと頼まれて、奨すすめたらシャツも一緒に買ってくれて。いいお客さんだなぁと思っていたら、次の日もまたベストを買いに来てくれて。一度お茶でもと誘われたんです」「それからお付き合いがはじまった。見初められたいうことですね。どんな人やったんやろ。写真とか残ってへんのですか?」
  「いつか削除しなきゃと思いながら、なかなか消すことができなくて」遠慮がちなようで、誇らしげにも見える様子で、香織がスマートフォンの画面を見せた。
  「絵に描いたようなイケメンさんですやん。ええスーツ着てはるけど、お仕事は何を?」「そのころIT関係の仕事をはじめたばかりでした」香織の目が輝いた。
  「完璧にツボですね。イケメンでIT関係の仕事ていうたら、女優さんらの憧れですやんか」
  こいしはノートにイラストを描きつけている。
  「正直わたしにはよく分かりませんでしたが、会うたびにいっぱい夢を語っていました」「うちも実はよう分かりませんねん。そもそもITて何なん? てお父ちゃんに訊いたら、インフォメーション?テクノロジーの略や、て言われて、よけい分からんようになりましたわ」
  こいしにつられて香織も笑ったが、そのあとは急に黙りこくってしまった。
  「続きを聞かせてもろてもよろしい?」
  しばらく沈黙が続いたあと、上目遣いに香織の顔を覗きこんで、こいしが口を開いた。
  「付き合いはじめたころは夢中でした。素敵な男性と出会えたねと同僚や友人にもうらやましがられてました。でも、正直に言うと少し疑っていたんです。こんな男の人なら、それこそ女優さんだとかモデルさんなんかと付き合っててもおかしくないし、なんでわたしなんかと、とも思いました」
  「そう言われたらそうかもしれませんけど、香織さんかて充分魅力的な女性ですやん。彼はきっとそこまで見抜いてはったんやと思いますよ」「ありがとうございます。友だちもそう言ってくれてたのですが、やっぱりどこか心の片隅では疑っていました。そんなときに、完全に疑いを払しょくするできごとがあったんです」
  香織はお茶を飲んでひと息入れてから続ける。
  「イタリア料理のお店でデートをした帰り路みちでした。わたしを送るのに渋谷駅に向かって歩いているときに、道端でしゃがみこんでいるおじいさんを彼が見つけて声を掛けたんです。ご気分が悪いんですか、と。そしたらそのおじいさんが言うには、財布をすられて困っている、家に帰れないということでした。気の毒に途方に暮れてましたが、彼はためらうことなく自分の財布から十万円ほどのお札を無造作につかんで、おじいさんにわたしたんです。おじいさんは涙を流さんばかりに喜んでましたが、彼はよかったよかったと言って、すぐに立ち去ろうとしたんです。おじいさんは彼に名前を聞かせてくれと言ったのですが、名乗るほどの者でもないと言って、彼はそのままさっさと歩いていきました。ときどきニュースでもそんな話を聞きますが、まさか彼がそんなことをするとは想像もしていなかったので、驚いたのと、それから彼を疑うことをきっぱりやめたんです」「ほんまにかっこええんや。お話を聞いただけで惚ほれてしまいますわ」「それから鎌倉や京都へも一緒に旅行しましたし、週末はかならず彼と一緒に過ごすようになりました。『南海飯店』のおばちゃんから言われたあともまったく変わらないどころか、ますます付き合いは深くなりました。やっぱりあのおばちゃんの言うことに耳を貸さなくてよかった、そう思っていました。おばちゃんから言われた日からちょうどひと月経ったときでした。彼からお金を貸して欲しいと頼まれたんです」「IT関係の仕事してはったらお金持ちなんと違うんですか」「彼が言うには仕事の規模を拡大するために、買収したい会社があるのだけど、実績がないから銀行が融資してくれない。確実に利益の上がる会社の買収だから、半年後には二倍にして返すから。そう言われて」
  「どんな会社かしらんけど、買収するとなったら、けっこうなお金が要るんと違います?」
  「五千万円必要で、自己資金や友人たちから借りたお金でなんとか四千万集まった。あと一千万なんとかしてくれないかって」
  香織が重い冬空のように顔を曇らせた。
  「い、一千万」
  こいしが声を裏返した。
  「もちろんわたしはそんな大金を持っているわけがありませんし、断ろうと思ったのですが、哀かなしそうな彼の顔を見ると、なんとかしてあげたいという気持ちが勝ってしまったんです」
  「いや、うちもその気持ちは分かりますけどね、けど一千万てはんぱな金額と違いますやんか」
  「倍にして返してくれるからと親を説得して、なんとか工面してもらいました。母親は猛反対したようですが、最後は父が貯金を取り崩してくれて……」最後が涙声になったのは、きっと香織が後悔しているからなのだろう。続きを訊くのは酷なような気もするのだが。
  「親てほんまにありがたいですね」
  こいしの言葉に香織は何度もうなずいた。
  「いつもデートに連れていってくれるお店は、素敵なレストランばかりだったし、ァ》ャレな格好してるので、お金持ちだと信じて疑いませんでした。いえ、お金持ちだから付き合っていたとか、そういう意味じゃありませんよ。でも、お金ってないよりあるほうがいいし、格好が悪いよりは良いほうがいい。その程度のことだったんです。結婚して将来お金で苦労するのは嫌だったけど、大金持ちの奥さんになりたいなんて、これっぽっちも思っていませんでした。そして困った人がいれば平気で自分の有り金をわたしてしまう。
  そんな彼をわたしも見習わなきゃ、そう思ったんです。人から見ればおかしいかもしれませんが」
  香織は自分に言い聞かせるように言葉を並べた。
  「ふつうの感覚やと思いますよ。相手を信じるていうか、信じたいですよね。彼はそれに応えてくれはったんでしょ?」
  こいしの問いかけに、香織はまた口を閉じてしまった。
  二度、三度とため息を繰り返したあと、おもむろに語りはじめた。
  「振込をすると税務上ややこしくなるから現金にしてほしいと頼まれ、デートの場所にお金を持って行きました。そんな大金を手にしたことがないので、真冬なのに汗だくになりました。震える手で紙袋に入れたお金を渡すと、彼はそれを抱えてお手洗いに行きました。たしかめに行ったのでしょう。戻ってきた彼はわたしの手を両手で包みこんで、涙を流しながらお礼を言ってくれました。よかった、わたしはだまされていたんじゃなかった、ともらい泣きしてしまいました」
  「よかったですやん」
  相あい槌づちを打ちながらも、話はこのまま終わらないだろうと、こいしは表情を変えなかった。
  「それからちょうど一週間後でした。彼が夕食をご馳ち走そうすると言って、六本木のお鮨すし屋やさんへ連れて行ってくれました。紹介制らしく芸能人とかがお忍びで来る店だと彼が言ってました。トロやアワビやウニなんかの高そうなお鮨をいっぱい食べて、ワインも飲んで、お勘定はいくらぐらいになるんだろう。ひょっとしてわたしに払わせるんじゃないかと思ってたら、彼がすんなりと現金で払いました。横目で見てた感じでは十数万円だったように思います」
  「東京のお鮨屋さんて高いんですね」
  「ぜんぶが高いわけじゃなくて、そういう接待用の高いお店もあちこちにあるみたいです」
  「ますます安心しはったでしょう」
  「ええ。でも、それだけじゃないんです。帰り際に銀行の封筒を渡されて、中身を見てみると、帯封の付いた百万円の札束でした。これは? って訊いたら、少しでも早く返そうと思って、と彼が言いました。ご両親に迷惑を掛けているから、とも言ってくれました」「えらい人ですやんか。いったん借りたらなかなか返せへんもんやのに」「誰でもそう思いますよね。やっぱり彼は誠実な人だったんだ。そう確信したら、無性にあのおばちゃんに腹が立ってきて。きっと自分が不幸な人生を歩んできたから、やっかんでたんだ。わたしが彼としあわせになるのをねたんでいたんだ。そう思うようになりました」
  「傍はたからみたら、それはちょっと言い過ぎなような気もしますけど、当の本人はそう思うかもしれませんね」
  「わたしって思いこみの強い性た質ちなので、そう決めつけて実行に移しました」香織の目が鋭く光った。
  「実行て? まさか殴りこみをかけたとか?」「まだそのほうがよかったのでしょうね。わたしはもっと陰湿な、ひきょうな手段を使ってしまったんです」
  「いやがらせ?」
  「はい。口コミのグルメサイトに最悪のレビューを投稿したんです。店は不潔だし料理はまずいし、店の主人がおしゃべり好きで、落ち着いて食べられなかった、と」「ほんまにそんなひどい投稿しはったんですか?」こいしが顔をゆがめると、香織は両肩をちぢめて頭を下げた。
  「後から思えば、本当にひどい投稿をしたと思います。でもそのときは、おばちゃんが悪いんだから、これぐらいのことは当然だと思っていましたし、ぎゃふんと言わせたかった」
  「気持ちは分からんことないけど、やったらあかんことやったと思います。もしうちの店がそんなんされたら、と思うただけで胸が痛みますわ。お父ちゃんは気にもしはらへんやろけど」
  「ずっともやもやしていて、夜の眠りも浅くなってしまって、一週間後にようやく決心して投稿を削除したんです。そしてその日の夜でした。彼からメールが来て、海外に出て勝負するから三か月ほど会えなくなるけど、心配しないでくれ、と。うまくいけば二倍にして返すのは三か月後になるかもしれない、とも書いてあったので、本当に良かったなと思ったんです」
  香織の表情が曇っているのは、その後の展開が晴れやかなものでなかったことを表しているのだろう。
  「そこまでは順風満帆ていうことやったんですね」「寂しいけどがんばってね、と返事をしたのですが、彼からは何も返ってきませんでした。そしてそれを最後に連絡が途絶えてしまって、今に至る、です。長々とくだらない話をお聞かせしてすみませんでした」
  香織は吹っ切れたような顔をこいしに向けた。
  予想された結末ではあったが、香織への同情以上に、相手の男性への怒りがふつふつと湧き上がってきた。
  「要するに九百万円だまし取られたていうことですやん。当然警察に被害届を出さはったんでしょ?」
  「わたしは躊ちゅう躇ちょしていたのですが、両親がすぐ警察に被害届を出しました」「で、どうなったんです? お金は返ってきたんですか?」こいしがペンを置いて身を乗りだすと、香織はゆっくりと首を横に振って、深いため息をついた。
  「警察の人の話では、彼はプロの結婚詐欺師だということでした。彼が住んでいたマンションも偽名で借りたウィークリーマンションでしたし、メールのフリーアドレスからも身元を特定できないようになっていて、計画的な犯行だろうと言われました。彼からもらった名刺に書かれていた会社も、もちろん架空のものでした」「香織さんに狙いを定めた犯行やったんですか。気の毒に」「簡単に人を信じてしまったわたしが悪いんです。よくよく考えればお金持ちでイケメンの男性が、わたしに近寄ってくるわけないんですよね。そんなお金持ちだったら、わたしから借りなくても、もっとほかに融資してくれるところがあるはずだ、ってあとから冷静に考えればすぐ分かることなのに」
  香織が悔しそうに唇を嚙かんだ。
  「ひょっとしたら、困ってはったおじいさんにお金をあげはったのも、仕組まれたお芝居やったかもしれませんね」
  「警察の人にもそう言われました。信用させるための典型的な手口だって」「ニュースでもよう聞く話やし、香織さんのお話聞いてても、なんでそこで気が付かへんのやろて思うことがいくつかありますけど、もしも自分がその立場に立ったら絶対だまされへん、てよう言い切れませんわ。自信ない」こいしは偽らざる気持ちをそのまま口にした。
  写真で見る限り、どこからどう見ても人をだますようなタイプには見えない。イケメンとは言っても、自信満々という感じではなく、どことなく頼りなげで、母性本能をくすぐられる男性だ。どことなく浩ひろさんにも似ていることもあって、香織の恋人だった男性が、プロの結婚詐欺師だと聞かされても、こいしはまだ半信半疑だ。
  「それから三年、五年と経っても、まだわたしは、ひょっこり彼が戻ってくるんじゃないかと甘い夢を見ていました。でも七年経って詐欺罪は時効になったと警察のかたから聞かされて、やっと目が覚めたようなおろかなわたしです」「お話はよう分かりました。つらいことやろうに、ようお話ししてくれはりました。けど、なんで今になってそのときのチキンライスを捜してはるんです?」こいしが訊いた。
  「両親には本当に申しわけないことをしたと思って、せめてだまし取られたお金を両親に返そうと必死で貯金をしてきました。十五年掛かりましたけど、なんとか九百万円貯ためることができたので、両親が元気なうちに返そうと思っています。そして二度と恋はしないでおこうと決めていたのですが、先月になって恋人ができたんです」「おめでとうございます。九百万円も貯めるてすごいですやんか。なかなかできひんことやわ」
  「ありがとうございます。なんとしても親に恩返ししないとと思って、歯を食いしばってきましたが、どうにかこうにか親不孝なまま終わらずに済みそうです。十五年は長かったですが、すべては身から出たさび。二度と失敗を繰り返さないようにしなければと思ったときに、どうしてもあのときのチキンライスをもう一度食べたくなって。本当はおばちゃんに会って謝りたいんですが」
  よくあることだ。
  食を捜してほしいという依頼の本音が、人捜しにあるのは当然と言えば当然のことなのだ。
  もう一度食べたい食、すなわちそれを作ってくれた人、あるいは一緒に食べた人ともう一度会いたい。そう願わない人なんかいない。
  「おばちゃんの名前なんか覚えてはりませんよね」「覚えていないどころか、聞いてもいなかったので知らないんです」「そらそやわね。名前聞く必要がないもん。なんかそのおばちゃんに結び付くヒントがあったらええんやけど」
  こいしが腕組みをして白紙のページに目を落とした。
  「ヒントになるかどうか分かりませんけど、おばちゃんの口癖っていうか、しょっちゅうつぶやいていた言葉は、今もはっきり覚えています」「どんな?」
  前のめりになって、こいしがペンをかまえた。
  「──腹の黒いのはなおりゃせぬ──。テレビのニュースやワイドショーを観みていて、おばちゃんはいつもそうつぶやいてました」
  「どうかなぁ。ヒントになるような、ならへんような」こいしが首をかしげた。
  「おばちゃんのことで印象に残っているのは、それぐらいしかなくて」香織が声を落とした。
  「分かりました。お父ちゃんにがんばって捜してもらいます」こいしがノートを閉じると、香織は立ちあがって一礼した。
  ドアを開けた瞬間、美味しそうな匂いが廊下の向こうから漂ってきた。
  「さあ、お父ちゃんはどんな料理を作って待ってはるやろ。愉しみにしててくださいね」自然と早足になるこいしのあとを香織が追いかけた。
  「あと先になってすんまへんでしたな。お腹空きましたやろ」待ちきれないように、食堂との境に掛かる暖簾から鴨川流が顔を覗かせた。
  「いえ、こっちこそ勝手を言って申しわけありませんでした。市橋香織と言います。どうぞよろしくお願いいたします」
  立ちどまって、香織が深く腰を折った。
  「すぐにご用意しまっさかい、ちょっとだけ待っとぉくれやっしゃ」茶色い作さ務む衣えを着て、白い和帽子をかぶった流は小走りで厨房に戻っていった。
  「このお出汁の匂いからすると、和食がメインみたいやな。お酒はどうしはります? よかったら日本酒をお出ししますけど」
  「お酒はあまり強くありませんが、せっかくなので少しだけいただきます」「こんな店やけどゆっくりしていってください」こいしがパイプ椅子を奨めて、厨房に入っていった。
  あらためて店のなかを見まわすと、どこか『南海飯店』に似ている。ビニールシートを張ったパイプ椅子も、神棚のよこに置かれたテレビもおなじ。きれいな店とはいいがたいが、掃除は行き届いていて清潔感がある。
  「ぼちぼち寒ぅなってきましたさかいに、あったかいもんを多めにしました」大きな丸盆に載せて流が運んできた料理からは湯気が上がっている。
  「なんだかすごいご馳走ですね。こんなの見たことありません」「かんたんに料理の説明をさせてもらいます。この小さいふた付き土鍋に入っとるのは牛スジと聖しょう護ご院いん蕪かぶらの煮込み、七味を振って食べてください。これは寒ブリの照り焼き、刻んだ大葉と一緒に召しあがってください。こっちがカニ脚の天ぷら、ショウガ塩で食べてもろたら美味しおす」
  香織の前にひとつずつ並べながら、流が料理に説明を加える。そのたびに香織はうなずいている。
  「この長皿に載ってるのは、左から焼やき鯖さばの小こ袖そで寿ず司し、ウズラのつくね串、鰻う巻まき、フグの白子焼き、蒸し豚の黒ゴマ和あえ、金時ニンジンとチーズのフライです。どれも味が付いてますさかい、そのまま食べてもろたらよろしおす。こっちの白磁の丸皿はグジの細造りと、中トロの平造りを盛り合わせてます。グジのほうは、もみじおろしをようけ混ぜてポン酢で、中トロはワサビを山盛り載せて、ウニ醬じょう油ゆで召しあがってください。お揚げさんの焼いたんは、大根おろしをようけ載せて、ちょこっと醬油をかけてもろたら美味しおす。あとでご飯とおつゆをお持ちしますさかい、ゆっくり食べてください」
  丸盆を小脇にはさんで、流が厨房に戻ると、入れ替わりにこいしが出てきて、日本酒の四合瓶と小ぶりのグラスをテーブルに置いた。
  「埼玉のお生まれやと聞いたんで、こんなんをご用意しました。『鏡かがみ山やま』の純米酒です。ちょっと甘みがあって、けど香りが抑えてありますんで、飲み飽きしません。
  うちが今一番気に入ってるお酒です。お好きなだけグラスに注いで飲んでください」「こんなの一本飲めませんよ」
  「無理に飲んでもらわんでもええんですよ。一杯でも二杯でも。お好きなように」言いおいて、こいしも厨房に入っていき、香織ひとりが食堂に残った。
  何から箸を付ければいいのか迷ってしまう。香織はそうひとりごちた。
  『鏡山』の酒瓶を両手で持って、静かにグラスに注ぐ。コクッコクッと音が鳴り、グラスからふわりと酒の香りが浮かび上がる。なめるようにひと口飲んでから、香織が最初に箸を付けたのはグジの細造りだった。
  白身の魚なのだろうけど、赤みを帯びたピンク色をしていて、口に入れるとねっとりと舌にまとわりつく。もみじおろしの辛みとポン酢の酸味がからんで複雑な味わいを口のなかに広げる。
  カニの脚の身だけを揚げた天ぷらはショウガ塩という聞きなれない塩を付けて食べる。
  カニは何度も食べてきたが、これまで感じたことのない風味だ。それは金時ニンジンのフライもおなじで、ニンジンなんて数えきれないほど食べてきたが、フライにして食べるのははじめてのことだ。ましてやチーズと一緒に味わうなど考えたこともなかったが、なんの抵抗もなく喉を通っていく。
  牛スジの煮込みが、どこか中華っぽい味がするのは、香辛料のせいなのだろうか。白ご飯といっしょに食べたいような気がする。
  グラスの酒を飲みほした香織は、遠慮がちに二杯目を手酌した。
  「どないです。お口に合おうてますかいな」
  流は大ぶりの土瓶と湯吞をテーブルの端に置いた。
  「こんな美味しい料理をいただけるとは夢にも思っていませんでした。どれを食べても本当に美味しいです」
  香織が晴れやかな笑顔で応えた。
  「よろしおした。こいしからちらっと聞いたんやが、チキンライスを捜してはるそうですな」
  流はほうじ茶を土瓶から湯吞に注いだ。
  「はい。東京の中華屋さんでいただいたチキンライスなんです」串に刺したウズラのつくねを食べながら香織が答えた。
  「さいぜん、こいしが聞きそびれたみたいなんやが、その『南海飯店』のおばちゃんを捜しあてることができたら、あなたのことを話してもよろしいか? チキンライスをもういっぺん食べたいと思うてはることを」
  「はい。もちろんです」
  香織は躊躇なく即答した。
  「こいしからざっと聞いたとこでは、どうやらそのおばちゃんのァ£ジナルメニューみたいですさかい、直接聞かんことには分からんように思いますんや。もしお会いしても最低限のことしか言いまへんさかい安心してください」「今日お話ししたことをありのまま伝えていただいても大丈夫です。そうでないと、なぜわたしが今になってもう一度食べたいと思ったのか、お分かりにならないでしょうから」「基本的にうちの探偵事務所は人捜しはしまへんのやけど、今回は特例ということで、まずはそのおばちゃん捜しからはじめることにしますわ」「どうぞよろしくお願いいたします」
  慌てて吞みこんだ香織は、むせながら中腰になって一礼した。
  「お父ちゃん、食べてはる最中に余計な話したらあかんやん。ゆっくり食べてもらえへんでしょう」
  「そやったな。えらい無粋なことしてすんまへんでした。つい気が急せいてしもうたもんやさかい」
  和帽子をとって、流が頭をかいている。
  「いえいえ、こちらのほうがイレギュラーなことをお願いしてしまったのですから」香織はほうじ茶で喉をうるおした。
  「どうぞゆっくり召しあがってください」
  流がまた厨房に戻っていった。
  まだまだ料理はたくさん残っている。香織は自分でも驚くほどの日本酒を飲みながら、順に箸を付けていく。
  さりげなく長皿に盛りつけてあるが、フグの白子焼きなんて超が付くほどの高級料理だ。刺身や鍋はどこでも食べられるが、美味しい白子はめったに出てこない希少な食材だ。銀座のフグ料理専門店へ連れて行ってくれたときに、毅彦がそう教えてくれた。
  そのいっぽうで、ただ油揚げをあぶっただけの質素なものもある。一見アンバランスなようでいて、どれもが美味しいという糸で結ばれている。食通からほど遠いところにいる香織でもそれが分かるところに、この料理のすごさがあるのだろう。
  「どないです。そろそろご飯をお持ちしまひょか」八割がた料理がなくなったころを見計らったように、流が厨房から出てきて香織の傍に立った。
  「お願いします。あんまり料理が美味しいので、ちょっとお酒をいただきすぎたようです」
  言葉どおり香織は顔を真っ赤に染めている。
  「こいし、土鍋ごと持ってきてくれるか」
  流が厨房に声を掛けると、すかさずこいしは両手で持って土鍋を運んできた。
  「炊きたてですさかい、ちょっと蒸らしが足らんかもしれまへん。ゆっくり食べてもろたほうがええ思います」
  流が土鍋のふたを取ると、もうもうと湯気が上がり、甘酸っぱい香りが漂ってきた。
  「チキンライスが好物やてお聞きしたんで、炊きこみご飯にしてみました。具は鶏肉とタマネギとグリンピースだけ。味付けは和風と洋風の真ん中へんですわ」流がしゃもじで土鍋から飯めし茶ぢゃ碗わんによそうと、香織は中腰になって土鍋を覗きこんだ。
  「こんなのはじめて。美味しそうですね」
  「実を言うと、わしもはじめて作りました。急ごしらえやさかい、あんまり自信はおへんのやが、いっぺん召しあがってみてください」流が飯茶碗を香織の前に置くと、こいしがその横に汁しる椀わんを添えた。
  「美味しい」
  ひと口食べるなり、香織が大きく目を見開いた。
  「よろしおした」
  「おつゆはコンソメふうのおすましです。ご飯は土鍋ごと置いときますよって、好きなだけ食べてください」
  こいしと流が厨房に戻っていった。
  なんとも不思議な味だ。たしかにお茶碗によそった炊きこみご飯なのだが、目をつぶって味わうとチキンライスそのものなのである。どういうことなのだろう。不思議に思いながらおすましに口を付けると、またおなじ思いになる。漆のお椀に入っているけれど、味わいはコンソメスープに近い。でもやっぱりおすましだ。まるでマジックを見ているみたい。
  何より驚かされるのはその早業ぶりだ。
  最初に出てきた料理を食べていたのは、わずかに三、四十分のはずだ。そのわずかなあいだにこのご飯を作ったということだ。こいしから話を聞いてすぐに思い付き、調理をはじめて短時間で完成させる。おつゆはともかく、炊きこみご飯のほうはただ炊くだけでもそれぐらいの時間はかかる。
  炊きこみご飯を味わいながら、香織は廊下の両側にびっしり貼られた料理写真を思い浮かべている。あの料理のなかにも、こんなふうに即興で作ったものがいくつかあるのだろう。そしてそれはきっと、限りなく食べる側に思いを、心を寄せているのだ。だからこんなに美味しいものが作れる。
  では、あの『南海飯店』のおばちゃんはどうだったのだろう。香織に心を寄せて、あのチキンライスを作ってくれたのだろうか。香織の心のなかでくすぶっているのは、その一点だけだといってもいい。
  大食漢とは縁遠い存在だと思っていたのに、炊きこみご飯も二度お代わりし、料理も完食した。そして何より驚いたのは、四合瓶のお酒が半分ほどしか残っていないことだ。つまりは二合ほども飲んだことになるのだが、酔っているという自覚はまるでない。
  箸を置いて手を合わせると、さほど間を置かずに流とこいしが厨房から出てきた。
  「ごちそうさまでした」
  「きれいに食べてもろて」
  器をさげながらこいしが笑顔を香織に向けた。
  「捜してはるのはこんなんと違いましたやろ」流が土鍋にふたをした。
  「ぜんぜん違うものでしたけど、とても美味しくいただきました。チキンライスといってもいろんなバリエーションがあるんですね」
  香織が名残惜しそうに土鍋に目をやった。
  「だいたい二週間あったらお父ちゃんが捜してきはるので、そのころに連絡させてもらいます」
  「どうぞよろしくお願いします。今日のお食事代を」香織が財布を手にした。
  「探偵料といっしょにいただきますので」
  「ほんとうに今日はありがとうございました。お話も聞いてもらって、美味しいものもたくさんいただいて、なんだか心が軽くなりました」「よろしおした。しばらくお待たせしまっけど、ちゃんと捜しておきます」「えらいお父ちゃん自信満々やね」
  「自信とかやない。全力で当たりまっせ、っちゅう決意表明や」「愉しみにしてます」
  香織がくすりと笑って、店の外に出た。
  「お気をつけて」
  こいしが背中に声を掛けると、香織は振り返って会釈した。
  ふたりは店に戻って後片付けをはじめる。流が土鍋を両手で持った瞬間、こいしが怒気を帯びた声をあげた。
  「めっちゃむかつくわ。女の人から九百万円もの大金をだまし取るやなんて」「そない大きい声を出さんならんことやない。世の中にはようある話や。人間っちゅうのはおろかなもんや。人をだまして金を持ってもけっして楽にはならん。寝覚めも悪いやろし、悪銭身に付かずていうて、すぐに出て行ってしまいよる。きっとその男も後悔しとるはずや。そんなよけいなこと言うてんと旅行の用意しとけよ。一緒に東京へ行くさかいにな」
  「うちも連れて行ってくれるん? 嬉うれしいなぁ、東京て何年ぶりやろ」「遊びに行くのと違う。仕事しに行くんやていうことを忘れたらあかんで」「はいはい。チキンライス捜しのお手伝いさせてもらいます」こいしが肩をもむと、流はまんざらでもなさそうに目を閉じた。
 
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