1
夜九時に新潟駅から乗り込んだ夜行バスは、翌朝六時三十分に京都駅に着いた。
バスを降りた千ち原はら亜あ弓ゆみは、両手を高く上げ、思いきり伸びをした。初夏の日差しが青い空からたっぷりと降りそそいでいる。まぶしさに亜弓は目を細めた。
ベージュのカーブパンツにグレーのチュニック。京都という街を訪れるにはカジュアル過ぎるかと思ったが、軽装にしてよかった。
想像していたほど窮屈ではなかったけれど、それでもやはり十時間近くバスに乗ると、身体からだがかたまってしまう。うとうととはするものの、ぐっすりとはほど遠い睡眠だった。
めったに旅行などしない亜弓は、この旅のために白いキャリーバッグを買い、着替えや洗面用具、化粧品など一泊とは思えないほどの荷物を詰めこんだ。
八条通を北に渡り、JR京都駅の南北自由通路を通って、塩しお小こう路じ通に出た。
探偵事務所へ行くにはまだ早すぎる。時間調整も兼ねて、ひと風呂浴びようと亜弓は目もく論ろんでいる。京都タワーの地下に大浴場があるのだ。それもしかし七時にならないと開かない。朝あさ陽ひに照らされて白く輝く京都タワーを見あげてから、亜弓は周りを見まわした。
陽が差してくるほうに、コンビニの看板が見える。サンドイッチとコーヒーで先に朝食を済ませよう。キャリーバッグを転がしながら、亜弓は東に向かって歩いた。
コンビニのイートインコーナーでゆっくり朝食を愉たのしみ、湯当たりしそうなほど長湯し、念入りに化粧しても、まだ十時半を少し回ったばかりだ。
食を捜してくれる探偵事務所は、食堂も併設しているようだから、おそらく昼前には開くだろう。下見をかねて行ってみよう。
京都タワービルを出た亜弓は、烏丸通を北に向かって歩き、七条通を越えて東に渡り、地図を見ながら正面通を東に折れた。
「すみません。この辺に『鴨川探偵事務所』ってあります?」通りを歩く僧侶に亜弓が訊たずねた。
「探偵事務所? 聞いたことないなぁ。なんかの間違いと違います?」「この地図のこの辺だと聞いてきたのですが」亜弓が地図を見せる。
「なんや。流はんの食堂のことかいな。そう言うたら娘のこいしちゃんが、食べもんを捜す仕事してるて聞いたことあるな。それやったら、ここを東にまっすぐ行って右側の小汚い建てもんや。看板もないし暖の簾れんもあがってない。商売する気ないんかいな、っちゅうとこやけど、ええ匂いがしとるさかい、すぐに分かるやろ」僧侶らしからぬ、少しばかり乱暴な物言いに戸惑いながら、亜弓は礼を述べて言われたとおりの建物を捜した。
僧侶の言葉どおり、お世辞にもきれいとは言えない二階建ての家の周りには、美お味いしそうな匂いが漂っている。亜弓は思いきって引き戸を引いた。
「いらっしゃい」
明るい声で迎えてくれたのは若い女性だ。僧侶の言っていたこいしだろうか。
「すみません。食を捜してくれる『鴨川探偵事務所』はこちらでしょうか」「はい。うちがその探偵事務所の所長をしてる鴨川こいしです」おなじくらいの年とし恰かっ好こうで、ジーンズにソムリエエプロンを着けているこいしは、どう見ても探偵には見えない。
「こちらは食堂もやってるんですよね」
客のいない店の中を亜弓が見まわしている。
「ヒマな食堂ですねん。看板も暖簾もありませんし、通りがかりの人はたいてい素通りしはりますわ」
こいしは苦笑いしながら、テーブルを拭いている。
「お腹なかの具合はどないです?」
茶色い作さ務む衣えを着た男性が出てきて亜弓に訊きいた。
「うちのお父ちゃんの鴨川流です。食堂の主人やってるんですよ」「新潟から来ました千原亜弓です。食を捜してもらいたくて来たのですが、何か食べさせてもらえるのですか?」
「たいていお話をお訊きする前に、お父ちゃんの料理を召しあがってもろてるんです。どうぞお掛けください」
「ありがとうございます」
亜弓はキャリーバッグを隅に置き、パイプ椅子に腰かけた。
「苦手なもんはおへんか?」
流が訊いた。
「アレルギーなのでサバだけはダメですが、それ以外は好き嫌いなくなんでもいただきます」
「よろしいな。ほな用意しまっさかい、ちょっとだけ待ってとぉくれやっしゃ」和帽子をかぶり直して、流が店の奥に入っていった。
「お酒はどないしましょ。新潟のかたやったら日本酒がお好きなんと違います?」「母はよく飲みましたけど、父はまったくの下げ戸こです。わたしはちょうどその真ん中。お酒を飲むのは好きなんですが、すぐに酔っぱらってしまうので、少しだけいただきます」
「新潟の人に新潟のお酒もええけど、京都のお酒にしますわね」こいしが流とおなじほうに駆けていった。
「なんでもいいんですよ。お酒には詳しくありませんし」こいしの背中に亜弓が声を掛けた。
改めて店のなかを見ているうち、亜弓は不安になってきた。今住んでいる新潟にも、生まれ故郷の長なが岡おかにも、もうこんな古びた店は少なくなってきた。時代に取り残されたような店でどんな料理が出てくるのか。それより何より、こんな店をやっている父と娘に打ち明けていいのだろうか。
「先にお酒をお持ちしました。『伊い根ね満まん開かい』ていう丹たん後ごのお酒なんですよ」
こいしがボトルのラベルを見せると、亜弓は大きく目を見開いて顔を近づけた。
「ひょっとしてこの伊根って、舟ふな屋やで有名な、あの伊根ですか?」「そうですよ。新潟の人やのによう知ってはりますね」「おばあちゃんが昔この伊根に住んでいたんです。何回か行きました。いいところですよね。あそこにこんなお酒があるなんて、ちっとも知りませんでした」亜弓が手に取ったボトルを撫なでている。
「うちもいっぺんだけ行きましたけど、ほんまにええとこですよねぇ。船から見たんですけど、舟屋に住んでみたい思いましたわ」
ボトルを受けとって、こいしがワイングラスに注ついだ。
「え? 中身はワインなんですか?」
亜弓が声を高くした。
「古代米の赤米を使つこうてるさかい、赤いんやけど日本酒なんですよ。せっかくきれいなお酒やから、透明のワイングラスで飲んでもろたほうがええと思うて」「父は下戸だから、自分の故郷にこんな変わったお酒があるなんて知らないだろうな」亜弓はワイングラスをゆっくりかたむけた。
「伊根に住んではったおばあちゃんのおうちは漁師さんやったんですか?」「いえ。民宿をやってました。一日ひと組だけで、それも春から秋だけしかお客さんを取らないっていう、変わった民宿でした」
「なんや今っぽいですやん。高級民宿でしたん?」「それがぜんぜん。あ、このお酒美味しい。甘酸っぱくて飲みやすいですね」「見た目もやけど、味もワインみたいやて言う人もやはるけど、よう味おうたらやっぱりお米の味がしますやろ」
「たしかに」
亜弓はグラスをしげしげと見つめている。
「お待たせしましたな」
流が銀盆に載せて持って来たのは、大ぶりの竹籠だ。
「見たこともないご馳ち走そうです」
目の前に置かれた料理を見まわして、亜弓はキラキラと目を輝かせている。
「簡単に料理の説明をさしてもらいます。ええ気候になりましたんで、新緑弁当ふうに籠盛りしました。左上の赤絵小鉢は筍たけのこの木の芽和あえ。ありきたりでっけど、この時季には欠かせまへん。その右手のガラスの小皿には剣先イカの細造りを載せてます。ムラサキウニを絡めてますんで、粉こな醬しょう油ゆを振りかけてください。右端の織部皿は山菜の天ぷらです。これもありきたりでっけど、名な残ごりの味を愉しんでもろたら嬉うれしおす。その下の黄き瀬ぜ戸と皿には牛ヒレの竜田揚げを載せてます。粒マスタードを付けてもろたら美味しおす。その左手は笹ささ巻まきちまき寿ず司し。平目の昆こ布ぶ〆じめと蒸し海え老び、煮穴子の三種類です。お醬油は要いりまへん。笹を解いてそのまま手ぇで食べてください。その左の染付鉢にはアサリのしぐれ煮が入ってます。大葉で包んで食べてもろたらサッパリして旨うまいです。その下の備前の皿は鮎あゆの塩焼き。そのままでもええんやけど、蓼たでの葉を酢に漬けたんを添えてますんで、一緒に食べてみてください。小さい鮎やさかい、頭からかぶってもろたらよろしい。下の段の真ん中は鶏とりササミのカツ。梅塩を振りかけて食べてください。右端のココットに入っとるのは、ゴボウと豚肉のカレー煮込み。お嫌いやなかったら、刻んだパクチーと一緒に食べてください。今日は〆に小さい中華そばを用意してまっさかい、ええとこで声掛けてください」料理の説明を終えて、流が銀盆を小脇にはさんで一礼した。
「こんなご馳走ははじめてなので、何からどう食べていいのか分からないのですが」亜弓は箸を両手で持ったまま、ぼうぜんとしている。
「食いもんに決まりはおへん。好きなもんを好きなように食べてもろたらよろしい」流は亜弓にやわらかい笑みを向けた。
「そう言われても……」
亜弓は戸惑った顔つきで、まだ箸を付けられずにいる。
「ふだんとおんなじように食べてもろたらええんですよ。お酒は瓶ごと置いときますよって、好きなだけ召しあがってください。うちは事務所のほうに行って準備してますけど、お父ちゃんは厨ちゅう房ぼうにやはるんで、なんかあったら声を掛けてくださいね」こいしと流が下がっていくと、ひとり残った亜弓は、目を上下左右に気ぜわしく動かしている。
やがて意を決したようにうなずき、目を閉じ手を合わせてから、竹籠に箸を伸ばした。
亜弓が最初に箸を付けたのは、牛ヒレの竜田揚げだった。好物の鶏の唐揚げに近く、慣れ親しんでいるからだ。粒マスタードを載せて口に運ぶと、そのまろやかな味わいに、思わず声を上げそうになった。
いつも食べている唐揚げとは似て非なるものだ。ニンニクやショウガなどの香辛料はまるで感じられず、それなのに肉の臭みはまったくない。歯が要らないほどやわらかい肉だが、嚙かむとしっかり肉汁が舌に染みこんでくる。世のなかにはこんな美味しいものがあるのか。たったひと品食べただけでそう思わせる料理に、亜弓は胸を高ぶらせている。
次に箸を付けたのが、ゴボウと豚肉のカレー煮込みなのも最初とおなじ理由で、カレーは亜弓の好物だからである。こんなときでも冒険できない自分の性格に薄笑いしてしまう。
一番気になっていたのは笹巻ちまき寿司だ。新潟にも笹寿司があるが、ちまきのように細く巻いたりはせず、包んであるといった感じだ。なかの寿司はどうなっているのか、ひとつだけ笹を解いてみた。
真っ赤な海老に小さな酢飯が包まれている。握り鮨ずしを強く固めたような感じだ。指でつまんで口に放りこむ。海老が甘い。急いであとのふたつの笹を解き、穴子と平目を一気に食べた。
竹籠に盛られた九品のうち三つを食べて、最初に軽く見ていたことを心のなかで詫わびた。食の経験が豊富とは言えない亜弓でも、この店の料理が図抜けていることが分かった。
残りの六品をどの順に食べようか。胸をふくらませながら、亜弓は迷い箸をしている。
とり立てて豪華というわけでもなく、凝った料理でもないのだが、どれもがしみじみとした美味しさでお腹におさまっていく。
これまでの人生で二度しか食べたことのない鮎の塩焼きに、ゆっくりと箸を伸ばした。
二度ともその骨に手こずり、加えて川魚独特の匂いに閉口し、まったくもっていい印象を持っていない。
しかし、これまでとはまるで別ものだった。前に食べたときは二度とも大きな鮎で、焼き方も浅かったが、焦げているのではと思うほどしっかり焼いた鮎は、流の言葉どおり思いきって頭からかぶりついても、まったく骨を感じさせず、魚というより、胡瓜きゅうりのような野菜の香りが口のなかに広がった。
なにもかもが特別なのだ。
「どないです? お口に合おうてますかいな」大半を食べ終え、名残りを惜しんでいるところへ流が顔を出した。
「食のことに詳しくないわたしには、もったいないようなお料理で」亜弓が思ったままを言葉にした。
「料理っちゅうもんは、頭やのうてここで食べるもんでっさかい、詳しいのうてええんです」
流が腹を二度はたいた。
「これだけの料理をお作りになるには、相当な修業をなさったんでしょうね」「ほとんど見よう見まねでっさかい、たいした修業はしてまへん。どれも自己流ですわ」流は苦笑いしながら、空になったグラスに酒を注いだ。
「すみません。夢中で食べていたのでお酒のことをすっかり忘れていました」亜弓があわててグラスのステムに指を添えた。
「もうちょっとしたら中華そばをお持ちしますわ。量はどないしましょ?」「たくさんお料理をいただいたので、半分くらいでお願いできますか」「分かりました。ゆっくり召しあがっとってください」流が厨房に戻っていった。
厨房には流以外、人の気配がない。ということは料理はすべて流がひとりで作っているのだ。品数も少なくないのに、どれも出来たてのように思える。揚げ物や焼き物もちゃんと熱々だ。
鶏ササミのカツは言われたとおり梅塩を振りかけて食べた。カツと言えばソースを掛けるものだと思い込んでいたが、こうして食べると日本料理のひと品のように上品な味になるのも不思議だ。
日本酒の瓶を見るとけっこう減っている。こんなに飲んだのは生まれてはじめてかもしれないのだが、それにしては、まったくと言っていいほど酔った感じがしない。よほどいいお酒なのだろう。
「長いこと店やってますけど、中華そばを出すのはめったにないさかい緊張しますわ」そう言いながら、流が亜弓の前にラーメン鉢を置いた。
「そうなんですか」
亜弓は酔いで紅あかく染まった顔をラーメン鉢に近づけた。
薄い醬油色をしたスープにまっすぐの細麺。チャーシューが二枚とメンマ、モヤシだけが載ったシンプルな中華そばだ。刻みネギが浮かんだスープをレンゲで掬すくい口に運んだ。
「どないです?」
流が亜弓の顔を覗のぞきこんだ。
「美味しいです。ありきたりですけど、ほかの言葉が見つかりません」亜弓はうっとりとした表情でレンゲを置いて、箸を手に取った。
「よろしおした」
ホッとしたように流が口もとを緩めた。
亜弓は麺をすすり、スープを飲み、具を食べてあっという間にラーメン鉢を空にした。
「半分にせんでもよかったんと違いますか」
傍らに立つ流が苦笑いした。
「かもしれませんね」
亜弓もつられて笑顔を見せた。
「ラーメンがお好きなんでっか?」
急須の茶を、流が湯ゆ吞のみに注いだ。
「もともとはあまり好きじゃなかったんですが、今お付き合いしている彼がラーメンフリークで、あちこち食べに行っているうちにハマってしまいました」「新潟からお越しになったて言うてはりましたな。あっちはどんなラーメンなんです?」鉢を下げ、亜弓の前に湯吞を置いた。
「地域によって少しずつ味が違うんです。新潟四大ラーメンっていうのがあるんですけど、彼は五大ラーメンだって言い張ってます。そのなかで、長岡系って言うみたいですが、ショウガの利いた醬油ラーメンが美味しいんです。今いただいた中華そばともよく似た味なんですよ」
「利かすいうほどではありまへんけど、わしもスープにはショウガを入れてます。気に入ってもろてよかったですわ」
「すみません、お嬢さんを長いことお待たせしてますよね」亜弓は腕時計を見て腰を浮かせた。
「気にせんといてください。いっつもこんな感じでっさかい、ゆっくりしてもろたらええんでっせ」
「お酒もたっぷりいただきましたし、充分ゆっくり愉しませてもらいました」ハンカチで口元を拭きながら立ちあがって、亜弓がパイプ椅子を戻した。
「ほな、奥のほうへご案内します」
ゆっくりと歩きはじめた流は、厨房の横を通って細長い廊下へ出た。
すぐうしろを歩く亜弓は、廊下の両側の壁にびっしりと貼られた写真に目を留めた。
「これは?」
「わしが作った料理の写真ですわ。無精もんやさかいにレシピてなもんは残してまへんのや。その代わりに写真に撮って残しとくいうわけです」「びっくりです。うちの父もおなじようなことしてますので」立ちどまって亜弓が次々と写真に目を近づけていく。
「お父さんも料理人でっか?」
流が振り向いた。
「とんでもない。まったく料理のできない人です。お恥ずかしい話ですが、父は鯛たい焼やき屋をやってるんです」
「なにが恥ずかしいことありますかいな。鯛焼きかて立派な料理でっせ」流が語気を強めた。
「失礼しました。でも、こんないろんな料理じゃなくて、店の壁に貼ってあるのは、鯛焼きの写真ばっかりなんですよ。どれもおなじだから一枚だけ貼ればいいと思うのですが」「おんなじに見えても、それを焼いてはるお父さんにはそれぞれ別なんやと思いますわ」「そうなんでしょうかね」
気のない返事をして、亜弓はゆっくりと歩を進め、流のあとをついていく。
「お父さんはおひとりで鯛焼き屋を?」
足を止め、前を向いたまま流が訊いた。
「はい。十五年ほど前に父がひとりではじめました」「立ち入ったことを訊きまっけど、それまでは何してはったんです?」「うちは代々続く米屋でしたから、父もその仕事を継いでいました」「そうでしたか」
流が歩きだした。
「これは奥さまですか?」
亜弓がツーショット写真を指した。
「信州へ旅行に行ったときですわ」
「奥さまはお店を手伝われないのですか?」
「あっちへ行ってしまいよったさかいに」
流が廊下の天井に指先を向けた。
「そうだったんですか」
亜弓が声を落とすと、流は突き当たりのドアをノックした。
「どうぞ」
ドアを開けてこいしが笑顔を亜弓に向けた。
「あとはこいしにまかせときますんで」
言い置いて、流はきびすを返した。
実家の米屋にもこんな応接室があって、父はよくそこで帳簿を付けていた。おなじようなソファセットに、亜弓はこいしと向かい合って座った。
「簡単でええので依頼書に記入してもらえますか」こいしはしごく事務的に、バインダーとボールペンを手わたした。
受け取って亜弓はペンを持って書きはじめたが、はたとその手を止めて、こいしに顔を向けた。
「家族というのは今の、という意味でしょうか?」「差しつかえがあるようやったら、省いてもろてもいいですよ」小首をかしげながら書き終えて、亜弓はバインダーをこいしに返した。
「千原亜弓さん。新潟市にお住まいで、自動車販売店にお勤め。お父さんと住まいは別なんですね。新潟と長岡てどれぐらい離れているんですか?」「五、六十キロくらいかなぁ。車で一時間は掛かりません。新幹線に乗れば二十分ほどで着きます」
「そんなに近いんや。京都と大阪ぐらいの感じですね」「新潟の会社まで実家の長岡からは、通えないこともないのですが、ひとり暮らしをしたかったので」
「そうやねぇ。鯛焼き屋さんをしてはるお父さんとずっとふたり暮らし。ひとり暮らししたいなぁて思いますやろね。お茶かコーヒーかどっちがよろしい?」こいしが立ちあがった。
「コーヒーをいただきます」
うなずいてこいしがコーヒーマシンのスイッチを入れた。
「ひとり暮らしをはじめはってから、どれぐらいになるんです?」「もうすぐ六年になります」
「お父さん、寂しがってはるんと違います?」「さあ、どうなんでしょうね。口数も少なくて、あまり感情を表に出さない人ですから」「心のなかでは寂しい思うてはるんやろなぁ」「鴨川さんのところはどうなんですか?」
「うちは……、そうやなぁ。ふたり一緒に居るのが当たり前みたいになってしもうてるし。さっきも言いましたけど、たまぁに、ひとり暮らししたいなぁて思うこともあります」
こいしがローテーブルにコーヒーを置いた。
「失礼ですけど、ご結婚は?」
亜弓が訊いた。
「そんな気配もありませんわ」
こいしが笑って答えた。
「お父さまへの遠慮があったりしません?」
「ないて言うたらウソになりますけど、縁がないさかいやて思うてます。亜弓さんはどうなんです?」
こいしが切り返した。
「結婚を考えている男性は居ます。二年前から付き合うようになって、父にも紹介しています」
コーヒーカップを持ったまま、亜弓がテーブルに視線を落とした。
「そうなんやぁ。うまいこと行ったらいいですね」「あれこれ考えると、なかなか踏み切れなくて」亜弓がコーヒーに口を付けた。
「本題に入ります。亜弓さんはどんな食を捜してはるんです」こいしがローテーブルに置いたノートを開いた。
「ちらし寿しです」
「ちらし寿しかぁ。長いこと食べてへんな。どこで食べはったんです?」「それが……食べていないんです」
亜弓が顔をしかめた。
「どういうことなんか、詳しいに教えてください」ノートの綴とじ目を手のひらで押さえ、こいしがペンをかまえた。
「小学五年生のときですから、今から二十四年前に両親が離婚したんです。双子の妹が居て、妹の亜あ希きは母が引き取り、わたしは父親とふたり暮らしになりました」「双子の妹さんがやはるんですか。やっぱりよう似てはるんやろね」こいしがノートにイラストを描きつけている。
「子どものころは、ふたりが入れ替わっても分からないと言われるほどよく似ていました。でも不思議ですねぇ、別々に暮らすようになってから、明らかに顔つきが変わってきました」
「そういうものなんですか」
「妹の亜希は六年前に結婚しました。それを機に、わたしもひとり暮らしをはじめようと思ったんです」
「なんとのうやけど、亜弓さんの気持ちが分かります。父親とふたり暮らしやて言うと、相手の男の人が敬遠しはるような気がします」「たぶん母親だったら話が違ったと思うんですけど。男どうしって難しいでしょ」「そうですねん。お父ちゃんはようしゃべらはるほうやさかい、ましなほうや思うけど」「男性と出会う機会も少なくなりますので、ひとり暮らしをしようと思って新潟の会社に転職したんです。その通知を見せて、新潟でひとり暮らしをすると父に告げました」「どんな反応しはりました?」
「それが、びっくりするほどあっさりしていて。理由も訊いてくれませんでした」「覚悟してはったんやろねぇ。たぶんうちのお父ちゃんもおんなじやと思いますわ」「父と一緒に暮らす最後の夜でした。父はお寿司が大好きなので、奮発して新潟で一番美味しいというお店で折詰を作ってもらって持って帰ったんです」「お父さん、喜ばはったでしょ」
「それがね、その日父はちらし寿しを用意していたみたいなんです。でも、わたしが握り鮨を持って帰ったのを見て、それをあわてて引っ込めました」「なんで引っ込めはったんやろ。一緒に食べたらええのにね」「わたしもそう思ったんですけど、父は料理が苦手なので、たぶん既製品を買ってきたのでしょうね。高級な握り鮨を見て気まずくなったのだろうと思います」「せつない話やなぁ。亜弓さんが悪いんやないけど、そのときのお父さんの気持ちを思うたら泣きそうになるわ」
こいしが瞳を潤ませた。
「料理なんてめったに作らない父でしたから、まさか用意しているなんて思いもしませんでした。わたしが特にちらし寿し好きだったわけでもないし、なんであの夜にちらし寿しだったんだろうと今でも謎なんです」
「てっきり亜弓さんの好物やと思うたんですけど違うんですか?」こいしの問いかけに、亜弓はこくりとうなずいた。
「めったに料理を作らはらへん人には、ちらし寿してハードル高いと思います。好物でもないのに、なんでちらし寿しやったんやろ」
こいしはちらし寿しのイラストを描いている。
「どこかで既製品を買ってきたか、誰かに作ってもらったか、ふたつのうちどちらかだと思うのですが」
「そのちらし寿しをなんで今になって捜そうと思わはったんです?」こいしがペンをかまえなおした。
「さっきもお話ししたように結婚を考えている男の人がいるんです。ところが彼はオーストラリアのシドニーへ赴任することが決まっていて、結婚するとなるとわたしもシドニーに住むことになります。父を置いていくのが忍びなくて」「けど今も別居してはるんやから、あんまり変わらへんやないですか」「父は持病を抱えているので、週に三日ほどは顔を見がてら、食事を届けに長岡へ帰っています。でもオーストラリアへ行ってしまうと、それができなくなるでしょ」「たしかにそれは心配ですね。けど、そのこととちらし寿しはどんな関係が?」「わたしには父の胸の裡うちがよく分からないんです。言葉少なですし、感情もあまり表に出しません。そんな父が、ただ一度だけ、食事を用意していた。それは何かをわたしに伝えるためだったのじゃないか。最近になってそう思うようになってきました」「そのちらし寿しを食べんと、亜弓さんが買こうてきはった握り鮨をふたりで食べはったんですよね。どんな感じやったんですか? お父さんはちらし寿しのことは何も言わはらへんかったんですか?」
「そのときはまったくと言っていいほど、気に掛けなかったんです。父が夕飯の支度をして待っていることなど、一度もありませんでしたから、何かと見間違えたかなと思ったくらいでした」
「たまたま誰かにもらわはっただけやったかもしれませんね」「でも、今から思えば、なんですが、ちゃんと家のお皿にふたり分を盛りつけてありましたし、お箸も添えてあったような気がするんです」「そんなんははじめてやったんですね」
「わたしが高校を卒業するころまでは、近所に住む祖母が、毎日食事の用意をしてくれていました。祖母が亡くなってからは、スーパーの惣そう菜ざい売場に勤めていたわたしが、売れ残りを安い値段で買って帰ってふたりで食べていました。米屋でしたからご飯を炊くことだけは父の役目でしたけど、包丁を持つ姿などは一度も見たことがありませんでした」
「ちらし寿しやったら錦糸卵も作らんならんし、シイタケやらの味付けもせんならん。包丁よう持たん人には難しいやろ。たしかに謎やなぁ。亜弓さんは食べはらへんかったから、どんなちらし寿しやったか、まったく分かりませんよね」こいしは何度も首をかしげている。
「実は食べたかも、いや、食べたと思うんです」亜弓が声を落とした。
「どういう意味ですのん?」
こいしが前のめりになった。
「あの日は友人たちが送別会を開いてくれたので、夕飯もそこそこにして出かけました。
あまり強くないのに、ついつい飲み過ぎてしまって、ほとんど記憶が飛んでしまいました」
「ようあることです。どうやって家に帰ったんやろて思うこと」こいしが何度も首を縦に振った。
「朝起きてみると、テーブルの上に食べかけのちらし寿しが置いてあって、夕べ遅くに帰って来てから食べた記憶が少しよみがえってきたんです」「そうそう。それもようありますわ。知らんうちにカップラーメン食べてたり」「食べ残しってきれいなものじゃないので、父が起きてくる前に、と思ってあわてて生ゴミ入れに捨てました。なので、食べたのだと思うのですが、どんな味だったかとかまではさっぱり」
亜弓が顔を曇らせた。
「そうやわねぇ。けど、もういっぺん食べたら思いだせるかもしれませんね」「そうだといいのですが」
「包丁もめったに使わはらへんお父さんが、よう作らはりましたね」「たとえ鯛焼きとは言え、よく食べもの商売をはじめたものだと思います」「そうかぁ。鯛焼きやったら包丁使わんでもできますもんね」「わたしが知らないだけで、実は料理もできるのかもしれませんが」「ご両親はなんで離婚しはったんです? 答えにくかったらええんですけど」「子どものころは、父も何も話してくれませんでしたから、離婚の理由はまったく分かりませんでした。ただ、仲が悪くなったからだと子ども心にそう思っていましたが、大きくなってから聞いた話では、どうやら母には不倫関係の男性がいたようです」「お母さんとはそのあと会おうたぁらへんのですか?」「母はわたしが中学を卒業したころに再婚しました。相手は七歳も年下の男性で、居酒屋チェーンの社長です」
「妹さんは?」
「亜希は二十九歳のときに新潟市内の有名パティシェと結婚しました」「双子の妹さんやから幸せになって欲しいと思うけど、複雑な気持ちにもならはったんやろね」
「結婚式の招待状が届きましたけど、父と相談してふたりとも欠席しました」「なんかやるせない話やなぁ」
こいしが長いため息をついた。
「ねたむ気持ちがまったくなかったと言えばうそになるでしょうね。そんなに深く考えずに母についていった妹が人もうらやむ結婚をして、母は母で居酒屋チェーンの社長夫人。
ついつい自分たちと比べてしまって、砂をかむような気分になったのを、昨日のことのように思いだします」
亜弓が天井を仰いだ。
「こんなん言うたらあかんのやろけど、小説に出てきそうな話ですね」「両親が離婚した子どもって、世の中にはあふれるほど居るんでしょうけど、わたしたち姉妹ほど明暗が分かれた子どもって、あんまり居ないんじゃないかな。バチが当たるような悪いことを何ひとつしたわけじゃないのに。ついつい神さまを恨んでしまうんですよ」亜弓は薄うっすらと目を潤ませている。
「どない言うたらええのか。亜弓さんのお気持ちはよう分かりますけど……」こいしはあとの言葉を吞のみこんだ。
「ひとり暮らしをはじめてから五年経たった去年、彼からプロポーズされて、ようやくわたしにも春が来たかなと思いました」
「うちまでホッとしましたわ。よかったですやん」「でも、まだお返事できていないんです」
亜弓が顔を曇らせた。
「お父さんのことがあるしですか?」
こいしの問いかけにこくりとうなずいた亜弓が、両膝を前に出し、前かがみになった。
「父のことが気がかりで、ずっと機会を逃してきたんです。でも今度の彼はわたしの気持ちをきちんと理解してくれて、決心がつくまでずっと待っていると言ってくれたんです」言葉を続けるうち、亜弓の表情から曇りが消えていった。
「そうなんや。ほんまにありがたいですね」
こいしもホッとしたように、握りしめていたペンをノートの上に置いた。
「たぶんこれが最初で最後のチャンスだと思います。でも、やっぱり父のことが気になりますし」
「思いきって直接訊いてみはったらどうですか? 結婚してオーストラリアへ行っても大丈夫かて」
「訊けばきっと、好きにすればいい、って平気な顔して言うと思うんです。ひとり暮らししたいと言ったときもそうでしたから。でも、ぜったい本音を言わない人なので、本心は分かりません」
亜弓は表情を固くした。
「けど、肝心のちらし寿しは、お父さんに訊かんと分からへんのと違うかな」「やっぱりそうですよね。いくら食専門の探偵さんでも、父に訊かずに捜しあてるのは無理なんですね」
「お父ちゃんのことやから、なんとかして見つけださはるかもしれませんけど」「探偵はあなたじゃなくて、お父さんなんですか?」亜弓が見開いた目を丸くした。
「うちは訊き役専門。実際に捜すのはお父ちゃんなんですよ」「そうなんですか」
ぽかんと口を開いたまま、ローテーブルに目を落とした。
「心配しはらんでも大丈夫。お父ちゃんは元刑事やったさかい、捜査はお手のもんですねん」
「元刑事? なのにあんなすごい料理を作られるんですか?」「けったいなお父ちゃんでしょ」
こいしが薄ら笑いを浮かべた。
「捜しているのがわたしだということさえ黙っていてもらえれば、父に会って訊きだしてもらってもかまいません」
「て言うても、唐突にちらし寿しのことを訊くわけにはいかへんわなぁ」両腕を組んで、こいしがソファにもたれかかった。
「難しいことをお願いして申しわけありませんが、どうぞよろしくお願いいたします」立ちあがって亜弓が深々と頭を下げた。
時折り頭をひねりながら、こいしが前を歩き、そのあとを少し遅れて亜弓が追いかける。コツコツと廊下を歩くふたりの足音は、食堂まで不規則に続いた。
「あんじょうお聞きしたんか?」
厨房から出てきて流がふたりを迎えた。
「面倒なことをお願いしてしまって申しわけありません」亜弓が深く腰を折った。
「とんでもない。なんや知りまへんけど、わしらは捜すのが仕事でっさかい」流は横目でこいしの様子をさぐった。
「今回は難題中の難題やと思うで」
「いっつもおんなじこと言うとるな」
流が苦笑いした。
「次はいつ来ればよろしいでしょうか」
亜弓は上目遣いで遠慮がちに訊いた。
「だいたい二週間いただいてますんやが、お急ぎでっか?」「急ぐと言えば急ぐのですが、ご無理も言えませんし」「分かりました。せいだい気張って早いこと捜して連絡しますわ」「よろしくお願いいたします。今日のお食事代を」「探偵料と一緒にもらうことになってますさかい」こいしが口もとをゆるめた。
「分かりました。ご連絡お待ちしております」一礼して亜弓は店を出た。
「今日はこれからどないしはるんです?」
こいしが送りに出てきた。
「新潟へ帰るバスが夜の十時半発なので、それまでぶらぶら京都観光をしようかと思っています」
亜弓が腕時計に目を遣やった。
「たっぷり時間があるさかい、あちこち見て回れますね」「夜行バスやと疲れるんやないですか?」
流が口をはさんだ。
「安いですから我慢します」
亜弓が笑顔で答えた。
「たしか関かん空くうから格安の飛行機が飛んどったような気がしまっせ」「そうなんですか? 調べてみます。ありがとうございます」亜弓は足早に正面通を西に向かって行った。
「夜行バスより飛行機のほうが楽やんな。けどなんでそんなん知ってるん?」「テレビでやっとった。安い飛行機の特集。それ乗って酒の仕入れに行こうかと思うとったとこや」
「もちろんうちも連れて行ってくれるんやな」「そんなことより、何を捜してはるんや」
流が話をすり替えた。
「ちらし寿し」
「どっかの店のか?」
「亜弓さんのお父さんが用意してくれてはったん」「用意? 手作りやないんか」
「それがよう分からんみたい。食べてはらへんから味もなんにも分からへん」「そら、たしかに難題やな」
「やろ? やっぱりうちも一緒に捜しに行かんとあかんわ」「飛行機代を調べんとな」
流が店に戻り、小鼻を膨らませてこいしがあとに続いた。