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第七卷 第五話 ハムカツ 2

时间: 2024-03-05    进入日语论坛
核心提示:  2  降り立った京都駅のホームには生ぬるい空気が漂っている。清三は季節が一歩進んだことを実感した。  春はすぐそこま
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  降り立った京都駅のホームには生ぬるい空気が漂っている。清三は季節が一歩進んだことを実感した。
  春はすぐそこまで来ているのに、清三の胸の内は真冬並みの寒気に占領されている。
  この二週間ほどで何かが変わったかと自問すれば、また答えに迷ってしまう。トンネルの向こうに、進むべき道が開けているような気がする反面、またすぐに次のトンネルが待っているようにも思えてしまう。
  京都駅を出て京都タワーを見上げた清三は、トレンチコートの襟を立てた。都みやこ大おお路じにはまだたっぷりと冬が残っているのだ。
  今回は地図を見ることなく、迷わず目指す『鴨川食堂』の前に立てた。
  「こんにちは。米山ですが」
  引き戸を開けた瞬間、芳ばしい香りが鼻先をくすぐった。
  「おこしやす。お待ちしとりました」
  作務衣姿の流が茶色の和帽子を取って出迎えた。
  「ありがとうございます。頼んでおいて言うのも何ですが、本当に二週間で捜しだされるんですね。驚きました」トレンチコートを脱いで、清三は慣れた手つきでコート掛けに掛けた。
  「こない言うたら何ですけど、今回は思うてたより早いことたどり着けました。米山はんの記憶が正しかったおかげですわ」「ということは、やはりあの辺りにお店があったんですね」「お話はあとにして、まずは食べてみてもらいまひょ。すぐにご用意しますわ」和帽子をかぶり直して、流が厨房に戻って行った。
  「おこしやす。今日はお酒はどないしましょ」入れ替わりにこいしが出てきた。
  「しっかり味わいたいので、今日はお茶にしておきます」「あのハムカツやったらビールもよう合うんやけどなぁ」「じっとがまんします」清三が唇をまっすぐに結んだ。
  「急須ごと置いときますよって、たっぷりと飲んでくださいね」こいしがいたずらっぽい笑顔を清三に向けた。
  厨房からは何かを油で揚げる音が聞こえてくる。前回通りがかったときに横目で見たが、フライヤーはなかったようだ。フライパンか鍋か、どちらで揚げているのだろう。油は何を使っているのか。厨房を覗いてみたい衝動にかられるのは料理人の性だ。
  リズミカルな包丁の音が聞こえる。キャベツを千切りしているに違いない。
  「ご飯があったほうがええやろ、てお父ちゃんが言うてますのでお持ちしました。要らんかったら残してください」銀盆に載せて、飯茶碗と汁椀をこいしが運んできた。
  「残すだなんて。あらかじめ頼んでおけばよかったと思っていたぐらいです。喜んでいただきますよ」清三は飯茶碗と汁椀のなかを交互に覗きこんだ。
  「おつゆはタマネギとジャガイモのお味噌汁です。ご飯は少なめに盛ってますんで、足らんかったら言うてください。もうすぐ揚がる思います」こいしが厨房を振り向いた。
  「実は、おみおつけで一番好きな具がタマネギとジャガイモなんです。子どものころは毎日このおみおつけでした」料理を載せた盆を両手で持って、流が厨房から出てきた。
  「そら、よろしおした。おかずがハムカツやったら、きっとこの味噌汁が合うやろと思うたんです。これが捜してはったハムカツです。キャベツの千切りとマカロニサラダを添えときました。このソースをたっぷり掛けて召しあがってください。和辛子も置いときますさかい、お好みで付けて食べとぅくれやす」流は清三の前に銀皿を置き、盆を小脇に抱えたまま一礼した。
  「ありがとうございます。記憶がたしかではないのですが、なんとなくこんな感じだったと思います」清三は目を輝かせて皿の上を見まわしている。
  「どうぞごゆっくり」
  流とこいしは厨房に戻っていった。
  味はまだ分からないが、少なくとも見た目はあの日食べたものとおなじだ。楕だ円えん形けいの銀皿にたっぷりと千切りキャベツが敷かれ、その上に半円形のハムカツが重なり合っている。
  両手を合わせた清三は箸でハムカツをつまみあげた。
  薄い一枚のハムを半分に切ってからコロモを付けて揚げている。六切れあるからハムが三枚ということになる。大分で食べたときはもっと量があったようにも思うが、それもたしかな記憶ではない。
  いきなりソースを掛けるのは料理人に対して無礼だとよく言われるが、清三はまったく気にならないほうだ。客が食べたいようにして食べればいい。
  『ア?ロー』でも、ローストビーフをグレービーソースではなく、醬油とワサビで食べたいとリクエストする客がいるが、快くそれに応じている。
  ソース瓶に入ったウスターソースをハムカツにまわし掛け、ついでにキャベツにもたっぷりと掛けた。
  和辛子を米粒ほど載せ、ハムカツを口に運んだ。
  実に旨い。ハムはむかしふうの、俗に言う赤ハムを使っている。コロモのパン粉は生ではなく、いくらか粗目のものだ。ウスターソースはおそらく既製品だろうが、酸味が利いていてハムカツにはぴったりだ。
  あわてて白ご飯を口に入れる。清三の好みはもう少し硬めに炊いたご飯だが、こうして食べるにはやわらかめのほうが合うのだろう。
  ふた切れ目は千切りキャベツを包むようにし、ご飯に載せて一緒に口に入れた。これだ。この味だ。思わず笑ってしまう。吞みこむのが惜しい。ずっと口のなかで味わっていたい気になる。
  おみおつけをひと口飲んで、胸に手を当ててみた。
  これからの料理人人生は、こういうものと向き合っていきたい。
  今『ア?ロー』で出している料理は昼のコースが二万円からで、ディナーは三万円からだ。上客はいいワインも飲んでくれるから、夜はひとり当たり五万円ほどになる。下世話な話を承知で言えば、このハムカツなら千円も取ればひんしゅくを買うことになるだろう。へたをすると売上は今の一割にすら届かないだろうし、もちろん星など論外だ。会社も解散してスタッフも整理しないといけない。一からのスタートだ。そこまでの勇気が自分にあるのか。もっと言えばそこまでする必要があるのか。いっときの気の迷いであって、後悔するに決まっている。
  だが、このまま今の料理を続けていくことにどんな意味があるというのか。
  生まれ育った自分の境遇を振り返ってみればすぐに分かる。『ア?ロー』を訪れている客は特別な存在だ。一夜のディナーにふたりで十万円を平気で払う客のなかに、自分の両親などいるわけがない。大分の叔父夫婦しかり。勤めていた家具工場の社長はどうだろう。あり得ない。夜間高校の同級生たちは言うまでもない。いや、ひょっとして事業を成功させて、六本木あたりのタワマンに住んでいるヤツもいるかもしれない。仮にそうだとしても、さんざんお金に苦労してきたはずだから、そんな贅沢はせず、堅実に暮らしているに違いない。マモル、フジト、コウスケ、ヒロシ、順に顔を思い浮かべるうち、不意に涙があふれてきた。
  成りあがってきたことに、ずっと誇りを感じて生きてきた。人一倍努力してきた結果のサクセスストーリーは、長く世間の注目を浴びてきたし、それは快感をともなって自信につながった。
  三切れ目のハムカツを食べたあと、おみおつけに箸を付けた。
  中学を卒業するまで、毎朝これを食べていた。ご飯と漬物、そしてタマネギとジャガイモのおみおつけ。それ以外の朝食を食べた記憶がない。だから、なんの疑いもなく、おみおつけは、タマネギとジャガイモの味噌汁のことだと思っていた。
  タマネギはとろける寸前で、ジャガイモも箸でつまむと崩れそうにやわらかい。野菜のとろみで和風ポタージュのようになっているのも、子どものころに食べたのとまったくおなじだ。
  あの洋食屋で食べたときのハムカツにライスは付いていたが、スープやおみおつけが付いていたかどうかは記憶にない。だが、もしも付いていたならこれ以外には考えられない。それほどに相性がいい。
  前回は流の料理に目をみはり、どんな食材を、どう調理したのかに気を引かれてしまったが、今日は何も考えず、素直に料理を味わうことができている。
  マカロニサラダを忘れていた。皿にたまったソースを和えて口に入れた。
  思ったとおりの味だ。刻んだハムや胡瓜きゅうりとマカロニをマヨネーズで和えただけのもので、ご飯のおかずにもなってしまうほど味が濃い。
  「どないでした? こんなんで合うてましたやろか」流が厨房から出てきて、清三の傍らに立った。
  「はい。たぶんこんな感じだったと思います。味までははっきり覚えているわけではありませんが」不意を突かれて、清三はあわてて小指で目尻を拭った。
  「ハムカツはハムカツでっさかいなぁ。味に大差はおへんやろ」「定食屋さんや居酒屋でハムカツがメニューにあると、たいてい食べてみるのですが、こんな味ではなかったです。店のまかないとして作ってみたこともありますが、まったく別ものになってしまいました」「そら、そうですやろ。今はみな気張って作らはりますけど、そない力入れるもんやない。もともとが、ハムカツてなもんは、お肉が贅沢やったころに、肉の代用品としてハムを使うたんで、上等のハムを使うたり、ええ揚げ油を使うたりしたら別もんになってしまいますがな。今の時代は食材にしても調味料にしても、ええもんを選んだら美味しなると、みなが思いこんでまっけど、むかしは手近にあるもんをどう生かすか、を考えて料理したもんです。ハムカツはその典型ですわ」「どう生かすか……」
  清三が流の言葉をァˇム返しした。
  「ちょっと座らせてもろてもよろしいかいな」「気が付かずに失礼しました。どうぞお掛けください」清三が中腰になった。
  「ほな失礼して」
  テーブルをはさんで、流が清三の向かいに座ると、すかさずこいしが流の湯ゆ吞のみに急須の茶を注いだ。
  「どんなふうに捜しだされて、このように再現されたのか。教えてください」テーブルに両手を突いて、清三が頭を下げた。
  「ご想像どおりやろう思いますけど、まず大分に行きました。米山はんの記憶に従うて、駅前から城址公園辺りを隈くまのう歩きましたんやが、おっしゃってたように、それらしい洋食屋はありまへんでした。っちゅうか、それはわしの思うてたとおりで、もともとそんな洋食屋はなかったんや思います」「幻の店だったということですか?」
  清三がわずかに気け色しきばんだ。
  「京都は洋食屋の多い土地なんやけど、むかしからの洋食屋にはハムカツがメニューに載ることはめったにない。裏メニューで出してるとこもあったかもしれまへんけど、ふつうの洋食屋にはハムカツはない。それはおそらく大分でもおなじやないかと思うて、古ぅからある大分の洋食屋はんで訊いてみたんやが、やっぱりそうでした。さいぜん言うてはったように、ハムカツをメニューに載せてるんは食堂やとか居酒屋ですわ。せやから米山はんが叔父さんに連れてもろうてハムカツを食べはったんは定食屋はんか大衆食堂やないかと当たりを付けたんです」「僕の頭のなかではハムカツは洋食、というイメージだったのでお店は洋食屋さんだと思いこんでいたんですね」「今もちょこちょこそういう店がありまっけど、むかしの食堂ていうたら、いろんな料理を本格的に作っとったんですわ。麺類やら丼もんがメインやったとしても、洋食やら中華料理まできちんと料理しとった。米山はんがハムカツ食べはった店もそういうとこやった。せやさかい洋食屋はんとおんなじ銀皿にハムカツを盛ってはったんでしょうな。おそらく叔父さんはあなたにハムカツを食べさせようと思うて、その食堂に連れて行かはったもんやさかい、メニューも見んと注文しはった。それでこの銀皿が出てきたら洋食屋やと思うても不思議やない」「なるほど。そういうことだったのですか」
  清三が大きくうなずいた。
  「ただ、残念なことにそのお店は今から二十年前に店仕舞いしてしまわはりました。『ひた食堂』ていうお店でしてな、こんなハイカラな外観でしたんや」流がタブレットの画面を清三に見せた。
  「そうか、レンガ建ての店だったから洋食屋だと思ったんですね」「それもありまっしゃろな」「この写真はどこで入手されたんです?」
  「『ひた食堂』があった場所のすぐ近くに『岳たけ尾お屋や食堂』っちゅう店がありましてな、ここは大正時代の創業という古い店ですねん。とり天が美味しいて聞いたもんやさかい、それを食べに行きがてらご主人に話を聞いたんですわ。『ひた食堂』のご主人と先代のご主人が友だちやったらしいて、いろいろ思い出話を聞かせてもらいました」「そうやって捜しだすんですか。話で聞くと簡単そうだけど、実際に足を運ぶとなるとご苦労もあるんでしょうね」清三がタブレットから目を離した。
  「苦労てな、そないたいそうなことやおへん。地道に糸をたぐっていったら、かならず行き着くもんですんや」「その『岳尾屋食堂』にもハムカツがあったんですね」「いや、ありまへんでした。いっとき先代がメニューに載せてはったこともあったようやけど、最近はやってへんそうです」「では、このハムカツはどうやって?」
  「九十を過ぎてはるいうのに、先代のご主人はむかしのことをよう憶おぼえてはって、『ひた食堂』のことをいろいろ教えてくれはりましたんや。『ひた食堂』のハムカツは百回ぐらい食べたて言うてはりました。お店の外観以外の写真は残してはりまへんでしたが、この銀皿を使うてたやとか、ハムはこんなんやったとか、ソースはどこのメーカーを使うてたとか、しっかり教えてくれはったんです」「ということは、そのお店の先代のご主人がおられなかったら、このハムカツは再現できなかったということですね」「そういうことですわ。偶然のようにも思えまっけど、必然やとも言えます。それは米山はんの思いですわ。あなたの思いが、そういう出会いに行き当たらせてくれますんや。これまでもそんなことはしょっちゅうありました。人間の思いっちゅうのは強いもんです」「僕の思いが、ですか。なんだか面はゆい気もしますが」「なんであなたが今になって三十年以上も前に食べたハムカツを捜そうと思わはったか。
  それはあなたがおっしゃってたとおりや思います。ご自分が今作ってはる料理に疑問を感じて、料理人になろうと思わはった原点に戻って、これから先、どんな料理を作っていったらええかを見極めたい。ええお話や思います。けど、あなたのなかでは、このハムカツを食べる前から既に結論が出てたん違うかなぁとも思うんですわ」流の言葉に清三はハッとした顔をかためた。
  「食通と言われてる人らの評判ばっかりを気にするのに疲れたていうか、飽き飽きしてきた。高級食材やとか特別な素材や調味料に頼らん、ふつうの料理にしようと思うてはった。このハムカツがその後押しをできたんやとしたら嬉しおす」清三は何か言いかけようとして、まとめ切れないのか口をつぐんでしまう。それを二度三度繰り返したのを間近にして、流がふたたび口を開いた。
  「言い古された言葉でっけどな、料理は形やない。心なんですわ。けど、料理屋っちゅうのは因果なもんで、儲もうけんならんわけです。評判も呼ばんとあきまへんし、そうなると星のひとつやふたつ欲しいなって当たり前ですわな。そのためには世間の評価も気に掛けんわけにはいかん。ときにはグルメ評論家やとかブロガーはんやらの好みに合わせんならんこともある。難儀なこってすなぁ」流の言葉を聞いて、清三は握りしめていたこぶしをゆるめた。
  「鴨川さんはすべてお見通しなんですね。グルメ評論家の人たちは、まさに手のひらを反かえすように、高級食材の多用に疑問を投げかけているし、純粋なフレンチよりもニューウェーブの洋食屋に注目が集まっているのもその一端でしょう。情けない話ですが、僕も無意識にその流れに乗ろうと思っていたのです」「えらそうなこと言うてかんにんしとぅくれやっしゃ。わしかて若いときはおんなじでした。そのころは口コミのグルメサイトてなもんはありまへんでしたし、例の格付け本もまだ日本版はありまへんでしたさかい、気に掛けるのはもっぱら食通の客だけでしたけどな。むかしの食通っちゅうのは、今みたいなビジネスと違ちごうて、純粋に料理を批評したり評価したりしとったんで、聞く耳を持つ意味があったんでっけど、今は違いまっしゃろ」「食のブームを作っておいては壊し、それを繰り返している人たちに食文化がどうだとか語ってほしくないと思うのですが、なにせ僕らは弱い立場ですし、なかなか逆らえないんですよ」「逆らわんでもよろしい。気にせんのが一番ですわ。世間の評判やとかは気にせんと、自分がええと思うた料理を作って、喜んで食べてもらえたら、料理人冥みょう利りに尽きますがな」「とっくに見透かされているでしょうから、正直に言いますと、この前おじゃましたときまでは、さっきから鴨川さんがおっしゃっているとおりの気持ちでした。邪心だらけだったと思います。貧しい暮らしのなかで出会ったハムカツをもう一度食べたことで、料理の方向性ががらっと変わった。そんな物語を作ることで、また新たな注目を浴びたい。さすが米山だ、そう言わせたい。そんな気持ちが心の片隅にあったことは間違いありません。
  でも、今日ハムカツをいただいて吹っ切れました。信じてもらえないかもしれませんが、余計な邪念みたいなものが、すーっと消えていったんです。噓うそじゃないんです。かっこよく言えば、心が洗われたというか。積年の恨みも晴れたような気がします」清三がこぶしを握ったまま天井を仰いだ。
  「恨み?」
  こいしが訊いた。
  「表向きは平気なふうを装ってきましたが、心のなかでは自分の生い立ちを恨んでましたよ。不ふ甲が斐いない両親のおかげで、ずっと貧しさを強いられてきて、あげくは子育てを放棄して、叔父に僕を押し付けてしまった。いっとき僕は本当の子どもじゃなかったのかもしれないと思いました。父を連帯保証人にして借金したのは、どんな人か教えてもらえませんでしたが、捜しだして家に火を点つけてやろうかと思ったこともありました。そんな恨みをバネにしたからこそ、成りあがれたのかもしれませんが、故郷にいい思い出なんてひとつもない自分が哀れでした」清三が目を潤ませた。
  「この前お話を聞いてて、つらい境遇やったやろに、淡々と話してはって、よっぽど強い人なんやなぁと思うてましたけど」「弱い人間ほど強がって、平気なふりをするんですよ」「男っちゅうのは、そういうとこもあってええ思いまっせ」流が笑顔を丸くした。
  「失うことを怖おそれていましたが、よくよく考えれば、それを失なくしたからどうだというのだ、なんですね。もともと店に星なんてなかったのですから。それより、もっともっとだいじなものを得られるかもしれない。今は心底そう思っています」清三は晴れやかな笑顔を見せた。
  「よろしおした。お役に立てたんなら嬉しおす。たいしたもんやおへんけど、いちおうレシピらしきもんを書いときましたんで、ご参考になさってください。ハムは俗に言う赤ハムっちゅうヤツで、厚さは二ミリです。チョップドハムていうとるとこもありますな。一枚三十円もしまへん。パン粉も生やのうて市販のもんです。揚げ油はラードを使うてますけど、コロッケやとかトンカツとかを何度か揚げて、変色しかけとるようなもんを使いました。ソースは『マルボシ酢』っちゅうお酢の会社が作ってる〈さつきソース〉です。一升入りで八百円ほどでっさかい特別なもんやおへんけど、『ひた食堂』ではこれを使うてたらしいです。『岳尾屋食堂』の先代さんの話を参考にさせてもろて再現したレシピです。食べはったさかい、ようお分かりや思いますけど、いたってふつうのハムカツです」流がファイルケースを手わたした。
  「ありがとうございます」
  押しいただいて、清三はていねいにトートバッグに仕舞った。
  「よかったですね」
  こいしが急須のお茶を注いだ。
  「そうそう。だいじなことを忘れるところだった。この前のお食事代と併せて、探偵料を払わせてください。いかほどになりますでしょうか。きっとカードは使えないだろうと思って、たっぷり用意してきましたので」清三がトートバッグから分厚くふくらんだ長財布を取りだした。
  「うちは金額決めてしません。お気持ちに見合うだけをこちらの口座に振り込んでください」こいしが折りたたんだメモ用紙をわたした。
  「承知しました。忘れないうちに京都駅のATMから振り込ませていただきます」コートを腕に掛け、トートバッグを肩に引っ掛けた清三は店の引き戸を開けた。
  「どうぞお気を付けて」
  こいしが送りに出た。
  「お世話になりました」
  清三が深く一礼した。
  「お荷物になりまっけど、これを持って帰ってください」流が手提げの紙袋を差しだした。
  「これは?」
  受け取って清三がなかを覗きこんだ。
  「さいぜんの味噌汁に入っとったタマネギとジャガイモ、付け合わせに使うたキャベツと胡瓜です」「はあ」
  清三は重い荷物に顔をしかめた。
  「懐かしおしたやろ。それはみなご実家の畑で穫とれたもんです」「誰があの畑を?」清三がジャガイモを手にした。
  「ご実家があった場所のすぐ横に畑はありましたわ。誰ぞが耕し続けてはるんですやろな。無人販売所があったんで買うてきました」「そうでしたか」清三は手のなかのジャガイモをじっと見つめている。
  「思い出に、ええも悪いもありまへん。何があってもあなたの故郷は大分なんですわ。あなたを叔父さんに託さはったご両親の思いも積もってますやろ。どんなことがあっても親が自分の子どもを手放すてなことはあり得まへんのや。よっぽどのことやろ思います。ご両親もつらかったですやろな。けどその甲斐あって、あなたはこうして立派な料理人にならはった。ご両親も叔父さんもきっとあっちで喜んではることですやろ」「故郷……」清三がジャガイモを持つ手に力を込めると、頰をひと筋の涙が伝った。
  「その野菜を使うて美味しい料理を作ってくださいね」こいしが言葉を掛けると、清三はこっくりと首をたてに振った。
  右肩にトートバッグをあずけ、左手の紙袋を持ち直して、清三が正面通を西に向かって歩きだした。
  「米山はん」
  流の声に清三が立ちどまって振り向いた。
  「お師匠はんの思いをちゃんと胸に仕舞うときなはれや」「はい」大きな声を返して、清三がふたたび歩みを進めた。
  清三が角を曲がるまでその背中を見送って、流とこいしは店に戻った。
  「米山さんの、お師匠さんてだれやったっけ」片付けをしながらこいしが訊いた。
  「実際には師事してはらへんかったやろけど、心の師匠としてはったフレンチのシェフがやはったはずや。米山はんのお店の屋号は『ア?ロー』。調べてみたら、水を使うっちゅう意味やそうな。そのフレンチのシェフはバターやとかクリームを極力使わんことで脚光を浴びた人なんや。いわば水の料理や。米山はんはそれを目標にして店をしてはったんやろけど」「そのフレンチのシェフの店て今でもあるん?」「残念ながらそのシェフが亡くなってしもうた。ほんまかどうや分からんけど、一説では格付け本で格下げされるのを苦にして自殺しはったて言われとる」流が仏壇の前に座った。
  「そうやったんか。料理の世界もいろいろあるんやなぁ」こいしが流のうしろにまわった。
  「格付けやとか星やとかは縁のない商売しとってよかったわ」流が線香を立てた。
  「よそからもらわんでも、お母ちゃんがお父ちゃんに三ツ星あげてるもんな」目を閉じて、こいしが手を合わせた。
 
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