第二話 ハンバーグ
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竹たけ田だ佳か奈なは足踏みしながら、歩行者信号をじっと睨にらみつけていた。塩しお小こう路じ通を挟んで、向かい側に建つ京都タワーを見上げ、また信号機に視線を戻す。
信号が青に変わるや否や、グレーのパンツスーツに身を包んだ佳奈は誰よりも早く飛び出し、駆け足で横断歩道を渡り始めた。
「三十代最後の旅行が京都っていうのもわたしらしいよね」ひとりごととは思えないほどの声に、通りすがりの老夫婦が佳奈を振り返った。
佳奈は、大きなピンクのキャリーバッグを転がして、脇目もふらず一目散に北を目指した。
烏丸通から正面通に入り、迷うことなく目当ての店の前に立った佳奈は勢いよく引き戸を開けた。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
鴨川こいしは食器を下げる手を止めて、顔だけを佳奈に向けた。
「こちらは鴨川食堂ですよね」
キャリーバッグを店の隅に置いて、佳奈がこいしに訊きいた。
「そうですけど」
トレーに皿を重ねながら、こいしが素っ気なく答えた。
「食を捜していただきたくて伺いました」
黒のショルダーバッグを肩から外して、佳奈が小さく頭を下げた。
「そっちのお客さんやったんですか」
こいしの表情が幾らか緩んだ。
「おこしやす」
厨房ちゅうぼうから出て来て、鴨川流が白い帽子を取った。
「突然で申し訳ありません。竹田佳奈と申します。大だい道どう寺じさんの紹介で伺いました」
佳奈が両手で名刺を差し出した。
「茜あかねの飲み仲間っちゅうのは、おたくでしたんか。半月ほど前に電話掛けてきよったんで、大方の話は聞いとります。ま、どうぞお掛けください」左手に名刺を持ったまま、流がパイプ椅子を奨すすめた。
「ありがとうございます。失礼します」
ふたりに会釈して、佳奈が椅子に腰をおろした。
「お腹なかの具合はどないです。よかったら何ぞ作りまひょか」流がカウンターに名刺を置いた。
「鴨川さんのお料理は絶品だと聞いております。お作りいただけるなら喜んで」「茜がたいそうに言うとるだけです。絶品てなもんやおへんけど、今の時季の旨うまいもんをみつくろうてお出ししますわ。何ぞ苦手なもんはおへんか」「何でも美お味いしくちょうだいします」
「ちょっとだけ時間くださいや。すぐに用意しますんで」帽子をかぶり直して、流が厨房に急いだ。
「食ジャーナリスト……。雑誌の仕事とかしてはるんですか」名刺を一いち瞥べつして、こいしが訊いた。
「雑誌とか新聞、最近ではテレビの仕事も多いんですよ」佳奈がこいしに笑みを向けた。
「ええなぁ。美味しいもん食べて、それを書いてお金になるんやから」「そう甘くはないですよ。最近は仕事も減って来ましたし」佳奈が肩をすくめた。
「茜さんとはお仕事も一緒に?」
唐津焼の湯ゆ呑のみに茶を淹いれながら、こいしが訊いた。
「仕事をご一緒したのは一度だけなんですけど、シングルマザーどうしで意気投合しちゃって。月に二、三度飲み会を」
それがクセになっているのか、佳奈がまた肩をすくめた。
「よう飲みはるんや。何かお出ししましょか?」「お料理を拝見してから考えますね」
「きっとそう言わはると思うてましたわ」
厨房から出て来て、流がテーブルに藍染めの布を広げた。
「見抜かれてましたか」
佳奈が舌を出した。
「ワインがお好きなんやそうですな。こんな店ですさかい、大したもんはおへんけど、わしの好きなやつを後でお持ちしますわ」
流がまた厨房に戻って行った。
「お母ちゃんと徳島へ行った時に、藍染め体験してこしらえた布ですねんよ。ええ色でしょ」
布の折り目を指で伸ばしながら、こいしが目を細めた。
「母と旅行に行った記憶なんてないなぁ」
佳奈が寂しげな声を出した。
「お母さんも働いてはるんですか?」
「父の店を手伝ってます」
「何屋さんですのん?」
「食堂です。弘ひろ前さきの」
「うちみたいな?」
「京都のお店とは比べものになりません。ラーメンからカレーまである、何でも屋ですから」
佳奈が渋面をつくった。
「うちも似たようなもんですけど」
こいしが笑った。
「ようやく春が来ましたさかい、こんな籠に盛ってみました」葛かずらで編んだ大ぶりの籠に萌もえ黄ぎ色の和紙を敷き、幾つもの小鉢や小皿に料理が盛り付けてある。佳奈は素早くバッグからデジカメを取り出した。
「撮らせていただいてもいいですか?」
「こんなもんでよかったらどうぞ」
流が答えると同時に、佳奈は左手に持ったデジカメのシャッターを何度も切った。
「お仕事のクセて、なかなか抜けへんのですね」こいしが皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「美味しそうな料理が出るとつい……」
アングルを変え、レンズを伸び縮みさせて、佳奈は繰り返しシャッターを切った。
「よろしいかいな」
シャッター音が途切れたのをたしかめて、流が声を掛けた。
「はい」
佳奈が慌ててデジカメをバッグに仕舞った。
「毎年春の料理ていうたら、こんな感じです。左の上から……」「ちょっと待ってください」
佳奈が急いでバッグからペン型のICレコーダーを取り出し、テーブルに置いた。
「どうぞ、続けてください」
佳奈が目を向けると、流が苦笑いした。
「左の上、唐津焼の小鉢に入ってるのが長岡の筍たけのこと出雲いずものワカメの炊合せ。その横の織部の長皿は鱒ますの木の芽焼き。九く谷たにの角鉢はウスイエンドウの卵とじです。その下は伊い万ま里りの豆皿が五枚。左から蛤はまぐりの白しろ味み噌そグラタン、アサリと九くじ条ょう葱ねぎのヌタ、グジの細造りはポン酢と木の芽で和あえてます。丹波地じ鶏どりは塩しお麹こうじに漬けたんを蒸し焼きにしてます。右端は小こ鮎あゆの姿すが寿たず司し。下の丸皿には山菜のフライを盛り合わせてます。フキノトウ、タラノメ、コゴミ、モミジガサ、ワラビ、シァ∏。天ぷらやとありきたりなんで、フライにしましたんや。抹茶塩で食べてもろたらええんですが、実み山ざん椒しょうを漬け込んだウスターソースもよう合います。どうぞゆっくり召し上がってください。こんな白ワインでよろしいかいな」
料理の説明を終えて、流がワインボトルを見せた。
「ちょっと待って下さい」
言うが早いか、佳奈がデジカメを取り出した。
「丹波で、わしの友達が作ってるワインです。シャルドネ一〇〇%でしてな、フランスの小こ樽だるで発酵させて、樽熟成しとるんやそうです。品のええ酸味が今の季節にはぴったりやと思います」
抜栓して、流がグラスに注いだ。
「とってもいい香り」
コルクの匂いをたしかめてから、三本の指でステムをつまみ、佳奈がグラスを傾けた。
「美味しい、このワイン」
瞳を輝かせ、佳奈はボトルを手に取った。
「よろしおした。これ以上冷やさん方がええと思いますんで、ワインクーラーは出しまへん。お好きなだけ召し上がってください」
言いおいて、流が厨房に戻ると、こいしも後に続いた。
しんと静まり返った店の中で、ICレコーダーのスイッチを切る音が響く。佳奈は改めて籠の中を見回した。
「やっぱり揚げ物が先だよね」
ひとりごちて、フキノトウのフライに抹茶塩を振りかけて口に運んだ。
サクッと噛かみくだくと、一瞬にして口中に苦みが広がる。そしてその後には仄ほのかな甘みが舌に残った。
「忘れないうちに」
つぶやいてノートを取り出し、左手でペンを走らせる。
右手に持った箸でワラビのフライをつまんで、しばらく迷った後、小皿のソースに浸して口に運んだ。
「うん。ソースもいけるな」
うなずいて、佳奈は左手でメモを取る。
ひと通りフライを食べて、籠の上部に目を移した。
「京都の筍って、他とはひと味違うんだよなぁ」音を立てて筍をかじり、三行ほどノートに書きつけた。
再びワインを口にし、鱒の木の芽焼き、蛤のグラタンと、順に箸を付け、その度に何ごとかつぶやく。少し間を置いてから、右手の箸をペンに持ち替える。その間ずっと、左手に持ったワイングラスは離さない。
「やっぱり今日のベストはこれだな」
グジの細造りを食べ終えて、佳奈はノートに星印を三つ付けた。
「お口に合うてますかいな」
厨房から出て来て、銀盆を手にした流が籠の中を見回した。
「すごく美味しいです。これまでにも京都のお料理屋さんで、何度も京料理をいただきましたが、今日の料理は間違いなくベストスリーに入ります」ワイングラスから持ち替えたペンでアンダーラインを引き、佳奈が笑みを浮かべた。
「光栄なことです。けど、わしのんは京料理てな立派なもんやおへん。おかずと酒のアテですわ」
表情を変えずに流が言った。
「またご謙遜を。三ツ星料亭に全然負けてませんよ」流の腹を、佳奈が二、三度肘で突いた。
「器用に両手を使わはるんですな」
流が話の向きを変えた。
「いろんなことを同時にやりたいので」
苦笑しながら、佳奈が肩をすくめた。
「ご飯の方はどないしましょ。今日はフキと桜えびの炊き込みご飯を用意しとります」「もう一杯だけワインをいただいてから、でもいいですか」「どうぞ、どうぞ。ほな暫しばらくしたら、お汁つゆと一緒にお持ちします」銀盆を小脇に挟んで、流が厨房に戻って行った。
ワインをグラスに注ぎながらも、視線は籠の中をさまよっている。佳奈は九谷焼の小さな角鉢を手に取って、鼻先に近付けた。
青臭い香りはどこか懐かしさを感じさせる。添えられた小さな匙さじで、卵の絡んだ青豆をすくって舌に載せた。
籠を見回し、今度は小鮎の姿寿司に目を留めて、佳奈はデジカメのレンズをいっぱいに伸ばした。
レンズが鮎の背にくっつきそうになる。ディスプレイには鮎の背が、キラキラと光っている。ふと、父に連れられ、県境を越えて鮎釣りに行ったときのことを思い出した。
長い時間釣り糸を垂らし、ようやく釣り上げた鮎は夏の日差しを受けて、キラキラと鱗うろこを輝かせ、まるで命乞いをするように身体からだを何度もくねらせた。釣り上げることだけを楽しむのなら、もう一度川に戻してやればいい。そんなことを言った佳奈を、強い口調で父が諭した。
魚を釣るということは、殺したも同じだ。魚だけじゃない、肉でも野菜でも、その生命をいただいて食べるのだから、いただきます、と人間は言うのだ。釣った魚は食べてやらないといけない。小学生になったばかりの佳奈に父はそんな話をした。説教じみた物言いを不快に感じ、それが表情に表れたのだろう。いきなり父は平手で佳奈の頬を打った。
強く心に残っているというほどではないが、何かの拍子にふと思い出す。その度に苦いものが腹の底からこみあげて来る。
父親との間に確執が生じたのは、それがきっかけだったような気がしている。鮎寿司にレンズを向けながら、佳奈はそんな思い出を辿たどっていた。
大方を食べ尽くした頃、流が小さな土鍋を持って来た。
「春はいろんな生命いのちが生まれて来よります。海の桜えびと山のフキを一緒に炊き込みました。あっさりした塩味ですさかい、このままでも美味しおすけど、フキノトウ味噌を載せて、茶漬けにしてもろてもよろしい。すぐにお汁を持って来ますわ」土鍋から小ぶりの飯めし茶ぢゃ碗わんによそって、流は厨房に戻っていく。
流の口を吐ついて出た、生命という言葉を佳奈は胸の内で繰り返した。父と同じ年格好だからなのか、食に携わる仕事に就いているからなのか。考えを巡らせながら、佳奈は炊き込みご飯を口に運んだ。
「美味しい」
目を輝かせて、佳奈が叫んだ。
佳奈は写真を撮るのも忘れて、夢中でご飯をかき込んだ。
あっという間に茶碗を空にして、土鍋からよそっていると、長手盆に小ぶりの汁しる椀わんを載せて、流が傍そばに立った。
「どないです?」
「びっくりするくらい美味しいです」
飯をよそいながら、佳奈が笑顔を流に向けた。
「よろしおした。由ゆ比いの桜えびは漁が始まったとこですさかい、初もんですわ。初もん食うたら長生き出来るて、昔から言いますねんで」流が椀の蓋を取ると、一気に湯気が上った。
「あー、いい匂い」
椀に顔を近付け、佳奈が目を閉じて鼻をひくつかせた。
「賽さいの目豆腐だけの澄まし汁です。木の芽を吸い口にしとります」「お豆腐だけですか。何かもっと複雑な香りがしますけど」「寿司にした鮎の骨をさっと炙あぶって出だ汁しにしてます。鮎寿司をようけ作りましたさかいに」
「そうか。鮎の香りなんですね。あんな小さな鮎の骨を……」佳奈は椀から立ち上る湯気に鼻先を当てた。
「鮎は年ねん魚ぎょと言いましてな、短い寿命ですんで、食べ尽くして成仏させてやらんと可哀かわいそうですやろ」
「……」
饒舌じょうぜつな佳奈が、珍しく口を閉ざしている。
「食べ終わらはったら、奥へご案内しますわ」盆を小脇に挟んで、流は厨房に戻って行った。
椀を手に取って唇に寄せる。五ミリ角ほどの豆腐がふるふると舌を滑り、鮎と木の芽の香りが鼻に抜けて行く。佳奈はほっこりと息を吐いた。
「生命がどうとか、そんなこと考えながら食べても美味しくないんだよね」汁椀はきれいにさらえたが、土鍋ご飯は三分の一ほどを残した。酔いが回って来たのか、佳奈は頬を紅潮させていた。
「そうだ。お茶漬け食べなきゃ」
流の言葉を思い出して、佳奈は急いで炊き込みご飯を茶碗によそい、フキノトウ味噌を載せてから、急須の茶をまわし掛けた。
箸を取り、さらさらと音を立てて茶漬けを啜すする。表情ひとつ変えることなく、ひと粒の米も残さず茶漬けをさらえ、そっと箸を置いた。
「そろそろご案内しまひょか」
間髪を入れず、流が厨房から出て来た。
「お願いします」
躊躇ちゅうちょなく佳奈が立ち上がった。
カウンターの横にあるドアを開けて、流が先を歩く。佳奈は少し遅れてその後を追う。
「あ、ごちそうさまでした」
思い出したように、佳奈が流の背中に声を掛けた。
「よろしゅう、おあがり」
振り向いて、流が微笑ほほえんだ。
「は?」
佳奈が聞き返す。
「よろしゅう、おあがり。よう食べて頂きましたな、というような意味です。京都の家ではよう使う言葉です。ごちそうさま、とセットみたいなもんですわ。というても、普通の料理屋では使いまへんけどな」
立ち止まって、流が振り向いた。
「おあがり、って、これからまた食べるのかと思いました」「たしか、お子たちが居はりましたな。ごちそうさま、て言わはったら、何て言うて返さはるんです?」
「お粗末さま、って言いますね」
「イケズ言うわけやおへんけど、そない粗末なもん食べさせはったんですか」流が苦笑いを浮かべた。
「決まり文句って、そういうもんじゃありません?」佳奈が色をなした。
「失礼しましたな」
一礼して、流が歩き出した。
肩をすくめて佳奈は後を追った。
突き当たりのドアを流がノックすると、中からこいしが顔をのぞかせた。
「どうぞお入りください」
佳奈が敷居をまたぐのをたしかめて、流が踵きびすを返した。
「面倒かもしれませんけど、依頼書に記入してもらえますか」向かい合ってソファに座る佳奈に、こいしがバインダーとペンを手渡した。佳奈は左手に持ったペンをすらすらと走らせる。
「左利きなんですか?」
「子供のときに左利きだったのを父に無理やり直されて、そのうち両方使えるようになったんです」
笑みを浮かべて、佳奈がバインダーをこいしに返した。
「三十九歳。アラフォー女子ですねんね」
「自分が四十歳になるなんて考えられないです」「うちも心の準備をしとかんとアカンな。で、竹田佳奈さん、どんな食を捜してはるんです?」
尋ねながら、こいしがスマートフォンをローテーブルに置いた。
「さっきお父ちゃんが話してるとき、録音してはったでしょ。うちも真ま似ねしよと思うて。最近よう忘れますねん。大事なことを書き忘れたり。こうしといたら、メモを忘れてもええしね。はい、どうぞお答えください」
こいしがディスプレイから指を離した。
「ハンバーグです」
「洋食のハンバーグですか? ハンバーガーと違うて」こいしがノートを開いた。
「ええ。でもちゃんとした洋食屋さんで出て来るようなものじゃなくて、食堂で出て来る、素人っぽいハンバーグ……。あ、ごめんなさい。こちらのお店のようなまともな食堂の話じゃないんですよ」
「気にしてもらわんでもええですよ。大した店と違いますし」こいしが作り笑いを浮かべて続ける。
「いつ、どこで食べはったハンバーグですか」「たぶん、うちの父が作ったんだと思います」「たぶん、て、どういう意味です? 作ってはるとこを見てはらへんかったということですか」
「食べたのはわたしじゃないんです。最初から、ちゃんとお話ししないといけませんね」佳奈が座り直して、ひとつ咳せき払ばらいをした。
「複雑なお話なんですか?」
こいしが膝を前に出し、ペンを構えた。
「勇ゆう介すけっていう、六歳の息子が居るんです。その勇介が以前に食べたハンバーグを捜して欲しいんです」
「それを佳奈さんのお父さんが作らはったということですか」「たぶん。それしか思い当たらないんです」
「なんや、ようわからんお話なんですけど」
こいしが左右に首を傾けた。
「保育園の卒園アルバムに、一番好きな食べ物っていう欄があって、勇介はハンバーグって答えてたんです。でも、わたしは一度もハンバーグなんて作ったこともないし、勇介と食べたこともない。思い当たるのは、一昨年、勇介と二人暮らしになったことを報告がてら弘前に帰ったときのことです。わたしが居ない間に、父が食べさせたようなことを言ってました。それしか無いんですよ、勇介が食べたハンバーグって」佳奈が顔をしかめた。
「けど、ハンバーグて子供が一番好きそうな食べものやないですか。保育園でも給食とかに、出たんと違いますか」
こいしが言葉を返した。
「うちの保育園は給食が無いんです。全員お弁当持ちです」「そのお弁当に、ハンバーグを入れたげはったことは無いんですか」「別れた主人が、とんでもない食道楽の人で、お肉でもお魚でも、形のままでないと食べませんでした。ミンチやつくねは絶対に食べなかったので、勇介にも食べさせることはありませんでした。わたしも同じ考えだったので、ハンバーグなんて作ったことは一度もありません」
「可哀そうに。冷凍食品でも美味しいのがあるのに」思わず言ったこいしの言葉に、佳奈は表情を険しくした。
「添加物や保存料、化学調味料まみれのものを食べさせる方が、よっぽど可哀そうだと思いますけどね」
「そしたら既成品使わんと、お肉を叩たたいて、家で作ってあげはったらええやないですか」
こいしがムキになって反論した。
「ちゃんとしたお肉があるのに、なんでそれを叩いて形を崩さないといけないんです?
わざわざ代用品をこしらえる必要などないでしょう」佳奈も負けてはいない。
「ハンバーグが代用品やて言わはるんですか」こいしが高い声を出すと、しばらく気まずい沈黙が続いた。
「すみません。興奮してしもて」
先に口を開いたのはこいしだった。
「いえ。わたしこそ失礼しました」
佳奈が小さく頭を下げた。
「本題に戻りますけど、お父さんが作らはったんやったらご本人に聞くのが一番早いんと違います?」
「父とは仲なか違たがいしてしまっていて……。去年も今年も実家にも帰っていませんし。今更ハンバーグの作り方を教えて、なんて頼みたくないんです。ましてや勇介の好物だなんて、口が裂けても言いたくありません」佳奈が口を真一文字に結んだ。
「何があって、そうなったんかは知りませんけど、親子なんやし、素直に尋ねはってもええんと違いますかね」
こいしが上目遣いに佳奈を見ると、憮ぶ然ぜんとした表情で横を向いている。
「分かりました。お父ちゃんに行ってもらいます。その食堂へ行って、ハンバーグを食べたら分かりますもんね」
「でも、それだけだとダメなんです。父が店で出しているハンバーグをそのまま勇介に食べさせたかどうか、分からないんですから。そこも父から聞き出してもらわないと。ただし、わたしが頼んだって言わないでもらいたいんです」向き直って、佳奈が一気に言葉を連ねた。
「そんな難しいこと出来るんやろか」
こいしが首をかしげた。
「いい考えがあるんです。お父さんに、取材するフリをしてもらえませんか。うちの食堂はよく取材されてて、父も断ることはありません。『料理春秋』の取材だと言えば、きっと父も喜んで取材を受けるでしょう。大道寺さんさえ了解すれば済むことでしょうし」舌を出して佳奈が満面に笑みを浮かべた。
「うまいこと思い付かはりますね。けど、うちのお父ちゃんは嘘うそが大嫌いやから、その手は使えへんと思いますよ。方法はお父ちゃんに任さんと。で、お店の名前は?」こいしがペンを構えた。
「『竹田食堂』。百年前からある古い店ですよ」佳奈がバッグから写真を取り出して、ローテーブルに置いた。
「雪に埋もれて、ええ感じですやん。昔の写真ですか?」「三年前の写真です。古いだけが取り柄で取材されているんだと思います」「今でもこんな店が残ってるんや。行ってみたいなぁ。百年も続いてるてスゴイことですやん」
写真を手に取って、こいしがじっと見つめている。
「写真で見るからいいんです。実際に行って食べたら、きっとガッカリしますよ」佳奈が肩をすくめた。
「それはそうと、なんで今そのハンバーグを捜してはるんです?」佳奈の仕草を真似て、こいしが写真を返した。
「食べ比べをさせたいんです。わたしが一番だと思う料理と、勇介が一番の好物だと思い込んでいる、そのハンバーグを」
写真を手帳に挟んで、佳奈がバッグに仕舞った。
「どんな料理と比べるんです?」
「これまで取材したお肉料理で、わたしが一番美味しいと思ったのは、東京の白しろ金かねにあるステーキハウスのロッシーニ?ステーキなんです。山形牛のヒレ肉に、フォアグラとトリュフを載せて焼いただけなんだけど、この世のものとは思えないほど美味しい。
絶品ってこういうことを言うんだ、と感動しましたよ」「ハンバーグとステーキを比べるのも、なんか違う気がするんやけどなぁ」こいしが首をかしげる。
「勇介が一番だと思い込んでいるハンバーグを食べさせて、その後にステーキハウスへ連れて行って、ロッシーニ?ステーキを食べさせる。そうすれば本物の料理とはどういうものかが、勇介にも理解出来ると思うんですよ」「そのために……」
こいしが深いため息を吐いた。
「勇介にはグローバルな人間になって欲しいんです。父親が居ないからってバカにされないためにも、一流のものを身に付けさせたいと思ってます。着るものとかじゃないんですよ。そんなうわべのことではなくて、ちゃんとした見識を育ててやりたい。田舎の食堂のハンバーグが一番美味しい、なんて貧乏臭いことを言わせたくないんです」佳奈の言葉に頬を赤く染めたこいしだったが、何度も胸に手を当て、喉から胃の奥へと、幾つもの言葉を飲み込んだ。
「分かりました。お父ちゃんに捜してもらいます」ノートを閉じ、スマートフォンのディスプレイに強く指を押し当てた。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げた佳奈は、素早く立ち上がった。
「あんじょうお聞きしたんか」
食堂に戻ると、流は新聞を畳んで、こいしに顔を向けた。
「ちゃんと聞いていただきました。どうぞよろしくお願いします」佳奈が深々と頭を下げた。
「せいだい気張らせてもらいます。こいし、次のお約束はしたか?」佳奈からこいしへ、流は身体の向きを変えた。
「二週間後くらいでどうです?」
こいしが佳奈にさらりと言った。
「いいですよ。レシピと一緒にクール便で送ってもらえますか。もちろん送料は払いますので」
ショルダーバッグを肩に掛け、佳奈がキャリーバッグの取っ手を伸ばした。
「送る? それは無理ですわ。お話もせんとあかんし」こいしが血相を変えた。
「でも、二週間後って、入学式直前じゃないですか。準備で大変な時期なんですよね」佳奈が口を尖とがらせた。
「お忙しいやろとは思いますけど、口に入るもんを送るてなことは、わしの性に合いまへんのですわ。お越しいただけるとありがたいんですが」流が柔らかい笑みを向けた。
「わかりました。なんとか都合を付けて伺うようにします」肩をすくめた佳奈は、引き戸を引いて店の外に出た。
「これから何ど処こぞにお出かけですか?」
送りに出て来た流が、大きなキャリーバッグに目を留めた。
「京都のニューオープンの店を三軒ほど覗のぞいてみようと思ってます。秋の京都特集に備えて」
佳奈がまた肩をすくめた。
「京都にお泊まりで?」
「ええ。鴨川沿いに出来た新しいホテルに泊まります」「勇介くんひとりで大丈夫なんですか?」
佳奈の足元に寝転んでいた、トラ猫のひるねをこいしが抱き上げた。
「今日はシッターさんにお願いしてあるので」佳奈が正面通を東に向かって歩き始めた。
「お気をつけて」
その背中に声を掛け、流がひるねをにらみつけた。
「そんな怖い顔せんでも、店に入れたりはせえへんて。な、ひるね、ようわかってるもんな。またあとで」
こいしがひるねを下ろして、小さく手を振った。
「で、ものは何や?」
流がパイプ椅子に腰をおろした。
「ハンバーグ」
こいしが素っ気なく答えた。
「どこぞの店のもんか?」
「店て言うたら店なんやけど……」
流と向き合って座り、こいしがノートを開いて見せた。
「なんや、メモはこれだけかい。何にもわからへんがな」ページを繰って、流が顔をしかめた。
「心配せんでも、秘密兵器を用意してあるんよ」こいしがスマートフォンをテーブルに置いて、ディスプレイにタッチした。
「手抜きしおってからに」
苦笑しながら、流は耳を近付けた。
「イヤな感じの人やったなぁ。茜さん、あんな人と話が合うんやろか」「こいし、余計なことは考えんでええ。わしらは頼まれたもんを捜すのが仕事や」耳をスマートフォンにくっつけたまま、流がくぎを刺した。
「最後の方に出て来るねんけどな、お父ちゃんに嘘を吐いて欲しいて言うてはるねんよ」こいしがページを開いて見せた。
「嘘? どういうことや」
「早送りするし、聞いてみて。きっとお父ちゃんはイヤやと思うわ」ディスプレイをスワイプして、こいしが佳奈を真似て、肩をすくめた。
暫くの間聞き入っていた流が、耳を離して笑顔をこいしに向けた。
「おもろいがな。お父ちゃんも俄にわかグルメライターや」「人を騙だますことになるねんで」
「本で読んだんやけどな、作家の池波正太郎も、時々そういうイタズラをやってたらしい。旅の宿で、富山の薬売りに成りすましたりして遊んでたんやと。化けの道楽て言うんやそうや」
「まぁ、罪がない話かもしれんけど」
「早速明日から弘前へ行って来るわ」
「美味しいおみやげ頼むで」
こいしが背中を叩くと、流は顔をしかめた。