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第二卷 第三話  クリスマスケーキ 1

时间: 2024-03-05    进入日语论坛
核心提示:  第三話  クリスマスケーキ  1  京都駅の烏丸口は吹き抜けになっていて、駅ビルの十一階まで、高低差三十五メートルに
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  第三話  クリスマスケーキ
  1
  京都駅の烏丸口は吹き抜けになっていて、駅ビルの十一階まで、高低差三十五メートルにも及ぶ大階段が伸びている。一階ごとに設けられた踊り場と百七十一段もの階段をスクリーンに見立て、クリスマスイルミネーションが映し出される光景は、師走の風物詩になっている。
  改札口を出て大階段を見上げた坂さか本もと良よし枝えは、思わず夫の袖を引っ張った。
  「ほらほら、あの階段見て。綺き麗れい」
  「ほんまや。階段がスクリーンになっとるんやな」「今年こそツリーを飾りましょうね」
  良枝が巨大なクリスマスツリーを見上げた。
  正まさ幸ゆきは無言のままツリーを見上げている。
  「迷ってはるんですか」
  吹き渡って来た北風に、白い息を吐いた良枝は正幸に身を寄せた。
  「まだ踏ん切りがつかんのや」
  信号が青に変わっても、正幸は足を踏み出そうとしない。横顔を見上げて、良枝はそっと背中を押した。
  烏丸通を北へ歩くふたりは、七条通を越えて東へと向きを変えた。
  ふたりが歩く正面通の両側には、多くの数珠店や法衣商が並んでいる。店仕舞いをして暗闇を作る中に、一軒だけ明かりの灯ともるしもた屋がある。
  「あそこと違うかしら」
  良枝が指差した。
  「看板もない。暖の簾れんも上がってない。モルタル造りの二階建て。聞いた通りやな」正幸はメモをポケットに仕舞った。
  およそ店らしくない建屋の二階は真っ暗で、通りに面した一階の窓からのみ明かりが洩もれている。営業しているようには見えないが、人が居ることだけはたしかなようだ。戸口に立ったふたりは顔を見合わせコートを脱いだ。
  「ごめんください」
  良枝が引き戸を開けた。
  「どちらさんです?」
  しばらく間を置いて、白衣姿の鴨川流が厨房ちゅうぼうから出て来た。
  「こちらは『鴨川食堂』ですね?」
  正幸が訊きいた。
  「そうですけど。すんません、今日はもう仕舞いましたんや」流が遠慮がちに答えた。
  「食を捜してもらいに来たんですけど」
  良枝がすがるような目付きをした。
  「とにかくお入りください」
  一瞬の間を置いて、流が手招きした。
  「ありがとうございます」
  声を揃そろえ、良枝と正幸はホッとしたような顔付きで敷居をまたいだ。
  「どうぞおかけください」
  流がパイプ椅子を引いた。
  「すみません。突然お邪魔をして」
  正幸が頭を下げてから腰をおろした。
  「ほとんど昼だけしかやってませんのや。夜は専もっぱら仕込みですわ」カウンターの上には幾つものバットや大鉢が並んでいる。出来上がったばかりのものだろうか。湯気が立ち上っている料理もある。横目でそれを見て、良枝は深く腰を折った。
  「お仕事中に申し訳ありません」
  「どちらからお越しで?」
  流が万ばん古こ焼やきの急須にポットの湯を注いだ。
  「伏見から参りました。『料理春秋』の広告を拝見しまして……」良枝が答えた。
  「あの一行広告だけで、よう辿たどり着かはりましたな」流がふたりの前に清きよ水みず焼やきの湯ゆ呑のみを置いた。
  「編集部に電話したんです。最初は教えられへんて言うてはったんですけど、しつこく頼んだら、編集長さんが出てくれはって」
  良枝が頬をゆるめた。
  「茜のやつ」、流が苦笑いしてから、ふたりに顔を向けた。
  「ご縁がありましたんやな」
  「ありがたいことです」
  正幸が目を細めた。
  「ただいま」
  レジ袋を提げて、こいしが思い切り引き戸を開けた。
  「もうちょっと静かに出来んか。お客さんがびっくりしてはるがな」流がたしなめた。
  「すんません。荒けないことで」
  こいしが肩をつぼめた。
  「娘のこいしです。いちおう探偵事務所の所長っちゅうことになってますねん」流が紹介すると、夫婦揃って立ち上がった。
  「申し遅れました。坂本正幸と言います。これは家内の良枝です。食を捜していただきとうて伺いました。よろしゅうお願いします」
  ふたりは流とこいしに頭を下げた。
  「お腹なかの具合はどうですのん? 夕食はまだなんでしょ」こいしが顔を向けると、ふたりは喉を鳴らした。
  「突然お邪魔して、そんな厚かましいこと」
  良枝が正幸の顔色を窺うかがう。
  「ちょうど明日の分を多めに仕込んだんでご用意しますわ。ちょっとだけ時間をください」
  ふたりの様子を見て、流が厨房に向かった。
  「なんや申し訳ないですなあ」
  正幸が流の背中に声をかけた。
  「ええんですよ。お父ちゃんは料理を食べてもらうのが好きなんやし」こいしが茶を注いだ。
  「本当のことを言うと、少し期待してたんです。編集長さんがこちらのお料理を絶賛されていたので」
  良枝が小さく微笑ほほえんだ。
  「『料理春秋』を見て、来てくれはったんですね。どちらからです?」こいしが訊いた。
  「伏見から来ました」
  良枝が短く答えた。
  「あの雑誌を読んではるいうことは、そういう関係のお仕事を?」「和菓子屋をやってますねん」
  正幸が答えた。
  「甘いもん大好き。どんなん作ってはるんです?」こいしがふたりの向かいに座った。
  「お茶席で使うてもらえるようなお菓子と違って、誰でもが気軽に食べられる餅菓子やお饅まん頭じゅうを作ってます」
  良枝が胸を張った。
  「そんなんが好きですねん。おはぎとか桜餅とかでしょ」こいしが目を輝かせ、しばらくの間、和菓子談義が続いた。
  「お待たせしましたな」
  厨房から出て来て、流が折お敷しきを並べた。
  「突然ですんませんな」
  正幸が居住まいを正した。
  「こんな食堂ですさかい、大したもんはありまへんけど」漆黒の折敷の上に、流が春慶塗しゅんけいぬりの二段重を置いた。
  「早々とお正月気分ですね」
  蓋を取って、良枝が相好を崩した。
  「おせち料理ほど豪華やおへん。こまごまと詰めさせてもらいました。上のお重に入ってるのは、漬づけマグロの山葵わさび和あえ、生湯葉のお造り、タイの薄造りには練りゴマがまぶしてあります。出だ汁し巻き玉子、グジの小こ袖そで寿ず司し、大黒シメジと水菜のお浸し、菊花カブラの酢漬け。串に刺してあるのは、ウズラのつくねと蒸し海え老び、胡きゅ瓜うりの板ずりです」
  流の説明に、何度もうなずきながら、ふたりは舌なめずりしている。
  「お酒が欲しなるのと違います? 一本つけましょか」こいしが口を挟んだ。
  「そうしたいところですが、これから大事な話をさせてもらわなあかんので、遠慮しときます」
  正幸がこいしに会釈した。
  「お酒抜きやったら、下の段も一緒に召し上がってください」流の言葉を聞いて、良枝が上段を持ち上げた。
  「どれも美お味いしそう」
  「焼きもんはマナガツオの味み噌そ漬け、小鉢に入ってる煮物は堀川ごぼうと明石タコの桜煮、聖護院しょうごいん蕪かぶら、どんこ椎しい茸たけ。大葉で包んであるのはモロコの甘露煮。揚げもんは寒かん鯖さばの竜田揚げと海老芋の素揚げです。青ネギを巻いてるのは鴨かもロース、白ネギを巻いたのは黒豚、山葵か辛子を付けて召し上がってください。セコ蟹がにの炊き込みご飯には三ツ葉を載せてもろたら美味しおす。後で牡か蠣き豆腐の赤だしを持って来ますんで、どうぞ召し上がってください」流が小走りで厨房に向かった。
  「お茶のお代わりを置いときますね」
  こいしが益まし子こ焼やきの土瓶を良枝の傍らに置いて、厨房に入って行った。
  「いただこか」
  正幸が手を合わせると、良枝もそれに続いた。
  二段重を横に並べ、ふたりは箸を持ったまま、忙せわしなく視線を移動させる。先に箸を付けたのは正幸の方だった。
  「マグロの赤身て、こんなに旨うまいもんやったかいな」正幸がしみじみと言った。
  「トロより美味しい」
  良枝が正幸と目を合わせた。
  「タイのお造りにゴマがこんなに合うとは思わんかった」「鯖の竜田揚げなんて初めて」
  「グジのお寿司も旨いなぁ」
  「堀川ごぼうにタコが射込んであるんやわ」
  ふたりはそれぞれ、箸で取って見せ合いながら食べ続ける。
  「赤だしをお持ちしました」
  盆に椀わんをふたつ載せて、流がテーブルの傍そばに立った。
  「美味しくいただいてます」
  良枝が腰を浮かせた。
  「そら、よろしおした。どうぞゆっくり召し上がってください」それぞれの折敷の上に流が椀を置いた。
  「どれも手が込んでいて、美味しいですわ」
  正幸が流に笑顔を向けた。
  「和菓子に比べたら、大した手間やおへん。ええ食材さえ手に入ったら、後は勝手に味が付いてくれよる。楽なもんですわ」
  「とんでもない。うちなんか小豆やら餅をこねくり回してるだけです。こんないろんな食材を自在に操ることなんか、とても出来しません」流と正幸が互いに譲り合う。
  「炊き込みご飯のお代わり、ありますやろか」正幸が遠慮がちに訊いた。
  「まだまだありまっせ」
  流が答えた。
  「そんな厚かましいこと言うたらあかんでしょ」良枝が正幸をにらんだ。
  「ええんでっせ、奥さん。料理人はたくさん食べてもろたら嬉うれしいんです。よかったら奥さんもどうです?」
  流が良枝の重箱を覗のぞいた。
  「わたしはもう充分」
  良枝が重箱に掌てのひらを伏せた。
  流が厨房に戻って行った後も、ふたりは箸を動かし続ける。赤だしを啜すすって、正幸が良枝に向き直った。
  「こんなして、ふたり揃うて旨いもんをゆっくり食べるの、何年ぶりやろな」「覚えてないくらい、遠い日のような気がします」良枝が宙に目を遣やった。
  「ちゃんと捜してもらお。はらを決めたわ」
  正幸が唇を一文字に結んだ。
  「よかった」
  良枝が両頬をゆるめた。
  米のひと粒も残さず重箱を空にしたふたりは、茶を啜りながら、落ち着かない様子で厨房の様子を探っている。
  「長いことお待たせしましたな。仕込みの段取りが悪ぅて」ひと仕事終えて、流が厨房から出て来た。
  「わたしらが割り込んだせいで、ご迷惑をかけたんと違うかしら」良枝が肩を縮めている。
  「何を言わはります。わしら料理人は食べてもろてナンボです。綺麗にさらえてもろて嬉しおすわ。ご案内しますんで、どうぞ奥へ」
  流がカウンター横のドアを開けた。
  店の奥へと長く伸びる細い廊下を、流の先導でふたりがゆっくりと歩いて行く。
  「これが鰻うなぎの寝床というやつですな。わたしは生まれも育ちも伏見やさかい、こういうのは滅多に見かけません」
  正幸が後ろを振り返った。
  「たまたま敷地がこんな形やっただけで、京町家てな立派なもんとは違いまっせ」流が正幸に笑顔を向けた。
  「両側に貼ってあるのは、お作りになった料理ですね」廊下の両側の壁を埋め尽くすように貼られた写真を、良枝が興味深げに見ている。
  「そうです。メモ代わりですわ。レシピをノートに記録したりせんものですから」「うちも新しいお菓子を作ったときは、写真に撮ってアルバムに残してます」正幸が足を止めて、写真に顔を近付けた。
  「わしは昔から整理整頓っちゅうのが苦手でしてな。それでこの始末です」立ち止まって、流が声を上げて笑うと、廊下の突き当たりのドアが開いた。
  「どうぞお入りください」
  こいしが招いた。
  「後は娘がお聞きします」
  流は店に戻って行った。
  「失礼します」
  先に正幸が部屋に入り、良枝がそれに続いた。
  「どうぞおかけください」
  こいしがソファを奨すすめると、ふたりは並んで腰かけた。
  「ご面倒ですけど、ここにお書きいただけますか」向かい合って座ったこいしがローテーブルに依頼書を置いた。
  「頼むわ。字が下手やさかい」
  ボールペンの挟まったバインダーを、正幸が良枝に手渡した。
  良枝は膝の上にバインダーを置き、すらすらとペンを走らせて、ローテーブルに戻した。
  「坂本正幸さんと良枝さん。おふたりで和菓子屋さんをやってはる。屋号は『香こう甘かん堂どう』。老舗のお菓子屋さんなんやろねぇ」几帳面きちょうめんな良枝の文字を、こいしが指で追った。
  「昭和三年の創業ですさかい、まだまだです。京都では百年経たたんと老舗とは言えませんしね」
  正幸の控えめな物言いに、こいしは好感を持った。
  「けど昭和三年て言うたら……後十五年で百年になりますやん。跡取りさんは?」こいしが指を折って数えた。
  「そのこともあって……」
  正幸が良枝と互いに顔を見合わせた。
  「お話は追々うかがうとして、何を捜したらええんです?」こいしがひと膝前に出した。
  「クリスマスケーキなんです」
  良枝がきっぱりと答えた。
  「そう言うたら、もうすぐクリスマスですね。ケーキ……ですか」こいしが肩を落とした。
  「ケーキはあきませんか?」
  正幸が身を乗り出した。
  「あかん、て言うことないんですけど。お父ちゃん、お菓子は苦手ですねん」こいしはノートにクリスマスケーキらしきイラストを描いている。
  「なんとかお願いします」
  良枝が拝むような仕草をした。
  「詳しいに聞かせてください」
  こいしが背筋を伸ばした。
  「六年前のちょうど今ごろなんですが、ひとり息子の翔かけるを交通事故で亡くしました」
  正幸が口を開いた。
  「お気の毒に……。おいくつやったんです?」暫しばらく間を置いてから、こいしが言葉を返した。
  「十歳になったばかりでした」
  良枝が声を落とした。
  「どう言うて、ええのか。びっくり、しはったでしょう?」ふたりの顔色を窺いながら、こいしは言葉を探している。
  「あまりに突然やったので、何が何やらわからんようになってしもて」正幸の言葉に、良枝は小刻みに何度もうなずいた。
  「うちの店は伏見の御ご香こう宮のみやさんの近くにあるんですが、自宅は少し離れてまして、目が行き届かんかったんです。わたしと家内とで店を切り盛りしてたんで、翔はいつも家で留守番でした。母が健康なときは世話をしてくれてましたが、寝たきりになってからは、いわゆる鍵っ子状態でした」
  正幸が伏し目がちに、とつとつと語る。
  「用心深い子やさかい案じてなかったんですけど、集団下校中、車に轢ひかれてしもて」良枝が話を繋つないだ。
  「そうやったんですか」
  こいしは相あい槌づちを打つのがやっとだった。
  「当時、通学路での事故が多発しとって、送り迎えする親御さんもようけ居おられました。うちもそうしてたら、あんなことにはならんかったかと思うと……」正幸が唇を噛かんだ。
  「暴走車に轢かれたんやから、そんなこと後悔してもしょうがないやないですか。わたしらも同じ目に遭う運命やったかもしれんのを、翔がひとりで背負うてくれたんです」良枝が自分に言い聞かせるように言った。
  「別に禁止しとったわけやないんですが、家では和菓子一いっ本ぽん槍やりで、洋菓子を食べることは滅多にありませんでした。子供ながらに遠慮しとったんでしょうな。貯ためた小遣いで、ときどき近所のケーキ屋に洋菓子を買いに行ってたらしいんです。今はもう無いんですけど」
  話の向きを変えて、正幸が横目で良枝を見た。
  「翔のお通夜に、お店の方がクリスマスケーキをお供えに来てくれはって、そのとき初めて知ったんです。ときどき翔が買いに行ってたことを」良枝がハンカチで目尻を拭った。
  「お店の名前は覚えてはります?」
  こいしがペンを構えた。
  「『サン?ニュイ』というお店でした」
  良枝が答えた。
  「フランス語っぽいなぁ」
  こいしが首をかしげながら、ノートに記した。
  「初七日の日に、お礼に伺ったんですが、マンションの一階にある小さな店で、おばあさんがひとりでやってはりました」
  良枝が言葉を足した。
  「場所はどの辺りです?」
  こいしがローテーブルに地図を広げた。
  「墨すみ染ぞめの駅がここで、これが郵便局やから、この辺やったと思います」良枝が川の傍にある寺を指差した。
  「お店をやってはったおばあさんの名前は?」こいしが話の向きを変えた。
  「うっかり、お名前を訊くのを忘れてしもて。忌明けのときにお礼状をお渡ししようと思うて伺ったときには、もうお店を閉めてはりました」良枝が答えた。
  「気が動転してしもてて、行き届かんことばっかりでした」正幸が言葉を足した。
  「その肝心のクリスマスケーキですけど、どんな味やったんです?」こいしがペンを構えた。
  「それが……」
  またふたりが顔を見合わせる。
  「ひと口しか食べてへんので」
  良枝が口を開いた。
  「わたしもほとんど……」
  正幸が小声で言った。
  「もったいないこと」
  こいしが嘆息を漏らした。
  「翔のためにお供えしてくれはったもんを、わたしらが食べたらいかんように思いました。と言うか、とてもクリスマスケーキを食べるような気持ちになれへんかったんで」正幸は地図の一点を見つめたままだ。
  「お気持ちはよう分かりますけど」
  手がかりを無くして、こいしが肩を落とした。
  「見た目には普通のクリスマスケーキでした。スポンジケーキに生クリームで飾り付けがしてあって、苺いちごがたくさん載っていました。底の生地が少し固かとぅなってたような記憶が……」
  良枝が宙を見つめながら思い出している。
  「翔が好きやったチョコレートも飾ってありました。メリークリスマスと書いてあって……」
  雫しずくが正幸の頬を伝った。
  「見た目やのうて、味で覚えてはることありません?」こいしが交互にふたりの顔を見た。
  「特にこれと言って」
  正幸が首をかしげた。
  「ほんのひと口だけでしたから、はっきりとは言えへんのですけど、とてもフルーティーなクリームでした。ほっこりするような」
  良枝が目を細めた。
  「供えてる間中、ずっとええ匂いがしてたなぁ」正幸が言葉を続けた。
  こいしはノートに書き付けていた手を止めて、じっと考え込んでいる。良枝と正幸は不安そうな表情で、こいしの顔を見つめていた。
  「ちょっと失礼な言い方になるかもしれませんけど……」こいしが口を開くと、ふたりは揃って前かがみになった。
  「味を覚えてはらへんということやったら、捜し出したとしても、それが同じかどうか分からへん、ということですよね。あんまり意味がないのと違うかなぁ、と思うんですけど」
  こいしが遠慮がちに言葉を続けた。
  「六年も経って、今なんでそのときのクリスマスケーキを捜そうと思わはったんです?」しばらくの間、沈黙が流れた。
  「けじめをつけたい。そう思うたんです」
  ローテーブルに目を落としたまま、良枝がつぶやくように言った。
  「あのときのクリスマスケーキを食べて、けじめにしたいんですわ」正幸が続けた。
  「けじめ、て。終わりていうことですか? 亡くなった息子さんのことを忘れたい、て言わはるんですか」
  「忘れたいなんて思うはず、あるわけないやないですか。何があっても忘れることなんかあらしません」
  正幸が潤んだ目できっぱりと言った。
  「けど、いつまでも引きずってたらあかん、そう思うんです」良枝が言葉を繋いだ。
  「いつまでも、このままていうわけにはいかん……。いかんのです」正幸が自分に言い聞かせるように、言葉に力を込めた後、誰もが言葉を発せずにいた。
  「『香甘堂』はわたしで四代目になります」
  沈黙を破って、正幸が重い口を開き、こいしは次の言葉を待っている。
  「このままやとたぶん四代で途切れる。つい二、三年前までは、それでええと思うてたんです。わたしの代で店を閉めても先祖さんも許してくれはるやろうと」正幸は天井を仰いだ。
  「男の子やのに、うちのお菓子が好きで、しょっちゅう買いに来てくれる大学生が居るんです。この春に京きょう南なん大学を卒業なんですけど……」良枝が目を向けて、正幸に話の続きを促した。
  「克かつ也や君はホンマに和菓子好きでしてな、週に一度は必ず買いに来てくれます。半月ほど前、帰り際に、うちで修業させて欲しいと言い出したんですわ」正幸の顔が微かすかに明るくなった。
  「和菓子好きが嵩こうじて、ていうことですね」こいしが相槌を打った。
  「京南大学てな有名大学を出たら、いくらでも大手企業に就職出来るやろに、物好きな子やなぁと思うて」
  正幸は頬をゆるめた。
  「わたしらかて、いつまでふたりで続けていけるか、先も見えませんし……」良枝が正幸の後を受けた。
  「お名前は?」
  「麻生あそう克也。二十二歳です」
  こいしの問いに良枝が間をおかず答えた。
  「となると、行く行くはその克也さんに五代目を継いでもらうことになるんですか」こいしがふたりの目を真まっ直すぐに見た。
  「まだまだ先のことやと思いますが、それも考えた上で受け入れるかどうか、決めないかんやろし。正直なとこ、迷うてます。なんや翔を見捨てるような気がして」正幸がため息を吐ついた。
  「すぐに答えを出せるようなことやとは思うてません」良枝は姿勢を正した。
  「捜し出せたとして、そのクリスマスケーキを食べたら、お気持ちが固まるんですか」こいしが直球を投げた。
  「わかりません」
  正幸と良枝が同時に首を横に振った。
  「……」
  こいしは返答に窮している。
  「お分かりいただけへんかもしれませんが、この半月余りの間、わたしら夫婦が考えに考えて、辿り着いたんがこのケーキなんです。なんとかお願いします」正幸が深々と頭を下げると、慌てて良枝もそれに続いた。
  「わかりました。お父ちゃんにも、お気持ちはちゃんと伝えます」こいしがノートを閉じた。
  「よろしくお願いします」
  ふたりは揃って腰を折った。
  店に戻って来た三人を待ち構えていたかのように、流が笑顔を向けた。
  「あんじょうお聞きしましたやろか」
  「わたしら夫婦の気持ちはぜんぶお話しさせてもらいました」良枝が笑顔を返した。
  「そら、よろしおした」
  「今回は難問中の難問やで」
  一旦は安あん堵どした流の表情が、こいしの言葉で一転して強こわ張ばった。
  「難しいことをお願いして申し訳ありません」正幸が頭を下げた。
  「なんや、よう分かりまへんけど、せいだい気張らせてもらいます」「よろしくお願いします」
  良枝が流に頭を下げた。
  「こいし、次のお約束はしたんか」
  「うっかりしてたわ。二週間後の今日でよろしい?」こいしが夫婦に顔を向けた。
  「二週間後の今日ていうたらクリスマスイブやないか。そんな日に来てもらうやなんてご迷惑と違うか」
  流は壁掛けのカレンダーを見た。
  「わたしらは大丈夫ですけど……」
  顔を見合わせたふたりは揃って首を縦に振った後、こいしに向き直った。
  「若いお嬢さんの方こそご迷惑と違いますか」良枝が訊いた。
  「それやったらご心配要りまへん。毎年わしとふたりで鍋を突つついてますさかい」「お父ちゃんは余計なこと言わんでええの。けどホンマどうぞお気遣いなく。なんにも予定はありませんし」
  こいしが顔だけで笑った。
  「今日のお代はお幾らに?」
  良枝がハンドバッグから財布を出した。
  「探偵料と一緒にまた」
  流が答えた。
  「よろしくお願いします」
  良枝が頭を下げた。
  「どうぞよろしゅうに」
  正幸が続けて、ふたりは店を出た。
  「お気をつけて」
  流とこいしが並んで見送った。
  「冷えて来たな」
  流が冬空を見上げて、こぶしに息を吹きかけた。
  「今までで一番難しいのと違うかなぁ」
  流に続いて、こいしが店に戻った。
  「ものは何やねん」
  流が訊いた。
  「クリスマスケーキ」
  「ク、クリスマスケーキ?」
  流が素っ頓狂な声を上げた。
  「やっぱり断った方がええかなぁ」
  一度開いたノートを、こいしが閉じた。
  「何を言うとる。どんなことしても捜し出すがな。で、どんなケーキなんや」流がノートを手に取った。
  「『サン?ニュイ』か。フランス語の勉強から始めんとあかんな」パイプ椅子に座り込んで、流が頁ページを繰る。
  「見つからへん方がええような気がする」
  こいしがつぶやいた。
  「なんでやねん」
  ノートに目を落としたまま流が訊くと、こいしはかい摘つまんで事情を話した。
  「あのな、こいし」
  流が顔を上げ、こいしの言葉を遮って続ける。
  「わしらは頼まれた食を捜すのが仕事や。その後どうなるかまでは、わしらが考えることやない。神さんに任せるしかないがな」
  流の言葉に、こいしはこっくりとうなずいた。
 
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